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關根最高裁判所民事局長 ただいまの
猪俣委員のお話、まことにごもつともな点が多々あるのでございます。実は先般の
参考人の御
意見を、私もここで拜聴させていただいたのでございますが、その点が非常に問題になるわけでございます。結局裁量ということは
裁判ではないのではないかといつたお言葉がございました。これはなるほどごもつともな点でございますけれども、
裁判におきまして、裁量でまかなえる分野がか
なり訴訟法で認められております。これは
憲法の精神からいいまして、妥当ではないと言われるかもしれませんけれども、一体
裁判に
理由を付すべしということは、
憲法上の要請ではなくて、各訴訟法に規定がございます。しかも訴訟法自体で、
理由を省いてもいいのだという規定もございまして
憲法違反というものには直接触れないと存じます。しかし
憲法の精神からいいますれば、なるべく納得の行くように、いい
裁判をしてやるということが、
裁判官としては常に考えなくちやならない点でございます。それで
憲法の精神から申しますれば、なるべく詳しく書いてやるのが正当であり、また妥当であろうと存じます。従
つて裁判官は、常に
裁判をいたしますときに、適正——正しいということをまず考える。訴訟が遅れるということは第二義にな
つてしまうのでございます。それでよく笑い話に言われるのでありますが、訴訟が遅れてしかたがない、病院で医者が非常にうまい手術をしてくれた。精緻巧妙をきわめた手術で、
部分的、個々的にはうまかつたが、よく見てみると病人はその間に死んでしま
つていた。そのようなぐあいに、訴訟の遅延ということに常に
非難があることについて考えなくちやならぬ。そういつた譬喩的な言葉で訴訟の遅延を
非難されるわけでございます。それでもなおかつ
裁判官は常に
裁判の適正の方に頭が行
つてしまう。そういたしますと、結局ただいまの
最高裁判所におきましても、
民事の
事件につきましては適正が主にな
つてしま
つてて、
事件の解決がどうしても延びてしまいます。大まかに申しまして、四十五人の
裁判官が十五人に減りましても、
事件数は大体前と同様でございますので、結局三倍の手間がかかり、延びることも三倍にな
つてしまうということに
なりますと、やはり今申しましたように、手術は丁寧でも病人は死んでしまうといつたようなことにな
つてしまう。そうするとどこかで手を打
つて、その病人を生かさなくちやならない。その手を打つのには、どうしてもある
限度でがまんをしなくてはならないというので、やむを得ない
限度として、この
程度で認めていただきたいという
趣旨でこの法案が提出されたわけでございます。何と申しましても、重要
なりやいなやということは結局のところ
裁判官の裁量に帰着するのでありますが、やはりこれは重要かどうかは、社会常識できまることでございまして、結局法規裁量——自由裁量ではございませんで、法規裁量でございます。従
つてその重要であるものを重要ならずとしてもし
裁判をいたしますれば、これは
法令違背ということに
なりますし、さらにまた
最高裁判所の
裁判に対して
異議の
申立てができるということにな
つております。従
つて異議申立てで
法令違背なりと認定されれば、それが破られてしまうということになるわけでございます。それからなおある
事項が、
一つの小
法廷では重要
なりと判定され、他の小
法廷では重要ならずと判定される。そういつた場合が出て来たときにどうなるか。これは現在の
判例集では、大体において重要な分だけしか出しておりませんが、今後は別途の
方法で、あらゆる
事件について周知徹底する
方法を講ずべきであるということになるわけでございまして、
アメリカの
判例集などは、どの
事件も全部一般に出されているそうでございます。そういたしますと、もし
一つの
事項が、一方では重要
なりと判定され、一方では重要ならずと判定されるようなことがあれば、その問題がその後に出て来るときは、重要な問題として取上げるといつた結果になるわけでございます。それからなおこの前
参考人の方のお話の中で、重要でない場合には重要でないと言い放して、切捨てるということでございますが、しかしこれは疑問が少しでもありますれば、その
説明をしている部もございますが、非常に簡単で、
上告理由自体重要でないことがはつきりしておるものにつきましては、重要でないと言
つて、それ自体が
理由になる次第でございます。あまり譬喩的に申しまして恐縮でございますけれども、要するに病院の医者が四十五人いたのが、十五人にな
つてしまつたというときに、入院を求めて来た者のうち、入院を必要としない者についてまで入院を必要とする者と同じように診断を下していては、結局病人全部が廊下にころが
つてしまう。全部が治療ができなくな
つてしまうといつた結果にな
つてしまう。でき得ればその病院の門の中に入
つて来た病人——中には病人でない者もいるわけでございますが、その全部について丁寧な診断を下してやりたいという気持は、やはり
最高裁判所の
裁判官としても同じだと思いまするが、そう
なりますると、従前の
大審院当時の三倍の
事件を三分の一に
なりました
裁判官で処理することに
なりまして、どうしても病人を廊下にほうり出さなくちやならぬという結果にな
つてしまう。これは数字で申し上げますと、大体
