○証人(東畑精一君) 御紹介を頂きました東畑であります。坐
つたまま一つお許し願います。私はどうであろうかとか、どうなるかということばかりやつておりまして、どうしたらいいかということにつきましては極めてまあ、不得手なんでできんと思いますので、今日の折角の
懇談会では余りお役に立たぬかも知れませんが、これは皆様に
日本の農政ということをお考え願う上につきまして、何か材料になること、或いはまあ考え方と申しますかそういう点で一つ御参考になれば非常に幸いだと思つて今日参
つた次第であります。今までの
日本の農政につきましていろいろ問題はあると思いますが、そのうち一つ二つ挙げてですが一つ問題の切掛けといたしたいと思います。それは過去の明治以来の
日本の
農業を、
農業だけを考えないで外の産業と申しますか、工業とか或いは商業、外国貿易とかいうふうな中へ据えて一つ考えて見ますというとなかなか問題が面白い。一番そういう点をよく示しておりますのは農民が一体何人くらいあ
つたかという問題であります。で私はいつも思出しますが、大学へ参りましたのが大正八年でありました。その頃有名な横井先生に開かされた話でありますが、農民の数といいますか、職業として
農業をやつておる連中は明治以来いつも数は変らないのです。こういうお話でありました。幸いにして大正九年に国勢調査がございました。最初の国勢調査でありますが、その国勢調査をやりましたところが、当時の
日本の職業としまして総数が二千七百五十万ありました。人口が五千五百万ばかりだ
つたと思つておりますが、この二千七百五十万の中で男女入れてでありましたが
農業を職業としておる者が千四百万、そういう話を聞きました。ところが横井先生は明治の初年だつた千四百万ばかりだ
つたというお話でありましたが、もうそれを憶えて置けば一生変らないのだと、(笑声)それでいいという話を横井先生から聞いたのでありますが、その後一体どうな
つたかというと横井先生先見の明の通り一つも変らなか
つた。大正九年に千四百万の男女入れて。職業としての百姓がありまして、男が七百五十万ばかりでありましたか、女が六百五十万くらいであ
つたと思います。で農家がやはりその頃五百五十万戸ほぼありまして、大体粗つぽい数字で申しますが、で農地が約六百万町歩と思います。それに千四百万の人間と、家族、働かぬ家族は別でありますが、千四百万の人間と五百五十万戸と六百万町歩、この三つの数字を憶えて置けば
日本は変らないというお話でありましたが、その後一体どうな
つたかと申しますと、十年経ちまして、昭和五年でありますか、昭和五年にやはり国勢調査をやりましたところが果して
農業人口は千四百万であります。一万ばかり殖えたと、(笑声)殆んど同じ数でありますし、農家の戸数も五百五十万、
土地は六百万町歩、ところがその十年間に
日本の職業人口が二百五十万殖えまして二千七百五十万の職業人口が今度は三千万にな
つた。すると一年間に平均いたしますと二十五万人ずつ新らしく職業春が殖えたわけでありますが、これはどこへ吸收されたかと申しますと大部分は商業であります。大正九年から昭和五年というと
日本はこの前の戰争の後のことでありますが、商業人口が殖えましたということと公務自由業というものが非常に殖えました。学校の先生、当時も新制大学を沢山作りまして高等学校なども非常に作りました。或いは新聞記者が殖えるとか弁護士が殖えるとか議員の数もやはり殖えたんじやないですか。(笑声)医者が殖えるとか軍人が殖えるというようなことで公務自由業というものが非常に殖えました。
日本の発展の一つの象徴になつていたわけであります。ところが
農業人口は一つも殖えなか
つた。更に今度は昭和五年から十年を経て十五年に三度目の国勢調査をいたしました。これは余程戰時色の濃いときでありますので、以前とそのまま比較するのは必ずしも正確ではありませんが、そのときの
農業人口というのは千三百五十万ばかりであります。徴用その他の関係で五十万ばかり減つておりますが、大体において千四百万ということが言えると思います。ところが昭和五年から昭和十五年までの十ケ年間に
日本の職業人口が三百万殖えました。三千三百万になりました。平珍一年間に三十万ずつ新らしい職業者というものができたわけであります。そういたしますと、センサスの、この大正九年から昭和十五年までの二十年間の
日本における職業人口は最初が二百五十万、攻め三百万を合せまして五百五十万だけのエンブロイメントというものが殖えたわけでありますが、これは全部
農業以外で殖えておる。あとの十年間に殖えたのは主に工業人口であります。平均いたしますと、二十ケ年に五百五十万でありますから、ほぼ一ケ年間に二十五万から三十万の人間というものが新らしく職業人口として加わ
つたのでありますが、これ以外に尚植民地で職業を得た人があるわけであります。これはまあ別であります。これは或いは七十万と言
つたりしておりますが……。これはとにかくとして植民地を除いた話であります。ところがこの毎年二十五万なり三十万のエンブロイメントの増加というものに一体農村は一つも関係していない。農村は元のままでありますが、農家は相当の人間を産んでいる。子供を産んだわけでありますが、大体産んだ子供は三十万の人間のうちで少くとも十五万の人間というものは農家出である。こう言つても大して間違いでないものと思つております。そうすると
日本は農村で苟くも職業が、働きができるという人間は毎年十五万は少くとも内地だけで外へふり出しておつて、例の千四百万の総数というものを固定させて保つて来たのではないかと思います。これはずつと明治以来そうでありまして、
日本の農村におる人は余り名も上しませんから、百姓は長男がやる、次男、三男は皆外に出て行く。そういう点から見ると現在でもそういうことは分るのであります。議会へ来ると思出しますが、吉田茂氏は次男である。名前からいつてどうか知りませんが、社会党の鈴木茂三郎氏はどうも三男じやないか。野坂参三氏は三男じやないか。苫米地義三氏も三男じやないか、こういうようなことになつて参りまして、兄さんは或いは
