○光田
説明員 癩の現状についてお話せよとおつしやいますので申し上げます。
日本に癩
患者がたくさんございます。世界の総数が三百万と言
つておるので、それで文明国にはほとんどないというこり癩が、
日本に昔からあるのです。これはイデオロギーが非常に
違つておりまして、癩は遺伝であるということ、また宗教的に見て前世に悪いことをしたその天罰によ
つて、現世において癩病になるのだというような迷信があります。そういうようなことで、癩
患者の生活というものは、癩にな
つた人は一生、浮かばれないというような生活をいたしておりましたので、彼らは遂に家を出る。家人の迷惑になるのを恐れてみずから遍路をいたしまして、神社、仏閣というようなところに浮浪徘徊を続けたのであります。昔は物を惠むというような方もありますし、また忍性師というような鎌倉時代の大徳がありまして、癩
患者を救済したといううるわしい事跡もございます。またザビエルが四百年前に入
つてから外国の文物が次第に入りまして、
日本の各所にも癩病院ができるようにな
つたことでありまして、これを続けて行きましたら、四百年以後においては癩病は根絶するのでありましたけれ
ども、不幸にしてこれは天主教の弾圧がありまして、遂に隔離することができなか
つた。これがために
日本における癩
患者が、徳川時代から今日に至るまで根絶しないのであります。西洋ではもう十世紀から十三世紀までの間に、隔離法によ
つて癩
患者が絶滅いたしましたので、ザビエルが来ましたときも、西洋にはほとんどなくな
つておりまして、
日本に来て目についたのは、浮浪徘徊の徒が各所にこじきをしておる哀れなる姿であります。明治時代になりまして皆さん御記憶もないことと思いますが、明治初年に非常に悲惨なことがありました。高橋お傳と申します女が、
自分の亭主が癩病であるために、いろいろの罪惡を犯しまして、遂にこれが絞首刑になりましたというお傳地獄というような本も出ておりますが、これが
日本でいろは歌にも歌われて、非常に有名な事実であります。ところが明治の世の中で、
日本で癩病のことについて真先に注意いたしましたのは、大学におるドクトル・ベルツという人が、
日本に癩病が十万もあるというようなことを申し、非常に警告を與えました。しかしみんなはこれは遺伝病であるというので、依然として
患者は四国の遍路だとか、熊本の本妙寺の清正公だとか、あるいは高野山、または大都会の神社仏閣の地に、浮浪徘徊をいたしておりました。これについては国際間にも非常なできことがございましたので、たとえば
日本からカリフォルニアに行
つたところの者に癩病があ
つたというので、遂に移民制限、あるいは移民追放というような事態にな
つたことは御承知のことと思います。それで明治三十年にヨーロツパに唯一の癩病王国としてあ
つたところのノルウエーに、当時癩が隔離によ
つて漸減したという時代において、ドイツのメルネルという西の方の郡内に、癩
患者が十二人ばかり現われたのであります。これについてドイツの学者
たちはこれはたいへんなことである。癩は伝染であるから、この十二人を放
つておくと、遂にはヨーロッパの中世における大流行したような事態になるというので、ただちに世界の学者、癩病がある国の学者をベルリンに呼びまして、第一回癩
会議というものを開いた。その結論は癩は黴菌によるところの伝染病である、これを根絶せしめるのには隔離法による以外にないという結論に達しました。それによ
つて日本からも代表者が出まして、その当時土肥慶三博士という人が参加いたしました。また論文を
提出したのは伝研の北里博士であります。こういうようなことから自然に
国民が注意をいたすようになりまして、埼玉県の
医者である代議士の齋藤壽雄という人が、明治三十六年に議会に癩予防法に関するところの建議案を出した。それから山根正次氏という人も毎議会に癩の問題を
提出いたしました。
民間におきましても明治二十二年に御殿場に復生病院というものができましたり、熊本には明治二十七年に回春病院というものができました。東京の目黒にも慰發園という病院ができまして、また身延山には五、六十人から百人余の
患者を外国人及び内国の資力によ
つて養
