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参考人(高倉新一郎君)(高倉新一郎)
○
参考人
(
高倉新一郎
君) 私この問題につきましては、そう評しくは
知つて
おらないのでござい
ます
が、実は外交上で
両方
の国が了解いたしましたものを、私が知る
範囲
におきましては、今の文字よりほかには私
ども
は見ておりません。それからなおエンサイクロペジアその他に現われており
ます
外国のいわゆるクリル
諸島
というものを引いて見
ます
というと、大体今の
歯舞
、色丹のその線ではなしに、
占守
から
国後
に至る一列の列島でござい
ます
。これを大体指しているように私
たち
は了解しており
ます
。但しこれは外交上のものではなしに、ただ自然科学のほうで、そういうふうに扱
つて
いるということでござい
ます
。
kokalog - 国会議事録検索
1951-02-05 第10回国会 参議院 外務委員会 第2号
公式Web版
講和に関する諸問題並びに国際情勢 (会議録情報)
0
昭和
二十六年二月五日(月曜日) 午後一時五十一分開会 ――――――――――――― 本日の
会議
に付した
事件
○
講和
に関する諸問題並びに
国際情勢
等に関する
調査
の件 (
千島
及び
歯舞諸島
の帰属問題の 件) ―――――――――――――
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
1
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) これより
外務委員会
を開会いたし
ます
。 本日は本
委員会
の
調査案件
であり
ます
る
講和
に関連する諸問題並びに
国際情勢等
に関する
調査
の一環といたしまして、
千島
及び
歯舞諸島返還懇請同盟
の
代表者諸君
から、その御
意見
を聽取することといたして御
異議
ございませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
2
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) それではさよういたし
ます
。
参考人
の
諸君
には十分御
意見
をお述べ願いたいと存じ
ます
が、お一人の御
発言
は時間の都合で二十分間ぐらいといたし、
あと
で一括して質疑を行いたいと思い
ます
。それでは
千島
及び
歯舞諸島返還懇請同盟
の副
会長根室町長岸田利雄
君、同じく
常務理事北海道大学教授高倉新一郎
君、同じく
常務理事北方漁業開発期成同盟会実行委員長森七郎
君の
諸君
に順次
発言
を許し
ます
。
岸田利雄
君。
参考人(岸田利雄君)(岸田利雄)
3
○
参考人
(
岸田利雄
君) 御
挨拶かたがた陳情
の要点について一言申述べさして頂き
ます
。私は
北海道
の
千島
及び
歯舞諸島返還懇請同盟
の副
会長
をいたしており
ます
根室町長
の
岸田利雄
でござい
ます
。 私はこの
千島
及び
歯舞諸島
の
復帰
、この件につきましては、やむにやまれない
気持
を以ちまして、一身を賭して本
運動
を続けているものでござい
ます
。先年
根室地方
だけの
北海道附属島嶼復帰懇請委員会
の
会長
といたしまして上京しました際、
参議院
においては、当時
外務委員長
の
野田俊作先生
初め
久保田先生
、
團先生
にお会いし、又
衆議院
においては当時の
外務委員長
であられた
岡崎先生
にお目にかかり、
懇請
の
趣旨
を申上げ、更に
是非現地
の
実情
について御
視察
を頂き、国会において最も重要にお取上げを願うように懇願して参りました。幸い御高配によ
つて
、昨年の
夏参議院
を代表して
團先生
御一行、又
衆議院
を代表いたしまして
北澤先生
、
伊藤先生
の御
視察
を賜わりましたことは、
現地住民
といたしまして、非常に有難く感謝感激しているものであり
ます
。今回は
講和会議
近しの朗報に接し、
参議院外務委員会
において、
委員長櫻内先生
初め、各
先生
御列席の下に
現地
の
実情
を
具申陳情
の機会をお與え下さいましたことにつき、衷心からお礼を申述べる次第でござい
ます
。私
ども
は
占領下
にあり
ます
国民
といたしまして、俎上に乗せられた鯉同様の立場にあり
ます
ことは重々承知してい
ます
。併しながら
世界
恒久平和のため、且つは又
日本民族最低
の
生活保障
のため、正しいと思う点については卑屈にな
つて
はならんと考えまして、どこまでも
誠心誠意
を以て
世界
の御
理解
と御
同情
の下に本問題の
目的達成
に努めたいと思うものでござい
ます
。 さて
陳情
申上げる順序といたしまして、今般
上京代表者
の所属する
千島
及び
歯舞諸島返還懇請同盟
の性格から申上げ
ます
。本
同盟
は
北海道
における国を思う
人々
の純然たる
民間運動
として、昨年十一月七日札幌市において結成発足したのでござい
ます
。この
目的
は近く開催せられる
講和会議
の際、現在ソ連の
占領下
にあり
ます
北海道
の
附属島嶼
である
千島
及び
歯舞諸島
が
我が国
に返還せられることを熱望し、
世界
の
同情
の下にこれが
目的
を達せんとするものであり
ます
。この問題については、道内において
終戰後間
もなく
歯舞諸島
及び
南千島復帰懇請
、或いは
樺太千島返還懇請
、又は
北方漁業
の
開発要請等
の熱烈なる
運動
が続けられ工いたのであり
ます
。一方
道議会
においても、或いは
市長会
においても、
町村会
においても、それぞれ本問題が取上げられまして、
関係方面
へ
陳情
となり、或いは
署名運動
とな
つて
活發
に行われたのであり
ます
。然るに今回同志相会しまして、
各種各様
の
運動範囲
を統一して、
千島全島
及び
歯舞諸島
の
復帰
を
懇請
晒する線に
意見
の一致を見まして、更に従来の
民間運動
を一層強化するためには、全
道的組織
の結成が叫ばれ、本
同盟
が成立されたのであり
ます
。これによ
つて
四百万
道民
の輿論を結集し、相携えて所期の
