○金子
参考人 私、金子でございます。それでは
終戰後における
大連の
状況をお話しないと、私らのことがわからなくなりますから、一言言わせていただきます。
ソ連軍が
大連へ進駐いたしましたのは、二十年の九月三日だと覚えております。そのときの
状況を申し上げますと、
兵隊ははだしで、ぼろの服を着ておる。しかし持
つているところの自動機関銃は、りつぱなものを持
つてお
つた。よくも
ソ連はこれまで
兵隊をひつぱ
つて来た、実は偉いもんだという感じを抱きました。従
つてその
兵隊は粗野であります。一面野獣的性格を所有しております。それは当時シベリアにおけるところの木こり、あるいは囚人をかり集めて来たといううわさでございます。これは白城子の
方面から、蒙古の
方面から入
つて来たところのいわゆる戰車隊であります。当時イワノフ中将というのが
司令官になりまして、そこに司令部を設置いたしまして、そうして
もとの
日本の各警察の所在地に
地区司令部というものを置いて、治安を維持したのであります。そして軍政を布いたのでありますが、そのときは
中国側に対してどういうことをや
つたかと言うと、イワノフ
司令官は軍令をも
つて、当時
日本の統治時代の商工
会議所の会頭の遅雲祥というものを任命して、
ソ連の命令によ
つて、いわゆる
市政府の行政体系を整えたわけでございます。これは明らかに軍令が出ておりますから、軍政府の
もとにおいて地方政権を樹立したということは明らかな事実であります。この、行政の一翼として参議会というものができておりまして、その参議会なるものが、地方から選ばれていわゆる行政の諮問機関というようなことにな
つたのであります。こういうことをやりまして、市長を命令したが、
大連市の行政というものは、ま
つたく
ソ連の関知するところでない、外面的に民主自治である、その地方の人民によ
つて政治を
行つたらよろしい、
ソ連はただ軍政上の防備そのほかのことにおいてここに駐屯するにすぎない、こういう外面的のプロパガンダでありますが、内面はさにあらずして、一々
ソ連が指導していたことは明らかであります。そういうような当時の社会情勢から見て、軍政の
司令官が市の地方行政の長官を命ずるということが、国際的情勢としてはなはだ不利だということを
ソ連は察知すると同時に、今度は二十三年の十月に関東公署というものを樹立いたしました。これはまず第一に旅順にできた。このときの言い分がおもしろい。
ソ連がここに駐屯している問は、
大連いわゆる関東州の治安というものは確保しておる。だから地方行政というものは地方人の
考えにおいて、イデイーにおいてや
つたらよろしい。今度はいわゆる民主選挙、しかも代表選挙をや
つて、この関東公署の主席、副主席以下を全部選挙したわけです。しかしその選挙の方法は、民衆の行為においてや
つたと言いますが、今申し上げましたように、内面的にはりつぱな圧迫を加え、監視を加えた。そしてその上におけるところの
——衛生庁とか、行政庁とかいろいろあります。そういう庁の長官は旧知識階級の人であります。むしろ親日派、知日派でありますが、この人はいわゆるロボットであります。その下におけるところの副主席の三名のうち二名、各庁のうちの副庁長は全部共産系の人であります。しかし
ソ連は、一例として、当時私は
帰りたいから、
ソ連のゲルハノフ中佐に公署の性質を尋ねました。
日本の技術者をこんなにもお残しになるのは、どういうわけであるか。
ソ連にもりつぱな技術者がおられるだろう、何も
日本の技術者をお使いになる必要はないじやないか。
ソ連の医学によ
つて、
ソ連の技術によ
つてこの
中共をリードされたらいいじやないか。私
たちはもういらないものだから帰してほしい。どうぞ関東公署に
ソ連司令部からこれを御通達願いたいと言
つたところが、ゲルハノフ中佐、これは軍医中佐で共産党員でありまして、人格者でありますが、しらじらしき回答を私に與えました。こんな回答を得たのです。あれはね、
ソ連とはま
つたく