農業をやつているのではないか、こういう感じが非常にいたすのでありますが、敢えてそういうお偉い方々でなしに、普通の平々凡々の
労働者というふうに考えましても余程
日本の農村から出て来た人達は多数あると思う。こういう方々が全部外へ出るという形で
日本の農村というものが保つて来たというわけなんですね。それでも
日本の農村というのは先程大槻教授のお話もありましたけれども、
土地は足らん、人口過剰だ、こういう気分というものはずつとございました。ところがその中で今まで
農業政策をやつて来たのでありまして、余程
日本の
農業というものは他の産業の発達ということに貢献したというか、或いは犠牲にな
つたというか言葉はいずれでも結構でありますが、他の産業あ
つたが故に先ず今までの上昇を維持して来たと思います。これは更に別の言葉で申しますというと、
日本の農産物のマーケットと申しますな、苟くも
農業は進捗は少うございましたけれども、明治以来進歩をいたしておるのでありますが、その進歩或いは
生産量の増加というもの、これは非常にその外のマーケット、つまり
農業外のマーケットというものが大きくなつて来たんで、
農業がまあ維持できた、米の
生産量というものもちびちびでありますが、増加をいたして来たということは言えると思いますし、その他果樹園芸であるとか、蔬菜であるとか、或いは先程のお話がありました畜産物のごときは地の産業の発達ということによつてともかくもあることができた、こういうことが層えると思うのです。丁度戦前の数字で申上げますというと、
日本の
労働者の、市街工業
労働者でありますが、或いはサラリーマン、こういう人の家計調査をやりますというと、ほぼその家計消費の三九%から四〇%、いわゆるエンゲル係数でありますが、四〇%くらいが食物の費用になつておる、食物の費用になつておりましたのでありますが、仮にだから
労働者の所得というものが十億でありますと、四億はつまり食物の消費に当てたのであります。五十億あればその中で四割でありますから約二十億くらいが農産物の食物の消費に当てられた。これは消費者が拂う代金でありますから、
生産者に行きますともつと減りますが、当時の
日本のまあ国民所得から申しますというと、約百億から百二十億くらいが国民総所得であります。その当時の農民の所得というのは二十億から二十五億くらい、四分の一くらいが農民所得になつておるのであります。この農民所得が殖えるためには、工業所得が殖えると申しますか殖えても、全部入れても四割であります。更に農民の手に渡るのはその半分くらいになると思いますが、そういう調子でいるのが大体戰前の数字でありましたのですが、その外側のマーケットというものが、ずつと今まで少々のアップ・アンド・ダウンはございましたけれども明治以来連続的にずつと殖えておる、これが
日本の
農業というものがともかくも進歩して来た一つの大きな動力になつておると思うのであります。過去の
日本がそういう調子で
日本をとりまいておるところの他の産業の発達、或いは外国貿易の発達ということによりまして来たんでありますが、経験後御承知のように話がすつかり変りまして、他の産業の推移というものが一体過去のような勢いで伸びて来るかどうかと言いますと、これは余程疑問でございます。現に工業の方は非常に減退いたしておりまするし、それから外国貿易というものも殆んど減退いたしておる、更に加うるに植民地へ今まで人間が多く出て行つておつたのが全部帰つて来た、恐らく七、八十万の職業人口が植民地にお
つたと思いますが、こういう人も帰つて来た、或いは一つの職業軍人という職業というものもなくなつてしま
つたというので、非常に急激に我々はエンプロイメントを求める人間が殖えて来た。それでそういう中でありますからどんどん農村へ、今まで外にお
つた人も帰つて来るということも言えますし、それはともかくといたしまして、もうすでに生れた人間の、先程の数字で申しますというと、毎年少くとも十五万は他所に出てお
つたという農村であります。この人々が外に出て働くという
可能性というものが非常に減退して来た。減つておると思います。新らしく職業を求める人が
日本の過去でいいますというと、今年、戰前は四、五十万ぐらい新らしく職業を求める人があるという計算になつておりましたが、今日はそれが非常に増加いたしまして、何でもいろいろの計算上から申しますというと、今年は六十万ぐらい新らしいエンプロイメントがなければ、失業というものが出て来るという話であります。現に昨年、一昨年あたり二百七十万かの人間が生れておりますが、農家の子弟も半分近いと思いますが、こういう人々が年が二十になれば、昭和四十二、三年、その頃になつて参りますというと、二百七十万の人で健全に育
つたという人は恐らく二百万は少くともあると思います。男女合せて二百万、お父さんが亡くなつてその職に就くという人もありますから、何十万か差引かなければなりませんが、男女入れて恐らく百万近くの人々が職を求めなければならんと思います。ざつとそうなるのであります。
こういうふうに毎年々々職を求める人、その半数は農家の者である。こう仮定いたしますというと、それが今後思うように出て行けないということになりますというと、
日本の農村というものが非常に人口が汎濫して、
土地に対する要求というものが非常に私は強くなつて来るのではないかと思うのであります。それが従来の農政というものを考える場合とこれからの農政を考える場合とにおいて、いろいろ対策の内容ということはともかくといたしましても、考えかの基本にこの問題をおいて頂きまして、一つ案を練つて頂きたいと思います。で御承知のように人口過剰といいますか、職を求める人が非常に殖えて参りますというと、農村の中でいいますと、それに対する働き口、言い換えますならば、農地といろ問題でありますが、農地というのが非常に大事なものになつて来る。こういうわけであります。地価というものは、私は否でも応でも上がつて来ざるを得ない。小作料というものは否でも応でも上がつて来ざるを得ないと思うのであります。現在いろいろ統制で抑えておりますけれども、実際上間価格というものは一体どうなるかということは皆さんの御承知の通りであります。徳川時代に
