○
証人(大内力君) 私、大内でございます。
農業政策をどういうふうに立てるべきかという問題について何か考えを述べろという話なんでございますが、私は
農業政策というものは、或る長期的な
政策というものを
一つ考えて見て、そうしてそういう長期的な
政策というものから目前の問題を解決するという
政策を導き出して行く、そういう
考え方をどうしても採る必要があるのじやなかろうかというふうに考えます。長期的な
政策と申しますのは、これもまあ何年先というふうにはつきりは申せないわけでありますが、とにかくも将来の
日本に與えられた経済的な諸條件というものを一応頭に入れておきまして、そうしてそういう諸條件の中で
日本の
農業を一番理想的な形に持
つて行くとすれば、どういうものが考えられるかというその理想
通りな形を先ず考える、そうしておいてその理想的な形へ持
つて行くためにはどういう
政策を考えるべきであるか、こういうふうに問題を立てて行けば、或る
程度長期的な
政策というものの目途が付くのじやないか、こう考えて見たわけであります。その場合に将来の
日本の経済がどうなるかというようなことは、併し実際問題といたしましては、決して予測をすることは非常に困難であるということが考えられますので、もつと細かい点に立入
つて一々の予測を立てるわけに参りませんが、併しどう考えて見ましても、私は将来の
日本の経済の中で
日本の
農業がどういう
課題を背負わなければならないかということとして、次の二つの問題だけは動かすことのできない條件じやないかというふうに考えるのであります。
その二つの條件といいますのは、
一つは、
日本の
農業が少くとも当分の間は相当高い
人口を負担して行かなければならないという問題であります。御
承知の
通り戰争前には、
日本の
農業人口或いは
農村人口というものは四〇%ぐらいであ
つたのでありますが、それが戰争中に三六、七%まで減
つたのであります。それが戰後又非常に殖えて約五〇%近くが
農村にいるという
計算になります。殊に最近
失業者が殖えたということから、ますます
農村に還流してそれが
農家の
人口を増加さして、而もそれは
農業の中で消化できないためにいわゆる過剩
人口にな
つた、それが
農業経済を圧迫することが非常に大きくな
つているという現象が見られるわけであります。そういうものは
農家にと
つて非常に圧迫になるわけでありますから、それを解決するために、一方では
農業の中でもう少し大きく雇用力を殖やす、つまり
エンプロイメントを殖やすという
考え方もありますし、併しそれはいろいろな條件を考えますと相当困難な問題だといたしますならば、工業の方における
エンプロイメントを殖やして吸收して行くという以外にはこれはないのであります。その外移民ということも多少考えられますが、これは
幾ら多くしてみても
日本の今の過剩
人口の数から考えますならば極く少いものしか考えられない。そういうわけで移民を一先ず捨象いたしますならば工業
人口の方に吸收するより外ないのであります。併しこれからの
日本経済において、そう急激に工業の下における
エンプロイメントが殖えるということもその楽観的には考えられないといたしますならば、少くとも今の
程度の
人口を抱えて而も
農業が何とかや
つて行けるという社会條件を先ず考えて置く必要があるのじやないかということであります。
それからもう
一つの條件は、先程の
近藤先生の
お話にもあ
つたと思いますが、
日本の
食糧はできるだけ
自給しなければならないという問題だと思うのです。で、今まで
日本は
食糧国内自給という問題を非常に熱心に考えて来たわけでありまして、そうしてそれが熱心に従来考えられて来たのは、むしろ戰争をやるには
食糧を
国内で
自給しなければならないという條件から考えられて来たのでありますというふうに私は考えるのですが、併し戰後の今にな
つて考えますと戰争をやる必要がなくな
つたわけですが、それにも拘わらず
日本の貿易
関係というものは非常に不利であります。そこに非常に大きな
食糧輸入という負担をかけるとすればますます
日本の貿易
関係が不利になる。その点から考えまして少くとも当分の間は或る
程度の不利を忍んでも
国内で成るべく最大の
食糧自給をして、又若し可能ならば或る
程度の
輸出をして外貨を獲得するという役割も
農業が背負い得るというような條件を考える必要があるのではないか、こういうことであります。
ともかくもその二つの條件を充たすということを考えまして、その中で
日本の
農業の理想的な形というものはどういうものであるかというふうに考えれば、問題を解き得る鍵が出て来る、こういうふうに考えております。そのときに先ずこの手がかりとして考えられますことは、これは従来の
日本の経済全体に非常に大きな欠陷がある、それから又現在においてはそういう欠陷がますますひどくな
つていると考えられますが、この従来の
日本の経済の非常に大きな欠陷として考えられますことは、
国内の市場が非常に狭いという條件と思うのです。つまり
日本の資本主義は明治以来非常に急速に発達したというふうにいわれておりますが、併しその発達した相対的な速度からいえば成る程早か
つたに違いありませんが、絶対的な大きさというものを考えますと非常に
日本の資本主義は薄弱な
規模しか持
つていない、戰後の現在においてはそれはますます小さくな
つているというふうに考えていいと思います。そうしてそういうふうに
日本の資本主義の絶対的な大きさを非常に制約して来たものは、無論
一つは後進国の
日本は外国市場において有利な條件がなか
つた、そのために外国市場を
利用して資本主義を大きくするということができなか
つたという條件も無論ありますが、その外に
日本の
国内の市場が非常に狭い。で、そのために
生産の方が市場の條件から抑圧せられるという條件が私は非常に大きか
つたというふうに考えるのであります。そうしてこういう條件は今の
日本においてはますますひどくな
つているのであ
つて、御
承知のように、
日本の工業
生産というものは最近の
司令部の発表によりましても、まだ戰前の八〇%という水準にしか回復していないわけで、