関係がないのだ。
ソ連の軍政下において、ま
つたく
関係ないところの地方行政を、よくお許しになりましたねと言
つたら、それは世界に
一つしかない行政形態である。民衆の行為においてでき上
つた行政形態である。だから
ソ連はこの行政に対してはタッチしない。それで君らを帰す帰さないということは、ぼくらはどうにもできない。それはあなた責任を持
つてお答えになりますか。責任を持
つて答える。それではちよつとお伺いしますが、あの関東公署が、私らを帰す船を仕立てることができますか。
日本国と交渉ができませんが、世の中の独立政体とお認めになりますかと言うと、それはまだできない。それでは
ソ連の軍政下において、そういう政体をお許しになるということは、私は不可能だと思いますがへいかがですか。それは君の解釈次第だ。もう
あとはとりつく島もありません。そうしておいて、それから一箇月たたないうちに、
ソ連は正々堂々と
日本人の
引揚げを発表しておる。こういうようにして、
ソ連は外面はま
つたくこの政体にはタッチしない、あくまでもそうだというしらじらしいうそを言
つておる。少し社会情勢がわかる人間が聞いたら、噴飯にたえないようなことを、平気でおつしやる。ここに
ソ連の性格があり、
ソ連の行政の妙味があると私は信じておる。いいとも悪いとも申しません、
ソ連のいわゆる
政治、外交の機微があり、妙味がある。これだけを申し上げます。私の批判の限りではありません。そうしてこの関東公署なるものが、いわゆる地方人の名において行政をと
つてお
つたのであります。ところが社会の情勢が再び進展をして、西欧の情勢、東欧の情勢がああなりましたら、今度は
昭和二十四年三月、全然
大連は赤色化しました。そのとき関東公署の上に掲げられたものは何であ
つたかと言うと、旅大行政公署を樹立して赤旗が立
つておる。
ソ連の旗は御案内の通り、赤の隅つこへ持
つて行つて星章とハンマーとかまがくつついておりますが、この星章がないだけで、
あとは
ソ連の旗と同じである。この旗が三日を出ずして
大連中に充満したという事実は、これは
大連に、
日本からも絹は来ません、木綿も来ません、どこからもそういう輸入品はありません。どこから来たか、皆さん御想像でおわかりになると思います。同時にトランペット、いわゆる軍楽隊の楽器が
大連に充満しました。各企業体系はその旗とそれからスターリン閣下の写真、モロトフ、レーニンの写真、毛澤東の写真、これあたりの写真も、疊一疊敷きぐらいの大きな布を持
つて行つて写真で出しておるのですから、相当な技術を要しております。当時
大連にはそういう技術はありません、無論
日本からも輸入はいたしておりません。しからばこういう旗あるいは写真はどこから来たか。まさか天から降
つて来たのではないと思います。来るべきところから来たのだと思います。ここにおいて、ま
つたく関東州の行政というものは、いわゆる共産党系の行政に転換をしたわけであります。そうして各企業体には共産党党公弁署というものができまして、そこには党員が三名ないし五名駐在いたします。各企業体の長というものは、この党公弁署の党員によ
つてリードされた。たとえば
病院で言えば、院長なんというものは、これはただ席を持
つておるだけで、すべで
病院の行政などというものは、党員の名においてなされる、こういう情勢が
終戰後におけるところの
大連の行政形態であります。さてそれでは
終戰後の
日本人はどうであ
つたかと言うと、これは約七万五千とも申しますし、十万とも申しますが、そこのところは
はつきりしたことはわかりません。まあ十万とおぼしめしたら間違いないと思います。これが
終戰直後、ほんとうに飢餓戰線に彷徨したようなわけでございます。このとき、
中共のいわゆる
大連市公署、どこも特別に表立
つた救済の方法はお講じになりませんでした。各邦人が寄り
合つて、寄り合い食う道を選んで
行つたというような次第であります。それで
ソ連はまた偉いことには、
ソ連が進駐した当時、
日本の