目的達成
に邁進せんとして、この
運動
を続けておるのでござい
ます
。 次に、
返還懇請
の事由につきまして、いささか申述べさして頂きたいと思うのでござい
ます
。
終戰後
ここに五年、幸い
連合国
の
同情
ある御指導と
国民
の
努力
によ
つて
、
戰後
の
混乱期
から次第に新らしい
日本
の再建に向
つて曙光
が見え初めたことは、我々
国民
の喜びに堪えないところであり
ます
。この上は一日も早く
講和会議
が締結され、
独立国
として列国と共に、人類の平和と
世界
の進展のためにカを
盡す日
の来ることを祈
つて
やまないのであり
ます
。最近
講和会議
の問題はいろいろ論議せられており
ます
が、我々の最も関心を持つことの
一つ
は、
講和條
約締結の際に、新らしい
日本
の
国境
が公正妥当なる線において確定せられることが最も重要なることでありまして、特に
北海道民
といたしましては、現在ソ連邦の
占領下
にある
千島全島
及び
歯舞諸島
が
我が国
に返還せられることを熱望してやまないものであり
ます
。つきましては、返覆
懇請
の
根拠
について二、三申上げ
ます
。 第一には、
歴史
的、
国際的見地
から考えて見たいのであり
ます
。即ち
歯舞諸島
は
根室国花咲半島
の東北に連なる
島々
で、延長線上僅か三浬を隔てたるところの
水昌
島以下
歯舞
村に属して、地理的にも行政的にも
千島列島
とは全然別個のもので、
北海道本土
の一部をなしているものであり
ます
。次に、南部
千島
に属するところの
色丹島
、
国後島
、
択捉島
は全く
日本固有
の島で、三百年の昔から
日本人
の手によ
つて
開発
経営
され、行政上には
普通町村制
が施かれ、
曾つて
異
民族
の居住した事実はないのであり
ます
。故に
安政元年
の
日露和親條
約に基くところの
国境線
も
擇捉水道
に置かれ、
択捉以南
の
島々
は
我が国
の
領土
であることは何人も認めるところであり
ます
。更に
択捉以北
の
島々
は、
明治
八年
樺太クリル交換條
約において、多年邦人の苦心
経営
して来た
樺太
を割愛する
代償
として、全く
平和裡
に
我が国
に讓渡されたもので、爾来
漁業開発
を継続して来たのであり
ます
。 第二の点について申上げ
ます
。
ポツダム宣言
には、「
日本国
の主権は本州、
北海道
、
九州及四国並
に
吾等
の決定する諸
小島
に局限せらるべし」と明言され、且つ「
カイロ宣言
の
條項
は履行せらるべく」と附加されておりまして、その
カイロ宣言
には、
同盟国
は自国のため何ら利得を欲求するものにあらず、又
領土拡張
の念を有するものにあらず、
同盟国
の
目的
は
日本国
より一九一四年の第一次
世界戰争
の開始以後において、
日本国
が奪取し、又は占領した一切の
島嶼
を剥奪すること、
日本国
は又暴力及び貪欲により略取したる他の地域より駆逐せらるべしとあり
ます
。私
たち
は
ポツダム宣言
は忠実に履行せねばなりません。
敗戰日本
の
国民
は、この事実を明確に認識しておらなければなりません。併しながら
ポツダム宣言
にも違反せず、又
日本国固有
の
附属
諸
小島
である
歴史
的事実及びこれを裏書するところの
安政條
約並びに
明治條
約によりましても、これらの
諸島
は、私
たち
の
祖先
が平和のうちに子孫のために苦心
経営
して現在に至
つて
いることが明らかでありまして、決して
祖先
が盗取又は略取したものではなく、いわんや
戰争
によ
つて他国
より
割讓
を受けたものでもないことは余りにも明らかな事実であり
ます
。 第三には、
敗戰
の現状からであり
ます
。
戰後
本州、
北海道
、
九州
、四国の四つの島に国土は局限せられ、かてて加えて外地に居住せる同胞が帰還することにより、
世界
一の稠密なる
人口
を擁して、困難な
生活
と闘い、乏しい資源を極度に利用して経済の自立を図らんとしている
我が国
民にと
つて
、
千島
及び
歯舞諸島
の
富源
は、
人口
、食糧問題の
関係
においても極めて重要な連関を有しているのであり
ます
。殊に
動物性蛋白栄養
は主として水産物に仰がねばならない
我が国
の実体に照して痛切に感ずるものであり
ます
。又
根室地方
に
引揚げ
ており
ます
千島
及び
歯舞諸島
の
引揚者たち
は、
朝夕指呼
の間に
自分たち
の郷土であり、
祖先
の墳墓の地である島影を眺め、茫然として海辺に立つ様相を見るとき、誠に
同情
に堪えないものがあるのであり
ます
。以上、過去の
歴史
と現実の
状態
より
墾請事情
の一端を申述べましたが、本
同盟
としては、これを契機といたしまして、
道民運動
より、更に全
国民
の
運動
に展開し、而して全
世界
の
理解
と
同情
によ
つて
この悲願の
達成
を希うものでござい
ます
。 以上
簡單
であり
ます
るが、一応
懇請
の
趣旨
と御
挨拶
を申上げる次第でござい
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
4
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) 有難うございました。 次は
高倉新一郎
君にお願いいたし
ます
。
参考人(高倉新一郎君)(高倉新一郎)
5
○
参考人
(
高倉新一郎
君) 私は
千島
の
歴史
について少し
お話
をいたしまして、いろいろこの帰属問題に関する
議論
の根本を申上げたいと存じており
ます
。と申し
ます
のは、実は
千島
及び
歯舞諸島
の
発見経営等
に関しましては、まだ單独の
歴史
がございません。従いまして、
日露両方
の問題、それから
先住民
の
問題あたり
から総括いたしまして一貫した
歴史
というものを考えて置き
ます
ということは、これはこの問題を考え
ます
基礎になろうかと思い
ます
。私專門が違うのでござい
ます
が、
曾つて北海道
の
歴史
の編纂をお手伝いいたしました
関係
上、常にこの問題に対して、思いをひそめておりましたので、ここでその
お話
をいたしまして、皆さんの幾らかの御