人口は戰前より殖えて
生産は八〇%ですから実は非常にまだ
生産が足りないでいるわけでありますが、それにも拘わらずすでにあらゆる方面において過剩
生産という問題が非常に起
つて来ているということであります。又
食糧でもこれは
輸入が相当ありますが、
国内の
食糧の
生産というものは物によ
つては戰前の水準まで回復しておりますが、物によ
つては戰前の水準より低いところにある。全体としてならしていえば戰前の九〇%しか回復していないと私は考えるのですが、それにも拘わらずすでに農産物さえもいろいろなものが過剩であるということが憂えられる。そのように
生産総量が非常に少いにも拘わらず、
国内において過剩になるという問題が起
つて来るのは、
日本の
国内市場というものが非常に制約されて来て狭いということであります。問題はそこにあるわけで、
日本のこれからの経済というものを発展させるためには無論外国貿易依存ということもこれは重要だと思いますし、その重要性を否定するわけではありませんが、どこまでも外国貿易一本槍で
日本の経済の発展ということが考えられるかといえば、私は決して考えられないと思います。そうでなくて
日本の経済が順調に本当に大きくなるためには、
国内市場がそれに応じて大きくなる條件を作り出して行くのでなければ
日本の経済の繁栄ということは到底望めないというふうに考えるのであります。
国内市場がそれではなぜ従来も狭か
つたし、又なぜますます狭くな
つて行くかという問題を申しますれば、それは要するに一方においては
日本の労働賃金の水準が非常に低か
つたということであります。もう一方においては
農民の生活水準が低か
つた。又
農業自身が機械化されていない。アメリカの学者が言
つたように四千年以来同じ
農業生産の
やり方をしているという程非常に遅れている。この二つのことによ
つて日本の
国内市場の大きさが非常に制約されているということを考えていいと思うのであります。まあこの
日本の労働賃金は如何に低いかとか、
日本の
農家の生活が如何に国際的に低いかということは数字を上げるまでもなくよく分
つていることと思いますが、例えば
シヤウプ勧告にも出ておりますように、アメリカの半熟練労働者の月の
收入所得というものは約三百ドルであるとシヤウプは言
つております。それに対して
日本の同
程度の労働者は約一万円というふうにシヤウプは言
つております。それで比較して見ますと仮に三百六十円の公定レートで
計算いたしましても一方の所得は十万余り、十一万近く、それに対して
日本は一万円であります、十分の一乃至十一分の一という水準であります。実際は
日本の円の実力はもつと少いので恐らく四百五十円くらいのレートだと思いますが、それで
計算いたしますれば十六分の一とか十八分の一ぐらいという低い水準になるのじやないかと思います。そういうわけで労働者の生活水準が非常に低いということが凡そ想像がつくのでありますが、
農民の場合も殆んどそれに変りはないと思うのであります。
例えばアメリカの最近の統計を見ますと、
小麦百ブツシエルを作るのに必要な労働時間というものは三十二、三時間という
計算にな
つております。百ブツシエルと申しますと約二十石でございますが、
日本の場合は
小麦の
生産力は反で大体二十日から二十五日という間であります、
従つて一日十時間労働として
計算いたしますならば二百時間余りというのが一反に必要な労働量であります。そうしてそれに対しまして一反の收穫高というものは、ほぼ一石八斗前後というふうに考えていいと思いますから、それで換算いたしますと、約二十石の
生産に必要な労働時間というものは三千時間余りという
計算になると思います。つまりアメリカの
農民は
日本の
農民の百分の一の労働で以て
小麦を
生産しているのでありますが、併しながら
生産された
小麦の
価格というものは、
計算して見ますならば、これはアメリカのプライス・サーヴイスによるせいもございますが、大体
日本より少し高い水準、三百六十円に換算いたしますと、少し高いということになります。百倍の
生産力を持
つていて、而も
価格は同じか、少し向うが高いということになりますれば
日本の
農民が非常に低い生活をしなければそれに追いついて行けないというふうに考えるわけであります。
要するにそういうふうに低い労働者の生活と
農民の生活というものを基礎にして、
日本の経済が成り立
つているというところに、
日本の経済の基本的な弱点がある。この問題を解決しなければ
日本の経済をよくすることはできないというふうに考えます。そこで問題はそういう
日本の労働者と
農民の
状態を少しでもよくして行く、そうして
日本の経済全体がそれに応じてよくして行くというためには、そうい
つた方策を考えなければならないという問題であります。これはなかなかむずかしい問題だと思います。というのは、つまり
日本の工業におきましては、今申しましたようにアメリカに比べて十分の一乃至それ以下の労賃しか支拂われていないのにも拘らず、国際的な競争において
日本の商品は太刀打ちができないというのが現状であります。ということはつまり工業においても非常に
生産力が低くて、低い労賃でも尚且つ競争ができないということだと思います。
従つてその問題を解決するのは、結局の問題としては工業
生産力を高めて、高い労賃でも国際的競争力を持ち得るような工業を作り出して行くという問題であると思いますが、併しそれは又いろいろな條件がありますから、早急にや
つてもなかなか解決できない問題であると思いますが、併し少くともそういうことを目的として
政策を考えて行くということが必要じやないかというふうに考えるのであります。
それから
農民の場合でも、無論生活水準を高めなければならないわけですが、生活水準を高めるということは要するに所得を大きくするということであります。單に所得を大きくするということだけが問題であるならば、それは農産物
価格を吊り上げて行きさえすれば所得は大きくなり得る。ということは税金や何かの問題を一応別とすれば農産物
価格を吊り上げて行けば、或いは補助金をや