団体というものは八箇
団体がありました。そこには愛労奉仕団とか、
大連奉仕団とかいろいろございました。私はその中の愛労奉仕団というのに参加いたしまして、顧問をしておりました。そこは田岡という航空大尉が
団長をしておりました。この人は全然国粋主義者で、むしろ神ながらの道を信じておる人であります。これは西
大連の難民救済をやるためにのし上
つた男であります。これが
ソ連に初め監禁されたのであります。そのときに
ソ連が、お前はどうして戰争に参加したか。その人いわく、あなた方がスターリンの命令によ
つてこの戰争に参加されたのと、私
どもが
日本国天皇の命令によ
つて戰争に参加したのと同じであります。
ソ連はそれつきり何にも言わなか
つた。そうして
ソ連の将校は、お前はほんとうの
軍人だ、よろしい保釈してやろうというので保釈された。それがいわゆる愛労奉仕団というものをつくりまして、赤十字の宿舎の一部を私
どもも貸してやり、その
関係で私は顧問にな
つたのであります。それが授産所とか託見所とかいろいろのものをつく
つたのであります。その後、田岡はポケットに多額の金を持つようになりました。おい田岡君、その金をどこから持
つて来るのだ。いやこれは
ソ連政府から持
つて来るのだ。
ソ連政府がそんな援助をするかね。する、だから心配しなくてもいい。ある日彼の宿舎に行きまして、疊の下をあけますと、ソ通票で十数万の金が置いてあ
つた。みな
ソ連からもら
つたと言
つてお
つた。かくのごとくにして初めは
ソ連が許しそうもない思想
団体までも、
ソ連はかば
つておりました。それが十一月でありましたか、一網打盡、いわゆるあらしが吹きまして、
日本人の
団体を全部キャンセルしてしま
つた。田岡は遂に縛られてシベリヤに送られた。
日本人の思想
団体は、全部調べられた。田岡はばかだからそれまでや
つていたのです。その後
日本人勤労組合という労働組合だけが許された。それから当時
日本人居留
民会が許されて相互扶助会ができまして、私はその常任
委員長となりましたが、結局全部解散して、そこに残
つた日本人の
団体としては、初めは労働組合と申しましたこの
日本人勤労組合、それが残されただけであります。この
団体でみな入会を強制されましたが、私は終始入りませんでした。入らなか
つた私が申しますと、非常に偏見になるように思いますから、控えたいと思いますが、私の入らなか
つた心境だけを申し上げます。この
団体ば、いたずらに
ソ連の手先となり、いたずらに
中共の手先とな
つて、邦人に対して何らの貢献もしない、そういう
団体であると信じたから、私は入らなか
つた。私は牢屋に入ると申されました。私は牢屋に入れられてもいいという覚悟で、また私は余生幾らもない男だから、断然入らなか
つた。私が、何で入
つたのだと同僚に聞きましたら、自分は入
つて労働組合を改造すると言
つてお
つたが、結局改造もできなか
つた。それから、君どうして残
つているのだと言うと、あれに入
つていると
日本に帰るときに都合がいいから。なぜかといえば、
ソ連は
引揚げの業務の
実態を労働組合に命じます。労働組合は
引揚げの事務をとるのですが、あたかも自分が帰すような顔をいたしまして、彼らににらまれるとなかなか帰れませんから、みな入る。私は死ぬ覚悟をしておりましたから、絶対入りませんでした。実例はいろいろございます。たとえば、私個人に対しましては
——委員長は、院長とおつしやいましたが、私は副院長であります。副院長なるがゆえに、当時の
中国の建設資金として十五万円の供出を命ぜられました。当時の十五万円という金は、副院長として幾ら金をもら
つてお
つたか忘れましたが、私は家族を身売りしても、そんな金はできません。それを私に十五万円命じたのが、
日本人勤労組合だ
つた。それから私は
中共に行きまして、何のために私を残すのか、私に技術を提供せよとい
つてお残しにな
つた。何で私に十五万円の要求をなさいますかと言
