○
証人(
土岐強君)
証言いたします。その
証言の前に、
只今の
上原証人の
証言について一点だけ申上げたいと思います。
委員各位におかれましてもお分りのことと思いますが、
只今の
上原君の
証言は全く事実と相違しておるのであります。極めて惡意に満ちた断片的な
資料に基いてなされたものでありまして、私はこれを認めることはできないのであります。
第一に
委員長のお尋ねの
大連労組が
如何にして作られたかという点でございますが、
上原証人は
大連労組は
人民政府であるというふうな
証言をして、
労働組合の何たるかを全く承知していないのであります。
終戰後八・一五以来
日本の
帝国主義支配の機構が倒れまして、そのあとで
難民は続出する、工場は閉鎖する、非常な混乱が起
つたのでありますが、この中にいろいろな
団体が自主的に生れて参りました。例えば割合進歩的な
青年諸君によ
つて大連奉仕団というのが生れました。更に旧
大連市の
市長別府秀夫氏を首長にいたしまして旧
大連の
区長を連合いたしました
大連市
互助会という
組織が生れた。又別に元
航空隊員某の
組織いたしました
愛労奉仕団、こういうようなものが五つ六つ続出いたしました。その中に最も民主的な人達で以て
大連日本人民主主義連盟準備会というものが千九百四十五年九月末に
発足いたしました。それぞれの分野において、それぞれの綱領に
従つて活動をなして参
つたのでありましたが、その年の十二月五日でございますが、当時の
大連市
警備司令官カズロフ中将にその各
団体の
代表者が呼ばれまして、既存の
団体はすべて
解散を
命令せられたのでございます。ただ
民主主義連盟準備会のみは
本国政府に照会をした上で
解散か否かを決定するという通知を受けまして、翌千九百四十六年の一月二日に私共呼出されまして、
司令官から
連合国政府を代表いたしまして單に
ソ連進駐軍という
意味ではなくて、
連合国政府代表といたしまして、
日本人の
大連における唯一の
団体として
大連労働組合の
結成が許可されたのであります。その許可に基きまして、従来から
運動をしておりました
職場の
労働者を中心にいたしまして、四六年一月二日に創立の
結成大会を開きました。その席上で私は初代の
委員長に選出をされたのでございますが、それ以外千九百四十七年の三月末まで私は
引揚るまでのことについて
証言をいたしたいと思います。
大連の
労働組合は従いまして單に
労働者の
組合であり、
労働者の
組織ではございますけれども、二十五万の
日本人にと
つて頼るべき何ものもなか
つた時代におきまして、あの地におきまして当然單に
職場の
労働者の
生活の改善、
労働條件の
向上、或いは文化的な
向上、生産の再開に対する協力、こういうことをやるだけではなくて、
日本人全市民の問題についても
労働組合はいろいろな
仕事をなさなければならなか
つたのであります。そのことは、四十六年の一月二十五日はつきり現われたのであります。と申しますのは、この日に
大連の
中国側の市
政府の正副市長並びに各界代表と共に私は
司令官に呼ばれまして、迫り来る
大連の経済的な破綻、これから一般の中日の人民の窮乏を守り、餓死者を一人でも出さないために中国
政府と
大連労働組合に対して協力を求められたのであります。そのとき
司令官は
大連労組は
日本人の唯一の
団体であるから、中国の市
政府と協力して、
日本人の窮乏の問題に対して盡力をして欲しい。こういう要請がございました。この要請に基いて、かねがね我々の
運動を当面しておりました一般の
難民貧困者の救済の問題が二月以来我々の
運動の日程に上
つたのでございます。次に二月から
大連の労組がいろいろ金を
徴收いたしましたが、この
徴收のやり方その他について
証言をいたします。最初に行われましたのは一九四六年の二月から三月の末までに行われた緊急
食糧獲得
運動というのでございます。当時
大連の
