○国務
大臣(天野貞祐君) 只今
委員長が仰せられましたことについて、先ず
国旗と国歌のことから私の
考えを申述べます。私は專ら
小学校の子供などについて感じたことなのですが、今のように打ち捨てておくというと、子供が全く故郷のない人間、いわゆる無籍者に
なつてしまう慮れがありはしないか。
国旗のない国というものもなく、国歌のない国もないのに、それがいわば停止されてしま
つているような形であるということは、非常に
国民の
教育上遺憾なことではないか。我々は
国旗を掲げるのに何も躊躇することはない。国歌を歌うのも何も憚るところはない。だからしてこの際我々は、文化の日というような祝日には、
小学校或いは中
学校でも式をや
つて、そうして国歌を歌い、
国旗を掲げるということが望ましいという通牒を出して貰つたわけであります。それに対して、
国旗についてもいろいろのお
考えがあるようでございますが、私はこの
国旗がすべてよいことのみを象徴しておるとは思いません。けれども如何なる
個人といえども、如何なる民族、
国家といえども、すべてよいことばかりということはあり得ないことなんであ
つて、よいこともあり、悪いこともあり、その悪いことに対しては深く反省をして行くということによ
つて、
個人であ
つても、
国家、民族であ
つても、成長発達ということが、私はあると思
つております。だからこの
国旗は、我々の文化創造の象徴でもあると同時に、又我々の非常な過失に対して、我々が深く顧み、深く後悔し、そうして新しく生れ代るという意味もこの
国旗が持
つておるものだと自分は思
つております。そういう意味で、この
国旗を掲げるということは少しも差支ないどころではない、掲げなければいけないといつた
考えでございます。
それから国歌については、君が代ということにいろいろ異論があるようでございますが、併し君というのはすでに象徴であ
つて、君が代というのは、その象徴を象徴としている国ということです。
我が国ということです。日本国存立の象徴なんです。そういう意味で、文字からいえば、何も差支えない。で、これを歌
つて、小
国民に、自分達は日本の
国民の一人であり、この国を将来背負
つて立つんだということをだんだんに自覚さして行きたいという
考えでございます。附加えて申しますと、私が
教科書の無償配付ということを
考えたのも、これは單に
義務教育の無償の権利ということによるだけではなくして、
国家或いは公共から子供に
教科書が渡されるということは、子供自身をも
国民の一人だということをだんだんに知らせるばかりでなく、親に対してもその子供は自分の一個の私有物ではなくして、これは
国家の一員なんだ、
国家のためにもこれを育成して行かなければならないという、そういう自覚を持たせたいという
考えも含んでおるわけであります。要するに私がこの小さい子供らを無籍者にしてしまわない、日本人だかどこの国の者だか分らないというのではなくして、本当に日本国の
国民だという自覚をだんだんに養
つて行きたいという、そういう
考えに出ずるものでございます。
次に修身科ということでございますが、修身という
科目はすでに禁止せられておつた、修身科というのは、仮に道徳
教育という意味で言うわけでございます。従来の修身科というものに対しては、私は非常な疑問を持
つて来た人間なんで、そういうことは私の著書にも書いておりますが、従来のようなやり方だというと、修身科というものは本当の意味の道徳
教育にならない。そのわけは、何か教訓的なことばかりを書いた
教科書を使
つて、そうして
先生が教訓的なことばかり述べるというと、生徒は又お説教かというような気持があ
つて、本当の道徳
教育にならないばかりでなく、むしろモラル・センスの新鮮さというものを阻害する心配さえもあると私は
考えております。それから又修身という
科目については、道徳
教育ということは修身の担当者だけの受持ちであ
つて、他の
先生方はただ單純に知識を教えさえすればよいのだ、こういう
考えを持ち易いのでありますけれども、実際は決してそうではないのであ
つて、本当の道徳
教育はむしろ学科の
先生によ
つて行われる場合が非常に多いし、又学科の
