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証人(
清水幾太郎君) 私は元来非常に病弱でありまして、長年お
医者さんや
薬剤師の
かたがたの御厄介にな
つておるものでございます。本日は
社会学者としてでなく、むしろ診療或いは
薬局の
利用、
消費者という
立場から、この
法律案について二、三の
意見を申述べたいと思います。こういう
立場から
考えました場合に、この
法律案に盛られております
理想は誠に立派なものでございまするが、併し現在の
日本の
実情に照して
考えました場合、よく申す平地に乱を起すような
感じがしないわけでもないのでございます。それよりもむしろ現在の
任意分業というのでございましようか、現在の
制度のほうが好都合ではないか、こういうふうな
感じがいたします。なお以下三つにわけまして私の
意見を申述べたいと存じます。
第一番目に、私はこの
法律案の基礎にある
理想的な問題を
考えたいと思います。第二番目にこの
法律が実現せられました場合に、我々
消費者或いは
利用者の
立場から見て当然起ると予想されますところの不利益乃至不便について申上げたいと存じます。第三番目に
簡單ながら結論を申添えたいと存じます。
第一番目に私の理解いたしますところでは、この
法律案の狙いというものは、
近代文明の特徴であります
專門化或いは
分化ということであります。
專門化、
分化の
原理を
医療方面にも徹底させまして、各
專門部門の
進歩を促進させるというところにあろうかと存じます。そういう
分化、專門の
原理に最近ではいろいろ疑惑も起り、又問題も生じておりますが、一応は先ず
近代文明の
原理を根本の
理想として
考えることができようかと存じます。併しこの問題を具体的に
考えました場合、次の
二つの点が当然
考えられなければならないと存じます。その第一は
日本の
社会が
一般に
医療方面以外におきましても、
分化、
ドイツ語でデイフエレンチールングというものがひどく遅れておりますことは御
案内の
通りであります。又
分化がこういう
意味の
分化、或いは
專門化が
社会の各
方面に進んでおります
アメリカでも聞くところによりますと、
一般の
強制分業というようなものが行われておらないということでございます。
分化というものがひどく立遅れております
日本の現実におきまして、
医療方面にだけ
理想的な
分化が押し進められるということはおのずから各
方面に多くのアンバランスを招くことになるのではないかということ、これが第一の点であります。
第二の点といたしまして、
分化して行く、分れて行く、その
分れ目に立
つておりまするのが、私のような
患者、病弱のものであろうかと存じます。或いは
一般大衆というものがその分れる
分れ目に立
つておるのではないかと思います。この
患者というものは御
承知のように非常に特別な
意味で弱い
人間でございます。お
医者さんを訪れ又
薬屋さんの店頭に現われます
人間は、煙草を買
つたり
化粧品を買
つたりする
人間とは聊か趣を異にしておることは御
承知の
通りであります。又
患者団体を結成いたしまして
社会的に圧力を加えろということもできませんし、又署名を求めることもできません、デモンストレーシヨンも行うことができないという甚だ弱い
立場に置かれているものであります。こういう弱いものの
立場を先ず第一に
考えるということが私の解するところでは恐らくは
民主主義というものの
理想ではないかというふうに
考えますし、又その弱いものの一人或いはその代表というような
意味で私の
言葉をお聞き下さるというような御趣旨もあるのではないかとこう
考えるのであります。
第二の問題といたしまして、若しもこの
法律案のように
分業が強制的に行われます場合に起りますところの、或いはそれを阻みますところの若干の困難について申上げたいと思います。第一番は、これ又御
案内のように
日本における
交通機関の非常な未
発達、結局は我々
日本国民の貧しさというところから来るのでございましようが、
アメリカのように自動車が自由に使えるというのであればともかくでございますが、まあお
医者様から
薬屋へ飛んで行くということも比較的
簡單にできましようけれ
ども、現在の
日本では電話もなかなか
発達いたしておりません。せいぜい自転車で行く、或いは
病人を負ぶ
つて行くというような風景、或いはリヤカーに
病人を乗せて運んで行くような風景、これは私
ども毎日のように見ておりますのでございます。又私
自身交通の不便なために