日本人二十五万のうち約八万人が餓死に曝されてお
つたのであります。而も中国の
国民党反動派の策謀によりまして、中国の内戰が全面的に開始しようといたしました。
関東州は完全に経済的に孤立する。こういうような
状況下に置かれました。
大連労組は、市民各位に訴え、
職場の
労働者諸君に訴えまして、この貧困者の救済のための
運動を起したのであります。ところが二月の初めから始めました
運動が約二十日くらい経ちましても
大連の旧指導者、旧資産家の諸君から供出された金は僅かに六十万円なにがしという金でありました。
大連の市中に奧地からどんどん入
つて来る
引揚、貧困者、転入者、こういう人達の
生活を維持するどころか正に餓死者が出てもどうすることもできないような状態に置かれたのであります。そこで
労働組合は誕生しても、市内の有産者の諸君の状態なんかはよく知りません。そこで各界の旧指導者の方々に集ま
つて頂きまして、当時の
日本人の窮状を訴えまして、大体千五百万円くらいの
資金が、少くとも三ケ月分の
食糧を我々の手で確保しなければ三月四月五月とこの危機を乘切ることができないということを訴えまして、これらの人々の協力によりましてそれぞれ業種別の
団体に民主的な
方法によりまして割当をいたしました。これらの人々がそれぞれ世話人団を
結成いたしまして、個人別に査定をして、この
労働組合の提唱いたしました緊急
食糧獲得
運動の基金として寄附をされたのであります。この間
労働組合としては何ら強制をした、強奪したというような非難が
上原君から出ておりますけれども、そういうことはございません。ただこの世話人の諸君が割当をいたします場合に、いろいろと個人的な依怙贔屓があ
つたことを承知いたしまして、そのことはこの寄附金が
労働組合に供出をされますときにいろいろ市民の方々から苦情が出まして、
組合としては
実情を
調査した上で、余りに過大にな
つているという場合には訂正をいたして参
つたのであります。こうして集まりました金は約九百二十五万円に達しました。この九百二十五万円で以ちまして、無料給食延べ三万六千人に対してこれを行いました。
難民の收容所を、臨時を合せまして二十一ケ所を経営いたし、五千人の
難民を收容いたしました。更に無料診療所を三ケ所開設し、授産所を三ケ所開設し、或いは養老院を一ケ所、孤兒院を一ケ所、こういうふうに開設いたしまして、できるだけ餓死者の発生を少くして、我々が一人でも多く
引揚に間に合うように、
引揚のときまで
生活が維持できるように努力をして参
つたのであります。更にこの基金の余り一部百十七万円を以ちまして四十六年の三月三十一日に
大連日本人勤労者消費
組合を設立いたしました。これは
大連労働者並びに勤労者、一般市民の貧困者、家族を合せまして十七万人がこれに参加をいたしたのであります。この消費
組合が基礎になりまして、その後ソヴイエト軍から一千五百トンの
食糧の廉価な支給がありました。更に中国の市
政府からは糧食採弁公司を通じて市価よりも遥かに安い値段で莫大な
食糧が與えられ、更に中国の職工総会を経由いたしまして民生合作社を通じまして相当多量の
食糧が消費
組合に流し込まれまして、これを基礎にいたしましてその後の
日本人の
生活を維持することができたのでございます。更に
労働組合がこの
運動を始めまするや、
日本人の間にそのように沢山の餓死者が出、そのように沢山の貧困者があ
つたということを
ソ連当局が知りまして、当時
大連ドツクの監督官をしておりましたジヨルトフスキー監督官は、直ちに
日本人の
労働者二千名を採用することを申出られました。更に埠頭の監督官、
大連埠頭の監督官は数千名の荷役人夫を
日本人から募集するというふうに申出られた。更に
日本人の婦女子を中心にして、漁網の工場が設立され、
労働組合の
難民救済、貧困者救済の
運動に相呼応いたしまして、
ソ連並びに中国当局の配慮によりまして、