先生も一個の
教育者としては、ただ知識の伝達ということではなくして、それを媒介として生徒を育成するというのでなければならない。例えば英語なら英語の
先生が本当に正確に教える。又何か自分に間違つたことがあれば、淡白に取消して、生徒の言うことがよい、こういうことを言うとか、或いは
小学校などの場合であるならば、どんな貧乏人の子供でも、どんな金持の子供でも
先生は
一つも差別もしない。或いはどんなできない子供でもその学科ができないから人間として値打がないのだというような、生徒をして卑下の
考えを起させずに、どういう子供であ
つても、一個の人間としてプライドを持
つて生きて行かなければならない。そういう取扱いをするとか、そういう
先生の実践を通じて
国民の徳育というものは行なわれるのであるから、修身の
先生だけが徳育の担当者だという
考えは非常にいけない。そういう
考えを起させ易い修身科というものに対しては非常に警戒をせねばならんということは、私はすでに大戰前からしばしば繰返して述べて来た
考えでございます。
併しながら私はそういう
考えを抱いておりますけれども、最近に
なつて実際生徒を教える人達が、今のままではどうも道徳
教育ということは十分にやりにくい。だからここに何んかの
考えをめぐらす必要はないかということを私にしばしば言
つて呉れる人達があります。私はそれは確かに一理ある、今のように
社会科というものが道徳
教育ということを引受けておる形に又
なつて来ておるが、又そうして
社会科というのは誠に結構であ
つて、従来の日本の道徳
教育の欠点は專ら
個人道徳にのみ偏して、いわゆる
社会教育というものを忘れる点があるが、
社会科というものであるならば社会的道徳というものを主として
考えて行くと、社会道徳というものは常に
個人道徳に媒介されない限り、社会道徳というものはあり得ませんから、これは
個人道徳と同時に社会道徳を教えることに
なつて、その形からいうと大変よいのであるが、併し現在の
社会科というものは、その意図するところを十分に発揮しているとは私には
考えられないから、ここに何らかの
一つ改革を加える必要があるのではないかということが、そういう趣意が、私があたかも古い修身でも復活するように述べたかのような誤解を世間に起しておりますが、私は決して元の修身に還そうなどという
考えは全然持
つておりません。修身というものは
社会科というものによ
つて一旦否定され、その否定を媒介として修身科と
社会科というものをいわば揚棄してここに新らしい
一つ道徳
教育というものを工夫する必要がありはしないか、そういう
考えなのでございます。
次に
教育勅語に代るものということでございますが、
教育勅語についても私はやはり道徳
教育としては非常に考うべきものを持
つておる、と申しますのは、日本人の
一つの形式主義と申しましようか、何かそういう道徳的な
基準を読み上げて、それを暗誦さえすれば、それが何か道徳
教育ができるような
考えが従来あつたけれども、それでは決して道徳
教育というものはできるものでなくして、道徳
教育は
基準の暗誦によるものでなくして、常に実践に媒介されない限り道徳
教育は行われ得ない。だからして
教育勅語のような類のものを作
つて、これをただ暗誦すればよいというような
考えは、全然間違つた
考えだと私は思
つておるものなのであります。けれどもこの点についても、
教育勅語とか、そういうものに還すのではなくして、もつと進んだ何か一般の
先生方が教えて行くのに都合のいいような道徳的
基準というものを作るということは、
先生方の非常な要望があるので、私はそれを考慮することも必要ではないかというように、自分の従来の
考えを実際の活動の方々のお
考えによ
つて反省をして来ておるということであります。私が何か
教育勅語のような類のものをここに出そう、まして、そういう保守的な無定見的な何か
考えを私が抱くということは、徹頭徹尾間違つたことであ
つて、私は常に古いものを揚棄して、それを契機として新らしく進もう、そういう
考えでございます。大略を申せばそういうことでございますから、何か御質問があれば詳しく御返事いたします。