○
証人(
河角廣君) 私から先ず第一に
四国地方の
地盤変動の
実情について申上げたいと存じます。
被害関係のことは一切省かせて頂きたいと存じます。私は
南海地震のありまして直ず直後、この
地震の
調査に
現地に参りまして、一番最初に
高知市
付近の非常に広い
面積に亙りまして
海水が被
つたという
実情を見まして、非常にまあ驚きもし、そのことにつきまして、
調査を特に念を入れた次第でございます。その後三月頃になりまして、
高知県からの以来でもう一度
調査に参りまして、一応
地盤変動の
趨勢とい
つたようなものを調べたのでありますが、一昨年の秋になりまして、
四国地方の
地盤変動の問題が
大分地方においてやかましくなりまして、
中国、
四国地方の
建設局の斡旋によりまして、
四国地方地盤変動調査特別委員会というものが始まりましたときに頼まれまして、その
委員となり
調査をいたしたのでありますが、その際、
地震研究所といたしまして、
地盤変動の実際の量がどの
程度かという問題を特に頼まれまして
調査いたしましたので、それに
関係して
地震研究所における
調査の結果を
纒めて、これから御報告いたしますと共に、
中国、
四国地方の
地盤変動とい
つたものが、昔からどんなふうに行われておるかという、
特徴とい
つたようなものまで一緒に申上げたいと存じます。
昔から
南海地方に起こりました
地震には相当大きな
地盤変動を伴いました。
天武天皇の
白鳳十二年の
地震に「
土佐の田園五十万頃化して海となる」というような記事が
日本書紀に残
つておりますが、五十万というような大きな
数字であるためにいろいろ憶説も生まれましたし、又
記録の
信憑性についても疑う
向きもありましたが、一頃という単位が当時の五坪であること、及び当時
高麗尺というものが用いられてお
つたことから推定いたしますと、約十二万平方キロの
面積に相当する広さであり、
昭和二十一年度の
南海地震に際しまして、
高知市
付近において
地盤沈下が行われ、
海水の
浸水を見た約一千
町歩の
面積とほぼ相ひとしいことになります。又
紀貴之が
土佐日記に記してあります、当時の海が丁度この度の
浸水区域に当たるということからも、この
地域が
白鳳地震によりまして
沈下したのであろうということが想像されるのであります。実際この想像が荒唐無稽のものでないということは、近代に起こりました
宝永、
安政年代の
南海大
地震におきましても、全く同一
地域に同様な
地変が起
つたということから、先ず間違いのないことが推定されるのであります。
次に、
南海地震に伴います
地盤の
変動の
特徴というものを簡単に申上げまして、その
相似性を明らかにしたいと存じます。先ず、
昭和二十一年度の
南海地震に伴いました
地盤変動の大略を申上げますというと、これは大昔から
日本に起こりました大
地震の起
つた場所で、
地震の大きさによ
つて区別いたしまして書かれた図面でありますが、
昭和の
南海地震というのは、この辺に起
つたことにな
つておりますが、この前の
安政というのはこの辺、それから
宝永というのはこの辺とこの辺とい
つたように
二つ程挙げられております。
昭和年代の
南海地震におきまして見られた
地震変動と言いますのは、ここに色分けいたしまして、
地盤が
上昇したところを赤く塗り、
沈下したところは青く塗
つてありますが、大きさは、大体直径は
沈下を比例して書いてありますが、
昭和年代の
南海地震に
沈下したと分か
つておりますのは、
土佐から始まりまして
紀州海岸、
神宮あたりまでは
地盤沈下があり、それから
紀伊半島の
南端から
地盤が
隆起いたしまして、それから白浜の
温泉地帯から田辺の北の
付近が
沈下いたしまして、それから又淡路島から
徳島県の
海岸全般に亙りまして
地盤沈下が行われました。その辺の、これは
徳島県の南の方の
海岸でございますが由岐、浅川という辺では約九十センチもの
沈下が行われたというふうに、その当時
土地の人の話から推定されたのでありますが、それから更に南に参りまして、
室戸岬近くに参りますと、その
土地の人の話によりますと、一メートルも
地盤が
上昇したというようなことを言われておりまして、実際にもその
程度の
地震が分
つたのであります。それが更に西に参りまして
高知市の
付近になりますと非常に大きな
地盤沈下が行われまして、
海水が田地の中に入
つて来たというようなこともあります。
それから同じような現象が直ぐ西の
須崎と言う町の
付近にも、殆んど同じような
沈下が行われて、やはり