つて政府の首席に聞きますと、君らはそんなことはせぬでもよろしい、君らは技術をも
つて援助してくれればよろしい、金なんか出さなくてもよろしいということで、とうとう私は金を出さなか
つた。ところが、何か出せというので、しかたがありませんから、満洲国から初代の公使として
行つた除紹卿が私に贈
つた大理石のローマの娘がありますが、これを提供することにしました。結局提供いたしませんで
最後に私は家内を帰すときに金がないので、それを売りました。今それは北鮮の
鉄道ホテルの二階に安置されております。これが二万五千円で売れて、家内を帰す金がつくれました。これは私に関する一例であります。
日本人労働組合は、決して
日本人を擁護することはや
つていなか
つた、そのために私は入らなか
つた。これに対するいろいろな批判はありますが、私は体験がありませんから、外形から申し上げるのであります。こういう情勢におきまして、第一回の
引揚げは
昭和二十一年十一月から二十二年の四月の間に行われました。このときは邦人の大部分と不用技術者が帰ることになりました。そのときに七千五百名が残されたのであります。これがいわゆる技術者及びその家族であります。当時勤労者組合の
委員長をしてお
つた石堂君が、
ソ連の意向として伝えたところによりますと、原則として大部分は帰す。
——これは石堂君の言
つたことであります。企業体において経営上必要と認める者は強制残留をさせる、要請者に対しては優遇方法を講ずる。優遇があるにもかかわらず、なお帰国を希望する者は随意である、こういうことを発表いたしました。しかし当時衛生研究所の監督であ
つたソ連の将校が、本間博士に述べたところによりますと、今回の
引揚げで、
大連は
日本人七千五百名に対して五千名帰す、
あとの二千名は残さなければならぬ、これはどうしても残す。そして第二回の
引揚げが実施されたときには、はたして労働組合の言
つたことでなく、
ソ連の言
つた通りにな
つた。それでありますから、やはり
大連は
中共地区にあらずして、
ソ連地区で、
ソ連の意図によ
つて帰す帰さないがきま
つたことは事実であります。第三回の
引揚げは、今度私らが帰
つてきたものであります。そのときに、高砂丸でお
帰りになりました千二百名の問題がありますが、これは明らかに
中共の打
つたトリックでございます。第二回の
引揚げのときに、五千名が
引揚げて
あと二千名が残りました。このうちでどうしても千二百五十名は帰さなければならぬ
ソ連の計画であります。ところが千二百五十名帰すと
中共が因る。そのためにどう
ソ連と話合いをしましたか、工業庁長と
大連大学の学長と
中共の衛生所におる梁、この三人が芝居をしまして、今の高砂丸の千二百名という方をお集めしたわけです。ところが、
ソ連は絶対にこれに同意いたしません。そこでごたごたが始ま
つた。
引揚げ收容所に入れられた者の給與は、
中共がやるのでなくて、国際法上
ソ連がやるべき建前で、
ソ連給與になるのがあたりまえであります。ところが
ソ連給與にならずして、
最後まで
中共政府が給與いたした。その内面を物語るものとして、当時の工業庁長が、私らの仲間で今度
帰つて参りました島田という応用化学の方に語
つたところによると、君らは今度帰ろうと思
つても帰れない、君らのかわりに千二百五十名という人が
中共地区から来ておるから、ロシヤの帰す数に千二百五十名だから、君らの帰る席がない、だから君らは残
つたらよかろう、こういうふうなお話であ
つたことを総合すると、これは
中共政府のつく
つたトリックであると私は
考えております。それからこの技術者に対する待遇であります。これは私個人は
——こういうことを申し上げるのは、はなはだ心苦しいのですが、実は私はほんとうによくしていただだきました。
ソ連の進駐当時、百八十何名の医者のうちから十名が選ばれまして、私はスペシヤルの待遇を受け、そしてチケツトもいただいて、そのチケツトで、約二千円ぐらいの価格でありますが、実際品物を買うと二万五千円くらいの品物も買えます。それから相当の金もいただきました。しかし
