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証人(
尾ノ上正男君) 今求められました三点に亘りまして、要点だけ簡潔に申上げます。
最初のお尋ねは、国際法の見地から見て、私が体験しましたところのソ連における俘虜取扱の諸問題が如何であろうかというお尋ねであ
つたと思います。これは非常に大きな問題でありまして、又いろいろ
資料も集積しましてお答えしなければならないことであると存じますが、私も正式な学者の報告として、日本国際法学会を通じて世界国際法学会に報告する
任務を持ち、それを覚悟しておりますが、簡單に今まで考えましたことを申述べてお答えとする
ごとにいたします。
先ず第一番目に人事の取扱であります。これは戰時中の俘虜におきましても、俘虜を手に入れまして、そうして後方の然るべき場所にこれを落ちつけた場合には、二週間以内にこれを俘虜情報局を通じて相手国政府に通報するのが義務にな
つております。帰りましてあわただしいのでまだ一九二七年のジュネーヴ捕虜取扱條約というものを細かく見ておりませんかち、若干間違いはあるかも知れませんが、大体そういう工合に記憶いたしております。それにつきまして、私も入ソしましてからロシア語を知
つておりました
関係で、ソ連軍
司令部の人事を手伝いました。その手伝いましたときの私の感想は、少くとも受入れたところの人員の名簿は彼らの
手許で作成されてお
つたのを私が見、又且つ手伝
つて参りました。
従つてそれらは戰争の終了しておりますことでありますから、ソ連の外務省を通じてマッカーサー
司令部なり、或いは日本外務省に通告されたものであると私は信じて参りました。併し今回帰
つてみますというと、それすらもや
つていないということは私を非常に驚かせました。それからその次には、同じ人事でも重要心のは、捕虜が死亡した場合、この場合も遅滞なく戰争中と雖も相手国の政府に通報するということが、これ又重要な規定にな
つております。これは捕虜というものは戰場において捕獲せられて後方に転々する。非常にその生命の帰趨というものが危ぶまれるものでありますから、国際條約はこれについて嚴重な規定を置いておるのであります。私もアングレンに着きまして、約二週間いたしまして徳留四男という鹿兒島の人間が死にました、そのときの
手続を私が日本側を代表していたしました。私はそのときに念を押しまして、日本では遺骨を持
つて還る習慣にな
つておる。であるから遺骨をとることを許して欲しいと申しましたらば、向うの
司令部の人事係をや
つております少尉が、これはモスクワに通告せられて、そしてこれは日本外務省に必ず報告される、だからこちらの方で遺骨その他を準備する必要はない。周そのときに遺品があれば併せてこれを送るから、その遺品を出して呉れということの話でありました。私はその
程度のことは勿論やるべきであり、や
つて呉れるだろうと私は考えましたものですから、部隊に帰りまして部隊長に言うて、そうして写真、それから財布、そういうものを用意しまして、荷日本文で以て死亡診断書並びに本人の本籍その他を記載した書類を一まとめにして、その人事係に渡しました。同時に万一のことを思いまして、密かに遺髪と爪とをとりまして遺骨を作り幸した。これも私は少くともそのくらいのことはや
つておると信じまして、又私の側において私達のなすべきことをや
つてソ連に引渡しました。大体その後我々の同胞が死にますというと、向うの收容所におりまするところの人事係がいろいろ名前、本籍その他を調べまして、そうして
司令部に持
つて帰
つておりました。私はこの点を少くともなされておると信じておりました。が併し今回借りて参りますというと、それが一つもなされておらない。全部はともかくも、一部すらなされておらない。日本側にソ連に入りまして一人も死んだという者が明らかにされておらないという事実は、私を非常に驚かせました。まあそういうことが人事の点に非常に大きな国際法違反であると、私は自分の学者としての
立場から断乎として私は申します。
それから我々が課せられたところの労働であります。これはちよつと私一見したのでありまするが、モスクワで印刷された捕虜管理局の局長の名前を以て日本文の捕虜取扱規定というものが出ており、これは私が捕虜の收容所においては如何なる情報によ
つて、如何なる規定によ
つて捕虜が取扱わるべきであるかということを掲示するのが、これが国際法の規定である、そういうものが必ずある筈である、それを見せてくれと申しました。やかましく申しました。たびたび申しました。やがて六ケ月ばかりしまして印刷物が来ておるから見に来いというので見に参りました。厚い書類の中に綴じ込んであるやつを約一枚の……この紙よりはやや広く、立派な日本文で印刷してあります。それを半分見せてこれがそうだと言う、私は手を突込んでどういう形にな
つておるかというので一番しまいを見ました。それはモスクワにおけるところの捕虜管理局局長、名前は大佐にな
つております。階級が低いなと私は思
つたのでありますが、それに捕虜の取扱規定という名目で載
つておりました。僅か私が読むことを許されたのは五分程で、その中で私は大急ぎで目を通し相当記憶して
参つたのでありますが、今日その大部分を忘れてしま
