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参考人(坂本太郎君) 私は
日本歴史の研究者の末席を汚しておるものでありまして、
皆様のお役に立つような
意見は申上げる資格はありませんけれども、折角のお招きに預りましたから、一言
簡單に結論を申しますと、私は
元号を
廃止することには不
賛成であります。今度も存続させて行きたいという
意見であります。その
理由につきましては、いろいろありますけれども、
簡單にここで二つの点に要約して申上げたいと思います。
その第一は、專ら名分上、形式上の見地からでありますが、
国民の一人として痛切にこれは感ずるところであります。それから今、
一つは実際上、
便宜上の
立場からであります。これは專ら
日本歴史を研究する者の一人として感ずるところでございます。
第一の形式上、名分上の見地からといいますのは、
年号というものは、独立国の象徴であるという意義を重視いたしまして、せめてこのようなことにでも独立国の形を保
つて行きたいという願いであります。
元号の起原や本質につきましては、ここに詳しく申上げる余裕はありませんですが、ともかく古来の
歴史事実といたしましては、
年号を立てるということは、独立国の象徴でありまして、又文化水準の表示でもあつたわけであります。古くから中国では正朔観念というものが発達しておりまして、つまり
歴史を定める、年の立て方、月の立て方を定める、その思想が発達しておりまして、外の国の正朔を用いるということはその国に服属するということの最も明らかなしるしであつたわけであります。そうしてその正朔というものは、この
年号が行われるようになりましてからは、專ら
年号によ
つて代表せられるようになりまして、服属国は常に自分の国の
年号は持たない。よその国の
年号を用いるということであ
つたのであります。我が国で
年号を用いました初めは大化の改新の時の大化、或いはそれより遡
つて推古
天皇の時の法興などでありますが、いずれもこれらの時は国政を整えて文化を高めまして、当時の
世界に伍して恥しくない独立国を打ち立てるという熱意に燃えていた時でありました。
年号はその事実の端的な表現であつたわけであります。爾来今日に至るまで、
年号は御
承知の
通りに一年の断絶もなく続いております。それはつきり一方では我が国がずつと独立国の事実を失わなかつたということの
歴史事実に対応しておるわけであります。このことは朝鮮の例を対比して見ますとよく分るのでありまして、朝鮮は古代の新羅におきましては、六世紀の中頃でありますが、国連の非常に躍進しましたときに初めて
年号を立てまして、それから大体五代、百余年の間は常に改元をして
年号を立てて自分。
年号を持
つておりました。ところが七世紀の中頃になりまして国政的な事情から唐に投降しまして、唐の保護を受けることが大変深くなりますと、唐の太祖から
年号を持
つておることは怪しからんと叱られまして、遂に自分の
年号をやめて唐の
年号を用いるようになりました。それからはずつと新羅は唐の
年号を用いました。つまり唐の服属国として終つたわけであります。新羅に代りまして王氏高麗の場合も同じでありまして、高麗の太祖はやはり
一つの
年号を立てましたが、間もなくやはり中国の後唐、後の唐でありますが、後唐の封冊を受けてその
年号を用いるように
なつた。爾来中国の後唐の
年号を用いております。中国の天子に服属する一諸侯の国を以てみずから任じておつたわけであります。
こういうような
歴史事実に示されておりますように、
年号を持
つておるかいないかということは、独立国として、独立と服属との標識でありまして、私共は今日もやはり
年号に対しては、こういう見地から
年号を見ざるを得ないわけであります。余りこういう御
意見が
新聞などでは出ておりませんようでありますから特に申上げるわけでありますが、或いはそういうことは十分御
承知の上で、それだからこそ、今日のような敗戰によ
つて占領下に在る我が国としては
年号を用いることは僭越である、
廃止すべきであるという多数の御
意見ならば何んとも仕方ありませんが、單に便利であるとか不便であるとか、こういう
理由だけで以てこの重大な、名分上非常な意義を持
つておるものを
廃止するということが問題にされるのは私
賛成いたしかねるのでありまして、これは