土地の売買を禁止したことがありますが、ずつと禁止いたしておりましたけれども、その裏をくぐるといろいろな処置というものが随分行われまして、
日本の農地制度というものを相当紊して明治に引継いだことがございますが、私は今のような状況で参りますというと、非常に
土地が高くなつて来る。
土地が高くなつて来るが、若しも
生産上の進歩というものがありませんで、
土地が高くなる、その割合には
生産力が伸びませんというと、人間の値打というものは非常に下がつて来る、現状からいえば……。大体において我々は
生産をするというときに、
生産とは何だと言えば、
土地と資本と労力を結びつけるのだ、こういうことをよく学校で申しますし、現に私共もそういうことを申しておりますけれども、それは非常に抽象的な話でありまして、軍に結びつけるというのではなしに、何を一番中心において経営を立てて行くかという問題であります。そういたしますとやはり社会的に一番少いものを標準にして経営を立てて行く、こういうのが最も普通であります。金はあるが時間がないという人は急いで自動車に乗る、自動車賃を拂つても構わん、時間が惜しいというのだから時間とお金のコンビネイシヨンがそうなりますが、金がないが時間は幾らでも残つておる人は陽気にぶらぶら歩いて行く、お金を成るべく節約して時間は無駄に使うというとおかしいが、時間はそれ程節約しないようにして東京を見物する。金はあるが時間がない人は急いで見物することになります。同じ時間とお金のコンビネイシヨンが二人で非常に違つて参りますが、二人とも各自の事情からいえば当然のことで両方とも実は合理的に活動しておるわけであります。丁度そういうことと同じわけで
農業の場合におきましても、労力と
土地というもののコンビネイシヨンというものを考える場合に非常に労力というものが今申しましたようにどんどん植えて来ます。
土地はそれ程でない。こうなつて来ますと、誰しも
土地ということを標準にして労力は少々無駄に使つても余計とればよいじやないか、こういう形の
農業になつて参りますと、
日本の人間の値打というものは非常に下つて来る。
生産力の低い人間というものは非常に値打がない、こういう形になつて来はしないか。私共郷里の方でよく昔から聞いたのでありますけれども、蚕を飼つておるときに非常に蚕を大事にして自分の子供を大事にしない。家の子供を餓鬼といつて蚕をお蚕さんと言つておりますが、それは別の言葉で言えば、人間の値打がなか
つたということではないかと思いますが、丁度そういうことが過去の
日本にもございましたのですが、今の調子で押して行きますと、更に輪を掛けたような
日本の
農業というものが結局現出して来はしないか。これを非常に憂えておるのであります。丁度イギリスあたりで言う。ポーパー貧民、ポーペリズムとも申しますが、非常に惨憺たる形の世界が現出して来ることを憂えるのであります。そういう好ましくない暗いことを防ぐ唯一の途は結局そういう状況にも拘わらず、人間一人当りの
生産力が発達して来るということだと思うのです。どういう方法で一人当りの
生産力が増すかという
生産的進歩の問題が恐らく今申しましたことを救つて行く唯一の而も最も基本的な方針じやないかと思つております。これは一つどうしても皆さん方に十分お考えを願つて今後如何なる方策においてこういうふうになるということを、このなることを防ぐということを考えて頂きたいと思います。それが一つの今までの大きな問題でございますが、第二に一つ申上げたい問題がございます。
それは先程大槻教授もつよいよいお触れになりましたのですが、過去の
日本の
農業政策というものが
食糧の自給自足と申しますか、これを標準として今まで参りました。或る程度までそれは成功したともいいますし、戦時になつて必ずしもそう行かなか
つたというお話もありましたのですが、ともかくも自給自足の目標を達するということが過去の
日本の農政の一貫した筋金であ
つたのであります。これもいろいろな理由はありましよう。その理由はともかくといたしまして、この政策を採つてお
つたのでありますが、これがなかなか
日本の
農業ということにつきまして、いろいろと問題を提供いたしておりました。それは自給自足ということを特に
日本が先ずやかましく言うようになりましたのがほぼ明治の三十年頃でありました。三十年以前は御承知のように
日本は例えばお米のごときも相当余裕がありました。これを外国へも出しております。明治初年には米と生糸とお茶を三大貿易品と言
つたわけでありますが、多少ずつ余裕はあ
つたのでありますが、日清戦争が終りまして明治三十年頃になつて来ますと、油木の
生産力がそれ程伸びませんということと、日清戦争によつて産業が大いに発達したものですから所得が殖え、
食糧の需要が殖えまして、大体明治三十年頃になつて来ますととんとんになつて参りました。年によると余るときもあ
つたが、凶作でもあると足らんということになり、その頃になつて初めて輸入をした。当時の外米、南京米というものを輸入して、それで以て
日本の
食糧というものは満ち足りてお
つた。その場合に初めてそこで
日本は自給自足を採用した。これは国防上や農民保護というようなこともありますが、ともかく主食だけは
日本で穫りたい。こういう政策を非常に強く採つて来たのであります。併しこれは別の言葉で言いますと、どういうことになるかというと、つまり足らん目の
状態、普通の
状態では食物の供給というものは不足勝ちである。而も
日本は工業が段々発達して来たものだから需要は殖えて来る。これらが足らん目の形に置く結果にな
つた。それはどういうことかと申しますと、外国から入つて来るものを関税で防ぎ、国内の自給自足を多少ずつ足らん目の形に置いた結果、米作産業というものは当時の
農業の大きな部分でございましたが、それは外国との競争も起さず、国内的の一つの独占産業と言いますか、そうい
つた形のものとして
日本にずつとあ
つた。いろいろの国の歴史を調べて見ますと、これ程多数の人間が