つてそれを高くすれば所得は大きくなり得るわけでありますが、併しそういうことだけでは問題は決して解決されないわけです。それでは国庫の負担が非常に大きくなりますし、又農産物
価格が高まるならば、却
つて若し労働賃金が一定とするならば労働者の生活水準が下らなければならない、こういうところにぶち当るわけです。そこでどうしても
農家の所得を殖やすという條件は、農産物
価格をそれ程高めないでも
農家の所得が殖えるという問題を考えて行かねばならないということになるのであります。それは結局結論的に申しますれば、私は
農業の
生産力を高めるということ以外には解決の途は見出せないというふうに考えます。そこで若しそれをどうや
つて達成するかということを段々申上げますが、とにかくそれは一応結果として達成され、それが
農業生産力を非常に高めることができますれば、一定の例えば今の與えられた
価格というものを前提としても
農家の所得を大きくすることができる。所得が大きくなれば所得の一
部分を
農業の資本として投下することができますし、又
農家の非常に低い生活水準を改善して高めることもできる。そうな
つて参りますならば、そこでそれだけ工業製品に対する市場も殖え、そこで工業においても
生産の拡大をする余地ができ、そうすればそこで労働者が余計に使用されることにな
つて賃金水準も高ま
つて行く。そういう
意味では
国内市場が拡大されて行く。こういういい
意味においての循環が作り出される
可能性ができて来る。これはなかなか口で言うようにできて来ないと思いますが、とにかくそういう
意味での循環を作り出すというような
農業政策を盛
つて行くということが、これから考えられなければならない基本的な條件であるというふうに私は考えます。そこで
農業生産力を高めることが一番現在の場合最終の目的として與えられるのではないかというふうに私は考えるのでありますが、つまり先程申しましたように、
日本の
農業生産力は例えば
小麦で言えば、アメリカの百分の一ぐらいですが、更に外の米をと
つて見ましても、カルフオルニアあたりの場合と比べますれば、やはり百分の一乃至それ以下というくらいの低い
生産力しか持
つていない。そういう低い
生産力を少しでも高めて行くという條件がどうしても必要であるということであります。つまりそういうこの
日本の非常に遅れた
農業の
生産力を高めて行くための技術的な解決というものは今日も必ずしも出ていないというわけではないと思います。御
承知の
通りいろいろな技術的な改良というものは提唱されているわけであります。そういう技術的な改良というものがどの
程度普及性があるか、或いはどの地帶にどういうふうにそれが
利用されなければならないか、そういう具体的な問題になると非常にむずかしい点があると思いますが、とにかく技術的に
日本の
農業生産力をもつと高めて行くということは私は可能である、すでに解決された問題であるというふうに考えます。例えば水田の
稻作の技術
一つをと
つて見ましても、
日本の従来の
稻作技術で申しまするならば、一反の水田を作りますために約二十日という労働が必要であります。そうしてそれによ
つて反当收量というものが約二石、
従つて日本の
農民の場合には一人当り一日一斗という
生産水準が現在の
日本の
農業の
生産能力であると言
つていいと思います。併しそれが更に
日本の
農業の中でも進んでおる地帶、例えば岡山県
地方、そういう県をと
つて見ますと、もつと高い技術というものが採用されていて、その結果
生産力が非常に高くな
つて行くということが考えられる。岡山の場合には御
承知の
通り自動耕耘機と水稻直播という技術が改良されることによ
つて生産力が高ま
つて来るわけであります。それについてはいろいろの統計的なデータが出ておりますが、これが果して本当かどうかということは私は責任が持てませんが、或る
農業の技術家の説によるならば、今の
日本の
稻作の技術というものをすでに現在分
つている技術、つまり技術としてはでき上
つているものを採用しただけでもつと遥かに高めることができる。そうして少くともパー・ヘツドの
生産量を二石乃至そのあたりまでは高めることができるというふうに言
つておる人もあるくらいであります。それは多少大袈裟であるといたしましても、私はそういう技術的な改良を若し
日本全体において広範囲に採用できるというか、可能であるといたしますならば、
日本の
農業生産力を今の五倍や十倍に高めるということは必ずしも技術的には困難な
課題ではないというふうに考えられます。ところが実際問題としては技術的には可能であるが、そういう高い
生産力水準というものが
日本の現在においては少しも実現されていない現実でありますが、
従つてそれが実現し得ない理由がどこにあるかという問題を先ず考えて見る必要がある。それはいろいろな理由が考えられますが、結局においては先ず第一に大きな條件として
日本の自然的な前提條件というものが決して十分に整備されていないということが大きな問題だと思います。例えば先程
近藤先生も
二毛作を普及する必要があるとおつしや
つたのですが、そうしてこの
二毛作を普及するということは確かに私も重要なる條件であると思いますが、ところが実際問題としてなかなか
二毛作の普及ということは困難な
地方があります。それは先程
近藤先生のおつしや
つたように
供出問題及び農産物
価格の問題というものが
一つのネツクにな
つているということは多少考えられますが、その前に自然的條件として
二毛作が阻まれているという地帶が相当多いのであります。それは要するに水の條件が一番大きいわけですが、排水が十分できないという問題と、又
二毛作をするために若し排水をしてしまうとあとで水田を作るときに灌漑水が得られないという場合と両方あるわけです。
一つは水の問題で以て
二毛作が十分できないという條件がある。それからもう
一つはそれと並んで大きな條件は、私はよく
農村を歩きまして、気候的には十分
二毛作ができる、又水の條件からい
つても
二毛作ができる所でありながら
二毛作がされていない地帶、この近くで言えば茨城県、そういう地帶が非常にあるわけです。そういうところの