歴史に対する余りに大きな無知を示すものでありまして、後世我々の子孫によ
つて笑われるであろうと思うのであります。私はできるならせめて、大して害がないことでありますから、このようなことででも独立国の名分を保持して行きたいということを願うのであります。
それから第二に、実際上、
便宜上
年号のあることは便利である。といいますのは、專らこれは
歴史を研究する者の一人といたしまして、
歴史を
考える場合には、
年号は、いろいろな
時代を具体的な事実の裏付と共に細かに深くして把握する場合の適切なる指標の役割を果しておるものであります。これは
西暦の何世紀というような機械的な
時代の区画などよりは遥かに意義の深いものを持
つておるのであります。例えば天平
時代といいますと、聖武
天皇の仏教政治の華やかな文化興隆の二十四年間を概括する極めて適切な
言葉であります。これを
西暦で適当に言い表わすことはなかなかむずかしいわけであります。同様にこの元禄
時代とか文化、文政
時代とかいうのは、やはり
一つのまとまつた
時代であります。これは
西暦では表わしようがありません。それから又
歴史事実の名称にも
年号はよく利用されております。
年号程適切に何らの弊害もなく、そうして名称の構成分子にな
つているものは外にないのであります。例えばこの
歴史の事実にいたしましても、大化の改新であるとか建武中興であるとか
明治維新であるとか、そういう類がありますし、又法令の書物といたしましては大宝律令、養老律令、建武式目、貞永式目というようにいろいろ沢山ありまして、これらは渾然とした名称をなしておりまして、仮に
年号がなければ、これは外に表わす方法は、適当なものを私は
考え及ばないのであります。このように
年号は、
日本歴史、
日本文化と緊密に結合しておるのであります。これは今後におきましてもやはり同様であると
考える次第であります。このような点におきまして
日本歴史を研究する上においても、
年号のあることは大変便利であると思うのであります。但しここで誤解を避けたいと思いますことは、私はこのように言いましても
西暦を用いることを反対するものでは決してないのでありまして、むしろこれは両者併用して行くべきもので、両者相俟
つて初めてその効用が十分上がると思うのであります。けれども
西暦は儼として存在しておるものでありますから、我が国がどうしなくても、自由に今日もうすでに使
つておりますが、今後も誰でもこれは使うことができるのであります。けれども
年号は一旦
廃止すれば、もはや我々はこれを使うことができないと
考えるのであります。このような便利な
年号を以て
歴史を
考える途を失
つてしまうわけであります。そういう
意味でやはり
一世一元の
年号は
廃止する必要は全然認められないのであります。むしろこれを存続しなければならん意義が沢山に存在するというふうに
考える次第であります。
尚ついでに
只今お話がありましたから
ちよつと申上げますが、
年号は国家が統一してこれを一元的に拵えるということに意義があるのでありまして、若しこれを国家が制定いたしませんと、恐らく私
年号、私の
年号というものが各地域、各団体において沢山に発生するであろうということを恐れるのであります。これは
只今鷹司さんもおつしやいましたが、
西暦一本にいたしますと恐らく仏教と神道等の
方々は私自分の
年号をお用いになると思います。これは
歴史上におきましても古くからあつたことでありまして、中央集権の実がよく挙
つておりまして、為政がよく行われておりますと、
一つの大きな
年号が全国
一般に行われますが、世の中が段々乱れて参りますと、各地域、各社会で独特の
年号が行われるようになります。それを私の
年号、私
年号と申しております。これは中世室町
時代頃におきましては、特に東国、関東地方におきまして中央の
年号に
関係のない
年号を用いておる例が沢山に存在しております。これにむしろ
歴史を
考える上においては大変混雑をして我我を悩ましておるものであります。そういうことが或いは今後起り得るのではないか、若し
西暦ばかりに
なつた場合においては、そういうことが起り得るのではないかということを私はかねがね憂えておるのであります。とにかく大体以上二つの
理由におきまして、この一世万の
元号の
制度は保存して行きたいというのが私の
意見であります。