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中村参考人 私は
樺太から逮捕されました
中村でございます。二十一年八月二十一日、
樺太敷香町に居住してお
つたものでございます。もともと漁業に従事しておりましたが、入ソ以来
はしけをやれという
命令を受けたのであります。
漁師が
はしけをやることはとうていできない。そうではない、お前は
発動機船を三そう持
つておるから、
はしけをしろという
命令を受けたのであります。
漁師はできないし、しかたがないから
はしけをやることにな
つたのですが、その
はしけというのは、陸から本船に物を運ぶ百トン
はしけであります。それで
敷香から知取に移転しろという
申出があ
つたのです。それで全財産を百トン
はしけに積んで、
昭和二十一年八月二十日に知取に出向いたのであります。ところがその出先に
至つて、今日のうちに知取に着かなければ、
チヨロマに入れるという
命令を受けたのです。
チヨロマとは何ですと言
つたら、こうや
つて手を重ねて
監獄に入れるんだという
命令を受けたのです。しかし天候も災いするし、あるいは機械の故障も多いし、あるいは今日のうちには着かないと言
つたが、そんなことにはとん
ちやくしないのです。それで出帆したのは出帆しましたけれども、百トン
はしけを引いて
行つたのですから、一日八里しか行けなか
つたのです。八里行
つたときには、すでに午後の六時でした。いずれにしても二十二里ありますから、明日の午後の十時ごろでなければ知取に着けないのです。それで帰れば
チヨロマに入らなければならない。私と若い者だけで
ちようど八人でした。では働いて
監獄に入るよりも、
逃げようじやないかという
相談がまとま
つたわけです。家内も
子供も、みな陸におるので、私は考えましたけれども、しようがない、じや逃げようということにな
つて逃げたわけです。
ガスも相当かか
つておりましたから、この分なら、
飛行機が飛んでも見つからない、まあ逃げようというので逃げたわけです。逃げたときは
ちようど六時でした。その晩一晩走り、次の日一日、二
晝夜びつしり、
ガスを利用して逃げたわけです。もう四時間たてば北海道に着くというときに、
ガスががらり晴れたわけです。
ガスが晴れたものですから、
飛行機が血まなこで探していたものですから、すぐ見つか
つてしま
つたのです。一
齊射撃を
食らつて、そこに停船したわけです。聞もなく
軍艦がや
つて来まして、その
軍艦に連れられて
大泊に逆もどりしたわけです。
軍艦の中では相当きびしく
取調べられましたけれども、何も別にそういう計画のもとに逃げたものではないというので、
大泊の港に全部
荷物を上げて、港内に二晩とまりまして、三日目には知取に連れて行かれ、そこの
監獄に入
つたのです。そうして知取に
ちようど一箇月ばかり、大した調べもなく、
司令部の
下水掘りやらをや
つておりました。
ところが、今度
大泊に、
荷物全部を持
つて逆もどりすることにな
つて、
大泊に
行つたのです。ところが
大泊では、浜へ連れて
行つて、浜の漁船の中に寝せられて、雨が降れば雨が漏る、そこにまず十日間おりました。ろくな物を食べさせない。ずいぶん強制的にその辺のこんぶを拾
つたり、あるいは下一水、あるいは家のこわれたのを修理させられたり、さんざんな
仕事をさせられました。
また知取に逆もどりしたわけです。知取で初めて
取調べにかか
つて、十月三日の日に
裁判ということにな
つたのです。
裁判の結果、若い者は二年、私は一人だけ三年という刑にな
つたわけです。私は計画的に逃げたものではないから、若い者だけは無罪、私一人は五年でも八年でもいいと主張をしましたけれども、
子供でない限りそれはできない。それで若い者は二年、私は三年という刑にな
つたのです。十月の十九日、
豊原刑務所へ行きまして、二十八日に
豊原刑務所を立
つて入ソしたわけであります。
ウラジオに
上つたのは十一月の十七日だ
つたと思います。
それから
ウラジオに二晩とま
つて、
一路カンシユク管轄の
エンガシというところに
参つたのであります。そこへ
行つたのは、十二月の二十九日と思います。一月の八日から、また
強制労働に入
つたのであります。そのときの
人員は、
日本人百八十名、百八十名のうち
カンシユクに
行つてから、
方々にわかれまして、私
ら日本人同士で十三名そこに
残つたのであります。おもに
山仕事でした。私は
ミシンを踏みますので、
ミシンの
仕事を
ちよつとや
つてお
つたのです。それで三箇月ばかりや
つておりましたが、
病気になりまして、すぐ入院させられたのであります。その後三年間ずつと
病気して入院したのであります。
エンガシから、二十三年の六月、
カンシユク管轄の
カーシヤというところにまた入れかわ
つたのです。
カーシヤに六箇月お
つて九号にまた
