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吉田証人 民主
運動の形態といいますか、いわゆる私
たちが入ソした当時も現実に私自身の收容所で申し上げるならば、沿海州の密林の中の開豁帶で三重の鉄條網をまわされ、望楼があり、その上は機関銃がすわ
つて收容所の中は根株と水たまりである。それが私
たちの收容所である。千名を收容した私
たちの收容所それ
自体が、三箇月に二百五十名も死んで行
つたような現実で、私
たちのほんどすべては
反共反ソでありましたが、私
たちの生活そのものがまず家の建築から、あるいは炊事の建築から、井戸の開設から、便所の開設から、そうい
つたまず建設作業を開始して来たのでありますが、そうい
つたものが約一年、一九四六年の前半期には生活が確立されると同時に、私
たちの生活の中にやはり娯楽というか、人間的に求めて行くものが必要にな
つて、そこに娯楽という問題が起きる。まず第一にここにいわゆる木材檄文という民主
運動ののろしといいますか、旧関東軍兵士に告ぐというものがこの民主
運動ののろしとな
つて、今まで警察国家としての財閥地主の御用団体の軍隊としての奴隷兵士から、
日本民主化のためにソビエトと手を結んでやらなくてはならない。いわゆる反軍闘争というか、将校闘争を開始し、收容所の自主権をわれわれが握るということで、まず民主
運動の第一に反軍闘争というものが開始されたのです。この反軍闘争の
過程にいわゆるプチ・ブルと言われた人
たちですか、か
つて軍隊で言うならば、乙種幹部候補生あたりで将校になれなか
つたような人
たちがまず反軍闘争の第一歩をふみ切
つて、友の会というものが編成された。これは
日本新聞社の方からも目をつけたのでありますが、友の会がまずここで生れた。そのために壁新聞とか、あるいは豆新聞とか、あるいは演劇――当時演劇で種類を言うならば、森の石松とか、国定忠治とい
つたものが行われたのでありますが、友の会の反軍闘争の
過程の中において少しずつプロレタリア演劇的なもの、いわゆる蟹工船とか、太陽のない街とかが演ぜられて行
つた。それが第一期であり、第二期は、いわゆる民主グループと
名前をかえて、收容所の将校全部をいわゆる行政面においてやりにくい、あるいは思想的にも民主
運動の中に入れてはだめになると目される将校は、全部よそのいわゆる懲罰大隊といいますか、そうい
つたところに全部将校は集められた。その残
つた中で若い者をハバロフスクの二十一分所とい
つたところに各分所から四名ないし五名あたり選拔して、三箇月間三百名、これを第一期生から教育を開始して、講習が終ると、各分所に帰す。そうして
一つの民主グループの中に思想教育のテーマを提供し、行うとい
つた過程から一九四七年八月、全地方
議長会議といいますか、分所の民主
委員、そうい
つたものが集ま
つて、ここに新しい
議長会議が行われて、この民主
運動が説得的な
過程を踏み、あるいはまた各人の発言の自由もあ
つた時代がなくな
つて、ここに極左的といいますか、あるいは暴力的といいますか。人身攻撃といいますか、つるし上げカンパというものの火ぶたが切られて私
たち各人の発言はなく、また自由の発言も求められず、各人の演劇、收容所の文化
運動も完全にプロレタリア演劇に切りかえられ、壁新聞それ
自体も、反軍闘争の
過程から完全にプロレタリア演劇にかえられて、私自身が考えて、いやしくも各人の人間性に立脚する発言をしようという
言葉は封ぜられ、完全に各人と各人とのスパイ的なものが行われ、ここにつるし上げカンパ、いわゆる追究カンパといいますかそういうものが行われて、その民主
運動のために犠牲にた
つて死んで行
つた人
たちも私
たちは目撃して知
つております。そういうようにこの民主
運動というものが、
日本新聞を通じ、またその
日本新聞を通じて行われた追究カンパ――ここに
日本共産党から送られたアカハタが、機関紙を通じて転載記事となり、ティフォケヤンスカヤ・デウイヨースダ、太平洋の星という機関紙から
日本新聞社、いわゆる子新聞といいますか、そこへ用紙なり写真なりが送られ、毎日連絡がありますが、そのときにアカハタを持
つて行くのを私自身が現実に目撃しておるような現状で、現実に
日本共産党というものは、このティフォヶヤンスカヤ・デウイヨースダを通じ、あるいは
日本新聞を通じ、そうい
つた民主
運動の中に
間接的に援助され、私自身が
反動と目されたために苦しい立場に
なつたことは事実であります。そういうような民主
運動は、即
帰国反対運動であり、やがてはそうい
つたものはスターリンヘの誓いとかわ
つて、人間変革を遂げ、去年あたりはいわゆるデモクラートと称する人
たちが、各收容所から集められて
帰国し、われわれは
反動と目されたゆえに各收容所に残され、收容所の跡片づけをしては次の分所に移
つて、一番終わりにわれわれはハバロフスクに来たような現情です。
民主
運動の
過程を今概略述べたのでありますが、いわゆる反軍闘争から友の会になり、民主グループになり、その民主
運動というものは、一九四八年八月、
議長会議から説得的な
過程を終
つて、
反動追究カンパというものに持
つて行かれたのであります。人身攻撃、罵詈罵倒、そうして
反動をもみくちやにして結局いやが上にも、完全に自分のイデオロギーを曲げても、その收容所の組織下に入り、赤旗をとらなくちやならぬというような
過程にな
つて来たことは、大体私自身が
反動という道を歩かされ、虐待を受けた見方でありますけれども、そういうよろなことを特に痛切に感じ、この民主
運動即それは
帰国反対運動であ
つたということを、私は強く感じております。