○天野国務大臣 私はまず、道謹の頽廃というようなことが言われて今の時代はまるでだめのような正論が社会に満ちておりますが、私は必ずしもそうは
考えておらない、社会はやはり進歩すると思うのです。この
戦争を契機としてやはりわれわれの社会も進歩したと私は
思つております。だから、今の時代がまるで前よりも悪くな
つた時代だというようには、私は
考えないのですけれ
ども、しかし一面においては、やはり
戦争の影響として、戦後の頽廃というようなものも、これを認めなければならないということから、一体どうしたら、今の
国民を
ほんとうに道徳的な方に導き得るかということを、私も
圓谷委員と同じように深く憂えておるものでございます。そういう立場から、さしあたり問題になることは、私がしばしば申したことでありますから、ここで繰返しませんが、まず子供に、自分は
日本人である、しかしその
日本人たることが、よき
日本人であることがよき世界人であることの前提であるという立場から、よき
日本人という自覚を持たせたいということが
一つ、それから第二番目に、今お話になりました
教育要領と申しましようか、道徳要領というようなもの、また道徳
教育科というようなもの、そういう二つのものも、私は問題として
考えております。それは
教育勅語というものは、そこに掲げられている徳目は、依然として今も妥当性を持
つておるものでありますけれ
ども全体としてあれが現在に不適当だということは、私は当然だと
思つております。だからして、ここに新しく道徳要領というようなものを
考えても、決してそれは勅語のようなものとか、そういう
意味ではなくして、それを否定して、新しく生れた
意味の道徳要領というようなものを
考えることも問題ではないかと
思つております。ただしかし私はそういう道徳要領というような、いわば道徳の基準を立てさえすれば、それでこの社会の道徳が
たちまちにしてよくなるなどとは少しも
考えておりません。一体
日本人がものを暗誦さえすれば、それですぐ道徳的になれるというような、形式的な
考えを持
つていることは、よろしくないと平生
思つております。ところが恐れ多いことだけれ
ども、具体的にいえば「夫婦相和シ」と
教育勅語にあるからとい
つて、必ずしも和合した夫婦もないだろうと思います。あるいは「博愛衆二及ホシ」ということを骨の髄まで知
つている
人たちが、外地に行
つては
ちよつとも博愛衆に及ぼさない。そういう点を見ても、道徳基準を覚えるということだけでは、道徳というものは生きた力にならない。道徳は常に実践を媒介にしてのみ力を持
つておるものであると自分は信じます。
それから第二のいわゆる修身科に対しては、これは従来の修身科に非常に弊害があ
つた。その
一つは、ただこの修身教科書というような教訓的なものばかり集めたものを持
つて来て、先生が時間々々に教訓的なことを言うと、生徒はまたお説教かということで、少しも力を持
つて来ない。たとえば、これが国語の教科書というようなものに出て来れば、非常に生徒に感銘を与える文章であ
つても、修身教科書で修身の先生が教えると、さつぱり感銘を与えない。極端に言うならば、場合によ
つては生徒の道徳感覚の新鮮さを阻害するというおそれさえもある。だから私は従来のような修身科というものではなくして
ほんとうを言うならば、すべての先生が修身の先生でなければいけない。修身というような言葉で言わなくとも、先生の実践というものが、生徒に道徳的な影響を及ぼして来るのであ
つて、たとえば、先生はどんなにできない子でもそまつにしない、
ほんとうに人間としてこれを尊重して行く。どんな貧乏人の子でも、金持の子でも、差別を立てず、あるいは先生が自分の間違いは淡白に認めるとか、そういうような実践が、すでに道徳的
意味を持
つている。ただ教科書をつく
つて、先生が教えさえすれば、それで修身の成績が上るとは私は
考えておりません。ですから、決して従来の修身にもどそうというのではなくして、ここで詳しく論ずることは時をとりますからやめまして簡単に申しますならば、社会科というものによ
つて、一度従来の修身は否定された。そういう社会科というもの、従来の修身というものを
一つの契機として、ここに新しい道徳
教育の方法をくふうすることが必要ではないか。大体においてそういう
考えでございます。