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証人(
池谷半二郎君) 私は
昭和二十二年の八月末から二十四年の九月中旬までモスクワ郊外約十六キロのクラスノゴロスク市と名付けられるところのラーゲルの番号が七十二七の第一
分所、これにおりました。このラーゲルは一名国際ラーゲルとも委し、收容せられておる人々は、私が参りましたときは、無論ドイツ人が主でありました。その他にハンガリア人、ルーマニア人、フインランド人、イタリア人、ユーゴスラビア人、それからポーランド人というようなものがおり、
日本人は約二十名くらい、武部長官であるとか、村上中将、谷塚中将というような方であります。その
分所から約二キロ離れた所に、一つ同じラーゲル番号の第
二分所がありました。これには
日本人が約一千五百名、ほぼ同数のドイツ人捕虜、これが混合して住んでお
つたようであります。私が参りました二十二年の八月頃、当時ハバロフスクの将官ラーゲル、いわゆる特別四五号ラーゲル、これとドイツ人ラーゲル、この二つあ
つたわけでありますが、ハバロフスク・ラーゲルから向うに参りまして、私が一番感じたことは、同じラーゲルでもこんなに給與が違うかということを一つ感じました。というのは、我々が入所してから間もなく、極東方面は相当食糧難でございましたので、将官ラーゲルと雖も食事の量と質において不足である。私共現在はこんな体格になりましたが、当時は監嶽から出た
あとでもあるし、食糧も不足で、夜は眠れぬので水を飲んで寝るという
状況でありますから、将官ラーゲルにおいて、これじや一般ラーゲルは可なりこれよりひどいだろうというので、帶皮を十セントくらい切
つていまいました。それが向うに行きますと、
日本人に対しては
日本人の板前さんがおりまして、これが非常に腕ききであ
つて、我々に調理して呉れる、食糧の量と質において約二倍くらい、それでめきめきと回復して約三ヶ月後には私は一級の体格になりました。これが一つ違
つたように思います。又医療の施設と言いますか、ハバロフスクのラーゲルは、将官ラーゲルはすでに御承知と思いますが、コンクリートの二階建であ
つて、すでに革命前に建てた実に頑丈な外廓で立派なラーゲルで、セントラル・フアイツもありますし、それから便所も水洗である、それから窓も綺麗にな
つているし、いいのでありますが、医務室と言いますか、我々平均年齢六十歳のお爺さんには腰が痛いとか、いろいろな病気がある、それに対する医療施設というものが、我々発出するまでは極めて貧弱でございました。薬も殆んどない。それから診療は杉本と申します陸軍少佐でございましたが、その方が主任で、ソ側の大尉の軍医さんと二人で診療するだけでありまして、医療施設が非常に惡か
つた。医療施設についてはソ側によくして呉れい、歯が痛い人が歯を直して呉れい、入歯をやらせて呉れいという申請をしましたが、なかなか思うように行きませんでした。七十二七のクラスナヤルスクのラーゲルに行きますと、到着した翌日身体検査がありま島て、驚いたのでありますが、実に立派なラザレットがあ
つて、ドイツの捕虜の軍医さんが三名くらい勤めておりました。レントゲンじやありませんが、太陽光線ですが、あんなような光線もあり、歯医者さんもおる。外科主任もおるし、内科主任もおる、休養室も十数名入るベッドも置いてある。誠に医療施設もいいし、薬も相当充実しておる。同じラーゲルでも、これは将官ラーゲルで可成り優遇されたが、こんなにも違うかというような感じを持ちました。次は、我々が出発する前は、ハバロフスク地区においてもそう民主運動、民主教育というものはございませんでしたが、その後
日本新聞あたりで極東の便りを見ますと、相当民主運動が活溌化して来たようでございました。このクラスノゴルスク・ラーゲルにおきましては、我々が行
つたときから、やはり民主グループはできてお
つて、ラーゲルの中の民主グループの人と非民主グループの人と両様でございました。その両様の人は別にそう対立をして、同国人が互いにいじめるというのでなく、一言にして申せば、来る者は拒まず、去る者は追わずという、思想は思想で以て、おのおのその見解が違うから、これは当然である。が併しながら我々捕虜においては同じ同国人であるから、お互いに愉快に、お互いに助け合
つて捕虜
生活をしようじやないか、こういう気持が充溢しておりました。
従つてドイツ人捕虜の我々に対する態度、及びドイツ人の捕虜が、将校若しくはゲネラルに対する態度というようなものには、
ちよつと呼ぶ場合でも……ゲネラルも最初百名ぐらいおりまして、段々減