中共の
方々は私らは
ちようどぶたか牛みたいに思
つておられるのです。とにかく金を余計や
つて食べさしておけば、それで
日本人は喜んでいるようにおぼしめしておられると私は
考えます。そのおつしやることには、君らは技術者として残らなければならぬ、それは君らは当然の義務がある。どういうわけで残らなければならぬ義務がございますか、ヤルタ会談によると私らは捕虜の取扱いは受けないものと思いますが、いかがでございますかと申しますと、いやそれは捕虜じやない、けれ
ども、
日本政府が関東州の行政をや
つていた間に、
中国人の
教育に重点を置かなか
つたから、
中国の技術は非常に低下している。そのためにあなた方は新
中国再興のために残る義務があるのだ、こういう話であります。また労働組合の
方々の御説明には
——私らは朝夕いわゆる学習というものを受けました。とういう学習かというと、その学習なるものは
日本軍閥及び
日本の従来の外地進出行為の批判、それからいわゆる新民主主義の
教育、
共産主義の
教育、これを朝から受けることにな
つております。これに出ない者はいわゆる反動分子。ところが私は
中国の偉い方に会い、当時の副庁長にも会いまして、あなた方は
中国の復興をやるのに思想戰を必要としておられるが、
日本人の眇たる私らに、その思想の参加を強要なさることは、
中国の恥じやないか。あなた方は思想戰で勝つのなら、思想でおやりにな
つたらいい、私らにまでその思想を強要される理由はどこにあるか。私らをして
内地へ帰したときに、いわゆる
共産主義の実行運動に私らを参加させようと思
つておやりになるのかどうかと言
つたら、いや、そんなことはない、あなた方はやらないでもいいのです、あなた方は
教育に出ないでもよろしい、技術さえ移譲してくれればそれでよろしいのだ。上の人はそう申します。ところが中間に立
つたわからず屋及び
日本人勤労者組合は、私らに共産
教育を強要した。だから、この共産
教育というものは、
ソ連はどう思
つていらしたか知りませんけれ
ども、私の見ている限りは、どうも眇たる千人や千五百人の私らに対しては、何ら関心は持
つていなか
つたと思います。それから
引揚げに関する限り、
ソ連は
日本人に対してあくまで友好的であ
つたということは、明らかに申し上げます。
中共は帰すまいとし、
ソ連は帰してやろうとする。これが
ソ連地区とちよつと違うところです。
大連地区とは、
ソ連はあくまで
日本人を帰してやろう、
中共はどうしてもこれをとどめようとする。その一例を申し上げますと、一昨年、二十三年の七月に第二回の
引揚げがございました。そのときに帰るということを言明した医者十七名、これが突然夜中に
中共の自動車によ
つて拉致されました。泣き叫ぶ子供を、あたかも荷物のごとくトラックにほうり込みまして、一部分は法院の下に監禁いたしました。私の友だちで今横浜の赤十字
病院の小兒科医長をしている牧君、この牧君の奥さんが非常に気丈な人で、拉致される瞬間に、どうして書きましたか紙に書いて、その紙を私らのポストに放り込んで
行つた。この方は非常に大きな声で泣き叫んだ。だから遠くへ連れて行くことができなくて、その御家族と
あとの二人は、すぐ
大連の法院の下に監禁された。ほかの者は、それからトラックに乗せて、関東州の一番先端の普蘭店へこれを監禁した。そうして監禁をしておいて、そこに何万という金
——何万と申しましたところで、そのときの
向うの金ですから、たかが知れている。何十万という金を積んで、さあここに残るということに判を押せ、お前
たちがどうしても判を押さなければ、奥地へ連れて行くと言う。だからやむを得ず
——その人の名前はみなここに載
つていますが、そこで判を押したわけです。ところが
ちようど私の家の近くでございますが、私の家も
ソ連人がおりましたし、私の家の前にはやはり
ソ連の将校がおりました。その
ソ連の将校が出て来てそれを知