浸水があ
つたのであります。それから南に参りますというと、徐々に
沈下量が少なくなり
足摺岬の
付近では数十センチの
上昇が行われて、
清水の港では
検潮記録があり、その結果からも三、四十センチの
上昇がありますが、これについては後程申上げます。それから西の宿毛と言う町の附近におきましては約二、三十センチの
沈下が行われ、ここでは数百
町歩の田が
海水につか
つてしまつたのであります。それから
四国の西の
宇和島では
検潮記録で二十センチかの
沈下があることが分かりましたが、
四国の
北の方面の
調査というものは
余り行われませんでした。ただこの
四国の北の
高松と対岸の宇野とにおいて、鉄道の
関係の方で
調査しておりました
検潮記録から、数センチの
地盤沈下があ
つたということあ
つたのでありますが、こちらの
愛媛県の
調査は
南海地震の後は行われなか
つたのであります。
それからその前の
安政元年の十一月四日、五日の
地震によりますれば、四日にこちらの
東海地方に起こりまして、五日にこちらの
南海地方に起
つたのでありますが、その
地震による
地変をこうして見ますというと、浜名湖の北の気賀というところで二百八十万
町歩の
土地が
浸水したのであります。それから渥美海の
北側にも
沈下が行われました。又伊勢、志摩の方にも、ここにありますような
地点で
沈下が行われたという
記録があります。そうしてその
紀州の
南端潮岬は約一メートル以上、一メートル半くらい
隆起したといわれる、それから
北の方に参りますと、三尺くらい
沈下したという
記録があります。それから
徳島県
建設の
海岸におきましては、やはり
沈下が行われまして、
室戸崎に参りますというと、やはり先程のように
隆起がある。又
高知付近におきましては、三尺四、五寸の
地盤沈下が行われ、やはりこの度の
南海地震と同じように
海中に沈んだのでありまして、西の方の辺においては三尺くらいの
沈下があ
つたという
記録だけで後のことは分かりません。ただ後程申します
愛媛県の
西条付近において、やはり一、二尺の
地盤沈下があ
つたということが伝えられております。
宝永四年の
地震というのは、
南海地震におきましては
日本でも最大の
地震といわれた
地震でありますが、それに対する
地変というものは
余り記録が古いせいか残
つておりませんが、渥美
半島の辺で島が急に現れて来たというような
記録があります。それからこれも
地盤隆起かと思われますが、この辺の
紀州の
南端のことは分
つておりませんが、今まで
二つの
地震で
沈下が行われた辺にやはり
沈下の異変がございます。大阪にも少し
海中に入
つて来たという状況があります。それから
室戸崎はこの
宝永の
地震では五尺から七、八尺というようなことが語られておりまして、殊に五尺というような
数字は個々の
室戸崎に住んでおりました、庄屋の
記録によりますと、五尺くらいの
沈下があ
つたということを言
つておりますが、それは確かな
記録であります。そうして
高知市
付近におきましては、
昭和のときの
浸水というものも、非常に広い範囲に津波、
地震というものがありまして、大体推定いたしますというと、
昭和二十一年の
地震は
安政の
地震よりも二尺くらい余分に
沈下したと思われますから、この辺は五尺くらいの
沈下があ
つたらしい。それから
須崎というような所もやはり海になりましたが、この辺まで
沈下が行われたということも
記録に確かめられております。こういうふうに挙げましたこの
三つの
地震の
地盤変動というのは、
紀伊半島とか、
室戸崎と言うような南の
太平洋の
方面に突出しております
半島の岬では
隆起が行われ、その
北の方では
沈下が行われるというようなことは
三つとも全く同じでありまして、先程
白鳳十二年の
天武天皇の頃の
地震の際には、
地盤大
変動が
高知付近に行われたというような推定というのも先ず確かなものだと思われるわけであります。併し
地震の
度ごとにこの
地方がこのように、同じ所が同じように
隆起沈下とかというようなことをいたして参りますというと、あるところでは
地面がどんどん狭くな
つて行くというようなことになり、或いは
室戸崎にある
室戸というような港では、どんどん浅くな
つて行くというようなことにならなくてはならぬ筈でありますが、併し
記録には
はつきりございませんけれども
高知市内で大
地震の後に、町の中でありますから
地盛りが行われなか
つたと思われますし、又川によ
つて、そこに砂が堆積したというようなことも考えられない所でありますが、そういうところで