つて、最後に我々がそこを出発するときには約十名ぐらいになりましたが、ドイツ人のゲネラルを呼ぶにも我々を呼ぶにも必らずゲネラル何々と、頭にゲネラルを付けます。それで非常に民主グループと非民主ゲループとの間が誠に和やかで、思想は思想、個人的
なつき合いは個人的
なつき合いというように感じました。これは私のみならず、外の
方々から或いは
証言をお聞きに
なつたかと思いますが、尚文庫施設、これが非常に我々にはもう頭を……本を読まぬということにはとても堪えられません。ハバロフスク地区においては将官が持寄
つた約三百冊の書籍がありまして、これを
委員を作
つて貸出して、それによ
つて唯一無二の慰安をと
つてお
つたのでありますが、その後聞きますと、ハバロフスク地区においては二十三年の二月頃アクテイヴが来て、勤務員をその方に教育して、爾後その本を全部ではありませんが、大
部分を取上げたというような話でございましたが、クラスノゴルスク・ラーゲルにおいては、約三千冊のドイツ語及びロシア語、英語の本がありまして、それも各種の思想方面の本はもとより、いろいろの小説、科学、それから旅行記、それから経済、各種の部門に亘
つた本があ
つて、ドイツ人の捕虜は、
自分はこの捕虜の收容所にお
つて誠に困るんだが、
自分の一生読めないくらいのこんなに沢山の本を読めることは捕虜として慰め得る、これだけの文庫を
以てこれだけ読まして貰えば
自分としては非常にいいというので、ベンチに腰かけて盛んに本を読んでおるというような、内部の施設において……。併しバラックにおいてにまずいのですが、ドイツ人の例の組織力と、非常に技術の上手な点を利用しまして、
自分で中に水道を引張
つて水洗便所に直したり、大きな木を沢山薪にして持
つて来る、それを人力で挽いたのでは大変ですから、すぐにどこかからモーターを持
つて来て、レールを垂直に立て、その先に尖鋭な斧のようなものをつけてレールを上げてがさつと落して一遍に割る。それから丸の棒を探して鋸で薪にするとか、すぐ工夫をして、「いも」を剥くには「いも」剥き器を作るというわけで、誠に彼らは何と言いますか、機械的に
生活をしておりました。私が二十四年の九月にそこに立
つて、初めて外の方と一緒にハバロフスク第十六地区の第七
分所、これに一週間ばかり置かれましたが、ここでは、このラーゲルの政治部員から、今度来た将官及び佐官、兵は長くはここにおらない。
従つてこれに対して政治カンパをすることは一切嚴禁すると、こういうように我々に対しては嚴禁されてお
つたようでありますが、やはり点呼の際に並ぶ、相当我々戰犯或いは軍国主義者というので、直接カンパはしませんが、まあ聞えよがしにやる。それからも顔をお互いにそむけ合うというように、何だかこちらから近寄
つても伺うは避けちやうというので、空気がドイツ人のラーゲルと比べると非常に違
つているように私は見ました。以上がドイツ人ラーゲルと
日本人ラーゲルとの私が見た差でございます。次に、ハバロフスク地区の将官ラーゲルに如何なる種類の人が残
つており、又これが中共地区に
云々の問題であります。すでに御承知の
通り、ハバロフスクには、我々が出発の際、後宮大将以下三十七名の
方々がお残りになりました。この
方々が收容所出発の前日、收容所長から申されたことは、将官は近く全部
日本に帰す。そのうち三箇の梯団に区分けして、第一班は明日、第二班は明後日、若くは明日、第三班は今月中に帰す。こういうようなお布れででありまして、我々は向うを出発したのでありますが、いよいよナホトカまで所長が送
つて来て呉れまして、所長とお別れする際に飯田元中将が、この前所長はモスコー出発前に、残
つた三十七名は今月中には帰すと申されたが、我々は
日本に帰
つて、そのお留守宅の
方々に今月中に帰えるとソヴエトの所長が言いましたと、こういうようにお伝えしてもよろしいかと、一応念を押しましたところが、所長は、この前そう言
つたが、これは将官の帰国ということはソヴエト政府の
命令によるのであるから、私としては、その時期が今月中であるということは言い得ない。ただいつかは
日本に帰るということは言えるだろう。今月中というのは、ここでは言えないというように回答がありました。残
つた方々がどういうような分類かと申しますと、これは我々が、残
つた方々が尋問される場合に、その尋問室に傍聴してお
つたわけではありませんから、
はつきりは無論分りませんが、いろいろの将官が、本人から聞いたことや何かから想像して、第一戰の部隊
関係で、概る残されただろうと思う者が十二名、それから奉天の
特務機関関係、この
関係で残された者が……。