民事上告事件の四割以上を廊下にころがすといつた現状でございます。そうしてしかもこの四割以外の六割は非常に簡単な
事件でございまして、結果において、
高等裁判所の
判決を
最高裁判所で破
つてしまうという
事件は、ただいまは非常に少いのでございます。そうして破棄しなくてはならないというような重要な
事件、これが次第にたな上げに
なりつつありまして、その重要な
事件について
判決が破られれば勝つべき
権利者が、その
保護を待つのに時間がかかりまして、結局嘆いている
事件が非常に多いわけでございます。
最高裁判所といたしましてこういつた措置をとることは、
事件の
当事者に対しまして、まことに申訳ないわけでございますけれども、全体のためにはやむを得ない。入院を必要とする者を入院させるにつきましては、入院を必要としない者に対しましてはある
程度診療を簡単にせざるを得ないということに
なつたわけでございます。しかし今後できる限り、この入院を必要としない者に対しましても何らかの措置を講じて、そして万全の措置が講ぜられれば、それに越したことはないと思います。先ほど
猪俣委員からお話がございまして、こういつた案を出す前に、どんな準備がしてあつたかという
お尋ねでございましたが、実は
最高裁判所事務当局といたしましては、昨年の三月に全国の
裁判官——各地方
裁判所、
高等裁判所の
判事全部を東京に集めまして、この問題を討議してもらいました。そのときに案が二十以上出ました。それのうちどれが一番いいかということをいろいろ検討いたし、各地の弁護士会にもお問合せをいたしまして、結局のところ
最高裁判所の
事件の
調整は、こういつた案で行つたらどうかということで、だんだん
事件を
調整いたしました結果、入院を必要とする者と同じような診察をしてもらえない者に対しては、
下級裁判所に
上告部を置いたらどうかといつた案で、各地の弁護士会にも御相談をいたしまして、大体同意を得たわけでございます。しかしこれは先ほど
政府委員からのお話もございまして、その
上告部を置くかどうかは、今後もう少し
研究したらどうかという
関係方面の示唆もございまして、この
最高裁判所の
事件の審理、
判断の
調整ということだけに
なつたわけでございます。
それからなお
最高裁判所の
裁判官の
負担の
調整ということが全面的に大きく浮び上つたような感じがありますので、非常に恐縮しておるのでございますが、要するに
最高裁判所の
裁判官の
負担ということは、
国民の
権利の
保護をどうしたらいいかということと同じことでございます。
国民の
権利の
保護を全うせんがために
上告事件を
調整する。簡単な
事件と複雑な
事件とをえりわけするといつたことでございまして、
最高裁判所の
裁判官の
負担を
調整するということは、とりもなおさず
上告事件の適正な処理、それをまた言葉をかえて申しますれば、
国民の
権利の
保護を十分にする、適正な
保護を与えるといつたことに帰着するわけでございまして、非常に言葉の使い方から実体を逆にお考えになるのではないかといつた感じが、この前の
参考人のお方の御
意見の中にもありまして、
最高裁判所側の十分な気持がおわかりにならなか
つたのではないか、これは言葉が過ぎるようでございますが、そういつた感じが私いたしました。まあなるべくならこういうことをしない方がいいとはいいながら、全体のためにやむを得ないといつたところから出発したわけでございます。
それからなお
関係方面では、
最高裁判所の
負担の
調整ということは、
アメリカの
最高裁判所、これは連邦でありますが、同時に州の
高等裁判所、これも同様な
方法でやはり法規裁量の形でや
つておりまして、
関係方面ではむしろ
刑事訴訟法と同じような歩調をとるならば全面的にいいじやないかといつた考えが最初ありましたのを、実はそれでは
民事は事実審が一審にな
つてしま
つて、どうしても困るというので、事実審はやはり従来通り
二つにするということで今の案ができたわけであります。
それから事実審が
二つあるとい
つても、第二審はやはり——第一審も同様でございますけれども、事実の認定の問題と
法令の審査をあわせてや
つておるわけでございますので、その点事実の認定だけやるのじやないかというお疑いがあるかもしれませんが、これはそういつたことはないわけでございまして、
刑訴より十分丁寧な
手続になるといつた
状態になるわけでございます。
それからなお先般の
参考人のうちで、中村教授のお話の中で、
民事訴訟法は市民社会の
法律であ
つて、
刑事訴訟法とは違うという御
意見がございました。これは昔の
民事訴訟なら、金を貸した者は
自分の力で金をとりに行
つて、返すように強制するわけでございます。こういつた社会では確かに市民社会の
法律でございますけれども、ただいまでは、
自分で強制執行することは許されておりません。従
つて国家がどうしても中に入
つて来る。そうするとやはり市民社会の
法律とは言えなくな
つて参るのでありまして、これはやはり国家が入る
法律——公法上の
法律と言わざるを得ないというわけに
なりますので、やはりこの前の中村教授のおつしやつた市民社会の
法律ということについては、相当疑義があるのではないかという気がいたします。
大体そういつた
趣旨でこの案ができまして、今後なお
下級審の充実その他につきましては十分考慮せざるを得ない。また
最高裁判所初め
下級裁判所といたしましても団結して、その点だけは十分に
国民の
権利が
保護されるように努めたいと考えておる次第でございます。