参考
にでもなれば仕合せと思
つて
まかり出た次第であり
ます
。
千島
か
日本
及び
ロシア
のいわゆる
文明国
によ
つて
開発
せられ、
経営
せらるるまでには、ここに
先住民
がおりました。それはいろいろな
方面
から証明されるのでござい
ます
が、それがどんな
民族
であ
つた
かと申し
ます
と、これは
アイヌ
の一派であ
つた
、
北海道
の本島に住んでおりました
アイヌ
の
別派
であ
つた
ということが言えると思い
ます
。それでそのほかに
アレウト族
の遺跡が
発見
されており
ます
けれ
ども
、これは私
ども
の知り得ました
範囲
では、後に
ロシア人
か移したものでありまして、本来ここにとどま
つて
いたものではない、至極新らしいものだと思われるのであり
ます
。
考古学方面
から調べて見
ます
るというと、その
結論
を申し
ます
れば、これは
北海道
の北のほうに占拠していた
民族
と同じ
文化圏
に属するものであるということが言えるのでござい
ます
。その北のほうの
文化
というものに対しては、よくまだ
結論
を得ていないようでありまして、殊に異なる
民族
が住んでいたものではないかというようなことを言われておるのでござい
ます
が、併しながらまだここには人骨が
発見
されておりませんので、これに対して確固たることは言えないのであり
ます
。ただ
北海道
の北のほうに拡が
つて
いた
文化圏
と同じ
文化圏
にこの島があ
つた
ということは言えると思い
ます
。 それからもう
一つ
は、
千島
が
文化民族
によ
つて
発見
せられましたときに、
島名
がわかるのでござい
ます
が、その島の名を見
ます
というと、全部が
アイヌ語
で解釈されたところの、而も
アイヌ語
の法則によ
つて
それが妥当であるということがわかり
ます
ところの
地名
でござい
ます
。私の調べました
範囲
では、ただアライト島だけが
ロシア語
である。これも昔はオヤコパケという名前で以て呼ばれていた。即ち
アイヌ語
で「
外国側
にある島」という名で呼ばれていたところの島でござい
ます
。それから又
風俗習慣
を見てみ
ます
というと、これも
発見
当初から記録されておるのでござい
ます
が、殆んど
北海道本島
の
アイヌ
と変りません。従いまして、ここでは大体
アイヌ
の
別派
が住んでいたということだけは
はつ
きりと言えると思い
ます
。そこでその
千島
が
文明国人
によ
つて
発見
されました
世界
における
最初
の記録を今日の
状態
で考えて見
ます
というと、一六四三年に、即ち
寛永
二十年という年でござい
ます
が、この年にアランタの
東印度会社
の
命令
を受けて、この附近にあるところの伝説の
金銀
島を探しておりました
ド・フリース
という人によ
つて
、初めて
世界地図
の上にこの
方面
のことが現われて来たのであり
ます
。大体
ド・フリース
の探險を以てこの
地方
の
最初
の
発見
としているようでござい
ます
。併しながらこれには
経営
が伴いませんで、したから、そのままにな
つて
おり
ます
。で、
日本
が
千島諸島
に手をかけましたのは、これはずつと後でござい
ます
が、
千島諸島
のことをよく
知つて
お
つた
というのは、一七〇〇年、元
祿十三年
に
松前藩
が
幕府
の
全国図
の資料として奉りましたところの元祿図並びにそれに附随いたしましたところの
地名表
、即ち
松前郷帳
によ
つて
わかるのでござい
ます
が、
あと
きには
クルムセ
島と名を付けまして、ここに三十数箇の島を描き、そうしてそれに三十一箇の
島名
を付しており
ます
。これを一々今日の
島名
に当てはめて見
ます
というと、殆んど大部分の島、私の調べましたところでは、
占守
と幌筵に当る島が見付からないのでござい
ます
が、そのほかの島は全部この
地名
の中に現われておるのでござい
ます
。併しながらこの
地図
はこのときに初めてできたものではなくて、恐らくはオランダが探險をいたしましたよりも更に遡り
ます
ところの
寛永
十二年、一六三五年でござい
ます
が、それから間もなく
幕府
の
命令
によ
つて
奉らなければならなか
つた
地図
を作るために、藩士を派遣して作製いたしました。その
地図
は今日は滅びてないのでござい
ます
か、その写しと推定されるものを見ることができるのでござい
ます
が、それを見
ます
というと、元祿図と殆ど
変つて
ておりません。従いまして、この探險によ
つて松前藩
は
千島方面
のかなり詳しい知識を持
つて
いたものということが言えると思い
ます
。
ロシア
が
千島
に参りましたのは一七二三年のことでござい
ます
。即ち正徳三年という年でござい
ます
。今の
地図
から十三年ほど後のことでござい
ます
がこのときには
日本
の
漂流人
の案内によ
つて占守
に参りまして、そうしてそこに住んでおり
ます
土人
を征服いたしまして、そこから
毛皮税
を取上げる約束をいたしました。そのときに初めて
千島
の
島名
を知り、そうして、その位置をやはり
漂流民
から聞いて認識してお
つたよう
でござい
ます
。ところが
日本人
はこれらの島民とは、丁度その
地図
ができました
寛永年間
から交通が行われておりまして、厚岸、それから後になり
ます
というと、霧多布、
根室
に進んで行くのでござい
ます
が、ここに
交易所
を設けまして、
千島
の
アイヌ
と
交易
を続けており
ます
。その
交易
の有様を私
ども
調べて見
ます
というと、これは決して今日の冷たい
交易関係
ではなくて、当時東洋に行われておりましたところの朝貢というような
関係
を含んで参
つた
ものでありましで、
松前
に対しては單に物を交換するというような意味ではなしに、よほど親しい
気持
を持
つた
交易
かそこに行われたように私
たち
は考えており
ます
。併しながらその
交易
が次第に進みまして、
国後島
、一番南の端の
国後島
にこの
交易所
が移りましたのは、それからずつと
あと
の一七五四年のことでござい
ます
。即ち宝暦四年という年でござい
ます
。それですから、
千島