生産に関與し、これ程多数の人間が食い、これ程大きな主食の米、これを外国と殆んど絶縁しておるというものは世界にはちよつとないと思います。珍らしい特殊な産業になつてお
つたと思いますが、それがつまり
日本の今までの
農業の根幹であります。米価はそういう意味から申しますというと相対的に他の物価よりむしろ長い目で見ると値段の上り方というものは非常に強か
つた。こういうことが一つであります。
もう一つ重要な点は、
日本の米価というものに関心を持つておるのは農民であります。特に物納小作料を取つておりました地主諸君、自作農というような人々が米価の相対的ないつも足らん目の関係ということに重点を置きまして、できる限りこういう
状態を保ちたい。だから
日本の
農業政策というもりは、米価を維持する。順々に上つて行く米価を抑える、成るべく控えるということでありました。米価はイコオル地価ということであります。地価を擁護する、水田の地価を擁護するという形が
日本の今までの
農業政策の根幹になつてお
つた。それはどういう処置であるかというと、つまり米を足らん目に置く、或る意味において物を成るべくスケヤスな
状態に置く、成るべく少量にして置く、外国から物が入つて来ないようにすることであります。当時の
日本の地主及び自作農諸君の気持を反映したところの政策におきましては、新らしく農地を開発して水田を殖やすというようなことは余り興味を持たず、それよりもむしろ流通的な措置によつて
関税政策、特に豊作のときは米価を引上げる政策、こういうことに終始していたと思うのであります。でありますから、植民地、朝鮮、台湾というものが
日本の領域に入りましたけれども、ここで米の産業を開発するということは、内地の米作産業を侵すものだというので、ずつとそれは抑えて来たというのが実勢であります。併し輸出ができない。安い労賃は別の言葉で言いますというと、
労働者の食費が安くなることが、四〇%近いものを食費に取つて、これを安くするということが、
日本の外国輸出品の
生産費を安くするゆえんだというので、工業の方から言えば、米作の発達ということは非常に望ましいことでありますけれども、
農業的利益という点から言うと、それに余り努力をしなか
つた。結局御承知のように、大正七年の例の米騒動というので爆発いたしましたあの犠牲というものを伴つて、初めて朝鮮、台湾の米作産業の開発ということに、やつと
日本がかか
つたわけでありますが、それまでは御承知のように政友会と民政党でありますが、商工業の方は朝鮮、台湾を開発しろという考えでありますし、農村の方は余りそれに対して努力しない。こういうことであります。で、米騒動によつて、後に朝鮮、台湾の産米増收計画をや
つたというのは、御承知のように当時の民政党であります。つまり
日本商工党というわけであります。でこれは別に非難をする、どうのというのじやありませんので、結局
日本といたしましては、
生産開発的な気持というものが余り農村にありません。地主諸君は勿論ありませんので、むしろ現状というものがいつも特権になつておるわけです。国際上の競争もなか
つたという特権、而もいつも足らん目であるという経済上の有利な地位にあ
つたものでありますから、それを何らかの形で維持するというのが、従来のややもするというと始終出て来るところの農政の基本方針、考え方であ
つたのであります。結局誰がそれじや開発したかと言いますと、仕方がないですから、国内で一般の農家側で開発するということを、余り躊躇いたしてお
つたものでありますから、まあ政府が技術の改良をやる。それを政府の手において農村に奨励するという形で、ずつと今まで来ましたので、農村の中から
生産的進歩、技術的進歩を図ろうという心持が非常に少なか
つた。で、現に御承知のように朝鮮、台湾というものが開発されまして、そこから米が入つて来るようにな
つた。盛んなときは約二百万トン以上も入つて来た。千五百万石も入
つたことがありますが、そうなつて来るというと、だから
日本の海外発展というものは、内地を犠牲にしてやるので、農村というものを弱らすじやないかというので、又それに対しては非常な非難が出て参りまして、今度朝鮮、台湾というものを開発する奴は国賊だというような声も農村の中から出て来る。朝鮮征伐をしろと、こういうような気持も相当にあ
つた。朝鮮、台湾の開発商策というものは、当時ではとうとう抑えてしま
つた、こういうことになります。満洲というものの開発も
日本の内地の農村を侵すものだというので、極力いろいろな意味において満州国の
農業の開発というのは、内地に競争になるからこれを抑えるのだ、こういう形に現われておりました。敢えてこれは食物だけでありませんので、蚕糸業としてもそうなんです。中国の蚕糸業が開発されて来るというと、
日本の蚕糸業が困るじやないかというので、できる限り中国の蚕糸業というものの発展を希わない。我一人独占的な産業を保ちたいというのが、
日本に余程ありました。いわゆる大東亜共栄圏をやりまして
日本が中国へ渡
つたときには、だから中国の蚕糸業というのは、
日本の蚕糸業の競争にならないようにという処置を非常に講じたのであります。よそを抑えたという形において、自分の方を保とうと、こういうイデオロギーというものが非常に
日本の農村の中にあ
つた。雑談になりまして恐縮でありますが、当時たまたま中国の留学生が私のところにおりましたのですが、どうも東亜共栄圏というのは非常にいいけれども蚕糸業を見るといやになる。中国の蚕糸業を抑えるということがどうして東亜共栄圏だ、中国が主体にな
つたらば中国の蚕糸業のために
日本を抑えても東亜の共栄圏になるのかとこういう質問をした学生がありまして、非常にこつちは答弁に苦しんだことがありました。成る程理屈から
行つたらそうだなと言わざるを得なか
つたのですが、ともかくも蚕糸業もそういうわけでありますが、国内の
農業全体について
日本の民間におきましてはスキヤーシテイー・ポリシーとでも言いますか、丁度足る足らい目の程度に全体として置いて置くということがその当時の農村のイデオロギーでなか
つたかと私は思います。それでずつと参
つたのでありますが、別の言葉で言いますというと、生糸を除いて外の外国とは関係がない、こういうことになります。でありますから
