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宇野証人 昭和三年
小学校を卒業しまして、それから滋賀県の
八日市中学を卒業し、
昭和十年に東京に参りました。そうして
昭和十年の八月に渡満をいたしました。それから満鉄の遼陽駅の駅務員になり、
昭和十三年までや
つておりました。それから十五年に奉天の鉄道総局の営業部の貨物課に転属になりました。それから
昭和十八年奉天鉄道局営業課に配属されました。
昭和十九年三月十日召集を受けまして満洲の牡丹江省城子溝という所の二千六百部隊に入隊をいたしました。その城子溝に約一箇月おりまして、わが隊は命令を受けまして新京に集結することになりました。その後間もなく
自分たちは加藤久平という陸軍大尉の率いる駐屯部隊とな
つて吉林におもむきました。吉林におもむいて、
昭和二十年八月五日別命がありまして、関東軍の特別警備像に編制されるという通知を受けまして、わが分遣隊は新京に集結いたしました。そうしてそのときに新京の関東軍特別警備隊第二大隊というものか編制をされて、全満の各地区から集ま
つた憲兵を主力とした部隊ができたのであります。そこの補充要員としてわれわれの百五十名が加算された、そうしてその間編制が終りましたのが八月十日前後だと私は
記憶しております。それから八月の十日前後に編制はされておりますが、
自分はそのとき上等兵でありまして、どういう構成でこれは発表されておるかわかりません、部隊の構成内容もわからずにそのままに済んでおりました。ところが八月十四日に終戦の詔書をわれわれが聞き、そこにおいて初めて
自分たちの部隊を統率している者が和田文雄憲兵大佐だということがわか
つて来たのであります。それから間もなく一週間にわたり市内の警備に当りました。その警備の任に当
つたのはわれわれ全般が当
つたのであります。その警備の任はどういつことかと申しますと、われわれは最後の防戦をここにおいてなすべきである。そのために各アスフアルトの道も生部戦車壕をつくらなければならない、その戦車壕の壕掘りもや
つておりました。そうして八月の終りにわれわれは武装解除のために公主嶺に南下をするように命を受けました。それでわれわれは和田憲兵大佐の率いる部隊の一員として公主嶺に南下をいたしました。その間に萢家屯あるいは孟家屯、こういう駅において暴動がすでに終り、ソ連軍が入満いたしておりました。そして公主嶺の工作機械工場だと思います。そこにわれわれは集結をされたのであります。そうしてそこに約一箇月駐屯しておりました。なぜ一箇月駐屯をしてお
つたかというと、そこに牧容されておるときに、ほとんど約八割までがいわゆる憲兵部隊であ
つて、全満の通路に非常に通じておる人でありまして、そのために相当逃亡というものがあ
つた。われわれの隊は満召集の相当の年輩者が多か
つたのであります。そういう人は家族がおるためにたくさん逃亡したのであります。ところが逃亡すると、そこに牧容されたところの千五百名の
人員をビン兵団というところに通知をするときに、本日通知をしたときは現在員が千五百名だ
つたが、その翌日調査が来ると千四百八十名、こういう
人員の不足が出るのであります。そのためにその
人員の補充はあくまでも千五百名が単位でなければならないという状況だ
つたと私は
記憶します。そのために窓を割
つて他の部隊から逃げた者がその中に来て、約千五百名という部隊を構成したのであります。ようやく千五百名の人間がまとま
つて、九月二十一日に公主嶺を出発するように命令を受けた。そのときにはすでに武装も解除をされております。持つものは
自分たちの被服、そういうものを持ち得た。
あとは何ら許されなか
つた。こういう状態であります。九月二十一日に公主嶺を出発いたしまして、その
人員は千五百名ということを
自分は
記憶しております。それで千五百名がアムール、いわゆる黒河であります。ここの埠頭に着いたのが九月二十五日ごろだと思います。その間において輸送は、列車がたくさん入ソするために、交錯しておりますから、鉄道の
関係で相当時間がかか