病人を負ぶ
つてお
医者を訪ねたこともございます。併し今度お
医者だけを訪ねるので済まないで、その足で
病人を負ぶ
つたままで、リヤカーに
病人を乗せたままで更に
薬局を訪ねるというようなことを
考えましただけでも甚だ気持が暗くなるわけでございます。
第二番目の点は、若干の資料によりまするというと、どうも
日本全国を見渡しましてお
医者さんの数よりも
薬局の数のほうがかなり少いような数字を見ております。つまり一
薬局当りの人口のほうが一診療所当りの人口よりも遥かに多いような数字を私は見ております。
第三番目の点といたしましては、強制的に
分業を行いました場合、
日本の
薬局というものは現在の東大病院の
薬局のような、或いは慶応病院の
薬局のようなああいうすべての
患者の、つまりいろいろな科の
患者の必要を満たすだけの薬品を備えつけなければならないのではないか、内科の
患者だけが来る
薬局とか、精神科の
患者だけが来る
薬局というのでなく、各科の
患者が参りますだけの完備した
薬局でなければならん。そういう
薬局は現在東京を見渡しましても十指に満たないのではないかと存じます。
地方は言うに及ばないことと、こう
考えまするというと、東京の或る一部にある例外の
状態がむしろ基準にされてしまうのではないか、むしろ例外的なものが基準になりノーマルなものと
前提されてこの立法が行われるのではないかと、こういう
感じがいたすわけでございます。
第四番目の問題といたしまして、これは意地の悪いもので重
病人は大抵夜中に発生するようでございます。私の経験でも夜中にお
医者さんを起したことがたびたびございます。一軒のお
医者さんを起すだけでもなかなか面倒なもの、いやな思いをいたし、又いやな思いをお
医者さんのほうにもさせるものでございましよう。もう一軒
薬局を起さなくちやならないということを
考えますというと、私はむしろ怖しい気持がいたすのであります。先だ
つてアメリカから帰
つて参りました者の
言葉を聞きますと、
アメリカではまあ或る程度
分業が進んでおるけれ
ども、
医者と
薬局との間に直通電話があ
つて、電話局を通さない直通電話がある。そのくらいに連絡がうまく
行つておる。そういう連絡、或いは統合の面を深く
考えていない限り、又連絡統合の面で立派な
条件が満たされない限り、強制的な
分業というものは現在の
条件では非常に不幸な結果を招くのではないか。
第五番目は、専門家の間ではいろいろこの
分業後の
医療費についての細かい計算があるようでございますが、私はただ常識的な
立場から
申しまして、どうも高くなるような気がいたしてならないのであります。どう
考えても
医療費が上るという結果が出るような気がいたすのであります。
医者が診察料だけで生活するということになりますと、どうしても相当の額を私
どもからとられるという結果になることは見易い理であろうかと存じます。
アメリカのように或る程度
分業が進んでおります場合に診察料というものは最低、一番安いので約五ドル、少々よくなると二十五ドルぐらいとられる。夜になるとそれが倍になる。
アメリカに非常に売薬が
発達いたしておりますのは、とても診察してもらうのが経済的に重荷になるから、まあ取りあえず売薬を飲んで置くという、そういう
条件が働いて売薬の
発達を促しているのであるということを聞いておるわけでございます。この問題は確かに私
どもが
医者に払いまする金の中に診察の費用と、それから薬品代というものが未
分化のままで分れないままで込められているということはこれは確かによくないことだと思います。併しここにはたびたび指摘されまするように、
日本の非常な貧しさというものが同時に現われている。
国民大衆の経済的な
状態というものが無形の技術というものに対して支払うことを非常に困難にさせている面があるのではないか。家屋の問題にいたしましても、
理想から申せば食堂もある、寐室もある、居間もある、書斎もあるというのが
理想でございましよう。併し
一般大衆の家庭においては
一つならば
一つの部屋を食堂にも使うし、寐室にも使えば居間にも書斎にも使う、全部を込めて
一つがまあ働きをしておるのが現状でございまして、無形の技術に対して支払うだけの経済的余力のない
国民生活におきましては、現在のような未
分化の
状態というものがよいとは思いませんけれ
ども、免れ難い現状ではないかというふうな
感じがいたすのでございます。私の友人に精神病医がございまして、精神病医の場合には薬を盛ることもせず、手術もせず、
患者と
医者が話合