宝永の
地震で約五尺も
沈下したのに、そのときに
浸水した
区域が
安政のときに約三尺四、五寸
沈下したのにも拘わらず、
浸水区域は
宝永のときよりも少なか
つた。又同じその
区域が
昭和の
地震でも約三尺程
沈下したにも拘わらず、
浸水区域は
安政のときと変わらなか
つたというようなことから考えまして、大
地震の前にはその前の
地震の際の
変動した量が殆ど
回復して元に戻
つていて、それ又新しい
地震によ
つて沈下とか、
隆起とかをするのではないかというふうに考えざるを得ないわけでございます。実際
明治時代以来、この
地方で各種の
測量が行われておるのでありまして、先程申上げました
紀州だとか、或いは
室戸崎とかいうような、
太平洋に突出しておりまして、
地震の時には
隆起いたします
半島とか、岬の辺は最近いずれも逆に
沈下をいたして来たのでありまして、その極端に達したというような結果かと思われますが、
昭和二十一年十二月二十一日に
南海地震にな
つたのであります。而も
地震直後はこの
回復運動が相当急に行われるということも、
昭和の
南海地震の際にも
はつきりと分
つたことでありますが、そうい
つたことは昔もやはりあ
つたらしく、
安政地震の直後に
紀州の由良港に住んでおります
木綿屋平兵衛という人の手記に「潮三尺ばかりに相成り、但し後々少しずつ直ると見えたり。」というような
記録がございますし、又三災録という本には、これは
土佐の
地震のことを、書いた
記録でございますが、その中にも「潮も三年を経て治定したり。」というようなことが田ノ浦と言うところの伝説に残
つておるということでございます。又対象の関東大震災に大
隆起をいたしました
三浦半島で、三崎と城ヶ島との間が
地震直後一ヶ月ぐらいは橋渡りすることができたということを
長岡半太郎先生から
伺つております。このように
地震直後に非常に急激に
回復運動が行われるということが、これでも明らかでありますが、実際の
実情につきましては後で申上げることにいたします。このように
地盤というものが
変動の著しいものでありますからして、
地震の
影響による
地盤変動というものは、本質的には長期に亘る
変動の全
輪廻ということになるのであります。
従つて普通に考えられる
地震当時に行われる
変動というだけではなく、
地震前の
変動も、又
地震後の
変動も知らなければならないわけであります。併しながらこのような全
輪廻を知るというようなことはなかなか容易なことではない。そのようなことの可能な
地点というのも非常に限られております。
地盤の高さの時々刻々の
変動を図る直接の
方法といたしましては
検潮儀というものがあります。間接的な
方法には
地面の
傾斜を図る
傾斜計というものを
順々に据え付けて置きまして、その
傾斜を
順々に測
つて行くということで、
地盤の全体の
変動量を出すことが原理的にはできる筈でありますがなかなか実行できない。現在私共の利用できるものは
従つて直接測る
方法としては
検潮儀だけということになりますが、その他に
水準測量というものを反復実施することができますれば、相当なところまでは
地盤変動の
趨勢も分かるわけでありますが、これも
四国地方のような広範囲な
区域になりますと、時間や経費の点でなかなか容易なことではございません。
四国地方の現実といたしましては、連続的の
検潮記録のとれた
検潮所も少く、
傾斜計というようなものの据付けは全くなか
つたのでありますし、
水準測量と言うようなものも、
明治以来多いところでも三、四回繰返されたのに過ぎないようであります。それでも
水準測量の結果からは、先にも申上げましたようなに、例えば
室戸半島においては
明治二十八年から
昭和四年までの三十年間に約二十センチも
沈下したというようなことが、
今村博士の研究によ
つて見出されました。その
半島がこの度の大
地震で一メートル近くも
隆起したということも、先程申上げました。
四国全域に亘
つて同様なことが行われ、
地震前の
変動と
地震時の
変動とが逆
向きであるというようなことも、
地理調査所の御
調査で分かりましたが、詳しいことは後程同
調査所長の
武藤博士からお話があることと存じます。
次に、
検潮記録によります
調査の結果を申上げます。
今村博士が、先程申上げましたように、
太平洋側に突出しております
半島部の
地震に伴う
変動と、しれに前駆する
変動の特質とに注意されまして、後者の
調査によりまして、来るべき
地震を予知しようと、一方ならぬ努力を払われたわけでありますが、