日本人の
難民化が段々防がれて参
つたのであります。これが緊急
食糧獲得
運動と申すものでございますが、第二回に行われましたのは、四十六年の六月から十月に亘りまして、
非常食糧獲得運動というのがございます。これによ
つて集めました金は大体千三百九十万円に上るのでございます。これは三月以降国共の衝突が全面化いたしまして、満洲が戰場になりまして、海上の交通が杜絶する、こういう
状況下におきまして、最早
食糧の入手の見込がない。ますます
食糧が暴騰する、そのために三月末に設立された消費
組合の
食糧の運転基金が枯渇する。非常な窮乏状態に陷
つたのであります。具体的に申上げますと、当時高梁、中国人、
日本人がその当時主食といたしておりました高梁の値段は、三月には一斤七円でございましたが、四月には二十五円になりました、五月には三十二円五十銭、こういうふうに暴騰をして参
つたのであります。そこでこの
食糧を何とかして消費
組合の基金を拡充いたしまして
食糧基金を豊富にしなければならない。ところが、それだけじや足らない。どうしても
各地区
職場において、一般の市民
労働者諸君が自主的に救済活動をやらなければならない。こういう点から
労働組合と消費
組合が共同提唱いたしまして、
非常食糧獲得運動を始め、
各地区に
食糧協議会というものが
組織されたのであります。これは
各地区の一般の居住者で以て全員がこれに参加して、その居住者の中の投票によりまして、或いはその他の
方法によりまして、
食糧協議会の事務局がそれぞれ設立され、これが中心にな
つて自主的に救援活動並びに
食糧基金の増加の
運動が始められ、これが千三百九十万円になりました。これが殆んど全部消費
組合の基金に充てられたのであります。更に同年の七月から十月に亘りまして
住宅調整、中日住宅の調整が行われました。これは
只今の
上原君の
証言では、
労働組合が勝手にや
つたというふうにな
つておるのでありますが、甚だしく事実と相違しておるのであります。同年の七月の初めに私は
大連市
政府に呼ばれまして、中日人の
住宅調整が始めるという話を聞かされたのであります。この中日住宅の調整は、当時中国の人民は太平洋戰争の終結によりまして、一応解放はされておりました。又
大連の主権は中国人民に返還はされておりましたけれども、住宅の面におきましては著しい民族的な差別があ
つたのであります。
日本人は大体平均いたしまして一人当り三疊半乃至四疊を占めておるにも拘わらず、中国の一般の人々は一疊に二人、三人、こういうものが少くなか
つたのであります。而も
日本人は非常に高燥な位置を占めて、町の中心部に住んでおる。一片方は非常に場末の風が吹けば飛ばされ、雨が降れば雨漏りをする、而も補正も十分できていない。こういうような状態に置かれ、中国の一般の大衆の中から
日本人の住宅に侵入するという気配が非常に濃厚である。奉天その他においてはそういう
事件があ
つたのでありますが、この中国の大衆の
要求を捉えまして、暴動化することなく
組織的に正しく中日人民の住宅の調整が行われなければならないというのは、
大連市
政府当局の考え方であります。そこで中日
住宅調整委員会が
大連政府の内部に
組織されまして、これが中心にな
つて日本人二十万の人口移動が行われたのであります。
日本人は大体一人当り一・五疊を原則に定められました。病人或いは特殊な学者とか、こういうものについては二疊程度が考慮されました、こういうふうに行われたのであります。
労働組合はこの中日
住宅調整の
運動に全面的に協力をいたしました。併し
労働組合だけでこれがやられたのではなく、
各地区に
住宅調整協議会が
組織されまして、
地区の居住者がすべてこれに参加してこの
地区ごとにできた協議会が移転先、或いは部屋の割当、これらを自主的に決定をいたしたのであります。
労働組合としては、この過程において、できるだけ
日本人の持