つて、そうして病気を治療するという方法があることは御
案内の
通りでございます。併しその友人の
申しまするのには、口先で以て
患者としやべり合
つて、そうして治療してやるというそういう形ではどうしてもお金がとれない、
患者とあれは口先で話しただけじやないか、それなのに金をとるのは太いというような空気が実際にございまして、非常に生活が困難であるということを申しておりました。或る程度までこれに似た
事情が精神病医だけでなく広く内科、小見科各
方面に現われて来るのではないかということが想像されます。第六番目は、これもしばしば言われますように、やはり
責任の所在というものが何かはつきりしなくた
つて来るのではないか。今日までのところでございますと、
病人がよくならない場合にはお
医者が下手なんだろう。いやたけのこだろうとか、やぶだろうとか、まあ失礼な
言葉を
申しまして、結局はお
医者を取換えるという結果が出て参るわけでございます。今度強制的に
分業いたしました場合に、一体お
医者が下手なのか
薬屋が下手なのか、これは素人の悲しさでなかなかわかりません。お
医者様のところへ文句を言いに行けばそれは
薬屋が悪いのだと言うし、
薬屋へ行けばそれは
医者が悪いのだということでございましよう。その間に立
つて素人の
病人が右往左往するという非常に情ない結果が出て来るのではないかという、こういう
感じがいたします。
第七番目に
考えられますることは、そのように面倒になり、且つ恐らくは費用が高くな
つて参るといたしまするならば、現在
日本の津々浦々に行われておりまするところの非科学的な迷信がむしろもつと
発達するような結果を持つのではないか、今日の
日本において
医療方面にどれだけの迷信が根を張
つているかということは想像にあまるものがございます。私
ども東京都内、杉並区に住んでおりまするが、私のあたりでもまともにお
医者様の門を叩くよりもお水をもら
つて来るとか、おはらいをするとかということが非常にそれが普通のこととな
つて行われているような
状態なんでございます。なぜ迷信というものは非科学的でありながら今日まで続いておるかと
申しますと、第一には私はお
医者ざんより安いということなので、ただ科学を知らないとか、近代科学を馬鹿にしているとか何とかということではなくて、やはり安いということが迷信に走らせておる根本の
事情であると
考えます。
これはまあ早い話がおまじないか、何かの場合であると、これは思召しで済む、診察料であるとちやんときま
つて払わなければならない。おまじないであると、思召しで今日のところは結構でございます。これは大衆の感覚から言
つて非常に楽な有難い気持のものでございます。第二にはこれは面倒でない、規則づくめでない、非常にルーズであるということ、融通が利くということであります。第三番目の問題は、非常に
近代文明の
分化の
原理と丁度
反対でありますが、未だ分れていないということ、あいまい、混沌であるということのよさであります。おまじない、迷信とかに頼ります場合には、これは
一つの病気ではございません、
一つの病気ではなくてどんな病気でも祈祷師やなんかが治してくれます。又單に病気だけでなくて、商売が繁昌するようにもや
つてくれる。或いは一家の和合まで引受けてくれる。すべて未
分化のままで一括してや
つてくれるというところに迷信の実に大きな魅力があると
考えます。このような
理由のあり基礎のある迷信というものがむしろもつと力を持
つて来るのではないだろうかということ、これが私の最も憂するところでございます。
第三番目といたしまして
簡單に結論を申述べたいと思います。以上のようなふうに
考えますというと、弱い被療者大衆の
立場から見ますと、
患者が
医者に
調剤してもらうこともできるし、
薬剤師に
調剤させることもできるという現状のほうが当分の間よいのではないだろうか。
強制分業を行うというには
国民の経済
状態の非常な改善、
交通機関の非常な
進歩ということと併せて又
社会保障制度の全面的な革新と充実ということが背後にあ
つてこそ
意味があるのではないだろうか、言換えれば諸般の
事情が
アメリカ以上に
進歩するというようなことがあ
つたときに初めて
意味を持つのではないか、そうでございませんと、この技術的な
意味を持
つております立法を強行いたしました場合、
法律が
社会的現実にむしろ先に立
つて行く、先行するという傾向になるのでありまして、丁度身長を着物の寸法に合せるような結果になりかねないと思うのでございます。
以上ぶしつけな
言葉を連ねましたが、私の正直な感想でございます。