農家に行
つてなぜ
二毛作をしないかという質問をしますと、そういう
農家においては大
部分の
農家が
二毛作をすると労力的にとてもやり切れない。つまり農繁期の労力が非常にかか
つて、若しそれを人を雇
つてや
つたならば到底ペーしない。そういう労力の配分がうまく行かなくなるからそれで
二毛作はできないと言
つてしない地帶が非常にあるのです。
従つてそういう問題から考えますならば、少くともそういう労力の配分をもつと均等化するような、つまり農繁期における労力が非常に過重なところをならすような技術改良をして行くということが
二毛作を可能ならしめる條件である、こういうふうに私は考えます。つまりこのことはもう一度言い換えますれば、
二毛作を可能ならしめるという
一つの問題を考えるといたしましても、そのためには先ず自然的な條件、殊に
土地及び水の條件というものを整備するということが前提として考えられなければなりませんし、又
稻作なり或いは麦作なりというもつと機械化するとか、或いは畜力化するとか、或いは水稻直播のような方法を採用するとか、或いは最近出て参りましたような二四Dのような除草剤を使うとか、そういう技術によ
つて労力を省きながらも
生産が行えるような形を作り出して行くということがどうしても必要になる、こういうふうに考えていいのじやないかと思います。そういうわけで、先ずそこで分りますことは、私は今後
日本の
農業政策として、無論未墾地を開墾するとか、そういう問題も是非考えて行く必要がありますが、少くとも既
耕地における
生産の前提條件である自然的條件をもつと
農業生産に都合のいいものに変えて行く、こういう方法について先ず第一に考える必要があると考えるのであります。これは要するに
土地改良をする、それから水利の整備をするという問題に盡きるわけでありますが、而も
土地改良をするとか、水利の設備を改善するという問題は
日本の従来の
農家が個別的に持
つている経済力では決して達成できない問題であります。又それは村とか或いは県とかいうような
地方団体の財政力でもなかなか達成できない。
従つてこの問題の解決のためにはどうしても国家が相当大きな長期資金を投資するというだけの覚悟を持つ必要があるというふうに私は考えるのであります。それが御
承知のように最近では例の公共事業費の削減などのために新らしい事業が中止されておるばかりではなくして、水害の復旧さえ十分できない。御
承知の
通り日本の
農業の災害率というものは戰後において急速に高ま
つておりますが、こういう水害、そういう災害を防止するとか、或いは災害を受けたところの復旧ということさえも十分にされないというような現在のような
やり方では、私は
日本の
農業を改善して行くめどは到底立ち得ないというように考えるのであります。
従つてどうしても財政的な理由はいろいろあるわけでありましようが、併し
農業をよくするための第一の
政策というものはそういう自然的條件を改善して行くということが、国家の投資を集中して行くということが
一つ必要な條件である、こういうふうな
観点から考えられるわけであります。それからまあそういう問題が
一つ考えられるわけでありますが、その外に
農業の例えば
農業生産力を高めるためには水田なら水田を取
つて見ましても、或る
程度機械を入れて行くということはどうしても考えなければならない條件だと思います。この機械を入れますためには現在のような細分化されておる
耕地の
状態ではなかなか機械を入れることは困難であるということから、何よりも
交換分合の必要ということが強調されていいと思います。それから同時に機械を入れるといたしましても、これはまあ傾斜地なんか入れられなくても、少くとも平坦地なら入れられると思いますが、そのためには水利設備を非常によくして置いて、少くとも機械を入れるためには水を落し得る條件を作らなければならないということで、そういう水の條件ということはそこにも若干関連をいたして来ると思います。それからもう
一つ重要な問題としましては、相当大きな機械を
利用するといたしましたならば、この機械を効率的に、能率的に
利用するためには必ず一定の
面積というものが必要にな
つて来るわけであります。これは技術的にはいろいろな
計算があるわけでありますが、例えば岡山あたりで使われている自動耕耘機を一台能率的に使うためには約十
町歩の
土地が必要である。或いは十
町歩の経営というものが必要であるというふうに言われております。これは自動耕耘機
一つ……。自動耕耘機だけではなくて例の今
農村で盛んに使
つております脱穀調製機でも、実際は十
町歩ぐらいの経営で一台という割合で使うのが最も効果的であるという
計算が出て来るわけであります。
従つてそれを
日本の一
町歩にも足りない
農家が個別的に持つということば非常に不経済である。不経済であるのみならずそれを
農家一軒ごとに持たせるならば、
農家にと
つて過重な負担にな
つてどうしても維持できないということにな
つて来るのは必然の結果である。そのためにどうしてもここで考えられますことは、国家の
政策として例のソ連でや
つているMTSのような形、つまりトラクター・ステーシヨンのようなものを考える必要がある。ソ連の場合はコルホーズを作り上げるための
一つの挺子にな
つているのでありますが、
日本の場合は必ずしもいきなりコルホーズを作るとかいう問題に持
つて行く必要はないと思いますが、少なくとも国家の力によ
つてそういう農具の共同
利用という問題を考えて、それを解決して行くということが
日本の
農業の技術的改善を図
つて行く上に必要な條件じやないかというふうに考えるのであります。一方ではそれと同時にいろいろなそういう機械化以外の
栽培技術なり、或いは薬剤その他の技術なり、そういうものも進めて行くということになれば、私は
日本の少なくとも
米麦作というようなものの
生産力をもつと高めることは技術的に可能であるというふうに考えるのであります。ただここで私は当然の疑問として出て来ることは、そういうふうに労働の
生産力は成る程高まるに違いないけれども、労働の