つていた中国人に対する民族的偏見、或いはフアシスト的な考え方、こういうものを除去するような宣伝活動を行な
つたのであります。ただこの調整の過程におきまして運搬の
費用、或いは貧困者が出る、こういうものを調達するために、多少の調整の基金を集めましたが、これは百三十八万円になります。これらは多少残りましたけれども、それはすべて醵出した
地区に返還をいたしまして、その
地区において自主的な救援活動の基金にされたのであります。
更に第四回に行われましたのは、
引揚の
資金でございます。千九百四十六年の十月二十三日、私は
労働組合の代表といたしまして
ソ連軍
司令官に呼ばれました。
引揚が十一月から始まるということを聞かされたのであります。
引揚は
ソ連の責任においてやるが、
費用その他は
労働組合の方で面倒を見て欲しい、こういう要請がございました。ところがその当時
労働組合の集めました、それまで集めました
資金は殆ん枯渇をいたし、二十五万の
日本人を四七年の三月までに全部送還するためにどれだけ
費用が要る、どうしてこの
資金を調達するかということは重大なる問題であ
つたのであります。そこで取敢えず
引揚者の收容所の建設をやらなければならないという問題が起りまして、取敢えず我々はこの四ヶ月間の送還で以て二億円以上の
資金が要るということを予算を立てました。先ず一千五百万円を一般の市民の寄附に仰ぐという方針を立てたのであります。ところがこのとき、先程の
榊谷組の社長の幡谷仙次郎、
大連汽船の船長をしておりました納賀雅友、正金銀行の支店長中西有三、これらの人々を中心にいたしまして、とてもこれだけの
資金を一般に求めることは困難である。だから、一般の有産者から我々世話人が金を預
つて、
内地において
日本政府の法令に
従つて然るべく償還するという約束の下に金を集めまして、これを
労働組合に提供して、それで以て
引揚の業務をや
つて貰いたい。こういう申出がございました。そこでこれを取上げまして、二億一千五百円万の募金計画を立てて進んだのでございます。ところが、十一月の九日の晩に第一回の
引揚者の集合
命令が発せられ、十日に
引揚者は
大連埠頭に收容をされまして、
日本から船が入
つて来るか来るかと待
つておりましたが、一向に来る気配がない。やつとその年の十二月五日に第一般が参りまして、五千名の人が乘船をいたしたのでありますが、その約一ヶ月間の埠頭收容所における主食、副食、その他の給與、あらゆるものはすべて
労働組合が支弁をしなければならなか
つたのであります。この
費用は一般の市民から集めました約一千万円余りの、一千百九十万円になりますか、この
資金で以て充当をした。一千五百万円の目標の中で、一般の市民からはそういうふうな一千二百万円近いものが集ま
つたのでございますが、この
資金があ
つたためにこの一ヶ月間の無料給食が実施されて、第一般の来るのを待機することができたのであります。
ところが、この一般の基金募集の
方法はどういうふうにや
つたかと申しますと、先ず全体として非常な有産者から一般の勤労者、貧困者に至るまで五等級に分けまして、確か一等は五百円、一番惡い五等は百円、こういうものを一応の基準にいたしまして、その基準を基準にいたしまして、寄附を仰いだのであります。その仰ぐ
方法は、それぞれの
大連全市に亘りまして
各地区に
引揚対策協議会ができました。これはすべて
労働組合と一般
地区の居住者で以て
組織されていたのでありますが、この
引揚対策協議会がそれぞれ中心になりまして、個別的に資産の
内容、
生活の
内容、困窮の状態、これを調べまして、この協議会において十分討議された上で、この
徴收が行われたのであります。
更に幡谷仙次郎氏を中心とする世話人団の基金の募集、これは極めて不十分でありました。十二月の初めに僅か五千人の人を送還した曉に、
組合の
手許には僅か千五百万円くらいの
資金しか残
つていない。非常に募集の成績が惡か
