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証人(大河原覺君) それでは申上げます。今申しましたように、手短かに話しますと、その村長は、兵団長閣下に頼まれたにも拘わらず、十月三日の日に、これこれだけの
兵隊がいるということを
ソ連側の方に話をしたのであります。それで
ソ連側では、ようしそれならその
兵隊を出せとい
つて、全部集めたところが三百四五十名という
兵隊が集ま
つた。ところが何と昔の甲種合格の、五尺五寸くらいの
兵隊ばかりが集ま
つたので、これは大変だというような形なんです。それでお前の村にもいるだろう、お前の村にもいるだろうとい
つて、三ケ村の
兵隊を全部暴露しました。そうしてこれでは只事ならん、これを騙して集めるというような今考えれば格好なんです。そうしてお前らはここにいた
つて仕方ない、召集解除にな
つたらば北海道に還すからおとなしく集ま
つてくれ、誰でも帰りたいから全部おとなしく集まりました。集ま
つたところが、
ソ連側では、旧軍の自活班があ
つた山の中に全部監禁した、監禁されたのは、
自分らはくやしいから、ようそしれならどうしてもおれは
日本に帰りたいから、
自分らは無理をして脱柵をし、日の中に八ケ月間米は一日一合くらい食べ魚を食べて雪の中に隠れていました。そうして来年の春の氷が流れて初めて北海道に帰る準備をして、五人の
兵隊が船を組立てて漕ぎ出したのが、海岸警備隊に初めて発見されて、そこでお前らは船を出てばこれは越境だ、国境侵犯罪だ、ロシヤの法規に照らせば、国境侵犯罪だから、一年から三年の刑だ、お前らは
兵隊であ
つたからとい
つて初めてそこで三年の刑を貰
つたのです。その裁判を受けたのは
樺太でなくて、千島の天寧にある
ソ連の憲
兵隊で受けたのであります。その捕ま
つたのは五月の二十六日であ
つて、その刑の終
つたのが今年の五月二十六日で三年の刑が満期であります。そうしてウラジオに行
つたのはその年の十一月十三日に初めてウラジオの刑務所に收容されました。そこに四五日いて、
ハバロフスクに一晝汽気車の旅をして
ハバロフスクに九日間收容されました。その次はイルクーツク、シベリスク、セーシベリスク、キールフ、ウオルクタというように大きな刑務所から刑務所へ
転々と送られて、到著したのは十一月の十三日にウラジオに入
つて何と来年の二月九日にウオルクタに到著しました。その間ロシヤ人の罪人と
自分ら
日本人の
兵隊であ
つた刑を貰
つたものがた
つた五人でした。それでありますからもうその罪人連中は食うものが足りないために、
日本人なんか死んでもよいというような形でありまして、
自分らのパンなんというものは約半分で、いろいろな砂糖、魚など配給にな
つても、砂糖は我我には全然食わせないというような自様で、三四名ばかり、あの寒いシベリヤでも、ウラル山脈を越えてしま
つたら七十度……ということにはなりませんが、四十七八度くらいが普通です。そういう寒さですから、八トンくらいの貨車の中に五十人も豚や馬のように閉込められて、貨車の中には下から上まで一寸くらいの霜柱が立
つております。我々五人はこれではたまらん、今日死ぬか、明日死ぬか、
自分らは抱合
つて泣いたこともあります。そうして到着するという二日前には、どうしても
自分らは駄目だ、その日に限
つて温いものが配給されたのであります。それをロシヤの罪人は全部がぶがぶ飲んで我々
兵隊に喰べさせない。どうしてもこれは喰べたい……、もう喰いたいという考えの外にありません。それで食べさせて呉れと
自分が先立ちで言いましたものですから、何を言うというような形で、今のニュームの水を汲む柄杓で叩かれたのが、この頭は割られ歯も一本折せられ現在であります。そうして一応
自分はその貨車の中にもう乘
つてしま
つたです。それから
自分はどうしても家に帰りたい、こんなところで死んでいられるか、死んだ者はそのときにいなか
つたのでありますが、貨車から滑り落して線路の上に投げる、誰も死んだやつがいなか
つたから見ませんでしたが、とうとう一月二日のうちに到着した。我々が仕事場というところはそこは炭鉱地帶であ
つて四十九あると聞いております。そうして小さいところまで入れると七十二あるとロシヤ人は
言つておりました。小さい炭鉱で六千人、大きい炭鉱で二万人くらいは働いておるそうです。それが全部罪人の仕事場だ
つたそうです。そうして
自分らはどういう仕事をしたか、家にいたときにはどういう商売かと、商売を聞かれたために、
自分は農業であり五人のうち一人は機械の技術者であり、或いは電気の技術者であり、二人は別々に分れ、
