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久下政府委員 このたび
草津楽泉園癩療養所に
不祥事件が起きまして、各方面に御心配をおかけいたしましたことを、私
ども関係者といたしましてたいへん恐縮に存じておる次第でございます。
事件発生を聞きましたので、さつそく私
どもといたしましては、前
園長をしておりました
玉村技官、そのほか担当の
佐藤事務官との二人を現場に派遣いたしまして、詳細に
調査をいたさせたのであります。その結果に基きまして
事件の概要を御
報告申し上げたいと存じます。
この
事件の発端は、私
どもり
調査いたしたところによりますと、昨年九月の
朝鮮人連盟の
解散がありましたとき、その当時までは
朝鮮人連盟の
支部が
楽泉園の中に置かれてあ
つたのでございます。
連盟解散と同時に
支部解散をいたしまして、
在職朝鮮人六十名をもちまして、
協親会という
親睦団体をつく
つたのであります。もつとも
楽泉園の
入院患者総数千八十名は、これまた別に全体として
総和会という
患者の自治的な
団体を持
つてお
つたのであります。今申し上げました
協親会は
総和芸の一分会のような
関係にな
つてお
つたのでございます。新しい
協親会ができましたときに、
協親会の
役員になり欲した者が、旧
朝鮮人連盟支部時代の野部三名に対しまして、
会計帳簿を焼いてしま
つたことは、何か
会計上の不正があ
つたのではないかということを難詰したそうでございます。そこで旧
連盟支部幹部の者としては、そういうような
関係もありまして、
協親会に加わらずに
反目の
状態を続けて
参つてお
つたのであります。たまたま十一月十八日になりまして、
東京都の保健所から送られて参りました
中岡哲夫、多
原利夫、これが今度の
被害者中の二人でございます。
中岡哲夫というのは
朝鮮人であります。多
原利夫というのは
奄美大島出身の者でございます。この二人が入
つて参りましたところ、
協親会の
幹部に不平を持
つて反目しておりました少数の人がこの二人の者を
部下に引き入れる。さらに十二月二十七日には同じく大阪から送られて参りました
大和博という日本人を
——これも今度の
被害者の一人でありますが、それぞれ
部下に抱き込みまして、そうして
反目抗争をますます激化したということでございます。具体的に
暴行事件が起りましたのは、十二月十日に、先ほど申し上げました
中岡がタバコの代金七十円の
請求を受けたときに、いきなり怒
つて請求に
行つた者をなぐ
つたというような
事件がありました。さらに十五日には先ほど申し上げた旧
役員のことに関して、やはり
大山という
協親会に属しております者を殴打したというような、ごく小さい
事件があ
つたのであります。十二月の二十二日には、今申し上げました
大山、
中岡両名が、池谷という
患者のいる部屋に参りまして、
ガラス戸を破
つて、あるいは障子を破損したりというふうな
暴行を働いお
つたのであります。
さらに直接の今度の
事件の近因と申しますのは、十二月の二十九日になりまして
——もともと
癩療養所におきましては
患者に酒を厳禁いたしております。ことに最近
プロミンの
治療が始まりましてから、
プロミン治療中は悪影響もありますので、特に
患者には絶対に酒を飲むなということに嚴重にや
つてお
つたのでありまするが、この
中岡はか数名の者は二十二日の日にも、また先ほど申した十二月の十五日にも、さらに二十九日にも酒を飲んでお
つたようでございます。そして二十九日には
協親会の会長をしております、同じく
朝鮮人の
星政治という人の家へ参りまして、たまたま
星政治が水泡のために発熱して寝ておりましたときに
行つて暴言を吐き、本人及びその妾を殴打し、器物を破壊するというような
乱暴を働きました。これらいずれもいわゆる
暴行事件が起きたのでありまするけれ
ども、御
承知の
通り癩療養所におきましては、
患者の
生活の
場所でもあり、また
治療の
場所でもあるというような建前からいたしまして、
患者の自治的な組織ができておるのであります。この種の問題につきましては、
総和会の中に
保安委員というものがありまして、
事件の起きました場合には、自主的にこれを解決するという
方法をと
つてお
つたのであります。一方
暴行を受けました、それぞれの
被害者の方は、後難を恐れましてこれを届けなか
つたのでありまするが、二十九日の
暴行事件につきまして、その妻がある人に話をいたしましたので、これが