つたのであります。そこで当時奉天、或いはその他の地域におきまして、領事館その他が借入金をしておるという話を聞き、更に葫蘆島その他におきましても、
内地に帰
つて一人一千円宛の所持金の持帰りが許される、こういう話でありました。そこで何とかしてこの一人一千円の持帰り金を持帰ることができるようにさせたいと思いましたが、ところが、我々は
ソ連司令部の
命令によりまして、
日本銀行券以外の貨幣、朝鮮銀行券、満州銀行券その他の、或いは
ソ連軍票、これを
内地に持帰るということは禁止されたのであります。ところが、当時
大連におきまして
日本銀行券は僅かに專門家の算定によりますと二千万円しかない。当時の流通貨幣はすべて軍票でありました。而もその二千万円は退蔵されて誰のところにあるか分らない。大
部分が大きな資産家のふところに仕舞い込まれてお
つたのでありますが、この二千万円を全部供出いたしましたとしても、これは到底二十万人は愚か、二万人に一人一千円を與えるに過ぎない。こういう
状況下に置かれたのであります。ただ荷物は一人について百キロ以内という
規定がなされておつのたのでありますが、何とかして
引揚後における、直後における当座の
費用その他を調達しなければならない必要が起
つたのであります。そこで、併し
組合といたしましては
日本政府に連絡する
方法が何らなか
つた。直接的に連絡することは又禁ぜられておる。そこで第一船が帰る、出発をいたしまするとき、当時の
引揚者団体全国連合会の事務局長に宛てまして、私の名前で以ちまして一人当り一千円の持帰り金について
日本政府に交渉方を依頼したのであります。併しその交渉の結果が判明をいたしませず、一方
難民、
引揚の過程における冬がますます迫
つて来る、
難民が続出する、こういうような
状況の下において
組合は……
組合ではありません、
引揚者対策協議会は非常な
資金難に陷
つた、何とかしてこの悲境を打開しなければならないと思
つて、取敢えず
引揚対策協議会の名におきまして、持帰り金預り証というものを発行いたしました。その金は一人について一千円を限度にいたしまして預りまして、この基金を以て
引揚の業務を一方遂行すると共に、この預り証を
内地の税関において
日本銀行券に兌換をして貰いたい、こういう連絡をいたしたのであります。そうして集まりました金が約二千三百八十五万円になるのでありますが、この制度は十二月の終りから翌年の一月の二十三日まで続けられ、二十三日に私は
ソ連軍司令部の呼出しを受けまして、このような証券類の発行停止の
命令を受けて、そのためにそれ以後の発行は停止をせざるを得ない状態に立至
つたのであります。
更に建設
公債の問題がございます。
大連市建設
公債として丁度三千万円が集められたのであります。
上原君は先程一億二千万円集ま
つたと言いますが、これは全く嘘であります。千九百四十六年の十二月十五日、私は
大連市
政府に呼ばれまして、
大連は新らしい建設を始めなければならない。ところが
資金が非常に欠乏しておる。取敢えず市
政府建設
公債三億円の発行を考えておるが、そのうち一億円を
日本人から集めたい、
労働組合はこれに協力して欲しいという申出がございました。私はこれに対しましてその当時の
日本人の
引揚に伴う
資金の問題、更に
引揚に伴ういろいろな窮状を訴えまして、一応これを断
つたのであります。併しながらいよいよ
引揚が始
つて見ますと、
大連の埠頭には五千トン乃至七千トンの大きな船が着く。
日本人は窮乏化した、
難民化したと言いながらも相当の荷物を持込んでいる。而も一方の反対側のロシア町の埠頭では、山東へ帰らなければならない中国の
難民諸君が群集しておる。而もこれらの人々は、百トン乃百五十トンのポンポン船で帰らなければならない。こういうところから、全体として
大連居住者が中日人を問わず窮乏化してお
つた状態でありましたので、