の
経営
に実際に着手しましたということになり
ます
というと、少し
日本
か立ち遅れておるのでござい
ます
が、併し
ロシア
が
アイヌ
の人と交渉を始めましたときには、
千島
の各地において
日本
の品物を多く見出すことができまして、その
交易
が相当北のほうまで及んでいたということがわかるのであり
ます
。ところがこの
ロシア
が
千島
の
経営
に着手いたしましたのは、主に
毛皮税
をとることにあ
つたの
でござい
ます
が、その
毛皮税
の
取立て方
が非常に苛酷であ
つた
ために、
北千島
の
アイヌ
はこれを避けまして、次第に南のほうに逃げて参りました。それからもう
一つ
は、
千島
の中部に
金銀
島があるのではないかというような言い伝えがありましたのと、それともう
一つ
は、
北太平洋
の
毛皮業
が余りに
ヨーロツパ市場
から遠いのでありまして、これに対する市場を見出す、この三つの原因から、
ロシア
は次第にこの
千島
に沿うて南のほうにおりて参りました。そうして一七七三年には
ウルップ
島を
根拠
といたしまして、
日本
の北のほうに通商を求めにや
つて
参り
ます
。併しながらこれは
松前藩
が拒否いたしまして、空しく帰
つて
しま
つた
。この
ウルツプ
島も永久的な
根拠
地にはならなか
つたの
であり
ます
が、天明五年、一七八五年にこの事実を確めるために、この
地方
を探險いたしましたところの
幕府
の役人の報告により
ます
というと、ここに二人の
ロシア人
がいたということが書かれてござい
ます
けれ
ども
、これは勿論
ウルツプ
島から逃れて来たものでありまして、ここで
経営
をしたというような事実ではございません。この
調査
によりまして、
幕府
はやがて一七九九年に
北海道
の東海岸及び
千島
、これを直轄にいたしまして、開拓をすることになりました。このときに
国後島
まで開いておりました
日本
の
漁場
を、更に
ウルツプ
島まで進めまして、ここの
土人
を撫育いたしました。そのときには先におりました二名の
ロシア人
は、もはや退去いたしまして、全くの空島であ
つたの
でござい
ます
。それから引続きまして、一八〇一年に幕吏を遣わしまして、
ウルツプ
島の
調査
をいたしました。翌年からそれの
開発
に着手しようと、こういうことでござい
ます
が、このときにはすでに
ウルップ
島に
ロシア
の
植民団
が、その二、三年前から来て占拠しておりました。そのためにこれを退けることはどうかというので、ただここの
ウルップ
島への
交易
を断ち切るという形で以て、
ウルップ
島を暫らく見守
つて
おりましたところが、
ロシア
の
補給船
がなくな
つて
しま
つた
ために、この
植民団
は去
つて
しまいました。そこで
ウルツプ
島はそのままに空島のまま、
文化
十三年の年まで残されたのでござい
ます
。この年には
ゴロウイン事件
という
事件
か起きまして、
ロシア
と
日本
とがその問題の解決に
外交交渉
をいたすことになりました。このときに
日本
では
ウルツプ
を両国の間に存在する島、即ちこちらのほうの
領土
は
択捉島
、向うの
領土
は新知島、そうして中に位するところの
ウルップ
島は、これは
両方
の
緩衝地蔕
というようなことで
外交交渉
をする下心を持ち、大体において向うも了解していたようなんでござい
ます
が、
現地交渉
がでぎませんために、このまま流れてしまいまして、いわゆる安政の
日露ワシントン條
約まで来たのでござい
ます
。このときになり
ます
というと、
ロシア
の人はここに
アルタイ人
を移しまして、
ウルップ
島を
経営
いたしました。このときの條約にはその事実に基いて
ウルツプ
島は
ロシア
の
領土
、それから
択捉島
から南のほうは
日本
の
領土
、こういうふうにきめたのでござい
ます
。
色丹島
は
択捉島
が開拓されると、その連絡する島として重要となりましたために、一八〇二年にここに番屋を置きまして、
経営
に着手いたしました。それまでは
ロシア
の船がちよつと参
つた
ことがござい
ます
が、
経営
は行われておりませんでした。ところがここの島が非常に
経営
のしにくい島でありましたために、一八〇七年に全島の
アイヌ
を
根室
の花咲に移しまして、ここから出稼ぎに行くという形で以て、この島の
経営
を続けてお
つたの
でござい
ます
。そのようにいたしまして、私の考え
ます
範囲
におきましては、
色丹島
も
国後島
も
択捉島
も、勿論
歯舞諸島
も、これは
北海道
と同じく
アイヌ人
か住んでいた所、これはまだ国家の形態も何もなしておらない、
アイヌ人
が住んでおりました所を、
日本人
の
努力
によ
つて
開いて行き、
経営
して
行つた
島でありました。その結果を
日露
の両国が認めて、そうして妥当な
国境線
が引かれた島なのでござい
ます
。それから北のほうのいわゆる中部
千島
と
北千島
、これは一旦
ロシア領
になりましたが、これは前にも
お話
いたしましたように、
明治
七年に
樺太クルリ交換條
約という條約によ
つて
日本
の所有に帰したのでござい
ます
。この條約は勿論非常に平和的な條約できめられたのでござい
ます
が、これにも又
一つ
の
歴史
があるのでござい
ます
。それは
樺太
という島もやはり
北海道
と同様に
アイヌ
の一分派が住んでおりました。殊に
南樺太
の五十度
以南
の所は
アイヌ人
が住んでおりました。そうして
清国
はこの島の北部のほうを
経営
しておりましたが、
清国
の
地図
を見てみ
ます
というと、大体において五十度
以南
の所は描いてございません。それによりまして見ましても、
清国
の
経営
は五十度から僅か南のほうに下
つた所
へとどま
つて
おりまして、
樺太
全体には及んでいなか
つた
ものと考えられるのでござい
ます
。そうして
松前藩
は宗谷に
中心
を置きまして、
南樺太
の
アイヌ
と長い間、前にも言
つたよう
な親しい
交易
を続けておりました。それが
樺太
に
交易所
を建てて、そこに商船が行くようになりましたのは一七九〇年のことでござい
ます
。それから
日本
