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証人(菅季治君) 昭和十八年の十一月に召集になりまして、一番初めに北海道の帶広の北部第九一部隊、これは高射砲の連隊であります。それから初年兵時代は北千島幌筵におりました。昭和十八年の三月幹部候補生の試験に合格しまして再び北海道の帶広に廻り、三月から七月まで帶広で幹部候補生の教育を受けました。昭和十九年の七月から昭和二十年、一九四五年の一月まで千葉陸軍高射砲学校で学びました。昭和二十年二月高射砲学校を卒業しまして、見習士官として満洲鞍山にありました満洲第一二二四部隊、これは正式に言いますと野戰照空第一大隊、ここへ赴任しました。そこで小隊長をや
つておりまして、昭和二十年の八月に入りましてから、部隊が奉天に集結を命ぜられました。そうして奉天に集結しまして、そこで停戰になりまして俘虜になりました。昭和二十年の九月の末だ
つたと思いますが、これは正確でありませんが、奉天の皇姑屯という駅から列車に乘りまして、そうしてソヴエト同盟に入りまして、中央カザツク共和国カラカンダ市に到着したのは昭和二十年の十一月の初旬、多分五日頃だ
つたと思います。それからずつと私は一九四九年の十日までカラカングにおりました。その間主として通訳をやりました。ロシア語は京都の大学院のロシア語講座に出まして初歩を学びました。あとは独学であります。俘虜生活をもう少し‥‥。大体主として通訳をや
つておりました。政治教育と私との関係についてちよつと述べさせて頂きます。一九四七年の七月頃、その頃はもうすでに
日本新聞で
相当政治教育も宣伝されておりました。又最も遅れていた地方の
一つと言われたカラカンダ地方においても、いわゆる民主運動というものが各收容所に起りまして、民主グループもできて来たのであります。私の一番初めおりました收容所は、一般にカラカンダ地区は全部は九十九地区と呼ばれておりましたが、初めにいましたのは第十一分所であります。
一つの分所には大体千人ぐらいの俘虜がおりました。第十一分所においとも民主グループというようなものを作ろうではないかというような機運が起りました。ソ連の收容所の政治部将校も、なぜ我が收容所だけが民主グループができないかというようなことを言いましたし、部隊長の少佐の方も、体裁上一応作
つて置かなければならないのじやないかというので、菅君、君は哲学もや
つているし、いろいろ思想問題も知
つている、だから何か
一つ組織してや
つて呉れ、こういうふうに言われました。それで、私は民主主義という名前もその頃出すのは憚られる
状況でありましたから、政治経済研究会というものを部隊長と相談して作りまして、そこで政治経済研究会の
責任者として、外の和歌の会とか、麻雀の会など娯楽の会と並んで、そういう会の
責任者にされました。初め会員は五、六十人おりましたけれども、私は二ヶ月間ぐらいの間に恐らく四、五回講演をやりました。世の中の移り行きというような題で、人間社人の歴史を話し、民主主義ということについても関連して
お話ししました。ところが五六十人初めいた会員が、二ヶ月くらいの間に五、六人に減
つてしまいました。そのことは政治部将校にも知られまして非常に叱られまして、お前は反動であり、ブルジヨア観念論者であるから、こういうことになるのだ。本来ならばもつと殖えるべきである、ところがそれが減
つて行くのは、お前が邪魔するからだというので作業所に廻れといたと作業所に出されました。それ以後作業所の通訳として、通訳の仕事がな四ときはみずから肉体労働に従事しました。一九四八年の後判からカラカンダ地区においても民主運動というものは非常に活溌になりまして、收容所の模樣も一変しました。一九四八年の後半から一九四九年の初めにかけては、各分所ともすかつり民主化されて軌道に乗
つていたわけであります。一九四九年の二月に或る青年代表の会議がありました。その会議において、その当時第十一分所というものは一九四八年の十月頃解散になりまして、私は第十六分所におりましたが、第十六分所の会議代表が、この頃の会議はどうも通訳がいなくて困る、だからして僕にな
つて呉れと言われまして、その青年代表会議の私は通訳をしました。その頃カラカンダ地区におきましては、軍事俘虜と抑留者というものが区別されておりました。満鉄とか、特務機関に勤めていたところの優秀な通訳は、特別收容所第二十九分所という別の抑留者ばかりの收容所で取調を受けておりました。それで軍事俘虜の間には通訳の優秀な人がいないというので、私は独学でありましたが、その頃相対的に優秀でもあり、政治、文化についての話は幾らか心得があ
つたわけであります。その二月における青年代表会議において通訳をしましたところ、その会議に臨んだところのソ連の政治将校は私の通訳を認め、その場に臨んでいた
日本人の政治活動をや
つておりました民主
委員、工作員と言われていた人達にも認められまして、二月に私は收容所本部附の通訳として各收容所を廻
つて欲しい。收容所には政治文化に関する通訳が非常に必要であるということを言われましたが、收容所本部の見解として、收容所本部通訳として捕虜を採用するわけには行かない、ですから捕虜の間の講師という名目で各分所を廻らせようということで、私は講師という名目で廻
つておりました。政治活動を主として担当するところの工作員というものは別におりました。けれども、
一緒に行動しましたために、或いは工作員と私を思
つた人もあるかも知れません。又私は政治的関心は自分
自身としては持
つていませんが、やはり哲学をや
つておりました関係上、
方々から形而上学と弁証法とはどう違うか、或いは社会主義リアリズムということが
日本新聞に載
つているが、あれはどうなんだという質問をしばしば受けました。そうした問題と関連して話を要求されたこともあり、話をしたこともあります。それから一九四七年三月から講師という名目で各分所の通訳をして廻
つておりました。第九分所というものは收容所本部に近い、交通の便がいいというので、私は三月から第九分所に移りました。いつも第九分所に起居していたわけでなく、各分所を廻
つていたわけであります。それから一九四七年の十月十日頃、私は帰国の命令を受けてカラカンダを出発しました。そうして十月の下旬にナホトカに着き、ナホトカに一ヶ月滯在して、十一月二十一日東舞鶴に到着しました。大体以上であります。