部分的には不幸な事態が起りましたし、又これが全面化する可能性もあ
つたわけであります。
大連市当局はこの点を憂えまして、再三
組合に対して要請して参
つたのであります。そこで
組合だけの力で行うことはできないので、世話人団の諸君と
組合、
大連政府、これが一堂に集まりまして
大連政府の申出を聞いて、ここに
大連市建設募債
委員会、
公債の募集
委員会というものを
組織しまして、戰前の
大連経済会会頭首藤定氏を
委員長にいたしまして、当時の
大連の
日本人消費
組合の事務局長をしておりました石堂君を副
委員長にいたしまして、この募債
委員会が
発足をいたしたのであります。当時我々は一億円と言われておるけれども精の六千万円集まればいいだろう、こういうふうに思
つておりましたが、実際は六千万円は集まらなか
つた。三千万円とかこの
運動によ
つて集まらなか
つたのであります。この募債の基金の
徴收の
方法は、当時元の
関東州庁並びに
大連市が持
つておりました所得税に関する
資料、これを基礎にいたしまして、各業種別、
団体別に一応の個人別の査定をして、その
団体ごとに世話人ができまして、この世話人が直接個人に対して割当てる。但し專門技術者、或いは
労働者、貧困者はこれから除かれる。主として旧指導的な地位にあ
つた人、並びにフアシスト的な帝国主義的の行動をその後も続けておるような人を
対象として選びまして、この人達に
公債の基金を出して頂く、こういうふうな方針で進んだのでございます。その後三千万円の建設
公債は、私共が
引揚げまするときに、日僑
公債管理
委員会というものを作りまして、前の
大連機械株式会社の專務をいたしておりました森川莊吉氏を
委員長に、当時の
大連病院長その他の人々が
委員になりましてこれが管理され、他日中日の国交が再開された場合においてこの基金は利子と共に協力した本人に返される、こういう建前で進んだのであります。その後昨年、一昨年
引揚げて参りました人達の話を聞きますと、
大連市
政府は確実にその翌年から利子その他を支拂
つておる。その利子で以て残留
日本人の子弟の教育費が支拂われておるということであります。この建設
公債の割当に関連をいたしまして、この一月から三月までの
引揚費用並びに
引揚者の救援の
資金が集められました。これらは大体二千万円以上に上るのでありますが、その他に
労働組合、消費
組合、或いは
引揚対策協議会だけの直接の救援その他では間に合わない
地区におきまして、自主的に合作社を
組織し、消費
組合の各部の連絡をとりまして合作社
運動が展開されたのであります。この合作社
運動を通じまして、大体述べ六十万人の
日本人の救援が四十七年三月末までに実施されたのでありますが、これらの合作社の基金は、
組合本部に報告のありましたものだけで約九百万円、その他報告漏れのもの推定五百万円くらいを入れまして、一千四百万円余りくらいになるのであります。その外いろいろ
引揚に伴なうところの給食料或いは收容所までの輸送料、これらを入れまして大体
引揚に要しました
資金は一億三千三百万円になります。これは予算より非常に減
つておりますが、この減
つた理由は、四十六年十二月五日からすべて收容所内における給食は
ソ連政府において受持つということになりましたためであります。これらの
組合が特收いたしました
費用を合算いたしました合計二億二百四十七万三千円になると思われるのでありますが、そのうち、三千万円は
公債の募集金であり、更に三千万円は剩余として残りましたその中の一千万円を、残留者に対する救援とそれから
引揚軍人の援護のために使いました。私共が帰るときには、二千万円の基金が残
つたのであります。この二千万円の基金は、残留を要請されました一万人の
日本人同胞によ
つて組織されたその後の勤労者
組合の経済部に引継がれまして、その残留者の
生活の援護に役立
つておるのであります。大体以上申し上げました。