生産力を高めるということは、反当收量が低下するということをもたらしはしないか、反当收量が低下するとすれば、先程申しました
国内の
食糧自給という問題と衝突しやしないかという疑問が
一つ当然出て来ると思うのであります。もう
一つは一方でそういうような労働の
生産力を高めるという技術を採用して行くことは成る程いいとしても、それでは
農家の
人口負担力というものが減
つて来て、つまり
失業人口がますます殖えるということになりはしないかという疑問が当然そこから出て来るというふうに思われる。併しその問題は私は決して解決不可能な問題ではないというふうに考えておるのでありますが、先ず第一にこの機械化をするとか、それから
農業にそういうふうに、米作なら米作に直播とかその他の新らしい技術を採用して行くということによ
つて、果して反当收量が落ちるかどうかということも私は相当疑問だと
思つております。少なくとも岡山あたりで現在出ておりますデータから判断いたしますならば、私は必ずしも反当收量はそれ程落ちないだろう、むしろ場合によ
つては、これは條件によりますが、殊に水のかかり方の割合惡いような
土地では直播をした方が反当收量は高まるというデータも出ておりますし、こうして行
つて反当收量がそれ程減るという心配はないのじやないかというふうに私は考えるのであります。併し仮に反当收量が或る
程度減るといたしましても、私はこれをそういうふうにして一方において米作なり麦作なり、そういうものの労力を省いて行くことによ
つて、
農業経営をもつと多角化して行くという問題を考えると、
食糧の問題は先ず解決できるのじやないかというふうに考えられるわけであります。と申します
意味は、先程も
近藤先生もおつしや
つたと思いますが、
日本の
食糧というものは無論
稻作を全部廃止してよいというようなことは言えないわけでありますが、併し従来の
日本の
農業というものが余りにも
米麦作に片寄り過ぎているということは否定できない事実であります。実際水田を例にと
つて考えます場合に、毎年毎年表を作り、米を作り、麦を作る、こういう形で水田を作
つて行くということは、つまり同一の
土地で常に禾本科の植物だけを
栽培して行くということは
土地の條件を非常に惡くする、地味を非常に痩せさせる原因だと思います。
日本の
農業の反当收量というものは従来世界で一番高いというように言われているのでありますが、実際は私は決して世界で現在では一番高いとは言えないと思います。むしろ水田を取
つて見ましても、カリフオルニアあたりの水田の反当收量に殆んど追着かれるか追越されておりまして、それからもうヨーロツパの多少残
つておるイタリーやスペインの水田に比べますならば、
日本の水田は非常に反当收量は低いと言
つていいと思います。これはつまり
土地を余りにも單純に
米麦作に
利用して来たというためであ
つて、どうしても水田にも私は輪作というものを結び付けて行くという
考え方をする必要があるのじやないかと思います。輪作を結び付けることによ
つて一方では私は酪農が可能になるというふうに考えております。それからこの反当收量をそれによ
つて高めることができますから、その代り
作付面積は減るわけであります。
従つて作付面積が減ることによ
つて米なら米の收量というものが反当收量が高ま
つてもカバーできないで、成る程全体として見た米の收量としては減るということはあり得ると思います。併しそれにも拘わらず他方において若し酪農を結合するとか、或いはその外の
農業をや
つて農産
加工を加えて、そうして
農業を多角化して行くという途が開かれるならば、それ以外の
食糧で以て米における穴も十分カバーできて尚余るのではないかというふうに考えられます。先程の
近藤先生の
お話にもございましたが、
日本の
農家の米の
消費量というものは、どう考えてみても或る
意味で必要以上に食
つておるということは事実であります。これも去年の夏新潟県の或るところに行
つて私聞いた話でありますが、或る新潟県の
農家で自動耕耘機を入れて、今まで牛馬耕をや
つていたものを自動耕耘機に切替えて、それからその代り乳牛を一頭飼
つて、それで以て乳を搾
つて自分のうちで飮むようにしている。そうして一年間
計算して見たら、一年間の米の
消費量がやがて半分に減
つたということを言
つていた
農民がいた。私はここに相当重要な解決すべき問題があると思う。つまり
日本の
農民に
動物蛋白を補給して行くということも先程
近藤先生のおつしや
つたように魚をとるのも
一つの方法でありますが、同時に私は
畜産を結合するということによ
つて動物蛋白を補
つて行く。そうしてそれによ
つて主食の従来の穀物の
消費量というものを減らして行くという
考え方をすることは非常に重要なことであ
つて、そうすれば或る
程度日本全体の穀物作が減少したとしても、それを十分にカバーすることはできるというふうに考えられるのであります。
而も、いろいろ話が飛び飛びになりますが、この
輸出能力、
農業における
輸出能力という問題を考えますならば、恐らくは生糸は余り伸びる見込みがないという現状において、それに代るべき農産物の
輸出力を持ち得るものというふうに考えますならば、私は
畜産物の
加工物というもの以外には考えられないと思うのです。つまり言うまでもないことでありますが、
畜産物というものは割合小さい体積により大きな価値を盛り込むことができるという性質を持
つておりますから、
従つて遠くに運搬するためには
畜産物が最も有利な條件を持
つているのであります。運賃が一番少くて済むという條件を持
つております。そこで大体においてどこの国の統計を見ましても、国民の生活
程度が高まるにつれて
畜産物の
消費というものが殖えるということが言い得るわけでありますから、
従つて将来の問題として考えますならば、私は一番
輸出力を持ち得るものは
畜産物であるというふうに考えられます。すでに戰前におきましても、
日本のバターのごときはロンドンの市場まで進出をしていて、而も北欧のデンマークやその他のバターと或る
程度太刀打ちができるという條件ができていた。そういうことを考えて見ましても、私は