行つたのであります。その九号には、
日本人は百七十四名でしたかおりました。そこに二箇月お
つて、今度は六号というところへ来たのであります。六号には、
病人の
收容所があ
つて、三百二十名ばかりおりました。そこに六箇月おりまして、
満期にな
つたのであります。
八月の二十五日に
満期にな
つて、行き先も私らではわからぬでしたが、
日本に帰してくれと言いましたところ、
日本でなく、西の方の
イズモルカ、あるいは
ケーミルというところへ行けという
証明をもら
つたのです。私はそこへ行くのはいやだ、
日本に帰せ。
日本には帰さぬ。どうして帰さぬかと言
つたら、少し働かなければ帰さぬ。いや
病人ですから、働くことはできない。それでもいけないと言うので、
むりにイズモルカあるいは
ケーミルというところへの
証明をもら
つて、
行つたのであります。ところが汽車に乘
つたら、まことに親切なロシヤ人がお
つて、それは向うへ行
つたら、全然
日本に帰ることはできない、
日本に帰すのであれば、西の方にはやらぬ、東の方にやるのがほんとうだ。クラスナヤスクというところに行くと、たくさん
日本人がいるから、そこに行
つたらおりなさいという親切な言葉を聞いて、そうしてクラスナヤスクにおりることにな
つた。クラスナヤスクにおりようとして、車掌に頼んでおいたら、よしよしと言うてお
つたが、夜の十一時でなければ着けないという話でした。それで私が寝入
つていたと見えて、わからなか
つたところが、急にクラスナヤスクだと言
つて起されたものですから、起きておりてみましたところが、まことに小さな駅で、そのうちに汽車が立
つてしま
つた。これはしま
つたと思
つたけれども、しようがないからおりました。そこはやはりクラスナヤスクはクラスナヤスクであ
つたが、小さなクラスナヤスクで、私の希望したクラスナヤスクでなか
つた。その日は土曜日で、困
つたなあと思いましたが、明日が日曜日でもあり、これはどうしたらよかろうと、そこで思案しましたが、しかたなく警察へ飛び込んだのであります。そうして警察のいわく、どうしてお前はここへおりたかという
お尋ねであ
つたのですが、まあしかたがないから、うそを言いました。私は銭もなし、食うものもない。それで
日本人がおれば、ここで收容していただきたいと思
つておりたと言
つたのです。ところが
日本人は、ここには一人もおらぬ。小さな部落なんです。それでは私は困る、食うものがないから、食うものをくれとお願いしたら、食うものをやることはできない。お前はもら
つて来たろう。いやもら
つて来たけれども、途中で食べてしま
つた。銭はないか。銭もありません。どうしてないか、もら
つて来たろう。いや十四円は
もらいましたけれども、
監獄から出て、すぐもう買
つて食べてしま
つた。それじや困ると言
つて、
質問されましたけれども、とうとうないないで、私ははねたわけです。ところが今度は、汽車の時間に間に合わないから、ここにいては困る。お前の行くところはここでない、早く行け。それでしかたがないから、汽車に乘ることにしたのです。ところが汽車の切符の期日が三日しかないので、もう土曜と日曜と前の日一日とで、期日が過ぎてお
つた。そこで今度は、その日も汽車に乘れない。しかたがないから、また警察に
行つて、頼んだのです。
証明していただいて、次の日乘
つたわけです。
ところが今度クラスナヤスクにおりればほんとうですが、おりて、そこで
日本人がお
つて、いろいろな話をしたいのはやまやまでありますけれども、汽車の都合上しかたがないので、
イズモルカというところへ
行つたのです。
イズモルカの警察では、通知があ
つたと見えて、すぐさま私の
名前を呼んでくれたわけです。それで警察へ連れて行かれて、事情を話しました。ところが、お前は商売は何だ。私は
漁師です。
漁師ではだめだ、何か副業はないか。
ミシンが少し踏めます。
ミシンを踏むのであ
つたらいいというので、
ミシンの方に連れて行かれたわけです。そうして麦粉あるいは砂糖、そういうものを入れる袋縫いをやらせられたわけです。それは民間に入
つてでですから、圧迫するわけでもなく、ノルマというて、ノルマを上げれば、まず給料も私はもらえるわけです。ノルマだけやれば三十円、ノルマ以上やれば、三十五円から四十円ぐらいの働きができるわけです。そこでまず三箇月間働いてためたものが、ざつと千円くらい残
つたわけです。
まずわしらは、汽車賃がなければ帰れないのだ。汽車賃さえあれば、いつでも帰れるというような考えだ
つたものですから、汽車賃ができたから、今度は帰れるという気にな
つて、警察署長に毎日々々請求をした。ところがその警察のいわく、お前はなかなか
日本に帰れない。どうして帰れないのか。
モスクワからピシ・ピシが来なければ、帰すことができない。ピシ・ピシというのは、私もよくわからぬですが、
証明書みたいなものでしよう。モスクワからそういう書面が来なければ、帰すことができないという