の人は西海岸の真岡、それから
亜庭湾
のほうを
中心
といたしまして、
漁場
を開いて、
アイヌ
と共に
漁場
の
経営
をや
つて
おりました。
南樺太
の
アイヌ
の住んでいた所に
日本人
が
行つて
、ここを
経営
してお
つたの
でござい
ます
。ところがその前の年の嘉永六年に、
ロシア
が当時ニコライエフスクに軍港を設けまして、そうしてそこを
中心
にして東洋にいろいろな政策を行おうということになりましたために、その前面に位する
樺太
を手に入れようというので、いろいろな工作をいたしました結果、次第に移民を送り込みまして、
日露雑居
の地として
しまつたの
です。当時
日本
の
幕府
は、これに対して血の出るようなまあ
経営競争
をしたのでござい
ます
か、幕末で勢力が非常に衰えており
ます
悲しさに、これに対抗することができずに、慶応二年という年に、やむなく
樺太
は
日露雑居
の地だという條約になりました。その後も
両方
の競争が激しくなりまして、次第にこの
両方
の国の争いが、小さな争いか頻りに続くというような
状態
にありましたために、
明治
七年に思い切
つて
この島を
ロシア
に讓り渡した、その
代償
として
北千島
をこちらのほうに讓り受ける、こういうような形になりましたのでありまして、この
北千島
も又初めから
日本
の人が努カをして開いたものの
代償
として得たものであり
ます
からして、これも又
南千島
その他と同様と考えていいと、こういうふうに思われるのであり
ます
。従いまして、いろいろな
議論
がそこに行われると思い
ます
。私は素人でござい
ます
からして、これ以上の
議論
に立入ることは差控えたいと思い
ます
るが、併しながら、この
千島全島
は
北海道本島
と同じような経過によ
つて
、同じような位置にあるものだということは、
歴史
上これは蔽うことのできない事実である。こういうふうに信じておる次第であり
ます
。この事実の上に立
つて
いろいろな
事件
を、いろいろな問題を
一つ
考えて頂きたい。これを私は
日本
の
人々
だけではなしに、全
世界
の
かたがた
に考えて頂きたい、こういうふうに考えておる次第でござい
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
6
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) 次は
森七郎
君。
参考人(森七郎君)(森七郎)
7
○
参考人
(
森七郎
君) 私過去約二十年間ほど、
北洋
及び
北千島
で働いてお
つた者
であり
ます
。
只今岸田
副
会長
、
高倉理事
の話ですべてが盡きておるわけでありまして、特に私は
昭和
九年以来十七年まで
北千島
で働いておりました。そこで
北千島
というところは一体どれくらい「
さけ
」、「
ます
」がとれたのかということを
簡單
に計数を申上げて見
ます
。「
さけ
」、「
ます
」を合せまして、
昭和
九年には約二千七百万尾、それから
昭和
十年には三千五百万尾、
昭和
十一年には五千百万尾、十二年には八千四百万尾、十三年には八千二百万尾、十四年が非常に大漁でありまして、一億三千万尾ほどとれてお
つたの
であり
ます
。こういうように、
北千島
だけでこれだけのものが年々漁獲されてお
つた
というのであり
ます
。更にそれ以外には
北洋
には工船とか、或いは陸上の租借したところでと
つた
ものも相当にあ
つた
わけでござい
ます
。それから
昭和
二十二年に、私
ども
が初めに
運動
を起しました
北方漁業開発期成同盟会
の初めの
主張
は、
領土
の問題には触れないで、マッカーサー・ラインの
拡張
、即ち「
さけ
」、「
ます
」がとれるところまでマツカーサー・ラインを延ばしてもらいたい、それはいずれ
講和條
約ができたときに領海というものが制定されるであろうから、
領海外
の「
さけ
」、「
ます
」のとれる
北方
の線にまで延してもらいたい、こういうよりな
主張
を続けて来てお
つたの
であり
ます
。その後時局の
変化等
に伴いまして、別々の
運動
でなく、一緒に
運動
して行こうということで、この会の成立を見たわけでござい
ます
。特に私申上げたいのは、先ほど
岸田
副
会長
から、
日本
の帰属、その中に
ポツダム宣言
の中に、
北海道
の構成というものは十一の国から成立
つて
おるのだ。十一の国の中には
千島
の国というものが
はつ
きりある。
千島
の
国幌莚郡
幌莚島ということにな
つて
おるのでありまして、当然
北千島
も、いわゆる全
千島
が
日本
のものであるということを私
ども
強く
主張
しておるわけであり
ます
。その他につきましては、現場のことについて御質問等があれば、又
知つて
おる限り御報告申上げたいと存じ
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
8
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) 次は齋藤秀雄君にお願いいたしたいと思い
ます
。
参考人(齋藤秀雄君)(齋藤秀雄)
9
○
参考人
(齋藤秀雄君) 私は御紹介にあずかりました齋藤秀雄でござい
ます
。
森七郎
君同様、やはり
北洋
、併せて北十・島にこれも二十三年働いており
ます
かたわら、漁業も
北千島
で
昭和
十年から
昭和
十五年まで定置漁業を
経営
いたしておりました。この
北千島
の定置漁業というもの、或いは流し網漁業、或いは「たら」釣漁業「かに」綱漁業、これらを一貫いたしまして、その産額は約四割が外貨の獲得をしまして、非常に
日本
の経済に寄與して来たのであり
ます
。これが今日御承知のごとく皆様のお口に入る時分には、「
さけ
」が一尾千円もしなければ入らない。私
ども
のと
つて
お
つた
ときは、「
ます
」が
現地
で三銭五厘、「
さけ
」は紅「ざけ」で罐詰する材料を供給する時分には九十銭、最高は一円でござい
ます
。白い「
さけ
」新巻は一尾現場で二十銭くらいで供給しておりまして、その産額が最高は四千万円以上に達してお