つて誠に残念でありますが、その第一條に、捕虜はあらゆる労働に従事するものとす。という條項がありました。これは私は、我々が課せられた労働というものが、果して国際法の法規上妥当であるかどうかということを絶えず疑問に思
つておる。捕虜取扱規定というものが如何なる規定を持
つておるかということを私は疑
つてお
つたのでありますが、この第一條の、捕虜はあらゆる労働に従事するものなり。という文句、私はこの第一條が忘れ得ない規定であります。で、勿論ヘーグの一九二七年の捕虜取扱に関する條約というものは、日本はこれを批准をしておりません。ですから言い換えますならば、批准をしておらない国家に対しては、この條約の規定というものは適用せられないという学問的解釈も成立するのでありますが、併しこれは、ソ連の管理局長が、二七年の捕虜取扱條約というものをドイツ国に適用したから、日本軍にも適用される筈であるということをしばしば言明しております。これは日本に帰りまして少し
資料を調べますならば、ソ連政府は何かの機会にこれを言明しているんではないかと思います。ソ連自身は調印を批准をいたしております。ソ連側の態度としては、私が在ソ中開きましたものにおきましては、その條約によりている。確かその捕虜取扱規定と日本文で立派に印刷されてお
つたものの最後の項にも、それに近い言葉があ
つたと私は記憶しております。併しこれはその印刷物を今日
手許に持
つておりませんから、若干ソ連側の声明その他についての取調を了してから、この点は確立したいと思います。そういう先ず労働、これはまだ條約集を私は帰
つてから見ておりませんので、確実なことは申上げかねますが、私が今まで記憶しておりますととろによりまするならば、兵は労働に服せしめることができます。
将校はできません。そうしてその兵も、自国の軍隊を必要ある場合に従事せしめることがあるべき作業と同質同等の作業に課することができるというのが規定であります。労働をさせることはできるが、併し自国の軍隊をしてなさしめると同じ
程度の、同じ質の労働を課することができるというのが、これが條約上の規定であると私は記憶いたしております。これは大体記憶が間違
つておらんと思いますが、ところが、それならば我々が課せられたところの労働というものが、この條項に適合したところの労働であるかどうかということであります。これは皆様皆御体験にな
つたと思いますから、私は平明に申上げるのでありますが、あの労働……ですから一応我々が労働に服せしめられたということは、決して條約違反でないと思います。問題はその労働の質と量であります。この質と量については、十分皆さんも、
委員の方はお調べだと思いますから、君は言葉を多く重ねる必要はないと思いますが、私はここで申上げて置きたいのは、いわゆるノルマを課せられて、そして飽までそのノルマを完遂しなければならないというところの義務を持
つたところの労働というものは、これは如何に解釈しても、いわゆる條約の規定するところの労働以上のものであるということを、私はこれ又私の学者としての
立場からこれを断言するのであります。我々が事実、初期におきまして、中期以後におきましてはいろいろの條件で以て我々はみずから克服して
参つたのでありますが、初期約一年半には作業のために倒れて行
つた、それは何であるか、いわゆるノルマを課せられて、ノルマに縛られて、八時間のうちにそのノルマを完遂しなければ更に二時間残業させられる、而も十時間や
つても尚果さないで帰
つて来た場合には、営門の所に立たされて、営門の前の畑を耕さなければならない。又は作業隊長なり作業班長が営倉に立たなければならない。この労働……兵隊はよく申しました、働くのはいいが、併しノルマさえなければと。こういう
考え方の下に行われたところの労働というものは、決してこれは国際法に適合したところの労働ではないと科は断言せざるを得ません。殊にこれは他の地区も同じであ
つたと思いますが、四六年の、記憶ははつきりいたしておりませんが、四六年の春頃から四七年の二月、この二月は間違いありません。約二年間に行われたところのいわゆるパーセント給與というもの、これは御存じの通りだと思いますから簡單に申上げますが、これはその日の作業成績によ
つて給與を引つかけるという方法であります。例えば、この量も後程調べてはつきり申上げますが、例えば一二〇%遂行した者に対してはパン五百グラム與える。一〇〇%を退行した者に対しては四百五十グラム、その代り八〇%未満の者はパン二百グラム、その他の給與もこれに伴う。これを称して我々はパーセント給與と申しました。收容者に與えられた一つの枠の中に入
つた給與を、よく働く兵隊にはよく與え、働き得ない兵隊には與えない。結局併しその枠は決ま
つておる、みんなが同じように食うものを、平均に食うものを、高低を付けるというようになされたところの約一年間のこのパーセント給與というものは、実にみんなを苦しめました。又
日本人としての矜持と
日本人として倫理というものをこのときに失いました。これは労働を強制して労働成果というものを挙げる一つの方法として勿論考えられたものでありまして、同時に
日本人間の倫理というものを少からず破壊したことを私は悲しみます。これは別問題でありますが、これは條約の中に確かに規定があ
つたと思います。その給與の差を付けることによ
つて労働を強制してはならないという制限規定があ