つておるというような状態であります。その当時三十二年から四十一年の十年間に
政府も気をつけまして、数回の調査をいたしましたところが、三万人ないし三万六千人という数を発見いたしました。その当時に癩としてその各地方死亡診断書が――毎年二千人、多い年にに三千人というような癩
患者が死亡いたしました。むろん癩でありますから、死亡診断書は正確ではないから、それに数倍あるところの数が死んでおるということがわかるのであります。そいうような有様で、
政府なり
民間の有力者も、これは外国人にだけまかすべきものでないというので、明治四十年に癩予防に関する
法律というものを議会で取上げられました。それによ
つてまずさしあたり
日本の三万六千人の者も、一度に隔離するということはずいぶん困難なことであるということで、そのうちでも一番目について病毒を散漫せしめるところの俘浪徘徊の徒だけでも、ひとつ何とかして地方費によ
つてこれを隔離しようという案ができまして、その実行が明治四十年、今から
ちようど四十一年になるのでありますが、その当時この浮浪徘徊の徒はどのくらいあ
つたかというと、千二百人ばかりありまして、これを
全国の五箇所の療養所に入れた。これは長くなりますから省略いたしますが、その五箇所というものは青森と東京、大阪、四国、熊本、この五箇所に千二百人の
患者を隔離いたしました。
そういうようなことでありましたが、これをますます議会の問題にするについては、御記憶でもありますかもしれませんが、明治三十九年に野口寧齋という詩人がありまして、その詩人が癩病なるがために、その一族に非常な悲劇が起
つて、遂にこれが殺人をいたすようなことになり、寧齋がしたのではないので、その婿にあたる人が金に困
つたり、あるいは野口寧齋の病気をなおすためにした。どういうことをしたかと申しますると、その当時臀肉切取り事件というのがありました。というのはある小僧が番町の土手で、臀肉を切取られて死んでお
つたという事件が起りまして、これはだれがや
つたかというて捜査の結果、こういうような残虐なる犯罪を犯すというのは、何か、天刑病のような人がや
つたのであろうというて、麹町中探しましたところが、野口寧齋が病気にな
つてお
つた。それからまた娘さんに恋着する者があ
つて、その恋をかなえるためにこういうような残虐行為をしたということがわかりました。この臀肉切取り事件というものをもう少し深く探
つて行きますと、支那の本の中、また朝鮮の本の中に、癩病は人の肉なり人の生肝を食わすとなおるという
一つの伝説がございます。これによ
つてこういうような凶行が起
つたものでございまして、そういうようなことは、
日本ではそのような本によ
つてようようわか
つたのでありますが、朝鮮では人の生肝を食えば癩病はなおるという伝説がございまして、朝鮮では殺人というものを調べてみると、たいがいそのうしろに癩病があるということがわか
つたのであります。そういうようなことで、朝鮮人の殺人犯罪は年々多数に上
つております。この癩病は朝鮮の南部には非常にたくさんあるということがわかりました。しかしながら日韓併合のときには、内地に渡航するものが非常に少か
つた。ただ内地だけの癩病を收容してお
つたのであります。しかし自暴自棄にな
つてお
つたところの
患者の中には、療養所の安定した生活によりまして非常に打
つてかわ
つた人間にな
つた者もあります。しかしその千二百人の病歴を探
つてみますと彼らはか
つて浮浪する前には、首をくく
つて死に切れず、あるいは海に入水して死に切れないという経歴を持
つていない者は一人もなか
つた。さように癩
患者というものは恵まれない、悲惨な生活を送
つて来たということは、御承知のことだと思います。しかし大部分の
患者は生活の安定を得て、療養所を
一つの楽天地としようとする者がある反面において、浮浪徘徊者の常習であ
つた賭博がはやりまして、そしてこの賭博で金銭のやりとりをしてまつ裸になるまでも取上げるというわけで、逃走
患者が絶えなか
つたのであります。それが外部に出てまた浮浪徘徊するという状態にな
つたのであります。またそのうちには、実に神妙な人間が大部分を占めておりまして、身を殺して仁をなすというような