自分らは炭鉱に属した製鈑工場の仕事に廻されましたのです。そうして二十八日間その工場の仕事をやりましたが、三寸丸太の一間くらいのを担いで歩くことができませんでした。仕事をしなければその働いておる人間の頭のような者に叩かれたりなんかしますから、動かれるだけは動くことは動いておりましたが、二十八日で
自分は完全にのびたです。そうして入院ということに
自分はなりましたです。入院になりましたところが、その
病院のお医者さんであ
つた人は朝鮮人とロシヤ人との間に生れた方であ
つて、その方も刑を貰
つたお医者さんであ
つたです。それで
自分としてはよく面倒を見て呉れたです。お前一人だからよく体を治せというような、言葉は分りませんが取扱
つて呉れましたです。
自分は
病院生活をしたからとうとう二十八日働いただけです。今年五月二十六日まで体が治
つても
病院の方の
病院監視とか、或いは
病院の洗濯とか、
病院からロシヤ人の食堂のコックとかを十ケ月も働いたりして、とうとう五月二十六日まで
病院生活をしておりましたです。五月二十六日に
病院生活が終る二日か三日前に、初めてお前らは刑が終
つた、それで五人が同じ刑でありましたから、人間配給所に五人が集まるわけですが、三人だけ集ま
つて二人が集まらない。どうして集まらないかと
言つておるうちに明日一人が又来ました。聞いて見たところが板倉義晴という新潟県の人ですが、
自分は病氣をして今まで
病院生活をしていたというのです。それからもう一人はどうした、その人はやはり新潟県の人で鹿島義一、鹿島義一は明日にな
つても明後日にな
つても来ませんでした。そのうちにロシヤ人で一人刑を終
つた人がペルシオカに來て、ペルシオカというのは私はよく分りませんが、その炭鉱の人間の配給所だそうです。そしてその若い刑の終
つた人が、お前は刑はいつ終るのだ、明日、明後日でも
つて満期だ、そうか、俺の
收容所にも
日本人が明日明後日終るという奴がいたのだが、
名前は何というのだと言
つたところが、鹿島義一、それはおらの仲間でどうして来ない、その人は半身不随、腰から下は利かない、病気にな
つて今は炭鉱の方の
病院でなくて炭鉱町の地方の
病院の方に入
つて、收容しておるということで、初めてその人が分
つて自分らと行動ができなか
つたのであります。そして四人でも
つて五月二十九日にお前らはいよいよ刑が終
つたという言渡しを受けて、ある
程度の四日間位のパンの
給與を受けたのです。その代り金なんというものは
給與を受けませんでした。
兵隊が付添いしてどこへ輸送するか分かりませんが、朝の暗い中に汽車で輸送されましたのです。その時半日程走
つた時に、又或る刑務所から刑の終
つた方が二人程乘
つたのであります。その時に
自分らのところに
日本の
兵隊が六十名ばかり、
将校二、三名と
兵隊でも
つて働いていたのだが、家へ帰るのだとい
つて今準備をしていたということを聞いたのであります。それを聞いただけでどんどんそこから輸送されて三日程経ち、又もとのシグレルという都の刑務所に送られました。
ちよつと遡りますが、そこの気候は先程どなたか申しましたように半年暗くて半年明るいところです。四月半ばより九月十日頃まで電気は全然要りません。そして今時分は十時頃ほのかに夜が明けて一時半頃は真暗、その間も濃霧がかか
つたようにな
つて薄ぼんやりして殆んど暗いも同然です。そこへ気候の惡いところですから病気のひどいことは夥しい、病人の大半はどういう病気か、みんな栄養不足、栄養失調、或いは胸の病気にみんな冒されておりまして、
自分も入院した、病気は何だというと栄養不良から出て來て胸の病気でまだ完全に癒
つておりません。そんなふうな惡い気候のところであ
つて、あ
つたかい時はどの位の気候か、
日本の三月頃の気候であります。その気候も五月六月七月、九月十日頃には、去年は三寸四寸の雪はもう降りました、そういう気候のところです。そして又前に戻にますが、元のキトルフの監獄に来てキールフの監獄からセーシベリスクの又もとの刑務所に送られました。その刑務所は何と大きいところ、この議事堂のような煉瓦造りの四階建、何万人も收容される刑務所です。その刑務所で五十日程收容されました。その間に
日本の
兵隊に一名会いました。それは僅かな
ちよつとした時間でありましたから詳しい話を聞くことはできませんでしたが、
自分の袖を引くから顔を見たところが
日本人なんです。何だお前
兵隊か、というと
兵隊だ、お前どこから来た、
自分は
樺太の特務機関に勤めていた
兵隊だが、普通の捕慮のように捕慮されるのだろうと思
つていたところが、
自分らは特務機関にいたために十年の刑を貰
つた。
名前は関口という
