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証人(金子麟君)
大連においてソ聯進駐後の行政の体系及び
社会の
情勢については
只今石堂君がお述べになりましたから、私は再びこれを述べません。ほぼ同様であります。ただ
石堂証人のおつしや
つたことは大変綺麗におつしやいまして、私は野人でありまして、又私は
終戰後から医者の方でございまして、
社会のことは余り存じません。又私は
石堂君等が組織しておられました労働組合にも、少し考えがあ
つて入らなか
つたものでありますので、私の申上げることはやや偏狭であると思います。この点はここに御臨席の
委員の方に御勘弁を願いたいと思います。
ソ聯の進駐いたしましたのは二十年の十月と思
つております。当時イワノフ軍司令官は、
大連の旧財閥遅雲祥、これをして
大連の市長を任命したのであります。これは朗らかにソ聯が
大連の者をして
大連の行政をやることを承認し、又これを御命令なす
つたと解して
差支えないと思います。その後
情勢が転換いたしまして
昭和二十二年の十月だと思
つておりますが、今までの行政体系を変えて旅順に関東公署というものを設置することを、ソ軍は内面的に指導されたようであります。その行政体系は即ち民衆の声によ
つて出来上
つたところの行政体系である。ソ聯はこれを命令したのではないという形を取
つておられます。その証拠にはやはり遅市長が首席になり、その下に三人の副首席がおられましたが、これは主として新
民主主義或いは共産系の者であります。そこで各庁、例えば行政庁、工業庁、衛生庁、農業庁というものを設けられまして、その庁長には旧
大連の知識階級、この中には知日派の方もおられます、衛生庁の揚鳳鳴のごときは元の医師会々長をや
つておりまして、
日本に対して非常に理解の強い方であります。又これは学位号を持
つていらつしやいます。私はこの人と親交がございました。こういう人を以て町長にする、副町長はやはりこの思想方面に新らしい考えを持
つていらつしやる方を以て副町長に配しておられます。この行政体形についてロシヤの考えがどうであ
つたかということは、私が第二回
引揚に
日本人の
意思を代表しまして、ソ連の
司令部に出頭して、
日本人の技師、まあ医者でありますが、そういうものはもうここにいる必要はないのだ、その理由はソ連がどうせここを指導なさるのだから、ソ連の
技術者、ソ連の知識を以てこれを指導なさるのが適当だと思う。尚
中国には立派な先生がおられる。
日本人の医師が残るということは、
中国の医師の独立を阻害するものである。だからこの際
日本人の医師は帰
つた方がよかろう。是非帰して貰いたい、これは関東公署の主席に向
つても嘆願をいたしましたし、同時に主席に向
つてこれからロシアの
司令部に行くのであるということも明らかに申しまして、嘆願をいたしました。当時ゲルハノフという中佐が私に面会いたしまして、彼曰く、中共の関係のことはソ連としては何にも言われません。私はそれに向
つて、ソ連の進駐下にあるところの市
政府があなたの管轄に、指導下にないとはどうして言えますか。これはおかしな話ではありませんか。こう申上げたところがゲルハノフ曰く、いや、それは世界に
一つしかない政体である。どういう政体でございますかと聞いたところが、民衆の声によ
つてでき上
つたところのいわゆる政体であ
つて、ソ連はただそれを認めているに過ぎない。
従つて中共
政府のやることについて指導権は
自分は持ち得ない。だからあなた方を帰すとか、帰さないとかいう決定は私にはできない、こういう話であります。それから通訳は少し言い過ぎたのでありますが、それじや関東公署という
政府か、
日本と直接交渉ができますか。こいういうことを聞いてところが、それはできない。もう
一つ帰す帰さないという問題について、それじや中共下にあるところの関東公署がこれに対して船を寄こして下さることができますか。いや、それもできない。とにかくあなた方の言うことは分
つたから、いずれ御返事をするから一週間経
つたら来て呉れ、こういう話でありましたから、一週間経
つて参りましたら承わり置くというので突つ撥ねられてしまいました。————。