患者さん
たちもたくさんありました。しかし自暴自棄のために人の迷惑を
一つもかまわないで、蹴込みとか、窃盗あるいは強盗というようないろいろの犯罪をする者が、これは少数でありますけれ
ども、そういうような犯罪者ができました。これはもちろん初期の療養所というものは、今日のごとく明るくなか
つたのであります。そこで秩序を保ち、これを救う方法について、
政府でもまた療養所当局も困り抜いて、遂に大正五年に懲戒検束の
規定というものができまして、警察署程度の治安維持、悪いことをしたら一時そこに入れるということにな
つたのであります。これでよほど賭博等の犯罪は少くなりました。また院内の秩序もやや回復いたしましたけれ
ども、これくらいのことではなかなか承知しない
患者が数人はあ
つたのであります。私
どもの配慮でも松原健三郎あるいは山田徳一というような非常に凶悪な
患者がおりまして、それが
日本全国を荒しまわ
つたというようなことがございます。しかし何とかして秩序を保たせたいというのが私
どもの気持でありまして、生活、治療等も改善されて今日に至りました。そのうちに
政府も、
日本中に三万からあるものをわずか千二百人くらいな收容ではとうていだめであるというので、数回の拡張が行われたのであります。そうこうするうちに日韓併合ということになりまして、朝鮮人も人づて参ることになりました。当時
日本には三万おりましたが、朝鮮人にもそのくらいな程度の
患者がおりました。その後次第々々に移動して参りました。その朝鮮の
患者は、朝鮮独特と申しますか、殺人を平気でやるような凶暴な者が出て来たのであります。それでただ内地の
患者だけではなく、朝鮮の癩
患者も引受けなければならぬということで、一視同仁的に今日まで続けて来たわでございます。療養所の拡張に伴いまして遂には五千人八千人とふえ、私
どもは一万人を目標にして進んで参りまして、今は十箇所の国立療養所が八千三百人くらいを收容しておるわけであります。今日ではいろいろの御配慮によりまして、
患者の生活は昔のようではなく、また浮浪徘徊の徒ばかりではなく、りつぱな人もたくさん入
つておるのであります。しかしまだ自暴自棄的の精神がありまして、院内において少数の惡い
患者が、院内の安寧秩序を乱すというようなことがま
つたくないではありません。これに対して私
どもは四十年にわた
つて、何とかしてこの矯正策を
政府も
考えてくださいますようにお願いいたして参りました。しかしながらなかなかそれの実行ができませんので、一時刑務所に送るというような場合もございましたけれ
ども、そういうようなものは不必要である。かえ
つて窃盗、強盗あるいは殺人までも犯した者を刑務所に長く置くことはできぬというようなことで、こういうような者が執行猶予にな
つて、病人であるから当然療養所でこれを治療してやれというような要求がありまして、それにはほとほと困
つたのであります。癩
患者なるがゆえにということで執行猶予になりました者で、入
つた者はまたいろいろな悪事をいたします。それをやる場所がないようにな
つて来ました。憲法発布になりましてから、懲戒検束の
規定も取消しにな
つたので、今はほとんど制裁することができないような状態にあります。御承知でもありましようが、先日――一月十六日でありまするか草津において凶暴な
患者がおりまして、これを朝鮮の多数の
患者が撲殺したというような前代未聞の犯行がありましたことは、まことに遺憾なことでありますけれ
ども、今かような凶暴な者を取締るところの方法がないのであります。院の者もやはりまる腰でありますし、またこれを警察の方に伝えましてもどうすることもしないので、そのためにかような凶行が起
つたことはまことに遺憾なことでありまするが、今後においてかような者は何とかして制裁をしていただかなければならぬ。癩
患者は病人とは申しますけれ
ども、手足はまだきくような者が多いのでありまして、院内においてもいろいろの相当な作業もいたしまするし、労働能力も相当ある者が多いのであります。それでこれを療養所に入れておきますと、多数の、八千三百人の安寧秩序を害するというような結果になりまして、また彼らが数人団結して院内の治安を撹乱するという場合において、前から申しましたように、職員はまる腰でありまするから、何ともこれを懲戒することもできなければ、実に危險な状態にな