室戸岬の方は十分な結果が出ませんでしたが、同様な
運動は、
紀伊半島の先端に近い串本では年々〇・七センチというような速度で
沈下を続けて来たということが見出され、
水準測量によりまして、
室戸岬付近の三十年間に二十センチ
変動したということも、全く量まで同じであるというようなことが非常に注目を引いたのであります。
四国地方で連続的に
観測の行われております
検潮所と申しますと、
浦戸、
清水、
宇和島、
豊益というくらいのものでありますが、これらの
観測にも、途中に欠測がありましたり、或いは又
観測方法が
不備であ
つたりというようなことによりまして、或いは又
観測資料が散逸してしま
つて、現在は残
つていないというようなことがありまして、
地震前後の
地盤変動の
趨勢を調べるというのは、なかなか十分には行われないのでありますが、そのできるだけの
資料を集めました
調査の結果は、
四国地方地盤変動調査報告書、これの第三集というのに報告してございますので、その結果の分かりました結論を図によ
つて要約して申上げますというと、これが一年々々の
平均潮立、これが一九一五年頃から最近までの
資料をできるだけ集めて書いたものでございますが、
平均潮位と申しましても、いろいろ不揃いな
資料でございまして、或いは本当の
平均潮位であ
つたり或いはそれも出なくて望とか朔とかいうような形のもので、僅かな期間の
平均であ
つたり、いろいろ不揃いでありまして、これは
余り信用は置けないかと思います。その外の
資料といいますのは、大体
平均の水面を占めているものと思われますが、大体こういうふうに連続しているのがあります。これは九州の細島でありまして、これは
四国ではありませんが、こういうものを見ますと、この間が十センチでございますからして、この辺で幾ら大きく
見積つても十センチか十五センチとい
つたような
程度で、この
辺部も殆ど十センチ内外の反応とい
つたようなことで、
地震の前にはここに揚げました
場所に置いては、
余り大きな
変動がなか
つたということが言われております。ただ
一つ宇和島というところで、
地震の約十年くらい前に、非常に
地盤が
隆起したというようなことが言われたのでありますが、その
調査の正確な結果がどうも今得られないのが残念でありますが、その
場所の
検潮記録は、ちよつと残念ながら
観測の
不備がありまして、詳しいことが分かりませんが、とにかく
地震前の
変動と言いますのは、せいぜい十センチから十五センチと言うような
変動がありまして、殊に
高知市
付近で約十センチか十五センチくらい
水位が上
つておるということは、これは
高知の
浦戸湾というのは口が狭い湾でありまして、気象的な
影響がありますので、大体十八年くらいの周期で
変化が来る。そういうものがあるかと思いまして、その
変動と言
つたようなものも
余りはつきりしたことはこれからは言えないかと思います。そういうふうに、
地震前は大して
変動がなか
つたのでありますが、
地震の瞬間と言いますが、丁度
地震のときには非常に急激な
変化が起こりまして、例えば
浦戸というのは
高知の湾の出先の所でありますが、そこでは、図が書けないために一メートルもずらしてこれに書いてありますが、これに急激な
地盤変動が
地震の際には起
つた。それからこれは
清水でありますが、ここで約十センチくらいの
変動が起
つた。こういうことが
年平均の方でも見られます。併し
地震後の
回復運動が著しい
場所では、これを以て
地盤の
変動の全体と見ることはできません。これと
月平均の値について調べて見ますと、これに書いてありますようにこれは今の
浦戸のものでありますが、こういうふうに
順々に
水位が初めから見ますと二、三十センチも変
つて来ておる、
足摺岬の近くにあります
清水という港では、四十センチもこういうふうに
地震のときに
水位が高くなり、
地盤が
上昇いたしまして、そうしてその後
順々に又
回復して来ておる
宇和島では、
地震のときに十何センチか
沈下いたしまして、その後は大して変
つていない。それからこれは
高松でありますが、
高松では
地震後の
平均をとると、
地震のところでほんのわずかに十センチ足らずの
変化があ
つてその後は少し
水位が上
つて来ております。それから
徳島県の
那賀川の
河口にあります
豊益というこの辺でありますが、そこの
検潮所におきましては、
地震のときにやはり十センチばかりの
変動が起こりまして、そうしてその後幾らかやはり
水位が上
つて来た、即ち