それで二十四年の三月でありましたか、雄大行政公署ができまして、このときに初めて共産党本部というものが表面に現われて参りました。各
地方においては共産党公弁所というものが設けられて、そうしてその旗もそれまでは赤いところの隅に青天白日が付いておりましたのがなくなりまして、ソ連の、いわゆる青章ハーゲンとハンマーの旗が、青章が取れてハンマーとハーゲンの赤旗一色になりました。それが先ず
大連におけるところの行政体形の移り変りであります。
それで
日本人に対してソ連はどういう態度を取
つたかと申しますと、進駐当時は
日本人の組織が沢山ございました。例えば愛労奉仕団、
大連奉仕団、それから私らが考えましたところの
日本人居留民会の組織、これは許されませんで、
日本人相互扶助協会という名前にな
つております。その外七八つの民主団体がございます。特にとの愛労奉仕団あたりに至りましては、これはむしろ右翼系の思想を持
つている団体でありまするが、これの隊長をしておりましたのは田岡という方でございまして、元は航空隊員であります。この方は赤十字の、私赤十字におりましたが、赤十字の或る寮をお借ししましたので、私はその関係で顧問にな
つておりました。彼は私に会う度に資金の出所を聞いても申しませんでしたが、多額の費用をいつでも持
つて参りました。その費用はどこから出るかということを聞きましたどころが、遂に彼の言
つたところでは、ソ連
司令部から出ておりまして、実際において多額の費用を持
つておりました。そうしてこの授産所、或いは托兒所、そういうところの
社会事業を随分派手にや
つておりました。彼の思想は
日本人の
難民及び
日本人の将来のために図るという思想でございましたが、それはついに当時の詳しいことは覚えておりませんが、二十一年の春だと覚えております。一勢にこの
日本人関係の諸団体というものは、ロシヤの解散命令を受けまして、そこででき上
つたのが、ただ
一つ許されたのが、
石堂君が第二回の
委員長をしておりました、労働組合なるものがここに許されたのであります。この労働組合は、ソ連
司令部、中共
政府と
日本人の間に立
つてすべての行政的指導、思想的指導をおやりにな
つたのであります。このことについてはあとから申上げます。すべての
日本人の権益、すべての
日本人の
意思表示はこの労働組合を通さなければ、中共
政府にも、それからソ連の方にも、この
日本人の団体的行動としてはできなか
つたのであります。
企業体における個人の
意思表示は別であります。
そうして第一回の
引揚げ後のお話を申上げますが、第一回の
引揚げは
石堂さんのおつしや
つた通りで、第二回の
引揚げのときは、ほぼ市
政府の
機関におきまして、還る、還さないの検討ができました。例えばこれを医者の方で申しますというと、検委会が
引揚、或いは帰還検討
委員会というものができまして、医師方面におきましては医師会長がこの会長となりまして、私ら医師会の理事はその検討
委員となりまして、どういう人を還すかということをいろいろ検討いたしました。
従つて第一回の
引揚げにおきましては、
日本人の
技術者の或る部分も、これは止むを得ない。或る程度はどうしても
残留しなければならないのだという考えを持ちまして、比較的スムースに第一回は行
つたのであります。そのときに私ら検委会の
委員として
政府と交渉いたしましたことは、一年間経
つたら還して貰いたい。一年の間はこの中共
政府の
建設に盡すということを明らかに私申しました。一年でよろしい。それは当時の衛生局長をしておりました王布君という方が明らかに申されたのであります。そこで第二回の
引揚げが発表になりましたときに、私らは断然還ることを主張いたしました。又主張した者が多か
つたのであります。ところが今申上げた通りに、ソ連
司令部に出願をしても取合わない。中共
政府に
言つても取合はない。各
企業体がこれを指導するのだが、
企業体はこれを圧迫するというので、まさしく
石堂君は
強制残留でないとおつしやいましたが、私は実際において
強制残留をされておりました。私は当時関東医院の副院長でありましたが、確か八路系の副院長がもう一人殖えて参りまして、それは謙遜と申しますが、私に向