畜産物を拡充することはやはり重要な問題ではないかというふうに考えるわけであります。併しそのことを可能ならしめますためには、従来のような水田の技術というものを前提としては私は
畜産の拡充ということは不可能である。という
意味は、第一に従来の酪農経営というものは飼料作物を外から買う。例えば満洲の大豆粕なら大豆粕を外から買う。それによ
つて牛を飼うという
考え方だ
つたと思うのであります。これはつまり
農業経営はそのままにして置いて、その上へただ牛を乘つけて、そしてその牛を外から飼料を買
つて養
つているというだけのことでありますから、それでは
農業経営全部が有機的に結合されてよくなるという條件ができて来ないと思います。どうしてもこれに
畜産を入れる、つまり酪農経営を考える上は飼料作物は成るべく自分のところで作
つて行くという
考え方をしなければいけない。飼料作物を作るところと、水田なり、畑なりに輪作を入れるというところとは一致するわけでありますが、そこで一方で輪作を入れて行くことによ
つて土地の條件をよくして行
つて、一方ではそこでできた飼料作物で以て
畜産を入れて行く、そういう
考え方で以て
日本の
農業の経営をより豊かなものにして行くことが可能になるというふうに私には考えられるのであります。で、そういう方策をどうしても考えて見ることが
日本の
農業の改良の
一つの目途ではないかというふうに私は考えている次第であります。併しそういうことをやりますためにも、先ず
農業自身の方の経営
生産力を高める。そうしてその
生産力を高めることによ
つて農業経営自身の多角化を図るということが必要であります。それは單に
農民の自由な意思に任せて置いて、そして又現在の
農民の経済
状態というものを前提として置いて、そしてその上でただそういうことをやれという掛け声だけかけたのでは到底できない。むしろそれをやるべき
農家自身が相当大きなインヴエストをして行く。そしてそれによ
つて農業を改良して行くという
考え方をしない限りは私は不可能ではないかと考えるわけであります。そういうわけで長期的な
政策として考えられますことは、簡單に言えば、私のアイデアはこういうところにあるのであります。そういう理想的なところへ、今急にはできないにしても段々と
日本の
農業を持
つて行かなければ
日本の
農業の問題は到底解決できないというふうに考えておりますが、それを今度は短期的な、
日本の
農業の現状というものと結び付けて考えて見ますと、その間に余りにも大きな差があるということが事実であろうと思うのであります。御
承知の
通り日本の
農家の経済
状態というものは戰争直後は一種のインフレであると言われて非常に景気がいいように言われていたのでありますが、この言われていること自体には私は多少誇張が含まれているというふうに
思つておりますが、ともかくも併し経済
状態必ずしも惡くない。ところがそれが
昭和二十二年頃から段々と経済
状態が惡くな
つて今や
農業恐慌
状態を惹き起しているということはすでに常識にな
つている事実でありますが、而もそういう
農業恐慌
状態というものはどういうふうにして惹き起されて来たかと申上げまするならば、これもいろいろな理由が考えられますが、私は結局最大の理由として二つの問題を考えることができる。その
一つの問題はつまり農産物の
供出制度、殊にその
供出の
価格が非常に安過ぎるという問題であります。それからもう
一つの問題は租税負担が非常に過重であるという問題だろうと思うのであります。この二つの枠で以て
日本の
農家は非常に締めつけられる。その結果
日本の
農家の生活水準が非常に低下して、而もその低下した生活水準でさへ赤字が出て来るという結果にな
つていると思うのであります。
昭和二十三年を取
つて見ますと、
日本の平均的な
農家、つまり一町二、三反を経営している
農家の実質的な所得というもの、つまり貨幣の価値の変動を除去いたしました実質的の所得というものを、物価指数を斟酌して算定して見ますと、大体戰争前の同じ一町二、三反の
農家の四〇%くらいにな
つているというふうに私は考えるのであります。又
昭和二十三年の同じ
農家生計費
調査というものを調べて見ますと、一町五反までの
農家というものは相当大きな赤字を出しているという結論が出ておるのであります。こういう條件に
日本の
農業が段々と追込まれているという下では、私は
日本の
農業の
生産力がよくなるというようなことは、或いは大きくなるというようなことは到底考えられない。むしろ
日本の
農民は今のような
状態に置かれている限りは生きて行くことさへ段々困難にな
つて来るという條件に置かれていると思うのであります。つまり差当りの問題としては、先ず
日本の
農民に普通の生活が維持できる、而も
農家の中において少くとも
農業経営を段々と合理化して行き得る程の経済力を
日本の
農民に與えて行くということが差当
つてなされなければならない
政策であるというふうに考えるのであります。それは
従つて今の
日本の
農家を圧迫している一番大きなものが
価格の問題と租税の問題であるというふうにいたしますならば、この
価格の問題及び租税の問題をどうして解決すべきであるかということが差当
つてのつまり短期的な
農業政策の眼目になるのじやないかというふうに私は考えるのであります。
その差当
つての
価格政策と申しますものは、これは非常にむずかしい問題が他方にあるので、つまりそれは
輸入食糧との
関係という問題が他方に出て来るのであります。現在のところでは先程もちよつと申しましたように、外国の農産物の水準の方が概して高くて、
日本の農産物の水準の方が低いわけでありますが、併しこの
日本の
農業生産力が、先程申しましたように非常に低いわけですが、将来の問題として考えますならば、
むしろ外国農産物の方が安くな
つて、
日本の農産物の方が高くなるという逆の
関係が出て来る。そして外国の農産物によ
つて日本の
農業が圧迫される危險性がますます多くなるという條件も考えられなければならないと思います。そういうわけで、例えば本年度の四千二百五十円という
米価、これが適正であるとか適正でないとか、議論はいろいろあり得ると思いますが、それが若し