日本では重要な食物というものが全く
為替関係ということと直接の関係がございませんので、そのために
日本ではいろいろ面白い現象がある、一番面白い現象は為替ダンピングであります。昭和の五、六年頃から
日本がどんどん為替を下げて行きまして外国へいろいろ物を安くして、円の切下げということによつて売出したわけでありますが、当時のつまり世界は如何に為替を下げても直ぐ国内の物価に影響するから講売力平価というものがじきに成立つのだ、又事実ヨーロッパ諸国ではそうであります。為替の引下げによつて国際競争はやつても一年ら同じことだということになつておりましたが、
日本では為替を今度切下げて輸出価格が安くなりますと輸入価格が今度は高くなるわけでありますが、食物の輸入ということは全然ありません、国内だけで食物というものがあるものでありますから
労働者は
日本でできた米麦を食べ、野菜を食べ、魚をとつておりますというと
為替関係が無縁なものでありますから、為替の変動ということが国内物価に少くともまあ食物では影響を與えませんです。そのために為替を下げればイギリスでは賃金が上つて来る、それによつて
生産費が高くなるから同じだということを外国人は言
つたのでありますが、
日本では賃金というものが為替を下げても元のままにある、上らない、そのために
日本では為替ダンピングというものの効果というものが外国が予想するよりも遥かに挙るのです。
日本では継続した、こういうような現象も
日本では起
つたわけであります。いずれにいたしましてもそういうわけで外国というものと断ち切られてお
つたというところで一つの特徴がありまするが、それは
日本の
農業の
生産的進歩ということについては刺激がつまり別に見えなか
つたということじやないかと思うのであります。それで
日本では全体を通じてわざわざ
生産的努力をする、苦労をして
生産の進歩を図るということは一種の苦労の多いことであります、失敗もあることでありますからそんな面倒くさいことをやらないで、食物を足らん目にして行く、そうなれば米価というものが始終上つて来る傾向にあるのだ、人口が殖えて来れば地価は高くなつて来るのだ、小作料も高くなつて来る、この方が遥かに楽なことだ
つたものですから、いよいよ以て
食糧は国内で自給するのだということを言わざるを得なくな
つたというのが過去の
農業じやないかと思う。それでも内地だけではそういうことができませんので、結局植民地というものへ相当の依存をいたしております。先程も申上げましたように米につきましても多いときは朝鮮と台湾から千五百万石ぐらい来ましたですか、まあ千二三百万石というところですが、砂糖が台湾から百万トン持つて来る、満洲から大豆を七十万トン、八十万トンですか持つて来る、或いは鳥の餌その他百万トンぐらい持つて来るとか、先ず直接の食物及び食物代用物というのですか、飼料なんか入れて四百五十万トンから五百万トン近いものを持つて来て、戰前我々はあのように食つて来た、そういう
農業になつておりました。ところが皆さんに一つり御考慮を願いたいのは今日であります。そういう過去の状況に対して、終戰後どうだということになれば、すでに私共よりも実際にお分りになつておるので、遥かに御承知のことと思いますが、まあ今日のような
状態であります。戰前ですらあのように、食うためには四百何十万トンの物を入れなければならなか
つたというのが
日本なんでありますが、戰前に比べて人口だけでも千二百万くらい殖えている今日において、余程国内で
生産の増加ということをしなければ、輸入ということをですね、私は防ぐことが勿論できない。現にまあ今のような調子で外国から物を入れて来ておるわけです。そこでつまりまあいろいろ今後の問題が起つて来ると思いますが、一体今日においても尚自給自足政策を探らなければならないかということが一つの問題であります。採るにしても過去のようなとり方ということは私はこれはできないと思うのです。成るべく物を少く置いて置くというならば、今日ぐらい少いことはありませんから、港を全部閉じれば問題にならなくなるように、農産物価格というものは上つて来ますので、そういうことは
日本としてはとれない。
日本の
生産の増加ということも勿論努力しておりますし、あるわけでありますが、それでも外国から物を入れなければならんというので、今度は明治三十年から戰前に至る約四十年間とは違いまして、ノーマルな恒常的な意味で外国の
食糧、農産物というものを
日本に入れなければ、我々は相当程度のつまり食物政策ができない、こういうことはまあ常識的に考えても分ると思うのです。これは実は明治以来
日本としましては初めてのことでありまして、あらゆるものが
世界経済というものに入つて今までお
つたのです。主要な国におきまして国内経済活動と貿易活動との割合というものを計算するというと、確かイギリスが植民地関係というものを一緒にすると別でありますが、
日本は世界でつまり最も外国貿易の割合が多か
つた国ではなか
つたかと思つておりますが、一方においてそうであるに拘わらず、農産物においては生糸を輸出するということと綿を輸入するということは別でありますが、国内産農産物においては殆んど外国関係がなか
つたというのが
日本です。まあそれ程偏
つた日本の
国民経済であ
つたのでありますが、今後は否でも応でも何らかの程度において、恐らくは過去に植民地から入れてお
つた数量くらいのものはしよつちゆう入れなければ始末がいかんのじやないか、こういう問題にまあ
日本はぶつかつておる。そういたしますとまあ当然の問題は、従来の
日本の農産物に何らの影響がなか
つた、何らの影響がなか
つたというのは少し言い過ぎるかもしれませんが、殆んど影響のなか
つた外国の農産物或いは為替という問題がありますが、外国の農産物価格が
日本の農産物価格に関係を持つて来るのであります。
もう一つは先程申しましたように、
日本の労働賃金というものが、若しもそのような調子で外国の農産物価格と関係が出て来ますというと、過去のように