地盤が更に沈降を続けたというような結果が見られます。それでもう少し
地震直後の
変動というのを詳しく調べてみますというと、実際に
地盤が変
つたということを如実に示す例といたしましては、
検潮記録で急に
水位が変
つたように現れるという
記録が一番確かなわけでございますが、これは
四国の
仁淀川の
河口にあります
検潮所と、それからもう一つ先程
那賀川の
河口にあります
豊益という
検潮所との二ヶ所における
変動の曲線を書いたものでありますが、これから推定いたしますと、
豊益、
仁淀川の
河口においては約一メートル二十センチくらいの
変動があり、
豊益ではその
地震の直後には二十七センチかの
変動があ
つたらしく見られるというようなこと。それから
高知の近くの
浦戸におきましても、やはり同様なことがあ
つたということは、
検潮記録の方を調べて見ますと言うと出て参りまして、やはり
地震直後には約一メートル二十センチの
地盤沈下が行われたのが、
順々に急激に
回復して約百日の間で数十センチの
回復を見たとい
つたようなこと、
地震直後参りましたときに調べたのであります。それからこれは
検潮記録ではございませんが、
須崎の町におきまして、
海岸であります港の所に物指を立てまして、それを読取
つてや
つたときの
変化から、
平均水面の
変化を出しますと、
地震の直後に二十センチだ
つたものが
順々に約百日ぐらいの間に百五十センチぐらいに
沈下しているとい
つたようなことが分かりまして、この結果は
高知の結果と全く同じであり、その
変動が百二十センチあ
つたということは、その近くの
地理調査所の
水準点と比べて分
つたのでありまして、とにかく
高知から
須崎に至ります間では、
地震直後では百二十センチにも及ぶ
変動があ
つたのが、とにかく百日ぐらいの間で数十センチの
回復が行われたというようなことが分
つたのであります。その後の結果は、その結果を見て頂きますと、こんなふうなにりまして、現在過去の三月頃では大体もう
変動後の
沈下量として残
つておる部分は五十センチそこそことい
つたようなことが、これから推定できるわけでございます。まあそんなふうにいたしまして、
地震のときに起る
地盤変動というのは可なり大きなものでありましても、非常に大きな
変動をした所では急激に
回復して行くというようなことが分りますが、併しこの図で御覧頂くように、
宇和島という所には
地盤変動は
地震のときに二十五、六センチあ
つたのが、その後殆ど変わらないというようなことが僅か
回復したかどうかというところですが、この
高松という所では
地震のときの
変動は少か
つたけれども、やはり
沈下が少し
進行しているらしく、
豊益でもそうい
つたような傾向がある。こういうようなことでございまして、こうい
つたことは
地方の人達の言う
地盤沈下が
進行して行くというのを裏書するとも言えますあの
程度の、一年四五ヶ月で十センチ
程度というような
沈下の
進行と言うことは、これは必ずしも
地盤変動に
結付けなくても、
気象状態では
変化とい
つたようなこともふだんいろいろな
場所に起り得ることでありますが、併しあの
地盤変動の
進行とい
つたようなことが、ただどこにでもある
気象状態の
変化によ
つてでないということは後程申上げたいと思います。
以上の結果から申しまして、
纒めて申しますというと、
検潮記録を、確かに
変動が認められるというような信用できる
記録を調べて見ますというと、
地震の直後に
高知県の
高知から
須崎に至る間ぐらいでは一メートル以上の
変動があ
つたが、その後最近までには殆んど半分以上
回復して参
つたということ。それから
清水港においては
地震のときに四十センチくらい
隆起したのが、その後六、七センチ
回復した。それから
四国の西側の
宇和島では
地震のときは二十数センチ
沈下いたしましたが、その後
余り変化がない。こうい
つたことに対しまして、
四国の東と
北側の
豊益と
高松におきましては、
地震のときの
変動が大体十数センチとな
つた、十センチから十二、三センチとな
つた、こうありますが、そうい
つたところで
地震後に十センチ及至六、七センチとい
つたような
水位の
上昇が認められたということであります。このように
地震を挟みまして殊に
地震後では
変動が非常に激しいわけでありますからして、こうい
つたものを確実に掴むということは
検潮記録を調べるより今のところ
方法がないのでありますが、残念ながらその
資料というのは、
四国の中には今申し上げたものようないのであります。そうして今分かりましたことは、非常にぽつぼつとした僅かな点のことだけでございますが、