つております。それで近年、ことに朝鮮人の内地に移動する者が多くなりまして、これはあたりまえに査証を受けて入る者もございますが、密航する者も多数にある。これが山口県とか福岡などの炭鉱とか製造工場に人りまして、そして軽いうちは労働に従事しておりますが、次第々々に重くな
つておる者がたくさんございます。こういうような朝鮮から密航した者が今どのくらいあるかと申しますと、
全国の療養所に五百人ほど入
つております。また外部で朝鮮人の癩が自由に行動をいたして、あるいは酒を密造するとか、あるいはやみをやる者が、さような
患者の中にも五百人ぐらいはあるのであります。今日は
日本内地における一万二千人の者については、八千人だけは療養生活をすることができるのでありますが、朝鮮の安寧、秩序が維持できないために、せつかく
日本人が向うに行
つて、宇垣総督時代にこしらえたところの六千人を收容できる世界第一を誇る療養所が、終戰のときに
日本人の管理者はみな追い出されまして、ほうほうの体でまる裸で帰
つたというような状態でありまして、院内の秩序が乱れて来まして、逃走が相次いでおります。そのために内地にたくさんの朝鮮人の
患者が入
つて来るので、
日本は朝鮮の癩
患者まで今日はおせわしなければならない。これは人道上でありまするから当然ではあるようなことではありまするけれ
ども、こういうような荷やつかいなものが中に入るために、またこの院内の安寧秩序を維持のできないような状態に今日はな
つて参りましたことは、まことに遺憾なことであります。
ちよつと朝鮮の小鹿島のことを申し上げますが、これは宇垣総督時代にできたところの療養所でありまして、明治天皇の御存命中に御下賜金として三十万円というものが朝鮮の癩のためにくだされたのであります。これで小鹿島という所に囲いをいたしまして、約百人くらいおりましたけれ
ども、朝鮮ではますます癩
患者はふえるいうような傾向になりました。
ちようど
昭和十年ごろの調査によりますと、一万三千七百人ほどおるということにな
つて参りました。近来はますますふえて、私
どもの推定によりますと朝鮮の全羅南、北道及び慶尚南、北道には、一万八千人の癩
患者がいる。全朝鮮には二万人の
患者がいるということに推定数が出て参ります。この内地の
患者に対する方策はいろいろの配慮によりまして、本年は約一万人ばかりの收容力を持つ。それで元三万人あ
つた癩
患者は、今日は一万人に減
つたという非常に
けつこうなことでありますけれ
ども、また朝鮮の癩の新勢力が内地にどんどん浸潤して来るということはまことに遺憾なことでありまして、皆さんにこういうような点についてもお
考えおきを願いたいと思います。そうしてこれらの朝鮮人は、いずれも貧困にして朝鮮においては食
つて行けないような
人たちが多いのでありまして、内地の労働力の足りない虚に乗じて内地に潜入いたします。かようなわけで、今後この対策は皆さんに御熟考をお願いしなければならないのであります。今回の草津事件は、たくさんの朝鮮人が、手に手に物を持
つて三人の者を撲殺したというようなことでありまして、私
どもはまだその裁判とか、
法律のことについてはよく承知いたしませんが、刑務所に入れても、病人なるがゆえにただちに執行猶予にするというようなことにな
つておりまして、内地の
患者に対しても困る上に、朝鮮人の犯罪行為を取締る方法がない状態にな
つておりますので、このことは皆さんのお耳に入れておいて、今後これでよろしいかということについてお
考えおきを願いたいと思うのであります。近来療養所の八千三百人の
日本人は、おかげさまでおちついてはおりまするが、人を殺すことを何とも
考えないような朝鮮の癩
患者を引受けなければならぬという危険千万な状態にありまして、
患者の安寧秩序が乱され、また戰員も毎日戰々兢々としてこれらの対策に悩んでおるような状態でございます。今日は草津に現に園長としておられる方がおいでにな
つておりまして、何かお話をしてくださることと思いますから、私はこのくらいで終ります。