つて契約を迫まりました。併しその
契約書が、期間が長くなりますから、法理上、或いは道義上からい
つても不利な点が多々ありましたので、私は捺しませんでした。そして他の
企業体においては、押さない者を称して反動分子と称します。そしてこれに対して、
契約の俸給支拂を停止し、或いは減少いたしました。即ち、
生活職線を以て脅かして、そうして
契約を余儀なくさせる例が沢山ございます。その例は、ここに持
つておりますが、これは時間が長くなりますから、申しません。でありまするから、
技術者として残された
技術者は好んで残
つておる方もありますが、大部分は協力の名の下に残された。その一例といたしましては、工業庁長或いは大学の、
大連の
只今大学の学長の次席の方がおられます。この方が、随分暴言を吐いておられます。
日本人は、
技術者は残るのが当り前だ、
日本の統治
時代に関東州におけるいわゆる思想教育が不徹底であ
つた。
中国技術は劣
つておる、
日本人がそういう偏頗の教育をしたのだ。もう
一つは、
日本が破壊をや
つたのだ。だからその罪亡ぼしとして君らが残るのは当り前である。遂には、お前達は捕虜じやないか、帰す帰さないの、生殺與奪の権はこつちにあるのだというようなことを敢て述べておられます。即ち、私らは雇用形式的偽装捕虜の形において残されたのであります。雇用形式的偽装捕虜、これはどなたが発明にな
つたお言葉ですか、非常にいいお言葉だと思います。それでソ連は私らを帰すに当りまして、第一回、二回、三回とも飽くまで友好的態度を採りました。若しソ連の力なくば、私らは絶対に帰ることはできません。そして、ソ連のいわゆる自
願書とか、
契約書とかがなければ、どうしても帰さなければならないという建前を採
つておりますから、中共の
企業者はそういうものを強いるのであります。甚しきに至
つては、帰るということの決ま
つた人、或いはそれが帰るならば
帰つてもよろしい、あなた方はそれについて、今までの感謝文を書きなさい。或いは感想を書きなさい。これをしも自
願書に利用した例があります。いずれにしても、残るということをい表に現わさなければ帰さないのであります。でありまするから、或る人は今ここに残
つている、
大連に残
つている人は、皆自願である。何も騒ぐ必要はないとおつしやいますが、これは強圧の下に書かせられた例であります。甚しきに至
つては、昨年の
引揚のときに、医師十名は、帰ることの運動してお
つたために、中共
政府が、夜突然参りまして、これを拉致いたしました。どこに拉致したかと言いますと、一部分は、普蘭店へ拉致して、一部分は法院の下に拉致いたしました。そして拉致した先において判を捺すことを迫
つたのであります。これが
強制残留と言わすして、何を以て
強制残留と言いましようか。そうして、その
人達の中で、人の名前はいずれ後に申上げますが、気の弱い方は涙を呑んで判を捺した方が沢山ございます。併しとれはソ連の知るところとな
つて、丁度私の家の近くにソ連人がありました。私の家にもソ連人がおりました。その
人達が飛出して来て、運転手を掴まえたために、
一つは普蘭店に行
つた。
一つは法院の下に行
つて、ソ連の手によ
つてこれが中止されました。そう事実がございます。そこで時間が長くなりますから、あまり申上げませんが、結局中共
政府のやることは、欺瞞と強圧と、これ以外の何でもないのであります。私は敢て申します。その欺瞞いうことの大なる理由を
一つ申上げます。
それは
終戰後の
昭和二十一年五月の九日、当時市
政府の衛生庁長であ
つた王益民が、当時は赤十字は存続いたしておりました。これも後で申上げますが、これもソ連のお力によ
つて存在しておりました。その西堀院長に向
つて、安東の方面で、今負傷者が非常に多いから、救護事班を出して呉れ、私当時寝ておりましたら、院長が私の室に参りまして、僕は承知したから、何と事かして編成して呉れんか、こういうお話でありました。私はもう院長が決めてしま
つたのだから、仕方なしに編成に着手いたしまして、ここに書いてありますところの三十六名という、三個班、一個班十二名の三十六名の基本班を編成いたしました。そうして私は出さずにおきましたところが、王布君、先程申上げた王布君が安東