つて、そこの第三両目のトラツクの運転手をつかまえで、どこへや
つた、それで
ソ連司令部で調べ上げて、
ソ連の力によ
つて普蘭店及びその法院からそれが引出された。それでその
人たちは、拉致されたおかげで運よくみな帰れたわけです。そうして、ほかの方は知りませんが、医療者の
引揚げにつきましては、今
日本人の技術者が
引揚げてしま
つたならば、
中国も困るだろう。これはもつともな話でありますので、
中国人と
日本人と連合いたしまして、帰還検討会というものをつくりまして、こういう人は帰してやろう、あ
あいう人は帰してやろうというので、円滑に第一回は帰したのであります。第二回からは、全然強制残留であります。しかし、やり方はそうしておいて、強制残留にしながら、そこで私が参議院で言
つたらしかられたのですけれ
ども、雇用形式的偽装捕虜というのはそこにある、つまり希望残留の形をとらされる、それはどうするかというと、私は最高俸給をもら
つておりまして、本俸は一万六千円、技術加俸が五万円、六万六千、相当なものであります。俸給のことをお聞きになるならば
あとで申しますが、技術加俸がこんなに多いのです。本俸が少く技術加俸が多い、ここに
一つのトリツクがある。本俸はどうしてもくれなければならぬが、技術加俸は本人の技術によ
つてくれてもくれなくてもいいものです。しかし一万六千円では当時食えません。それで帰るとか判を押さぬとか言うと、技術加俸をストツプする。家族を持
つておる者は、どうしても食えない。しかたがないからやむを得ず判を押す。私にも、二十三年七月に判を押せと言いました。私はこういうことを聞きました。その人は非常に共産党のわか
つた方でございまして、契約書に判を押せと言うから、契約書について法律がございますからひ
とつ聞きますが、契約書というものは相互の権利と義務を認めるものか、それを第一にお尋ねしたい。そうすると、そうだ認めるものだ。そうですか、それじやお尋ねしますが、六万六千円くれると書いてある、しかし私らは関東州の一官吏のかたわれでございます、あした給與令が改正にな
つたら、この六万六千円は、ふいになるだろうが、そのときに損害賠償で訴えられるかどうか。それはできない。船をも
つて必ず一年た
つたら帰してやると言われるがどうか。帰すと言う。船は
中共政府のどこから持
つておいでになるか、
ソ連の力なしに船が来ますか。いや来ない。それでは結局は義務ばかり負わされて、私らの権利というものはま
つたく砂上楼閣で、こんなものには判を押せませんと言
つた。あなたがもし私の位置に立
つたら判を押しますかと言
つたら、それは副院長で孫という方ですが、もののわか
つた人で、いや、私も押しませんと言う。とうとう私ら十名は押さなか
つた。押さなか
つたけれ
ども、いつ技術加俸をとめられて、あごの下が上るかもわかりませんので、私は二十三年に家族を全部帰しましてそうして私一人残りました。そうしたら、厖大夫、お前どうして一人で残
つて家族を帰したのだと言うから、あなた方にはわかりますまい、ぼくは今あなた方の前に裸にな
つて、あなた方が煮ても燒いてもか
つてにしろとい
つてひつくりかえ
つていると言
つたら、それはどういう気持か、実際その気持です、いつどうされるかわからない。そのとき家族があ
つたら私らは行動できない。今私は六十三の老齢ですが、その当時神経痛を持
つておりまして、自分で着物も着られなか
つたのですが、しかたなく家族を全部帰して一人残りました。そして私はあくまでも押さぬ。押さなか
つたから今度は帰れた、押したら帰れない。今もし皆さんが
中共の方に向
つてかけ合おうとすれば、自願残留だ、自分で願
つて残留しているんだ、こうおつしやいます。しかし私はあるところで申しました。つまらぬ例を引いて申訳ありませんが、強姦したという性的行為ば、和姦も強姦も性的行為は同じことだ。和姦と強姦のわかれるところはどこにあるか、抵抗力もなくなされて性的行為を実施された場合は、法律上強姦、だろうという場合と同じことだ。判は確かに押さざるを得ないような環境にして押さしたのだから、強制残留じやないか、こういうことになります。次は本問題の赤十字の問題に移りますが、赤十字は
