○日高
証人 内容が非常に複雑であり、長くかかりますので、ごく概要を申し述べたいと思います。
一九四九年十一月、われわれはすなわち
昭和二十年の十一月ベグワード地行区第一
収容所に収容された直後、私は
ソ連の企図しておるところの思想攻勢を非常におそれまして、内心ひそかにこれに対するところの対策
委員会というようなものが必要でないかということさえ考えたことがあ
つたのであります。しかしそれは
民主運動の進展と、旧
日本軍幹部のだらしなさというものから、そうした思想対策云々というようなことはできなくなりました。私は静かに流れ行くままに、いろいろラーゲル内の思想動向をながめてお
つたのでありますが、そのうちに若干の心ある者は私のところにや
つて来まして、このままではというので、心ひそかに憂えてお
つたような次第であります。だんだん民生運動が進展いたしまして、非常に皆が動揺を来し、ラーゲル内も混雑の極に達しつつあ
つたというときにおきましても、やはり
日本民族を憂え一
日本の国を憂うる者が、強固な
意思と熱意を持
つて私のところに非公式に、内密裡に、深夜あるいは休日の夕刻あたり連絡に参
つておりました。これらとはいろいろな思想的な問題、あるいはラーゲル内の現況に対するところの問題解決というようなものを、私の思想を交えて話してお
つたわけであります。これらを発覚されまして、
ソ連の官憲からは日高一派、あるいは日高一党というようなものを指摘されまして、ひどい追究をされたような次第であります。これでは危険といいますか、おもしろくないというので、そういうことは一切やめようとい
つて表面はやめておりましたものの、やはりそうした気持の持主は私を中心にいろいろ集ま
つて来たような次第であります。一九四八年九月二十六日、第五分所に二百八十八地区の管下の四つの
収容所が集められたときに、そこに
ソ連関係から、あるいは
民主グループ委員から黒龍会と言われてお
つた眞下中尉を一派とするやはり反共分子十八名のつどいがありました。これらと私のいわゆる日高一派といいますか、日高一党といいますか、こういうものがそこで合流をしまして、われわれは偽りのないかたい信念、かたい思想を持
つて、そして在ソ間在ソ生活がいつまで続くかわからないけれども、この気持で闘い抜きたいというかたい握手をかわしたことを
はつきりと記憶しております。その後
タシケント、
アングレン等へ行きますと、わが党の士といいますか、反共
主義者が非常に多くありました。
アングレンでも私たちに共鳴する者、私たちの気持を容認してくれる者が多数おりまして、いよいよ私たちの
グループは数を増したような次第であります。それから
ソ連関係からいろいろと私も思想問題で取調べを再三受けましたし、また私の前職関係について取調べを受けたので、このままに放置しておいたならば非常に危険な状態にわれわれはさらされ、前職でなくても思想でひつかか
つて帰ることができないようになるからと戒め合い慰め合いつつ、一九四九年の九月を迎えたような次第であります。爾後
カラカンダに集結を命ぜられまして、やはりウズベツク
共和国のそうした
反動と言われてお
つた者、前職者、これが集合いたしたような次第でありますが、
カラカンダにおいてもやはり私たちと気持を同じくする者があつちこつちおりまして、またそこで一段と私たちの勢力と申しますか、私たちの同憂の士と申しますか、これらがつどい合
つたような次第であります。どうしてもこの気持でも
つてわれわれは
日本へ帰りたい、純真なこの気持で、偽りのない気持で、ほかの者はどうあ
つても、われわれは帰りたいという気持がやがては
ナホトカに集結したあかつきに、こうした
日の丸梯団という、偏りのない純真な
日本人の気持で帰ろうという動機をつく
つたものであると、こう思います。
ナホトカに集結している間におきましても、陰に陽に、特に表面化することを警戒をしつつ、
秘密裡にわれわれの同志
はつどいまして、そして乗船と同時にわれわれはわれわれだけの
グループをつく
つて日本に上陸をしなければいけないという大体の打合せをいたしたような次第であります。乗船と同時に闘争を開始しまして、あらかじめわれわれが打合せてお
つた組織というものをつくり上げまして、この帰る梯団を何としようというところでいろいろな発言がありましたが、これを
日の丸梯団としてわれわれは組織し命名しようということに決定されたわけであります。