総和会に知れることになりまして、
総和会の
役員が、
療養所の職員に知らせるというような段取りから、一
応協親会の
役員を呼んで事情を聴取する。いろいろ聞いてみますると、なかなか不穏な
形勢でほ
つておけないというので、さらに
草津警察署に
連絡をいたしまして、
警察署から四名の警官に来てもらいまして、立会いの上で
加害者の方も取調べをいたしたのであります。この際いろいろ問答がございましたけれ
ども、結同
暴行を働いた者も、
暴行をしたことが悪か
つたということを認めてはおるのでありまするが、これらの経緯を通じまして、
患者の
総和会及び
協親会といたしましては、この種の
乱暴者か園内にお
つたのでは、とうてい
自分たちは安心して
療養に努めることができない、
園長はこの問題について根本的な
対策を講じてもらいたいという要望があ
つたのでございます。
園長といたしましても、これを何とか善処したいという約束をいたしまして、正月を経ましたのでありますか、一月の三口ごろになりますと、再び不穏な
形勢にもなりましたので、
草津警察署に
連絡をいたしまして、一月の五、六、七の三日間にわたりまして、毎晩警察官を二名ずつ徹夜で警戒に当
つてもらうというような
処置をとりました。一方
園長はこの問題の解決の方途を見出すために、一月の六日に
本省に出て参りました。たまたま
熊本県の
菊池襲萬という
癩療養所の所長が上京しておりましてこの両
園長の話合いによ
つて、
熊本の
菊池惠風園の
園長が、そういうことであれば、
自分の方で
乱暴をする者を
引取つてもよろしい、こういう快諾を得たので、
園長は非常に喜んで帰
つたわけであります。
園長の考えとしては、相
反目する相手方がいなくなれば、もちろん解決するだろうというので、その
処置を非常に喜びまして、
帰つていろいろと当該の
患者をなだめた。初めのうちはどうしても出ないということでありましたが、やつと
承知をいたしましたので、
鉄道当局に対しても、
患者輸送用の配車についていろいろと懇請をいたしました。大体数日を要しましたけれ
ども、一月の十九日に
楽泉園を出発して
熊本に送ることができるというようなことに相な
つたのであります。ところが一月の十三日になりまして、上毛
新聞に、狂暴な
癩患者に手をやく
楽泉園という見出しで、今申し上げた暮の
暴行事件が載りましたので、
中岡を主とするこれら転送しようとしております
患者は、再び考えをひるがえしまして、そういうことを言われるようでは、われわれは死んでもこの
療養所を去らないということを言い出したので、
園長としても、そういうことをされればますます混乱を生ずるばかりであるというので、極力説得をいたしまして、ようやく再び
熊本に参ることを承諾させたのであります。その際に、当該
患者は、おれたちは行くから、そのかわりに
自分たちはオーバーも買わなければならぬし、背広もつくりたいし、また米も一斗くらい持
つて行かなければならぬから、三人に対して二十万円の見舞金を寄こせ、こういうような要求を出したそうであります。しかもこれは
楽泉園当局からはもらいたくない。
患者自身から出してもらいたいというようなことを條件に出したそうであります。最初は二十万円でありましたが、最後には結局六万円でよろしいというような話になりました。
総和会の
役員としてはみなにはか
つたそうでありますが、まあこの際こういう
乱暴者が出てくれればそのくらいのものはわれわれで何とかしようということに相な
つたそうであります。さようにして一応十九日を待つばかりの態勢にな
つてお
つたのでありますが、十六日の
事件当日の夕方になりまして、
中岡ら数名の者が町から酒を買
つて来て、
自分たちの寮舎に集ま
つて、飲んでお
つたそうであります。その裏手に当る
協親会の事務所といいますか、ある
患者の宿舎に
協親会の
役員その他が集ま
つて懇談をしてお
つたそうであります。このときの
状況について、某
新聞には、
協親会の
役員も酒を飲んでお
つた、新年宴会をや
つてお
つたという記事がございましたけれ
ども、これは
調査をいたしました結果、全然虚報でございまして、お茶を飲んで
協親会のことについていろいろと話合いをしてお
つたという
状況であります。一方酒を飲んでおりますうちに、朝鮮語で何か言
つてお
つて、はつきりしなか
つたそうでありますが、とにかくいきなり大きな声をしまして、
中岡が立上りまして、そのあとに、殺された大和、多原の二人かついて、
協親会の
役員が話合
つてお