つたものと思います。ある駅において四日間、ある駅において七日間、こういう状態であります。そして黒河に着き、さらにそこから五日間を経て黒河の埠頭に着きました。十月の三十日の夜の八時ごろその河を渡
つたのであります。そうしてわれわれは対岸のブラゴエチエンスクに着いたのであります。そこの滞在が約三日間であります。われわれが出発したときにはアムールは結氷をいたしました。後続部隊はその氷の上を渡
つて来たということであります。われわれは船で渡りした。ブラゴエチエンスクに三日おりまして、それからわれわれはウズベツクスタンのベグワードに十二月の二十二日に到着したと
自分は
記憶しております。ウズベックのベグワードというのは、タシケントから約八十キロないし九十キロの地点であります。それで二百八十八
収容所の第二分所という所に着いたのであります。その第二分所には、その当時まだドイツ人が若干おりました。その分所はわれわれが来たためにドイツ人が移動をいたしました。そうしてそのあいた兵舎にわれわれは収容されたのであります。二十二日に到着をし、われわれはそこに約十日間のソ連の規定によるカランチンという休暇をもらい、一月の十八日にな
つて初めわれわれは労働大隊として作業に従事することにな
つたのであります。われわれの作業はウズベツクスタンの発電所の作業であります。この発電所の作業はすでにドイツ人が約三分の一と
言つてもいいくらいまで完了しておりました。その
あとをわれわれが引続いてや
つたのであります。そうしてその作業に従事をいたし、一九四八年までに大体その作業を完了いたしました。それまでにすべての仕事は完了しておりませんで、タービン
といつて、大きな発電機を動かすところの機械が四台あり、二台がアメリカ製作、二台がドイツの製作であります。それが
終つて一九四八年の九月二十五日、ほとんどの者が帰還をいたしました。そうして九月の二十五日にいわゆる憲兵、
特務機関、警察官を集めたものだけが約三百有余名、そのラーゲルから第五ラーゲルに移動いたしました。それはウズベツクスタンの第二百八十八
収容所の第五ラーゲルであります。
あとの分所は全部帰りました。他の分所もやはり憲兵、警察官というものが集結されまして、第五ラーゲルは約五百有余名というものによ
つて構成されました。その五百有余名によ
つて九月の二十五日に編制を受け、
自分はそのときに帰るべき命令がありましたが、急に命令が変更にな
つて、
あとから一人でその第五ラーゲルに行きました。そうしてその第五ラーゲルにおいて十二月の四日に命令が来て、われわれは帰還のためにタシケントに移動するという命令を受けて、われわれはその日に自動車に乗
つてタシケントにおもむいたのであります。それまでにへルガナ地区から来た百二十五名がわれわれの五百有余名と合併して、約七百名でその第五ラーゲルは構成されております。その百二十五名というものの構成は、先ほど申しましたように、満洲国の高位高官、ハルピンの警務庁長、あるいは旅順の警務庁長、ハルピンの市長、そういう人
たちであります。その中に
久保田善藏氏もおりました。そういう者がわれわれの所に入
つて来たのであります。そうしてその七百有余名のラーゲルが三部にわかれて、タシケントに移る、こういう命令を受けまして私は二百五十名を引卒してタシケントの第九分所に移りました。他の者は二団に分れて、
久保田善藏が率いた二百五十名がタシケントの第十一ラーゲルに移動いたしました。それから鈴木義彦という者が同じく三百五十名を率いて第十一ラーゲルに到着いたしました。そこで五百名で十一ラーゲルを編制されましたが、私ども二百五十名というものが第九分所に十二月五日に到着いたし、翌年の六月十八日第三分所に移りまして、その年の九月五日にタシケントのラーゲルは閉鎖になりましてわれわれはカラガンダに移
つたのであります。九月十三日カラガンダに到着し、そこに十三日から十一月十二日までおりまして、十二日に命令を受けてナホトカに向
つたのであります。ナホトカに十一月三十日に到着いたし、一月十八日船に乗
つて、一月二十二日に舞鶴に上陸いたしまして、現在に至
つております。