日本でできたものだけ食つているのでない。世界的な、つまり農産物価格というものの影響というものが、
日本の今後の労賃というものに影響して来るというのであります。これは
日本の
労働者諸君にとりましても非常に大きな問題だと思いますが、
労働者の問題はともかく別としましても、農村だけをとりましても、
世界経済の動きというものが直接反映して来るのです。生糸のことをおやりになりました方はよく御承知だと思いますが、
日本の生糸価格というものは随分大きく今まで動揺しております。これは世界の景気によつて動揺する直接のものでありましたが、それに性質的には少くとも類似した影響というものを生糸以外の農産物の価格に與えて来る。でどういう処置をとるかということが一つ、又大いに動揺した方がいいというような立場の方から言えば、放
つたらかして置けばいいかも知れませんが、それでは困るということになれば、どういう処置によつてこの問題を処理しなければならんかということになると思う。それで少し本線から外れますが、外国貿易の問題は今の農村として初めての問題になりますが、一層もつと考え直したらどうだということも私は言えると思います。それはどういう点であるかといいますと、国内で今まで自給自足をしてお
つた、これが一つの考えであります。それができないから今度は併しできるだけ自給に努力する、自足はできないかも知れませんが、自給に努力するという考え方がこれは相当あると思います。併しどうもそれも僕は、その考えも一遍反省する必要があるのじやないかと思うのです。それはどういう意味でそういうことを申上げるかといいますと、先程大槻教授も非常におつしやいましたのですが、
日本のような貧乏国になつて、先程も申しましたように、農村に多数の人間が押寄せて行つておるときには、一片の
土地と難も最も有利につまり利用するというのが
日本として大事じやないかと思う。そうしなければ先程申しましたような農村のポーペリズムというものが再び出て来るという心配がありますので、できる限り有利なものに
土地を利用する、有利というものの判断を一体何によつてやるかといえば、これは仮に一切の政策なしということにいたしまして、世界が完全な
自由貿易であるという前提に立ちまして、世界的に最も有利なものを作る、こういうまあ世界的に適地適作をするというような形を一遍考えて見る必要があるのじやないかと思うのです。従来は自給自足経済ということのために、
土地を見れば米を作り、麦を作り、藷を作る、こういうことをしておりましたけれども、米にも適せず麦にも適せず藷にも適しないという
土地もあるが、外のものを作
つたらもつと適するのだ、こういう
土地もあるのだ。況んや米を作るために巨大なる設備をする、こういうことになつて来るとなかなかコストの高いものになる。そういうふうに必ずしも
農業を考えないで、もつと多数の作物というものを考えて世界に市場を求めるという考えで行きますというと、適地適作ということをやる余地というものは相当出て来るのじやないかと思います。まあ人間でいえば、やる仕事は三つより外ない、医者になるか、画描きになるか、労働をするか、こういうふうに或る人間を決めてしまいますというと、医者にも向かん、
労働者にも向かん、画描きにも向かんという人に向かん仕事をさせるといろよりは、それが一番向いているところの学校の先生にするとかというのが、人間の才能をまく使うゆえんでありますが、丁度それと同じでその
土地というものを外のもつと広い見地に立つて有利に使つて
行つたならば、これは国内において直接食物というものの自給度を高めなくとも、間接にそれによつて食物を買つて来るということであれば、間接に供給力を増して来る。それの方が農民本位の考え方でないかと思うのです。由来
日本の
農業の考え方というものは、いつでも全体ということが出て来る。米は六千五百万石必要なのだとか麦は二千万石必要なのだとかいうので、総量ということでいつも問題を扱つて来たのです。それはどういうことかといいますと、單に商品といいますか、
生産物しか考えないから、そういうことになつて来たのですけれども、どこでどういうふうに
生産されて来るかということをもつと考えなければならん。六千万石の米がどういうふうに
生産されて行くかということを考えて来ると、農民の立場というものが出て来るのであります。そういう意味から申しまして、個々の農家というものに対しまして経営技術的に申してもそうでありますし、気候的その他一切の
條件ということを考えて、適地適作ということに方針を求めることは、結局は
日本の
生産力の伸びる途ではないかと思うのです。先程申しましたように千四百万の人間が農村にお
つたときと、先程申上げるのを忘れましたけれども、すでに二千万人近いものが
農業に衣食を求めているという
状態になりますと、余程
農業のやり方も私は変えなければならないじやないかと思う。大体過去の
日本、明治以来の農政というものを考えると、背景は今申しましたエンプロイメントの問題と、自給自足という問題ではなか
つたと思います。非常に抽象的なことを申上げて恐縮でありますが、尚そうい
つた見地から今日の問題、皆様には来年度の予算も審議して頂かなければなりませんし、再来年の年度の予算ということにつきましても、いろいろと御審議を願いたいのでありますが、そういう見地から申しまして、今申しましたような点から若干尚今日私共は問題にして頂きたいという点があります。
それは一つはやはりこれも考え方になりますが、まあ明治以来の
日本のことを考えますというと、大体この
農業的進歩というものの前提がいつもある、どういう前提であるかといいますと、まあ御承知のように、あらゆる意味において治安というものが確立しなければならん、社会治安の確立されない時に、
生産の増加ということはございませんが、社会治安はとも角としまして、
農業の問題にいたしますと、自然治安と申しますか、自然治安というのは言葉が非常に悪いのですが、要するに自然界の善導という意味、自然治安というものの確立というものがなければ、私は進歩の問題ということはなかなか出て来ない、出て来ないし、人間の考える余裕もございませんし、又事実上できないのじやないかと思います。御承知のように支那が非常に自然治安というものが確立いたしておりませんで、黄河の氾濫があるとか、旱魃があるとかいうて、北支那のごときは、しよつ中自然界というものが