地方の軍医事部長として来られまして、出して呉れろ。誰が保障しますか、と言
つたところが、これは医師公会、いわゆる揚鳳鳴の医師公会の依頼によ
つて、出して呉れという形にして呉れと、こう申しました。私は、そういうことはできません。医師公会というものは、
一つの法理的の責任、山際的の責任のないもの、又軍事的責任のないものだ、そういう人が依頼しても出すことができない。あなたが軍医部長として、ここにサインをすれば私は必ず出しましようと、とうとう遂に王布君をして生命の危険は絶対にないことを保障する。三ケ月したら必ずお帰しをする、こういう保障をいたしました。当時の市
政府の要人も寄
つてその通りだということを
証言いたしました。ところがこれが行
つてしま
つてから、私らの要求は赤十字であるから、総班長というものを
一つ作り、すべての命令は総班長を通して三個班の指導に任じて貰いたいということを、これも承知いたした、サインしたにも拘わらず、安東へ参りましたとろが、支離滅裂にしてしま
つて、とうとう
只今までこれの行方が不明なんであります。何遍催促しても帰そうといたさないのであります。そうしてこの中で六名、これは許秋朴という台湾人でありまするが、これは原田清という、当時
日本人の名前であります。これは私の教え子であります。これ以下六名が安東を脱出して参りまして、それはどうして脱出して来たかというと、生命の危險を冒して来た。この行
つておる三十六名が実に悲惨な目に遭
つておる。これを金子副院長が救出して貰いたい。私らの命はどうな
つても構わない。だから救出して欲しい。併し当時の
情勢はこれを市
政府に突出したり、又労働組合にこれを持
つて行
つても決して引受けては呉れません。彼ら六名をみすみす殺すばかりですから、つい乏しい財産の中からこの大名を第一回の
引揚が済むまで隠して食わしておりました。これは路傍へ行
つてごみを拾うことをや
つたり、或いは紙貼りをしたり、そういうふうにして、私の若干の補助金と、これによ
つて彼らは生きておりまして、第一回の
引揚に漸ぐこれは赤十字人としないで帰しました。こういう例は沢山あります。
かくのごとく、中共
政府は信頼を置くことのできない
政府であります。こういうところに、徒らに……、私も六万六千円の最高の俸給を貰
つてお
つた一人であります。又私らはソ連から特別の給與を受けておりました。併し如何に高額の給與を受けようと、如何なる厚遇を受けようと、そういう不信なところにおいて勤務することは、私たちはどうしてもできない。
尚この労働組合なるものの介在は非常に不愉快でありました。これは
日本人に対するのに、いわゆる
日本人の利益を擁護した点もございますが、主として中共の
政府と、当時の
日本人の間に介在をいたしまして、そうして私らを学習と称して、赤の教育を指導いたしました。この部組織を以ちまして……、支部組織を以ちまして、そうしてその教育の悪い者は、反動分子と、私らは称されたのであります。そうして
日本の再建に……。この
中国の再建に従事することは即
日本の再建に従事することであるという、こういう不可解な理論を携げまして、そうして私らにいわゆる学習の名の下において、この赤の教育を追
つたのであります。でありますから、私は断然そういうものに入るのは厭でございますから私は入りませんでした。ところが私の入らないことを以て中共
政府にこれを訴え、或いはソ連
司令部に私を中傷いたしました。私はそういうことは驚きません。そういうふうでありまして、
大連の
情勢というものは表から見ますと非常に綺麗な
状態であります。併し実際問題としては強圧、欺瞞の下にや
つているところの、いわゆる雇用形式的偽装捕虜に過ぎないのであります。但しその三分の一は好きで残
つている者があります。この三分の一は三月革命、九月革命を予想していずれも
日本が赤化する。だから
自分はこちらに残
つてお
つて、いずれ
日本にお目見えする、こういう間違
つた馬鹿げた考えを持
つている者もあります。もう
一つ生活が楽だからとい
つて、いわゆるオポチュニストもあります。それは三分の一、三分の一、真に帰りたい者は五分の三か、若しくは三分の一だと私は信じております。