兵隊さんであ
つて国は群馬県だそうです。それだけ
ちよつと聞いただけで三分の時間が来ましたから詳しく聞くこてができませんでした。そうしてそこに五十日いて、そこから又遡
つて前の、元来たセーシベリスクの刑務所に送られました。セーシベリスクの刑務所からキエミル、そのキエミルに行
つたときに
自分らの
書類はヤッコメンとかパスポールとか渡しませんでしたがキエミルに指定して寄越したようなふうであ
つたのであります。キエミルに行
つた、ところがキエミルからスターリンスクの方へ
自分らは汽車で四人とも輸送されました。スターリンスクの方は
書類を見て先月全部
日本の
兵隊を家へ還したのに、こんなところに
日本の者が来た
つてしようがない、お前ら帰
つて行けというので、レーニンスクに廻わすために又キエミルまで帰したのです。帰してどうしても街へ
自分らを汽車から降ろして呉れない。どうして降ろさないか知れないが、
自分らは降らさない、皆友達は心配して
自分らはどこに行
つても
兵隊はいない、後々に行
つて元に戻るんだろう。そんなことを言うな。今そのうち降ろす人が来るだろうと、
自分は五人の
責任者であるから慰めていたのです。ところが
将校が来て
日本の
兵隊がいたから降ろせ、降して連れて行かれたところは、その街の丁度
日本ならば師団司令部のようなそういうロシアの
将校が百名以上もおられる大きな官舎であ
つたのであります。そうしてそこで初めてその夕から分
つたのですが、お前らはレーニンスクというところに、
日本の
兵隊がまだ家に帰らないで約六千名が炭鉱の仕事をしておる、その
兵隊が八月二十六日に帰ることにな
つているんだから、お前らもそこへやるんだということが初めて分
つたんです。そうしてその翌日
将校が連絡をと
つたと見えて、自動車でも
つて百二十キロの途を迎えに來たのであります。そうして今年の八月の十四日に初めてそのレーニンスクの
收容所は五〇三といいましたが、五〇三の
收容所の門を潜りました。それで初めて
日本の大きな
部隊の
兵隊さんの顔を見たのであります。それが今年の八月の十四日であります。そこで今度帰
つて來る編成に入りました。そうして加
つたときに初めてその問題を聞いたときに、どういう
民主運動をしてお
つたかということが分
つたのであります。その日は連中は日曜であ
つて赤い旗を百旗以上も吹流して
運動会をや
つておりましたが、そのときに
自分らそこの門を四人して潜
つて、これは偉いところに来てしま
つたと静かに言いましたが、何としても仕方ない、家に帰るには何と言われてもはあはあと
言つて帰
つて行かなければ駄目だ。
日本の船に乘るまでは默
つて帰ろう、その前に師団司令部の官舎にいたときに、
将校が
日本新聞、
日本雑誌というものを
ハバロフスクで発行しておるものを見せて呉れた。それを見たときに高砂丸が舞鶴に入港しておるということが
新聞にあ
つて、
引揚者が舞鶴に上陸さして頂けるのだということは前から分
つていたんです。そうしてその中に入
つたときに、お前らは今度我々の中に編成されると決ま
つたからには我我と行動を共にして行かなければならん、反動だ
つたら連れて行かないぞ、汽車だ
つたら叩き落す。船さ乘
つて日本海の中なら船から叩き落してやる。
日本に行
つてからなら鉄橋に叩き落すとい
つた恰好で偉い勢いであ
つたのです。それでも
自分らはそんな監獄生活をして来たので
民主運動は分りませんから仕合せです。
自分らはこうこうこういう訳で暮して来ましたので何らこういうことは分りません。皆さんは正しいと思えばこそこういう
運動をしておるんでしよう。だから
自分らも勉強しますからどうか連れて行
つて下さい。よろしく頼みます。何と言われましても少さくなりまして、左から右から歌をや
つて呉れ、踊りをや
つて呉れ、ああやれ、こうやれ、これをやれと
言つてもとても頭に入るものではない。何といわれても仕方がない小さくなりました。そうして編成に組ま
つて、漸く今度汽車の旅として十三日間
ナホトカまで汽車の旅をしました。
ナホトカへ来て又再検査がありますから、よしここが
一つときだ、何とい
つても我慢しろ、ここで又四人が小さくなりましたが、板倉さんという方はとうとう体が惡いしその方は入院しました。それでその方の家からこの間手紙が来ましたが、その方は十月の十七日の日に
ナホトカの
病院で亡くなられたという戰友からの通知だそうです。そうして
自分らは丁度そこでその検査にも合格したような恰好で、初めてみんなと同じく英彦丸に乘ることができて、九月の二十日の日に舞鶴に上陸しました。私らの四名が通
つて来た経路は只今の
通りであります。