農業を掻き廻しておるので、あそこではなかなか発展というものが、問題が起らん、いつでも農民の希うということは、如何にして安定できるかという問題だと思う。自然に対して安定するということは、旱魃を防ぐというならば、井戸でも掘り、或いは疫病が流行するなら、家畜の病気というものを治めるとか、何でも前の恐慌の時代でありますが、国際連盟が調査をやりますというと、支那では養蚕をやりますときに、種が繭になるのが約八%、九二%が病気によつて捨てざるを得ないという調査になつておりますので、支那で一番大事なことは、まあ家畜病院でも作るとか、蚕の疫病を癒してやることではないかしらということを、私は前の大東亜共栄圏の盛んな頃に話をしまして、余りけちな政策だというのでもつと景気のいいことを言えというので、景気のいいことはございませんと言
つたのですが、それは支那の経済の発達というものが、自然治安というものが、実はできていなか
つた、それが根本なのでありまして、
日本も実は随分長いことかかりまして、これは明治以来の
日本の国庫予算ということを見ますと分かるが、苟くも
農業に投じた金の、非常に大きな部分というものは、自然治安の確立という問題であります。もつと端的に申せば、洪水を防ぐとか、治山治水をやるとか、災害を防ぐとか、收穫の動揺を防ぐための灌漑設備をよくするとかという費用であります、その他の費用は種々ありますけれども、僅かのものであります。大きな費用というものはそういうものであります。そういう意味で自然治安の確立ということがなくして、
農業上のいろいろな進歩を図ろうというのは無理なのです。終戰後は特に
日本の自然治安というものは、乱されておる、この自然治安というものの確立ということを一つどうしても考えて頂かなければならん。災害を如何に防除するとか、保險制度を如何に活用するかということで、細かいいろいろな問題がございます。これがまあ第一点でございます。
それから第二点は先程申上げましたように、外国からノルマルに食物を入れまして、現在は御承知のように外国から持つて来るところの食物の値段は、まだ
日本の内地の公定価格より高うございまするが、
日本の公定価格というものも或る意味においてもつと上げて頂きたいと思いますが、不幸にして外国の方は値段が下りつつあるという
状態にありますので、まあ国際価格が段々鞘寄せして来るということもいえますし、将来鞘寄せした以後は、
日本に対しても、今度はいわゆる価格恐慌的な現象ができるかも知れん。こういうまあ問題になつておりますので、御承知のまあ主食の供出制度、或いは
生産割当制度というものがございますがこれを一つ再検討する必要があるのではないかと思います。御承知のように特に昭和……大正十年からでありますか、昭和五年からでございますか、米穀法というものを強行いたしまして、いろいろ農村救済をや
つたのでありますが、それをやること約十年、いつの間にやら今度はその米穀政策というものが、
生産者本位から消費者本位ということになつて来て、米価は余りむやみに上げないという形になつておりまして、今日に至つております。段々
食糧も豊富になつて来る。況や外国との折触が密になつて来ますと、今度供出制度というものの意味は、私は余程変つて来るのじやないかと思います。百八十度今日すでに転換しておるとは申しませんが、そういう時期にもなつて来ると思う。なつて来ますが、これに対して昔の処置ということではちよつと困ると思う。なぜ困るかといいますと、到底
日本にそれだけの昔のような、いわゆる端的な農村救済政策をやるだけの財政的力というものが、
日本にないことが一つでありまするし、もつと重要なことは先程重々申上げましたような
農業を遂行しておるところの
国民経済的
條件というものが非常に変つております。昔のようにただ流通的処置によつて米価を高く買上げるというだけでは、私はノルマルに外国から物が入つて来るときの政策ではないと思う。いずれにいたしましても供出制度、割当制度ということにつきましては、一つ御検討を願いたいと思います。
それから第三條の問題としまして、これは先程申上げましたようにエンプロイメントという問題からいいましても、
農業の
生産上の進歩を図らなければならんのであります。それから第一項で申上げますいわゆる自給自足ということが述べられておりますが、これに対抗して適時適作をやるとか、或いは外国から入つて来るものに対して競争的地位に立つ者は、当然技術的進歩、
生産的進歩というものを図らなければなりませんが、或いはですね、全部これは金融的に、金の方からこれを見ますと、全部そうい
つた指導的進歩というものが長期的な投資ということになると思います。そこでですね一つお願いしたいことは、例の農地改革ですが、農地改革ということは第二次をするとか第三次をやるとか、又終つておるとか終つていないとかいろいろ問題でありますが、第二次の農地改革でも私は終つていないと思う。どういう意味でそういうことを申上げるかといいますと、つまり農地改革が当然庶幾するところの問題の総てに対して、十分の処置が講じてないと思う。その一つは何かと申しますと御承知のように今日のやり方で行きますと、農地というものは担保にならないということへ誰もあの農地に対して金を貸すことができない。こういうふうになつておる。苟くも一国の大きな産業が自分の持つておるところの
生産手段というものに対して、担保力がない、こういうことに今日なつておる。それは元に返して
土地を担保にさせりやいいじやないかと、と私は決して申すのではない。そういう担保力のない大きな産業というものがインフレーシヨンの時代になると謹む長期投資というものはやりませんけれども、だんだん経済が安定しで来るということになりますと、今日
生産的進歩を図ろうというと、どうしても長期投資ということが必要になつて来る。だから長期投資の何らかの代策がなければ、私は第二次農地改革が恐らく終