終戰の翌年の六月まで、
ソ連の御理解ある
もとに独自の
病院として経営いたしておりました。
病院は全部接收されましたが、この赤十字は赤十字独自の
病院として残りました。私はこういうことを申しました。
日本が旅順を占領したときに、旅順に赤十字
病院があ
つたが、
日本は一年間そのまま置いて、遂にその当時三十万円の金でロシヤの赤十字
病院を買收している。だからあなた方はむやみにこの赤十字
病院を接收するわけには行かないでしよう。これはもつともです。話はもどりますが、
終戰後の十月三日の日に
ソ連軍が進駐しまして、私
どもの
病院を貸せとおつしやいますので、半分をお貸しいたしました。それで赤十字は独自の境地に置いておりましたし、また赤十字が経営が困難になりましたために
ソ連に向
つて赤十字の凍結されておる資金を出してもらいたい、三十万円を下してもらいたい。それから赤十字は赤十字の力において寄付金の募集をしてもよろしいかということを
ソ連にお願いいたしたところが、
ソ連はよろしいとい
つて全部お許しくださいました。しかし
中共政府に向
つてその命令を
ソ連が発したのですが、
中共政府は
一つも実施してくれません。そうして翌年の六月十日に
中共政府は遂に赤十字
病院を接収いたしました。どうして接収したかを
あとで聞きましたところが、赤十字は今
経済的に非常に困
つている、だから
中共政府はこれを助けてやる、経営を補助してやるんだということをゲルファノフ中佐に言
つたために、ゲルファノフ中佐はそのことを信用して、
中共政府が赤十字を接收することに同意したわけであります。その後市立
病院としてこういうふうな腕章をつけることになりました。ゲルフアノフ中佐はその
もとに来てクラスノゴー・クレスター、赤十字
大連市立
病院ということにしろ、こういうことをゲルフアノフ中佐が言
つたところをみますと、ゲルフアノフ中佐は
中共政府に
一ぱい食わされたんだと思います。そうして赤十字は六月遂に
中共政府に接收され、現在もその通りなのであります。その間において二十一年の五月に
中共政府は、安東
方面に非常に傷者が出ているから、赤十字は敵味方の区別なく博愛の精神において治療するものであるから救護班を出せ、こういう話でありました。長くなりますが、それについて生命、財産の安全等いろいろ保障を希望いたしまして、結局赤十字は三個班の救護班を三箇月の契約で出しました。ところが私ここに書いてありますが、あ
あいまだ帰らざる救護班、赤十字精神を蹂躙せる
中共軍、こう書いてあります。私らの要求は総班長の名において赤十字のリードをさしてもらいたい。この救護班を使う御命令があるならば、総班長を通じて命令をしてもらいたい。軍の編成の中には入れてもらいたくない。生命、財産については保障してもらいたい。三箇月のお約束の後には返してもらいたいということを言
つて出したのであります。ところが三箇月たとうが一年たとうが杳として返してくれない。そのうちに原田清という医帥以下六名の者が安東を脱出して来た。これは今大阪におりますが、その脱出して来た原田の言によりますと、自分
たちはもう牢屋に入れられてもよろしいが、
あとに残
つた救護班の三十六名、つまり一個班十二名で三十六名の者がま
つたく自由を束縛され、そうして赤十字の編成を蹂躙されて酷使されておる。一例を言うと
民主裁判というものがありまして、
看護婦なら
看護婦が患者の治療をする。その治療のしかたが痛いとい
つて民主裁判にかける。あの
看護婦はどうもやり方が痛いというので、すぐ牢屋へ入れる。それから赤十字とい
つて、赤十字精神というものはこういうものだと言
つても、赤十字精神なんというものは通用しない。この共産軍の言うことを聞かなければお前
たちは間違いである、それを言