地震直後に、
地震の翌年に
地理調査所におきまして、
四国全域に亘りまして
水準測量が行われまして、異変の結果と比較されて
変動量が分
つたのでありますが、そのことにつきましては、後程各氏からお話があると思いますから、ここでは一切省きます。
地震の翌年の
変動量とい
つたようなものは、そういうふうな
程度であ
つたが、併しこれは
四国内の相対的の
変動でありまして、絶対的にはどれだけ
四国の
地盤が下
つたかということは、
変動のありました
四国内の
調査だけでは分からないのでありまして、ずつとそういうところから甚だしい
変動のなか
つたところまで
調査して見なければ
変動の状態が分からないということで、
四国地方の
地盤調査委員会の始ま
つた時分には、絶対量が何とかして欲しいということ、それから
地理調査所の
測量で分
つたことは、
地震の翌年の
変動であ
つて、それ以後にはどれだけ沈降したかということは、それだけでは分からないということ、そのことがありましたので、
四国地方の
地震変動の絶対量を測ると言うことで、
四国地方の
地盤変動調査委員会で取上げまして、そうしてその仕事を
地震研究所に任せられたのであります。それでそういう
変動を調べるということを
検潮所において調べたのと同じようなことを短期間にやりまして、
平均海水面が現在どこに行
つているかということを調べて、その潮位の
観測から出しまして、その潮位から今まで分
つております支点の高さを調べまして、それが
地震前の高さとどれだけ違うかということを調べてみれば、現在の
沈下量が出るわけであります。そういう
方法によ
つて地震研究所の高橋、那須、岸上三博士が
四国全般を分担されまして
調査を行
つたのでありますが、疎の結果はここに(図示)これは遠くから薄くてお見えにならないかと存じますが、これが
四国の大体の形でございますが、これが
室戸崎で、この辺が昨年の五、六月頃までの間には約八十センチぐらいの
隆起量が残
つており、この
高知付近では、これは先程の検潮から出した結果でありますが、五、六十センチぐらい
沈下量が残
つており、
須崎では四十七センチ
沈下、
清水で三十三センチという
隆起が残
つており、宿毛の辺で二十二センチ、この辺(撫養)これは
場所が違いますが、沖積土
地盤で三十センチぐらい
沈下しており、こちら(
豊益)は十八センチ、更に参りますと、
高松付近に参りますというと、長浜とか、松山、三津ヶ浜、この辺になりますと、四十八センチとか、四十三センチとかい
つたような
変動量が大きくなります。それからこの
半島の北の今治、波止浜辺では二、三十センチの
程度でありますが、南の壬生川辺では現在六十センチぐらいの
沈下がある。それからこちらの方の三島とか、新居浜とかい
つたような辺では三十八センチから四十三センチと言うような、大体四十センチ
程度の
沈下が……それから香川県のこちらに参りますというと、
高松では
検潮記録の結果から大体十九センチ及至二十センチぐらいの
変動、それからここは引田でございますが、引田では四十センチくらいの
沈下量、それから撫養の辺では二、三十センチの
沈下量、それから小松島では現在
変動量が殆んどない。それからこの橘とか……これは
豊益でございます。
豊益では十八センチくらいの
沈下量、それから橘の辺では八センチぐらい、日和佐で十センチから二十センチぐらい、この甲浦で二十センチのそれぞれの
沈下、佐喜ノ浜で三十センチくらいの
隆起とい
つたようなことが出て参ります。ここに出しました
数字は、これは又
調査が十分完了しておりませんで、暫定的な
数字でありますし、そうして比較に用いました以前の高さと言いますものが、成るべく古いところの
変動量と比較するというようなことで、こちらの方は
明治三十年、その頃のでや
つておりますが、こちらの方は
記録をと
つた時期が少し違うのもありまして、この辺などは対象の時代のものと比較して見るとい
つたようなことで、統一がとれておりませんし、又そういう古いのと比較しますと言うと、その途中で
地盤が、例えばこの辺は
沈下した。この辺は一時
隆起したとい
つたようなことが伝えられたこともあるわけでありますからして、そうしますと、その
隆起したときと、現在の
沈下量というものはもつと大きく
土地に人に上に感じた量というものは、これよりも低いかと存じます。以上私共の調べましたのはこの
程度でございます。全般的に見まして、非常にこの南の方の
半島の辺の