つたということはできない。あのまま放つて置けば、この大産業に対して担保も自分で提供できない、
従つて金融的措置も何もない、どうもべらぼうな、言葉は悪いのでありますけれども、こういうことは苟くも一国の経済政策としては非常な欠陥があるのじやないかと思います。そういう意味から申しましても、何らかの形において少くとも長期金融、
農業金融というものを
日本の人はやらざるを得ない。これあるが故に又先程も申しましたような事態の中で、
生産的進歩ということが初めて図られるのではないかと思います。私共実は先程も
委員長から御紹介がありまして、農林省の一つの機関としてやつておりますが、残念ながら今日までまだその長期金融の問題につきましては、何らの皆様に御報告申上げるような結果を出しておりません。来年度は、二十五年度は予算的にもそういうことが出してございますが、一つ長期金融の問題につきまして、
農業金融一般につきましても、こういう中において方法があるかどうかという点であります。前に
委員長は或いは御存じかも知れませんが、あの不景気の時分に動産担保信用という金融、それは今法律としては生きている、それから立木ということに対しては、担保の中に問題があると思つておりますが、併し「ぶどう」だとか「みかん」だとか、ああいう永年作物に対しては担保がない。いろいろ
日本の農金金融界には
生産を開発するという意味の金融施設というものは、非常に少のうございます。これは悉く長期金融だと思つておりますが、この点につきまして一つ御考慮を願いたいと思います。
それから第四番目といたしまして、今度
農業自身を非常に進歩さして貰わなければならん、そういう処置を講じて頂かなければならんわけであります。先程お話のございましたように、或いは家畜を余程入れるとか、機械をくれるとか、單作地帯を両作地帯にするとか、いろいろの技術的な問題がございまして、私も余り技術のことに通じませんので、詳しいことは申上げることができませんが、
農業の
生産的進歩といいますすか、或いは技術的進歩ということにつきまして、お考え願いたい点が若干あります。これは進歩といいますか、それを大衆化するというとの問題であります。ちよつと例を引きまして、或いは例が適切でないので悪いかも知れませんが、例を引くとよく分るのであります。私の申上げたいことは、こういうわけであります。従来農林省或いは農事試験場、畜産試航場、そういうすべての方におきまして、いろいろ技術的進歩ということを図つておりますが、こういう場合において技術的に最も優秀なものというのが、いつも推奨されて来るというわけであります。一匹の仮に牛を取りますというと、例えば一年間に五十石の乳を出すとか、或いは鶏でいうと三百六十五卵を生む、こういうものは、成る程優秀な牛でありますし、優秀な鶏に違いはございませんか、そうい
つたものをつまり今までの
日本では求め過ぎたのではないかと思うんです。シカゴの博覧会に、或いはどこどこの博覧会に出品するとか、いいものばかりを以て来たのでありますが、そういういわゆる技術的に優秀なものを一体誰が利用したか、こういうことを考えますというと、小農民はそんなものは使えない。如何に技術的には優秀ではあつても自分では使う立場にない。結局そうい
つた立派な牛というものは專門の畜産家、酪農場、ミルクプラントが使うか、又專門の養鶏家というものがそういうものは使う、こういうことになります。ところが大多数の農民というのは、そういうものは使えない、よ過ぎて……。丁度交通機関で一番いいのは側だと言えば陸上では自動車というかも知れません。それじや自動車を使いなさいといえばこれはなかなか使えない。やはり農民の実情に合
つたというのが足らなか
つたと思うのであります。又考え方によりましては技術的に勝れておるもの、経済的に勝れているものではなくして、農民が使おうとして最も勝れたもの、こうい
つたものを殖やしませんというと、実は進歩が非常に大衆化して来ないということであります。一部の人間がそういう恩恵に浴するということであります。従来の
農業技術の進歩ということに対しての考え方がそうなつている。
農業を
機械化すればいいと、どういう機械があるかというと、こういう立派な機械があるというが、そういう機械を使い得る人間というのは極く僅かである。むしろ大衆化した機械、農具、家畜もそうだと思います。鶏、牛悉くそうでないかと思うのであります。過去の
日本は、古いことを申上げても仕方がありませんが、馬一匹だつてそうだ
つたのです。馬の研究というものも随分やりましたが、皆軍馬としての研究であります。農馬としての研究というものはなか
つたということと稍一本ではないかと思うのであります。
農業経営の進歩というものはこれだけ、聞くところによりますと、
農業技術者というものは七、八万から十万になるというのでありますが、農民でなくして
農業進歩ということに直接、間接携つておるのは約十万近いといわれるのであります。そういう沢山の人が
日本の農民に意義ないということが仮にあるとすれば、或いはもつと意義あつて欲しいためには、進歩を大衆化するということが必要でないかということ、それには抑々勝れたものが何であるかということに対する考え方が、私は少し農民経済の面に至つては宙に浮いていると思うんです。
第五番目にもう一つ申上げて置きたい点は、先程申上げましたように、需給政策ということと、適地適作主義ということですが、適地適作という点でやるときには、敢えて国内にばかり市場を求める必要はありませんし、国内だけの市場は小さいのであつて、世界に向つて市場を求めると、こういう意味のことが
日本の
農業の
生産力を上げるゆえんであると考えますが、そうなればもう少し農産物につきましても、
外国市場の開発ということは
日本としましては、一つの大きなつまりプログラムになるのではないかと思います。これは非常にむずかしいことでありますけれども、従来殆んどこういうことは考えられなか
つたという意味で申添えて置きます。
荒つぽい話を短時間でございますが、その程度で私の話を終えて置きまして、いろいろと御質問に応じてお話申上げたいと思います。