つたために牢屋へ入れられる。原田という医師も二回牢屋へ入れられたが、遂に牢屋を脱出して来て、自分らはどうな
つてもいいから、
中共政府にかけ
合つて、
あとに残
つておる者を救
つてもらいたい、こう言
つて脱出して来たのでありますが、当時の情勢から言
つて、この
人たち六人の脱出者を
市政府に連れて
行つてみたところで、この六人が再び
大連で牢屋に入れられてしま
つてあとの者は帰れませんから、私はしかたがないからこれをかこいました。そして第一回の
引揚げがあるまで偽名をさせて紙張りだとかいろいろなことをやらせて、そうして第一回の船でこれを返しましたが、これがいまだ帰
つておりません。
それから先ほど
委員長のお尋ねで、
看護婦百六十名をどうして守
つたかということでありますが、私が副院長として残
つた最大の責任は、
看護婦を無難に返すことでありました。だから私は
最後まで残るからまず
看護婦を返してくれろというわけで、
ソ連軍が進駐して来て、私
どもの赤十字
病院を半分使うようにな
つたときには、当時はチイチヤコフという少佐が隊長でありましたが、
ソ連軍のだらしないことははなはだしい、
日本人の女と見ればすぐひつぱる。そこでしかたがないので、当時私は逢坂町にあるところの快楽というピー・ハウスでありますが、そのに
行つて西堀院長と会
つて手をついて頼んだ。あなた方にこういうことをお願いするのははなはだ相済まぬが、私のところにいる百六十名の
看護婦はみんな無垢の人間で親から預か
つているんだ、しかも赤十字の
看護婦がひどい目にあわされることは忍びないから、何とかして身がわりにな
つて彼女らを助けてもらえないかと、疊に手をついてお願いしたのです。そうしたら、そこへ三十四、五の女が出て来て、先生済まない、私らはどうせ傷ついた
からだだから私らが出てそれを救
つてあげましようと言
つて八人来ました。この八人を
看護婦の着物を着せて
看護婦に仕立てて、そうして病棟に入れておいて
向うが上要求するたびに出してやる。しまいにどこかくろうとくさいところがある、これはしろうとではないということがわかりました。そのときに田崎という実にきれいな
看護婦がいました。私らもほれぼれするくらいでした。この
看護婦が前にチイチヤコフ隊長をた
つた一日二時間ぐらいおせわしたことがありましたので、それをちやんとチイチャコフ隊長が覚えていて、田崎を出せ、田崎を出せと言う。しようがないから今度は田崎を結核病棟に入れて、そこに痰つぼを置いてインキをたらして肺病と見せかけ、あれをつれて行け、こういうことでありました。しかし一年を経過した後に来ました
ソ連軍は、軍紀が非常に正しくて、そういうことはなか
つたのですが、初め来ました一年ばかりの間というものは、実に軍紀はな
つておらなか
つた、特に女に対しては非常にきたなか
つた。それから当時私の家の隣に北村園という芸者屋がありまして、そごにいる北條さんという十八になる娘さんをもら
つて来た。條件は赤十字でも
つて必ず将来は嫁にもやる、この人の一生は見る、だから
看護婦を助けてもらいたいというので来ましたが、十八でとても純真な人で、これだけはかわいそうでとうとう出せませんでした。その人だけは赤十字からよそに嫁にやりました。その人は
ソ連の人身御供に出しません。人身御供に出たのは快楽亭というところにおりました公娼の方にお願いしました。百六十八名の
看護婦は第二回の
引揚げまでに全部帰しまして、一名も
ソ連の悪牙にかか
つた者はございません。但しその中で二人犠牲者がありました。これは個人が悪い。
大連の町から海岸へ行く星ケ浦というところがあり、そこには
ソ連人がたくさんおります。そこの
地区へは
行つてはいけないということを言
つておいたにもかかわらず、お花見時にお花見に
行つて、
ソ連人に二人強姦されました。名前は申し上げません。これだけは実に私らの監督が足らなか
つたということで、申訳ないと思いますが、それ以外は全然
ソ連人から犯されたことはなく過しました。お尋ねに対する答えはこれだたけであります。