つた部屋におどり込みまして、短刀を畳に突きさして、おれたちはお前たちを殺してやるというような脅迫をいたしたそうであります。
協親会の連中は非常にびつくりいたしまして、ある者は逃げ出し、ある者は
中岡を後からかかえて、その短刀をもぎとるというようなことをいたしました。その
形勢にうしろの方に待
つてお
つた二人の者は、天理教の教会堂でありますが、そこへ逃げ込んだのであります。そうして今までのうつぶんもあ
つたのでありましよう。一時に
協親会の連中がわき立ちまして、手に手にこん棒、スコップ等をもちまして逃げて行
つた患者を追いかけて行くという事態か起
つたのであります。
中岡もまたこの
形勢に驚いて、分館と申しまする
患者地帶と職員との地帶をわけております、ちようど中間の
連絡の
場所のようなものでありますが、そこに
中岡が参ります途中に、分館の事務官をしております者か出会いまして、おれはこれから
総和会の
役員を殺してやるのだというような暴言を言
つておりますので、何とかなだめすかして分館の中に連れ込みまして、まきをしま
つております片隅に身柄を隠した。
中岡のほかに岡という者がおりましたが、たけり立
つた群衆は分館をとりかこみまして、
中岡がここにいるはずだから出せということを盛んに言
つたのです。分館の事務官は絶対にいないということでがんばり続けて、そのうち
園長も急を聞いてかけつけて来ました。ともになだめたのでありますが、とうとう最後はいないということは言い切れなくなりました。おるのはおるけれ
ども、お前たちの前で十分陳謝させると同時に、身柄は警察に引渡すからそれで納得しろということで、
中岡を引渡して陳謝をさせたそうでありますが、そのときの
中岡の態度が非常に不遜であ
つたということであります。そこで
患者は再び激昂いたしまして、
園長と事務官を外に引きずり出しまして、中へ躍り込んで、その
場所で
中岡をなぐり殺してしま
つた、その前にさつそく警察に
連絡をいたしたのでありますが、警察官の来援が非常に遅れまして、何らなすすべもなくやられてしま
つたのであります。間もなく警察からも参りましたが、一方
園長といたしましては、警察官が来る前から職員十数名をも
つて、天理教会へ逃げ込んだ者を一応庇護するような措置を講じてお
つたのでありますが、警察官も参りましたので、再び二人ほどの警察官に一緒に応援してもらうという措置をと
つたのであります。
中岡を殺しました大衆は、再び天理教会に帰りまして、中に逃げておりました大和、多原という二人の
患者を、これまたスコップとごん棒でめ
つた打ちにして、ほとんど半死半生にしてしま
つた。そのうちの一人はまだ若干息もありましたので、職員は
治療をしてやろうというので、むりやりにやかましく申しますのを引取りまして、
治療室に辿れて来て
治療をした。その
治療か終ると、再び大挙して皆が押しかけて参りまして、
治療した
患者を連れて行
つて再び完全に息の根をとめてしま
つた。大体
中岡が殺されましたのが午後十一時ごろ、最後の大和、多原の二人が殺されましたのが午前二時ごろで、問題は午後九時ごろから午前二時ごろまでの間の
事件であ
つたのでございます。そのほか
中岡、多原の側に立
つておりました
患者五名が、いつの間にか
療養所を逃げ出しまして、今のところそのうちの二人は埼玉県へ逃げて参りまして、浦和の辺で自動車窃盗の容疑でつかまり、
癩患者ということがわかりまして、
草津の方に
連絡かあ
つたそうでありますが、どうも
患者の
状況から、入れていいかどうかわからぬということでありましたので、結局これは私の方で
連絡をいたしまして、
東京の多摩全生園に收容してもらうように
処置いたしたわけであります。その他の者はまだ行方がわからないのであります。これが
事件の概要でございます。私
どもとしては、はなはだ遺憾な
事件が起きて申訳ないのでありますが、この善後
処置につきましては、まず一つには、
患者の
遺族でもありますれば、適当な
方法を講じたいと思いまして、いろいろと捜査をいたしたのでありますが、身柄の引取りをする
遺族も、その五名とも全然ございません。園におきましてだびに付して、職員、
患者代表立合いの上で埋葬をいたした次第であります。
さらにまた
加害者についての
処置でありますが、これにつきましても、私
どもの手で是非善悪を
調査するということもできませんので、さつそく法務府に
連絡をいたしまして、司直の手によりまして、適当な公正な処断をしていただくように
処置いたしたわけであります。法務府からも係の検事に行
