○淺岡信夫君 私はこの
特別委員会におきまして、
一つ重大なる決意をして頂きたいと思います。と申しますことは、この六月から連合軍の非常なる厚意によ
つて引揚が再開をされたのでありますが、六月の船団、七月の船団、八月の船団、九月、十月の五船団の完了は、十月四日を以て一応終
つたのであります。昨日も
総理大臣の施政演説の中に、六月の末日以来今日まで約八万五千名の人が帰
つて来たということが、昨日の施政演説の中に言われておるのであります。ところがこの八万五千名の人が帰
つて来たということの区分けをいたしまするならば、誠にあと残るところの十一月分で以て、果してその九万五千名になるか、どうかという問題も、
留守家族のものに取りましては、誠に心配の極地に達しておるわけであります。それを区分けいたして見ますると、大体
ナホトカから帰
つて参りました数は、約七万七千四百二名というような
数字にな
つておるのであります。それから樺太の真岡から帰
つて来たのは四千七百十名ということにな
つております。
大連からの
引揚げが、山澄丸、高砂丸の二船で二千八百六十一名ということにな
つておるわけであります。六月の二十一日に、同胞救援議員連盟の各位が、
ソ連大使館に行かれまして、そうしてコテリユコフ
政治最高顧問補佐官にお目にかかりましたときに、今年は六月から十一月までの間に九万五千名を帰えすということを申されたのであります。九万五千名というものは捕虜であるか、どうかということを聞きましたときに、それは捕虜であるということを申されたのであります。そうすると、捕虜というものは、どういう規定によるのかと申しますと、これは連合国の国際條約における捕虜規定を以てするのだ。そこで然らば、その九万五千名というものは捕虜であり、それ以外の
一般地方人というものは、九万五千名の中に含むか、含まないのかということを聞きましたときに、それは含まないということを申されたのであります。そうした点から
考えて見まして、この
ナホトカから帰
つて参りました七万七千四百二名、この大半は捕虜だと思うのであります。そうしますと、この十一月の配船で一万七千五百九十八名というものが、帰
つて来ないと九万五千名に充たない。勿論今は輸送のさ中でありますから、当然これは帰
つて来るものとは私共了承いたすのでありますが、帰
つて来るものと思います。ただ問題は、今までこの肉親の許に
ソ連当局の厚意によ
つて通信が許されております。その通信が各自肉親の許に通知されておる、送られておる。それから一方、六月の二十六日以来、今日まで帰
つて来た人達のいろいろの声を聞きますと、その結果、あのAの男はあそこの收容所において働いておつた。或いはBの收容所に元気でおつたというような
数字を、いろいろと加算いたしますると、この通信による、或いはそうした情報による数を加算いたしますると、五月二十日のタス通信によ
つて、
ソ連地区におると思われる者は、十万四千九百五十四名というものが現存しておる。そのうち九万五千を還して、あとの九千九百五十四名というものは戰犯容疑その他の原因で還さないというようなふうに御発表にな
つておるのであります。そこで今日この引揚もいろいろ十一月分の船が配船されました暁において、九万五千が還
つて来た。さてあとの九千九百五十四名というものは、いつ還して貰えるのかという問題が
一つと、更に通信連絡があり、一方あの男はあそこで元気で働いておつたというような点を総合いたしますと、そこに大きな
数字の食い違いが出て来る。更にサンフランシスコにおいてシーボールト議長が、三十一万の
日本人はシベリヤ地区において消えてなく
なつたということを
はつきりと言われておるのであります。そうした点をいろいろ
考えて見ましたときに、どうしても今の
日本国民としてこの
数字の問題というものは、大きく心配して来るわけは当然であります。一方
ソ連当局に行きました
方々の言を伺いますと、
ソ連政府の発表を認めないとかいうことを再三言われておりまするが、私共は敗戰国民といたしまして、連合国の保障下にある今日は、どうしても連合国の発表を信じないわけには行かない。そこでこの連合国の発表以外の国々の発表をお互い国民としてはどうしても信じられない。そうした点を思い返して参りまするときに、先ず当
委員会といたしましては、
政府当局に向
つて各都道府県に来ている肉親への通信のその数はどのくらいあるのか。それからもう
一つは還
つて来た
人たちから、Aの男は元気でおつた。Bの男はどこの收容所に元気で生きておつたというような
数字を、一応
政府としてこの
委員会に発表して頂きたいということを当
委員会から強く要請をして頂きたい。強い
要求をして頂きたい。この点を各委員にお諮り頂きたいということを私提案するものであります。