日本のその外の條件、つまり
価格の條件や或いは工業における労働者の生活水準の條件や、或いは賃金の水準というものから考えて、四千百五十円以上に
米価を高め得ないという條件が與えられているとするならば、それを併し現在のように直ちに
農民に押付けて行くということではやはり
日本の
農民はますます窮乏して、段々
日本の
農業は衰退して行く以外には方法はないというふうに考えるのであります。まして外国の農産物が
日本のよりも安くな
つてそれが入
つて来る。それによ
つて価格が圧迫されるという條件が出て来るといたしますならば、それを又放置して置けば
日本の
農業を発展させるめどは出て来ないということは確かだと思います。これは結局
従つてその問題を終局的に解決いたしますには、先程申しましたように
生産力を高める以外にはないのですが、差当
つて生産力が或る
程度高ま
つて来て競争力ができて来るまでの間は、私は何らかの形で
日本の
農業を
価格の面からサポートするという
考え方以外には方法はないと思います。それはつまりプライス・サポートの問題になりますが、プライス・サポートも、例えば外国、アメリカの例を取
つて見ましても、最近では非常に拡大されて来ておりますし、例のブラナンの
考え方のように、非常に大きな、十億ドル以上の
予算を組んでアメリカ農産物の
価格を維持しようという
政策さえアメリカで考えられているという時代でありますが、
日本の
農業にと
つてはこのプライス・サポートの問題というものは、少くともここ数年の間は
日本の
農業を考える上に是非とも考えて頂かなければならない問題だと思います。そのプライス・サポートの
やり方をどういうふうにするかという具体的な細かいことは私は十分考えておりませんし、又曾て行われましたような
米価維持
政策というような、ああいう
やり方では私は十分に目的が達せられるというふうには考えられない。むしろああいうふうに市場
関係を通じてマーケツト・プライスというものを一応前提として置いて、そうして国が過剩なものを買上げて、そうしてそれによ
つて数量を調節して間接的に
価格を調節しよう。こういう
考え方のプライス・サポートの
やり方は、これは今のアメリカの
やり方もそうでありますが、こういう
やり方ではもはや目的は達せられないんじやないかという印象の方が強いのでありますが、むしろもう少し直接に、つまり今度アメリカでも考えられて問題にな
つているような、つまりマーケツト・プライスならマーケツト・プライスとして自由な
価格に一応任して置くにしても、それと、それから
農家の例えば一定の生活水準なり一定の所得水準というものを他方で考えて、そしてその差額を何らかの方法によ
つて財政的に埋めて行くという
やり方のプライス・サポートの
やり方の方がより強力であり、より目的を達するゆえんであるというふうに考えます。ともかくもそういう
意味においてプライス・サポートの問題がどうしても差当
つて考えられなければならん問題だというふうに考える。
それから租税の問題としては、
シヤウプ勧告がすでに出ていて、それに
従つて税制改革も進められているわけですが、先程
近藤先生もおつしやいましたように、私は
シヤウプ勧告によ
つては
農村の、殊に
農家の租税負担というものは必らずしも軽くならないという点において
近藤先生と全く一致した
意見を持
つています。のみならず單に軽くならないばかりではない、少くとも
地方的に見れば非常に過重になるという危險性が多いのではないかというふうに思うのであります。と申します
意味は、つまり
シヤウプ勧告の基本的な
考え方として
地方自治を拡大するという
考え方があるのでありますが、そのために
地方により大きな財源を與えるという措置を一方ではと
つているわけです。この
近藤先生のを引用させて頂くならば、この尻から二番目の下にもありますように、
市町村税の
收入というものは約四百億殖えるという
計算になります。四百億というプラスの財源を與えて置いて、そうしてそれによ
つて地方自治を拡大して行こうという
考え方をと
つております。
地方自治を拡大する
一つの例えば現われは、従来この
昭和十五年、もつと歴史を遡れば大正七年まで遡るわけですが、小学校の
先生の給料を国庫が負担するという例の
制度、あれが
昭和十五年に五〇%国庫が負担するという形になりまして、今日に及んで来たわけでありますが、そして
昭和十五年からはあれは
市町村の負担というのが都道府県の負担にな
つて来ましたが、これが
シヤウプ勧告では全く
地方に、殊に
市町村に全部任されて、そうして小学校の教員の経費も
市町村の財政へ任せるという形で現れて来ているのである。その外いろいろの事務が成るべく
市町村に委讓されるという方向をと
つております。併しそれに対して
市町村税の独立税というものが、成る程四百億程殖えるという
計算になります。併しそれだけでは到底この財政均衡を保つことができない。そこでシヤウプ博士が提案しておりますのが、申すまでもなく平衡交付金の
制度であるのです。この平衡交付金というものが私はこれからの
地方財政の運営のための非常に重要な問題をあそこに含んでいると思うのです。つまりシヤウプさんの
考え方は、御
承知の
通り個々の事務について單価を
計算する。そうしてその單価と事務の量とを掛け合して、そうして財政需要というものを算定する。それから一方においては、與えられた税制においてどれだけの租税
收入があるかということを
計算して、その差額が出て、マイナスが出たときには平衡交付金で埋めて行く。若しこの
考え方が十分に実行されるならば、私はそれで問題ないと思うが、ところが実際問題として平衡交付金の算定方法が果して合理的に行われ得るかどうかということが非常に問題である。殊に、例えば
昭和二十四年度において
地方分與税が国の財政、ドツジ財政の必要から削られまして、例の三二・一四%という繰入率が引下げられて一六・二九%かにな
つたということを考えて見ましても、如何にこの合理的な算定基礎というものを一応考えていたとろで、国の財政が逼迫して来るという條件が出て来るなら平衡交付金というものが相当削られる危險性を持