隆起量というのは、この辺で七、八十センチというような大きなところもありますが、そういうものも
順々に
回復運動をや
つておりますし、それからこの
検潮記録の結果からも
回復しておるということが分かりました。この
室戸崎の
回復運動につきましては、東京大学の長田博士がここの狭い範囲の
測量をやりまして、
地盤の
傾斜の
変化を測りまして、それから出しましても、やはり非常に急激にその
変動が
地震のときに持上
つたというのが、やはり元に戻
つて行くというような傾向が実証されております。この南の方は大体
回復運動でございますが、こちらの
北側の方で上
つておりますのは、この
豊益という所と、
高松で
検潮記録から、十センチ暗いの
地盤の沈隆が
進行したのではないかということが言われているのでありますが、こちらの非常に
沈下の著しか
つた愛媛県におきまして、どうであるかというようなことは、これは測定をもつと繰返さなければ
はつきりしたことは言えないのであります、この
地域における
地理調査所の御
調査は、この度のそれよりも一年半ぐらい遅れまして、
地震研究所の
調査結果と比較して見ますというと、やはりこの
変動のひどい所では二十センチから三十センチの差があ
つたように思います。まだ
地理調査所の方の絶対の
変動量というものがよく私どもには分
つておりませんので、大体のことだけでございますが、推定いたしました結果、結局高橋教授の測られた結果がございますが、
地盤の堅いと言いますか、南の方では殆ど
地理調査所の結果と一致しておりますが、小松島とか、それから撫養と言いますような
地盤変動のひどか
つた所では、
地理調査所で、
昭和二十二年に測定された結果と、二十四年に
地震研究所で
調査した結果とでは、大きい所では二十センチ
程度の違いがあるというのが、或いは
地盤の
沈下の
進行したという証拠かと思われますが、これを実証するということは、
地理調査所の方の
測量を繰返して頂くか、或いは私共の方の
海岸水面を基準にした
調査をもう一度繰返すか、そういうことをしなければ
はつきりしないわけでありまするが、どうも今のところ
調査費用の点で、この
調査を本年度限り打切らなければならないような
実情でございます。いずれにしましても、
変動量というものが一番ひどい所は五、六十センチという
程度にしか
変動していないというのに、
土地の人は一メートル以上も
沈下したじやないかというようなことを感じております。
そのことについて、少し私の考えましたことを申上げますというと、
地震の翌年の
昭和二十三年の十月四日、五日頃に、
四国の
太平洋側の南と言いますか、
日本の南に方をリリー台風というのが通過したのでありますが、これは十月の三、四日頃でございますが、このときに
浦戸、
清水、
宇和島、
豊益というような
検潮記録にあります満潮位をここに描いてございますが、一体にこのころの潮位と言いますのは、潮位予報によ
つて決めたものが、ここに点線で描いておりますが、それと比べて見ますというと、この辺では三十センチで、この辺では四十センチとい
つたようなことがありまして、とにかく一番高い潮よりも一尺も潮が高くついたというようなことが台風の
影響で起こりましたので、而もその時期というのは、一年で一番潮位の高い秋で、而も満月の近くで、一番潮位の高いときに台風がや
つた来たというようなことで、そのためにふだんでさえ高い潮の上に、三十センチ以上もの台風による潮位の
上昇が起
つたというためい、非常に広範囲に亘る
海水の侵入があ
つたのでありまして、それが
土地の人に非常に恐怖感を与えたということがあ
つたということだけは否定できないと認めます。まあ実際に
地震研究所で
調査した結果というのは、現在のと言いますか、去年の夏頃の
変動量というのは、今廻ししました図面でありますが、その図面の
測量制度について一言申上げて、このお話を終わりたいと存じますが、このような簡単な
方法によりまして出したものでございますからして、先ず十センチ
程度の誤差というのは、ないとは言い切れないのでありますが、その上に測定
変化を出す、比較した昔の高さとい
つたようなものにもまだ統一がとれておりませんし、それから測定
方法についての吟味も、今から皆が衆智を集めて十分の
調査をしたいとや
つておる最中でございまして、まあ結果が本当の暫定的な結果に過ぎないので、或いは十センチ
程度の改訂は行われるかと存じておりますので、いずれからいたしましても、十数センチ
程度の精度だと思
つて頂けば恐らく間違いはないかと存じます。私のお話を終わります。