意味です。それで、警察の方で手続してあるのですかと聞いたら、お前が来た当時に、すでに手続はしてあるが、まだモスクワから書面が来ていない。それがために帰すことができないという話であ
つたのであります。それから毎日
行つて、うるさく言
つたならば、帰してくれるだろうという考えで、毎日
行つたのです。ところがしまいには、向うで胸ぐらをと
つて“たたき出すようにな
つたのです。それでも私は、帰りたいものですから、毎日
行つて請求をした。ところが今度は毆打された。耳から、あごからやられて、今でも耳が遠くて、ごんごん鳴
つて聞えないような
状態です。それでも行
つたところが、今度はお前はここに置くことができないから、どこかへやる。ところが、どこへやるのかと思
つたら、今度は
ケーミルというところへ私を送
つたのです。
そこへ行
つたら、すぐさま
チヨロマと言いますが、牢屋に入れられることにな
つたのです。それから私は、そこでじたんだ踏んだのです。入るのはいやだ。おれは
チヨロマ・カンチヤイしたのだからもう八月に満刑にな
つたんだから、
チヨロマに入るのはいやだとい
つて、じたんだ踏みましたけれども、兵隊が来て、やにわに裸にして、そうしてまた豚箱に入
つたのです。五日間豚箱に入
つて、六日目に出されて、今度はスターリニスクというところにやるのだという。それから、スターリニスクには
日本人はおりますか。
日本人はたくさんいる。じやすぐや
つてくれ、というので、スターリニスクに行くことにな
つたのです。その日はその
チヨロマで休んで、その次の日スターリニスクに
行つたのです。
ところがスターリニスクには、
日本人は一人もおらなか
つたのです。スターリニスクのナチヤニクが、ヤポンスキー・アジン、
日本人はお前一人1だ。どうしてお前は行かないのだということを言われたら、ここへ来れば
日本人がたくさんいると、
チヨロマの所長さんがそう言われたが、一人もいない。そこには
ドイツ人の
收容所がたくさんありました。その
ドイツ人の
收容所に
行つたのです。
ドイツ人の
收容所ですから、扱いは丁寧であ
つたのです。そこで
日本人一人ですから、まず十二分に
給與も受けたのです。そうしてそこのナチヤユクが少佐です。少し
日本語がわか
つて、困
つたな、困
つたな、
中村因
つたな——私は毎日
日本に帰してくれと請求するのです。ところが、お前一人で帰すことはできない、二人あるいは三人なければ——帰すのに、兵隊を一人つけてやらなければならない。一人に一人つくということはできないから、二人あるいは三人なければ帰すことができないと言われたので、私は、
日本人が一人もいないで、私一人だ、どこから来るか。いやまだいる。そう言うてそこに二十日おりました。ところが十二月二十三日に成田重造という人がぽかんと来たのです。それで私が、あくる日すぐナチヤニクのところに
行つてお願いしたのです。そうしたら笑いながら、ドワチヨロベーク、二人おれば帰れるというお話のもとに、私は喜んだわけです。そうして二十六日に
命令が出て、二十七日にダモイ。そうして十五日分のパンをもら
つて、兵隊一人つけていただいて立
つたのです。そうして
ハバロフスクに着いたのは一月の八日でした。
ハバロフスクに八日間おりました。そうして一月十六日にナボトカに着いたのです。
ナホトカに着いて、十八日に高砂丸が入港したのです。その一月十八日の高砂丸で帰れるかと思
つて喜びましたが、そこにいた
ナホトカの少尉が、ここに一箇月ないし四十日ぐらいおらなければ帰ることはできないという。どうしてだ。昨年十一月からいる人がたくさんいるのだ、お前らはあとから来たんだから帰ることはできないと言われて、二月八日に
ナホトカを出帆したのであります。
その間二十三年の一月に満刑にな
つた小野四郎という人を、
カンシユクカンクとクラスナヤスクの間の小さな停車場で、私が汽車の中で見出したのです。その人は一月に満刑にな
つたのに、まだ停車場の付近でぼろぼろな着物を着て、ひげはぼうぼうとして、停車場にお
つた様子を、私は汽車の窓から見たのです。これは小野でなかろうかと思
つて、私は二度立
つて窓をあけようとしたが、その汽車の窓があかぬので、ただぼう然と見て来ましたが、私よりも八箇月も早く満刑にな
つた人が残
つておりました。その途中
日本人というものはおらなくて、ただ一人だけであります。
まず私の行
つた收容所は六箇所ですが、至るところに
日本人は百二、三十人ないし二百人いた。
ソ連の刑法五十八條にかか
つた者は、十一号
ラーゲルに四百七十二名とかいるそうです。それは私が六号
ラーゲルに
行つて病院におりましたから、その病院の中から出ることができず、五十八條の人は、お
名前は二、三しか知
つておりませんが、四百以上の人が十一号
ラーゲルに收容されております。
簡單でありますが以上で終ります。