つているというふうに考えるのです。そしてシヤウプさんの
考え方では、
昭和二十五年度における平衡交付金を千二百億というところで抑えているが、千二百億という額をと
つてみても、私はこれで十分に
地方財政が賄えるというふうには到底考えられない。と申しますのは、
昭和二十四年度、これは正確な計数が出ておりませんが、
昭和二十四年度においても国庫が
地方財政に対して與えているものが、分與税を含めて考えて見まして約千三百億を超えるのではないかというふうに抑えられますが、それで又財源が一
部分地方にプラスされたということを考えて見ても、千二百億の平衡交付金では尚且不足するという條件が出て来るような印象を受ける。その場合につまり不足する団体というものは概して申しまして、貧弱な
農村程不足が甚だしくなる。そうして、そうなれば結局独立税が増徴される以外に
收入の途がなくな
つて来る。それは結局
農村地方に租税負担がますます過重になるという結果を生む。
シヤウプ勧告は、勧告
通り計算いたしましても
農家の租税負担はそれ程軽くならないということでありますが、そういう結果を考えますならば、勧告を行な
つた結果、却
つて農村地方においては租税負担が重くなるという危險性さえ相当考えられる。そういう非常に過重な租税負担が
農村にかかるのですが、殊に
農家の租税負担というものを考える場合には是非共考えて頂かなければならないことは、私は、例えば所得税にしても、
農村とそれから労働者やその外の中小工業者というものと同じ税率で所得税をとるということがそもそも無理だと思う。つまり同じ所得の例えば十万円なら十万円というクラスを考えてみても、実際において
農家は十万円が全部現金化していないで、恐らくその六割か七割しか現金が入らない。而もその所得税が十万円という所得で税率が
計算されて、それによ
つて決定されて、それに税金を七万円という現金の中から拂わなければならないということになりますと、全体の
計算としては必ずしも
農家の経済は赤字にならないということであ
つても、現金
部分として
計算すれば必ず赤字になるという
計算が出て来やすいのです。で、現金として赤字ならば
農家としては拂うわけに行きませんから、どうしても借金せざるを得ないということで、それで
農家経済が赤字になる。だから税の性質上
農民とその他の階級というものは当然差別をつけるべきであ
つて、そうして
農家の場合はその税率を軽くして行くという必要がどうしてもあるというふうに考える。そういう
意味で私は今度の
国会でどの
程度この税制改革が行われるかはまだ
承知しておりませんが、少くとも
シヤウプ勧告を文字
通りに受取るならば、私はあの勧告は
農民にと
つては非常に不十分である。あれでは
農家の租税負担の不合理性を緩和することができないというふうに考えております。そこでどうしてもその税の負担の問題というものをもう一度
農業政策の一環として考える必要があるのじやないか。それによ
つて農家の租税負担をもつと軽くしてやらなければ、
農業政策の完全を期するということは到底考えられないということであります。
それから第三に、序でに申上げて置きますならば、
農業金融の問題というものがもう
一つ大きな問題である。先程申しましたように、これから長期的に考えましても、
農業に対する大きなインヴエストメントというものが非常に必要なんです。それが一部財政資金で賄わなければなりませんが、その財政資金が現在では非常に不足であるということは先程申上げた
通りでありまして、これは大きく考えて頂きたい
政策である。併し同時に全部を財政資金で賄う必要はない。何らかの形において長期的な金融の方法というものを考えますならば、それでもいいわけであります。ところが現在におきましては
農業の金融というものは非常にむずかしい條件にな
つておりまして、つまり
農家の経済
状態が非常に惡いということを反映いたしまして、常に
農民の預金が大
部分集まるところの農林中金の資金というものは、短期資金の需要さえも大分に賄いきれない
状態です。長期資金に至
つてはますます不足して行
つて殆んど零という
状態である。而も
昭和二十三年の後半期だと思いますが、復興金融金庫の融資によ
つて一
部分農村に対して長期資金を與えるという措置が講ぜられたのでありますが、それが復興金融金庫が業務を停止することによ
つて二十四年度からなくな
つてしまい、それに代るべきものとして見返資金
特別会計の資金を融通するということが考えられて来ておるわけでありますが、それが非常に遅れて
農村まで届かないということにな
つて来て、現在では長期資金の供給というものが殆んど零にな
つて来たというふうに考えられます。そのために
農村におきましては、長期的な対策というものが全然行われ得ないという
状態に置かれておるのでありまして、この問題はどうしても差当
つての
政策として是非解決して頂きたい問題だと思う。それを見返資金で賄うべきであるか、或いは特殊の
農業の投資機関、金融機関というものを考えてそこで賄うべきであるか。いずれがいいかということについては私は直ぐには分りませんが、併しともかくもその問題は緊急な問題として是非考えて頂きたい條件であるというふうに考える。殊にその場合にむずかしいことは、
農地改革の結果として
農地の担保力というものが殆んどなくな
つておりますから、それに代るべき担保的な措置というものも考えて置かないことには、金融機関だけ作
つてみてもなかなか
農村に資金が入り得ないという條件が出て来る。それを又どうすべきかということは私によく分りませんが、併し
農業動産信用法というようなものをもう少し整備して、
利用し易いものに変えて行く必要があるというふうに考える次第であります。
まだ小さい問題としていろいろ取上げて頂きたいような問題は幾つも挙げれば切りがありませんが、要するに基本的なものとして、私はそういう線をもう少し強く押出して行くということが差当
つての
政策として必要ではないかというふうに考えます。
甚だ話に整理がつきませんで大変申訳ございませんが、以上であります。