つたの
でござい
ます
。かような見地から、今
日本
の
領土
はこれほど狭められて、若しも
千島列島
が
日本
に返
つて
来て、その産額で
日本人
の蛋白源を補うとしたならば、その栄養カロリーから
日本
の
領土
というものを計算いたし
ます
るというと、本州以上の
領土
がここに生れるという結果になるのであり
ます
。 私は
結論
をここで申述べさせて頂き
ます
れば、
千島列島
を今後占有するものありとすれば、これは
ポツダム宣言
の違反者であるということを断言して、決して
世界
に御迷惑でなかろうと思う。その理由といたしましては、
ポツダム宣言
というものを
日本国
民は受諾したものであるけれ
ども
、ヤルタ秘密協定というものは、何らこれには関知しておらない。ヤルタ秘密協定は当時新聞紙上に現われたとき、あれは三国間の
戰争
遂行のための
一つ
の方便であると
日本国
民は解釈しておるのだと思
つて
おり
ます
。この
ポツダム宣言
に、
日本
の主権は
北海道
、本州、四国、
九州
、これに附随する
連合国
の認めたる
島嶼
とな
つて
おるそうであり
ます
るが、この
千島
の国は、今森君の言われたことく、
北海道
十一州、即ち北から言えば
千島
の国、
根室
の国、釧路の国、十勝の国、日高の国、北見の国、天塩の国、石狩の国、胆振の国、後志の国、渡島の国、この十一を以て
北海道
と言い、
北海道
庁の管轄下に十六の支庁を置いて、この
千島
の国は
根室
市庁の行政管轄下であ
つた
。そうし
ます
れば、この
ポツダム宣言
宣言は、
日本
の主権を
千島
を除いた
北海道
とはな
つて
おらないと思うのであり
ます
。そうし
ます
るというと、
北海道
という限りにおいて、は、当然これは
千島列島
は
日本
の主権である。かように
日本国
民は信じ切
つて
おるのでござい
ます
。どうかかこれに関しまして、
千島
は
北海道
と別であるというところのお考えでなく、
北海道
の構成が即ち
千島
を入れて、
北海道
ということを強く
世界
に認識さして頂きたいと、かように考えるのでござい
ます
。甚だ條約その他のことに関しまして、浅学菲才なるところの私
ども
が、
日本
の学者の
かたがた
或いは識者の
かたがた
の前でこういうことを申述べるということは、甚たおこがましい次第ではあり
ます
けれ
ども
、
日本国
民の我々無知な者がさように信じ切
つて
おることは、これは取りもなおさず
ポツダム宣言
の忠実なる履行者である
日本国
民であるから、かようなことを申述べる次第であり
ます
ので、どうかこの
千島
というものは、
ポツダム宣言
によるところの
北海道
の主権であるということを堅く
世界
に訴えたいと、かように信じておるものであり
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
10
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) これより質疑に移りたいと考え
ます
。御質疑がありましたら、この際御質疑を願いたいと存じ
ます
。
團伊能君(團伊能)
11
○團伊能君 極めて重大な深刻なる
千島列島
の問題を、この
委員会
で取上げるに当りまして、私はその前に二、三、伺
つて
置き、又この
委員会
といたしまして、決定して置かねばならん極めて小さい字句の問題でござい
ます
が、字句の問題の御協議を一遍願いたいと思い
ます
。それは現在の條約面に現われており
ます
問題に
千島
という文字はございません。
千島
は従来蝦夷
千島
と申しまして、極めて
北方
諸島
という意味で、
松前藩
その他が幕政間に使
つて
お
つた
文字でございまして、これは
世界
に共通性のない文字であり
ます
。そのために一の
千島
という文字を使うことによりまして、本問題が非常に誤解をされ、或いは不明瞭にな
つて
いるところがあると存じ
ます
ので、先ず條約面に現われており
ます
クリル
諸島
につきまして、どれかクリル港島であるかという
範囲
の決定をしてかからなければ、この問題は完全に
理解
できないと存じ
ます
。御承知のごとくヤルタ会談におきまして、又昨年の十一月ダレスからソ連に渡しましたこのたびの
講和條
約の九項目につきまして、マリクが返答いたしました中にも、やはりクリル
諸島
と書いてござい
ます
。それ故に我々はここにクリル
諸島
が何であるかということを掴むことが
一つ
この問題を進める手続上の問題かと存じ
ます
。我々この材料といたして持
つて
おり
ます
のに、一八七五年の交換條約の中にあり
ます
文書でございまして、これには
樺太
における
日本
が利権を放棄して、その代りに
択捉以北
の、つまり得撫からカムチャツカに繋がり
ます
島、十八島を交換いたしましたときに、クリル十八島をソ連が
日本
皇帝に讓り渡す、これによりまして、クリル
全島
は
日本
皇帝の所有であるということが記載されており
ます
が、このクリルが果して今日の通念といたし、どこまでをカバーいたしており
ます
かを
はつ
きりいたしまして、この問題を進めることが必要かと存じ
ます
。勿論
ポツダム宣言
によりまして、
日本
の周囲の島嶋は
連合国
の定めるところでござい
ます
が、それ故に全部
北海道
周辺島岐は将来に決定さるべき問題でございまして、これに対しまして、我々が
ポツダム宣言
を受諾いたした以上、何ら言うべき筋はございませんが、併しその中でクリルだけは條約に出ており
ます
から、この点御審議を頂きたいと思い
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
12
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) 團さんに伺い
ます
が、その点は
北海道
のほうの御
意見
を伺い
ます
か、若しくは政府からの御
意見
を伺い
ます
か。
團伊能君(團伊能)
13
○團伊能君 先ず
北海道
でどういう工合に考えておられるか伺いたい。或いは外務省から、外務省のお取扱いにな
つて