つたと記憶しております。これは今申したように、パーセントによ
つて給與をするということは、これはヘーグのこれを取扱う條約に定められた具体的
事項に明らかに違反しておると私は断定せざるを得ません。労働の問題は申上げれば沢山ありますが、この
程度にいたして置きます。
三番目に給與の問題であります。これを今申上げましたように、條約規定をしつかり見ておりませんから、君の記憶で申上げるのでありますが、この捕虜の給與というものは、その国家の負担であります。これは国家の負担にさせておるのは、これをと
つてお
つても結局それはその国家の利益にならない。働くのは、そういう意味における作業をやらせて、そうして食わすことは食わさなければならん。働かない者にも食わさなければならない。
将校は大体その国の階級或いは自国の軍隊に相当する階級の給料を出す、そうしてこれは後に本国政府から償還できる。
将校は働かない。その代り日本軍の給料か、或いは相当する
ソ軍の給料かを貰う。これは後に日本政府から償還できる。兵隊の給與はその兵隊の負担においてなすのでなくして、国家の給與としなければならないというのが、これが條約の規定であります、規定であ
つたと私は記憶いたしております。然るに我々が課せられたものは何か。これはすでに御承知だと思いまするが、後半の約二年の間におきましては、我我の給與というものは被服、食事、作業一切を含めて四百五十六円要するとされました。我々はその四百五十六円以上働かなければならなか
つた。若し我々が六百円働いた場合には、企業者から給與者がとる金の中から四百五十六円を引くか、或いは六百円といたしますというと百五十円何がしか残るわけであります。その百五十円何がしのうち三〇%を引き去
つて、その七割兵隊に與える。重労働の場合は八五%を與える。これが規定であります。
将校の場合にもやつぱり同様であります。尤も先程申しました
将校に対する労働、これは法上、形式上は強制いたしておりません。ですから私達の方では余り見受けなか
つたのでありますが、今度乗船いたして見て聞いたのでありまするが、ハバロフスクその他の沿海州の地区においては、作業を拒否して頑張
つておられた
将校のいることを知
つたのでありますが、私達の地区では、
将校は全部働きました。私共が抗議しました場合に、それは請願による労働であるということを釈明いたしまして、そうして
将校全般に亘
つて請願書をとりました。この場合に私は
質問いたしました。それならば請願書を書かなか
つたならば
将校は働かなく
つてもいいのかと申しましたら、それに対しては非常に苦い顔をしまして、それならそれでいいと、併しそれに伴うところの不利益というものが随伴するであろうというような言葉で説明をいたしておりました。又事実これが書かれて残
つておりまするが、一九四八年の十月に一緒になりました
将校の中に小野盛、鹿兒島県の人でありましたが、この人は終始一貫作業を拒否して参りました。尤も身体が三級
程度で完全な身体ではなか
つたのでありますが、作業を拒否して参りました。私は非常に面白い実例であると思
つてじつと見ておりました。来まして半年程は営内の、舎内の作業をやりまして、外の作業には出なか
つた。出ません。併し或る時に引張られました。これは小野少尉から私は聞いたのでありますが、一週間程営倉に入れられて取調を受けた。その取調を受けたのが、お前はなぜ働かないか。俺はとにかく
将校だ。誓約書も出しておらない。だからやらないのだ。これには向うも一言もなか
つたので、お前はそれでいい。併しお前は盛んに
将校の間に俺みたいに誓約書を書かないで作業をしない
将校もあるのだとい
つて、暗に他の
将校を唆かすじやないか。これは非常に大きな罪である。刑法第何條かに差障るのだというようなことを
言つて、約一週間寒い時に営倉に放り込んだ事実があります。そういうような給與、これは結局向うの收容所の一つの隠れたる仕組であります。捕虜の
収容所、同時にこれは労働力の供給所であります。而もその労働力の供給所は
自己の、自体の收支決算を持
つておるということで、そうしてその收支計算をプラスを余計にするということが
収容所長の
任務であり成績であり、又は労務
将校の成績であり
任務であり、同時に被服その他を如何に安く上げるかという、これがために自給農場を持
つて、兵隊の余
つた労力で農場を経営する、そこから上が
つてくるものを以てその收容所の四百五十六円の経費を軽くする、こういうようなことをいろいろな面から試みられておりました。又事実これは地区によ
つて違うのでありますが、その四百五十六円以上をすべての者が働いて得たかと申しますというと、なかなかそうでありません。これは地区によ
つて非常に
状況が違うようであります。私自身もタシケントに三ケ月暮しましたが、都会に入りますというと工場労働であります、比較的肉体的な疲労は少い、而も単価がよいのでタシケントに参りましたときは大体全員の七割が四百五十六円以上を働きました。月に五十円なり三十円なり百円なりというものを七割以上の者が
貰つておりましたが、私が
最初から三年半入りましたところのアングレンにおきましては、
最初の一年というものは、誰もがまあ営内勤務をしておるもの、大隊長、副官は、大隊長が大体九十二円くらい、副官が二十四円軍医が二十四円、それから……