つてもらいまして、ただいま地元
警察署あるいは国警本部、検察庁等にお願いをして、捜査が進んでおる途中であります。
事件の概要は以上の通りでございますが、何分にも夜間のことでありまして、しかも大衆か参加しておる
事件でありますので、それのみでも
加害者を明白にすることは、きわめて困難な実情にあるように思わ礼ます。同時にまた
患者相互の間におきましても、
朝鮮人の
関係の
協親会の人たちは、これはわれわれだけがや
つたことではない。
療養所の職員、
患者全体でや
つたことだ、こういうことを言い、また一方の
患者は、いやこれは
朝鮮人の
患者だけがや
つたことであるというふうな、責任のなすり合いも若干起りつつあるのでありまして、今後の捜査の上におきましても、いろいろな困難が起るのではないかと考えておる次第であります。
それからもう一つつけ加えて申し上げておきたいのでありますが、
中岡、多原というのは、先ほど申し上げましたように、昨年の十一月十八日に
東京都の保健所から送置された
患者でありますが、その前身あるいは入所前の行動等につきましては、つまびらかにする何ものもないのでありますが、二人の
関係は親分、子分の杯をかわしているという話もあります。また入りましてから
暴行事件には、
中岡という男が主としてや
つてお
つたような
関係かあり、また常に短刀をふところにしてお
つたというところから察しまして、入所前におきましても、
相当な
乱暴な、あるいは不正なことを犯しているのではないかというふうに想像されるのであります。また十二月二十七日に大阪府から送られました
大和博という、今度の
被害者の一人でありますが、これはか
つて奈良県におきまして、仲間とともに強窃盗を働きまして、そうして警察官に捕縛されようといたしました際、呼子を吹きました警察官をうしろからこん棒でなぐり、昏倒させました。結局は他の警察官につかまりまして、留置所に入れられたのであります。留置所におきましてはとびらに手をはさみまして、絶対にこのとびらを締めさせません。しかたがないので、警察官は終夜拳銃を擬して警戒をしてお
つた。結局
癩患者ということがわかりましたので、警察官が武装警官の護衛の上で、長島愛生園に他の
患者とともに送られて参りました。そのときにも、大和は非常な
乱暴を働いて、なかなか入所しようといたしませんので、長島愛生園の所員数十名と武装警官が拳銃を擬しながら、ようやく部屋の中に押し込んだというのであります。その晩もさつそく逃亡いたしまして、そして同じ島にあります邑久光明園というのに行きましたところ、守衛に発見されまして、ここでまた
乱暴を働いて、職員の一人は前歯を折り、一人は腕を捻挫し、一人は擦過傷を負うというようなけがをさせ、ようやく收容いたしたのでありますが、とてもこれではしかたがないというので、大和は間もなく大島青松園の近所にあります
療養所に送られたのであります。ここで約一年間はきわめておとなしくしてお
つたようでありますが、再び逃亡いたしまして大阪に参り、大阪の衛生部の職員であります婦人、これは
癩患者の世話をしている人でありますが、この人のところに来て世話にな
つた。そこでその人は、そういう前歴を知りませんでしたから、長島愛生園に再び連れて来たところ、こういうことをして来た男でとてもここでは引受けられないというので、引返しまして、結局
草津の
楽泉園にその婦人附添いで送
つて参りました。その間、その婦人には非常に世話にな
つておりますにもかかわらず、その汽車で
草津に参ります途中におきまして、その婦人の持ち金を窃取するというような行動をしておりました男であります。こういうことはこの種の
患者には非常に多いのでございまして、
癩療養所におきましては非常に手を焼いている問題でございます。すなわち
癩患者でありますために正規の裁判等を経ることなく、ただちに
癩療養所に送り込む。
癩療養所におきましてはもちろん
患者であるという面からの取扱い以上のことは何事もできません。結果としてかような
事件が起
つたというようなことでございます。このことは、ひいては今度の
加害者につきましても、殺人を犯しても
癩患者であるがゆえに放置されるというような気風を助長いたしますことは、今後の
癩療養所運営の上におきましても非常な悪影響を及ぼすことと思いまして、先ほど申し上げましたように、私
どもとしては検察当局に
連絡いたしまして、正しい公正な判断をしていただきたいということをお願いしている次第であります。
以上、概略でございますが御
報告申し上げます。