いる国土の
関係
におけるクリルは、どの
範囲
をお考えにな
つて
おるか、どちらでも結構でござい
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
14
○
委員長
(
櫻内辰郎
君)
北海道
のほうの御
意見
は……。
参考人(高倉新一郎君)(高倉新一郎)
15
○
参考人
(
高倉新一郎
君) 私この問題につきましては、そう評しくは
知つて
おらないのでござい
ます
が、実は外交上で
両方
の国が了解いたしましたものを、私が知る
範囲
におきましては、今の文字よりほかには私
ども
は見ておりません。それからなおエンサイクロペジアその他に現われており
ます
外国のいわゆるクリル
諸島
というものを引いて見
ます
というと、大体今の
歯舞
、色丹のその線ではなしに、
占守
から
国後
に至る一列の列島でござい
ます
。これを大体指しているように私
たち
は了解しており
ます
。但しこれは外交上のものではなしに、ただ自然科学のほうで、そういうふうに扱
つて
いるということでござい
ます
。
團伊能君(團伊能)
16
○團伊能君 外務当局のほうのお考えは……。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
17
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) 政務局長がお見えにな
つて
おり
ます
が、今の團委員の質問に対してお答えが願えれば結構ですが。
政府委員(島津久大君)(島津久大)
18
○政府委員(島津久大君) 只今の團委員の御質問の点につきましては、條約の文言以外に
はつ
きりした定義を下す材料は政府としては持
つて
おらない。只今、どうこうという確定的な
意見
は差控えたいと思い
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
19
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) よろしうござい
ます
か……。ほかに御質問はございませんか。
曾祢益君(曾禰益)
20
○曾祢益君 本日おいでにな
つた
皆様の非常に熱烈な御希望並びに御
意見
は篤と拝聽しており
ます
し、我々も何とか列国に対しまして、
日本
の正しい要求を
一つ
聞いて頂きたいという
気持
に燃えておるわけなんです。そこで先ほど御指摘にた
つたよう
に、この問題につきましては、いろいろな見地から検討しなければならん。それで先ず只今も
お話
がありました、團さんの
お話
にな
つて
いました
お話
に、これはクリルの
範囲
の問題であるとも言えるし、又逆に言えば
北海道
の
範囲
の問題であるとも言える。それからヤルタ協定に我我が拘束されていないということは、これはもうその通りであり
ます
。我々は
ポツダム宣言
に拘束され、又
ポツダム宣言
に援用された
カイロ宣言
は受諾しなければならない。そこでいろいろの
お話
がありましたが、私はこの
連合国
、即ち四大国が
北海道
以外の島についてきめるということについては、これはもう
ポツダム宣言
によ
つて
受諾しているのだから、これは文句は言えないのであり
ます
が、ただきめられる四大国としては、先ほ
ども
カイロ宣言
を御引用にな
つて
お話
しにな
つたの
と、又更に他の條約或いは外交文書から言うならば、大西洋憲章或いは
連合国
協同宣言の立派な方針からして、
連合国
は自分らが
領土
の
拡張
を求めず、又
領土
の変更は住民の自由意思の選択によるというこの立派な精神によ
つて
、この
北方
並びに南方の周辺の
領土
をきめてもらいたいということを、当然に私は要請すべきではないかと思うのであり
ます
。その見地から言い
ます
るならば、今の
お話
の中にありまました、私をして言わしむるならば、
北海道
は勿論であるが、
千島
も南と北と中とを分けないで、全
千島
、更にいま
一つ
、
南樺太
についてすら、私は同じ原則が適用さるべきではないかと思うのであり
ます
。併し
南樺太
については、本日要請としての
お話
がないのであり
ます
るから、これは暫らくおきまして、話を元へ戻しまして、
千島
、クリル、いろいろ問題はあり
ます
が、現在のソヴイエト軍隊が占領しておらない
北海道
以外の問題については、これはこれから先きは質問になり
ます
るが、お聞きしたいのですが、考え方がいろいろあると思うのです。先ず第一に
歯舞諸島
と、それからそれ以外の
国後
、択捉、色丹、それから得撫から北と、そういうふうに考えるのか、それとも
歯舞
、色丹は最も狭い意味で、いわゆる
北海道
の意味であるのか、それから
国後
択捉がいわゆる
南千島
として、いわゆる別のものになり、それから得撫よりか東北に位するいわゆる中
千島
というふうに三つに考えるのか正しいのか、それを終戰に対するソヴイエト軍隊の占拠並びに
日本
軍隊の降服のやり方等に鑑みまして、
一つ
もう少しそこら辺の考えの分け方を御説明願いたいと思うのであり
ます
。
参考人(岸田利雄君)(岸田利雄)
21
○
参考人
(
岸田利雄
君) 只今の御質問で大体三段階に考えており
ます
。その
一つ
は、
歯舞
のあの
附属島嶼
は水晶島、勇留、秋勇利、志発、多楽、この五つの島にな
つて
おり
ます
。これは
歯舞
村の木村が
北海道
のあの納沙布の半島にある、その管轄でござい
ます
。ですから、これはもう先ほど申上げました通り、私はあれは
千島
じやない、
北海道
である。それからその
歯舞諸島
のあれは、曾てはあれはやはり村ではなか
つたの
であり
ます
が、
明治
十八年かに色丹という島をあれは一村に訂正したのでござい
ます
。これは地勢的に見ましても延長であるから、当然その上体はこれは
歯舞諸島
である。これは第一に当然過ぎるほど当然だと、こういうふうに考えておるのであり
ます
。
曾祢益君(曾禰益)
22
○曾祢益君
色丹島
も含まれるわけですか。
歯舞諸島
に……。
参考人(岸田利雄君)(岸田利雄)
23
○
参考人
(
岸田利雄
君)
歯舞諸島
という中には、延長線上ですから……。それから後に言いましたところの、先ほど問題になりましたクリル、
樺太
の交換問題その他については、
はつ
きり出ており
ます
のは、得撫と、これより後は得撫と択捉の水道を以て境とするということが
はつ
きりしており
ます
ので、その
国後島
、
択捉島
、
色丹島
を後に
南千島
と称したのであり
ます
。これは行政上には何ら
南千島
という区画はありませんが、通称
北千島
とか、或いは
南千島
という名前を言
つて
いるだけであり
ます
。そういうような
関係
からいたしまして、この
南千島
におけるところの色丹の存在というものは、ちよつとそこに両股になるのであり
ます
が、これは地勢から言
つて
も、名指しから言いましても、
歯舞諸島
の連続と考え、属しており
ます
色丹島
、
南千島
の
国後島
と
択捉島
であり
ます
が、これは先ほど来由しました通り、過去の
歴史
におきまして、それが
はつ
きりとらえられており
ます
。そうして
普通町村制
が布かれており
ます
。
千島
六ヵ村ありまして、択捉には紗那、留別、薬取という三つの村があり
ます
。
国後島
におきましては、泊村と留夜別村と二村にな
つて
おりまして色丹村と、いわゆる言うところの通称の
南千島
には六万村に一般
普通町村制
が布かかれており
ます
。そこには三代、四代、五代というような間
日本人
が住んで、全く
根室
から申し
ます
と、島の人といい、島の人は
根室
を本家、分家という形にな
つて
おり
ます
。こういう事実から、これはどうしても最も近いのである。そう考えるのであり
ます
が、
北海道
の
島嶼
においても、利尻、礼文、奥尻島というような島がござい
ます
。そういうようなことから、何が故にあの
国後島
や
択捉島
がソ連の
占領下
に置かれて打付にな
つた
かということを申したい。本州においては、佐渡島、大島と同様の島であるという感じを持
つて
いるのであり
ます
。従いまして、第一に三段階に考え
ます
ときに、
歯舞諸島
はこれは当然過ぎるほど当然であるし、それから
国後
、択捉は当り前のことだ。更に得撫から
日本
の
歴史
を辿
つて
見ましても、先ほど来の
歴史
的な経過から見まして、或いは国際上の見解から申しましても、これは
日本
の
領土
であるからして、これはヤルタ協定が生きるということなら別問題であり
ます
が、生きてもヤルタ協定がよしんば生きても、
択捉以南
の島は当然
日本
の
領土
であるし、ヤルタ協定がいけない、或いは知らないんだ、
ポツダム宣言
の受諾前だからして、ヤルタ協定は別なんだ、こういうことになれば、当然
千島
尻の阿瀬度までという、この大体三段階に考えて行くのであり
ます
が、そういうのであり
ます
。
曾祢益君(曾禰益)
24
○曾祢益君 よくわかりました。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
25
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) ほかに御質疑はございませんか。
團伊能君(團伊能)
26
○團伊能君 只今の
お話
でだんだんよくわか
つて
参りました。得撫、択捉海峡から
南千島
は、先ほどの御説明にありましたように、元来蝦夷、
松前藩
でございまして、如何なる
歴史
の過程におきましても、外国の所領とな
つた
ことはないところでござい
ます
。又
歯舞
に至りましては、今日到底これが
千島
或いはクリルと考えられない近接
島嶼
でございまして、現にこの距離を見
ます
ると、熱海から初島ぐらいの距離で、一番
歯舞諸島
の中で
根室
半島に近いところでござい
ます
。その間の距離は僅か三千四百メートルに過ぎないのであり
ます
。又その
実情
を見まして、秋勇留、
水昌
その他の島と半島の間にござい
ます
貝殻島という磯がございまして、非常に水流がその辺は急で、一時間三マイルぐらいの水流であり、且つ非常に濃霧の多いところなので、その潮が引けば出て、潮が満てば隠れるような磯に建てました燈台で、この燈台が丁度三千四百メートル本土からござい
ます
が、その燈台までこれは本土に属して、
千島
の
範囲
に入
つて
おり
ます
ということは、殆んど常識で考えられないことであり、且つ又この燈台と本土との三千四百メートルの中間がいわゆる今日の航行
範囲
とな
つて
おりまして、マツカーサー・ラインが引かれており
ます
ために、千七百メートルが航行距離であり
ます
が、岸から千二百メートルは磯でござい
ます
ために、僅か三、四百メートルの間しか航行することができない。而も海上判定でござい
ます
から、殆んど危險で、そこは通行できないという事情になり
ます
と、これは殆んど今日常識として考えられない問題でござい
ます
。これらにつきまして、なお御
陳情
を伺いまして、皆さんのお
気持
も
はつ
きりいたして参りました。この
委員会
として、
委員長
におかれまして、これを是非何かの形におきましてお取扱頂く、少なくとも我々はこの
実情
につきまして、
日本
が将来の国家として生きて行く必須條件としてのこの説明はなし得るものと考え
ます
。その点におきまして、お取上げをお願いいたしたいと思い
ます
。
委員長(櫻内辰郎君)(櫻内辰郎)
27
○
委員長
(
櫻内辰郎
君) ほかに御質疑はございませんか……。御質疑がございませんければ、
千島
関係
の
陳情
はこの程度にとどめまして、明日午後一時三十分から、沖繩の問題についての
陳情
を聞くことにいたしたいと、こう考え
ます
。本日はこれにて散会をいたし
ます
。 午後三時四分散会 出席者は左の通り。
委員長
櫻内 辰郎君 理事 徳川 頼貞君 曾祢 益君 委員 團 伊能君 金子 洋文君 伊達源一郎君 野田 俊作君 政府委員 外務省政務局長 島津 久大君
参考人
千島
及
歯舞諸島
返還懇請
同盟
副
会長
根室町長
岸田
利雄君 同
同盟
常務理 事北大教授
高倉新一郎
君 同
同盟
常務理 事
北方
漁業開発
期成
同盟
会実行
委員長
森 七郎君 同
同盟
常務理 事 齋藤 秀雄君