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池田恒雄君 重ねて甚だ失礼ですが、今日のいろいろな
関係では、
作報の
調査成績というものが、
農民の
供米と、もう
一つは
税金に対して非常に重大な
関係があるわけであります。殊に
税金なんか、結局
証拠爭いになるかと思いますが、そうするとやはり第三者的な
立場にある
調査成績を以て爭わなければならんということになるわけであります。そうなりますと、結局どれを取るかということになりますと、結局
作報のやつを取ろうということになるわけであります。ですから
税金の問題なんかについては決定的なものになる。非常に重要だと思うのであります。それだけに
農民の関心は
作報に対して向けられている、こういうことになるわけであります。ところが私
共いろいろ作報に関する
事情を見て参りまするというと、必ずしも
政治的に支配されておらないとは言えないのであります。というのは、第一に問題になるのは、
農林省なら
農林省が本年度三千万石なら三千万石
供出をさせる、そうしてどの縣には何十万石割当てるということになると、
作報はどうも
農林省の割当てた
数字に合せて
作柄を作るというふうに、こういうふうに皆から言われている。これは私
自分で
調査したこともないし、それが嘘か
本当かということの
証拠の
握りようがない。だからそうだと私は言いかねるのでありますが、皆そう言う。いろいろな
関係を見ますと、そうらしく見える、そうすると
作報というのは、
農林省の割当を合理化するために、そういう道具として存在する、
一つはこういうことになるわけであります。こういう例が
一つあるわけであります。これは私が或る郡に参りまして、この郡は非常に
供米が苦しくていろいろな問題を起しているのでありますが、ところがこの郡の
作報の
所長が、
技術者でないようなことを言うている。これは皆そう言うのだから、
本当だと思いますが、今までは
作柄というものは非常に低く見てお
つたのだ。それは
米價が安いから、多少
農民に対して闇賣りをさせて、
米價をそこで補助をするというようなことで、これは
政策的に行われてお
つたのだ。ところが今度は九
原則等もありまして、それで闇は徹底的に追放しなければならん、それで正直に今度は
作柄を見ることに
なつた。で、今度は闇というものをなくして行くのだ、こういうようなことを言うて、そうして今年の
作柄が高いというのは、そういうわけもある。まるでそういうように
総理大臣みたいなことを言うて威張
つている
所長がいる、(笑声)こういうわけであります。これは私は
技術者というのは、何も
政府が
闇米を賣るようにして呉れるとか呉れないとかいう
政策の有無に拘わらず、常に正確であらねばならないと思います。ところが
政策に支配されて、或る時はこういうような
見方をやる、或る時はああいうような
見方をやるということは、ちつとも
技術者でもなければ何でもないと思います。よくいろいろ聞いて見ると、
技術者とは
一体何であるかというような、そういうことを理解していない人が
相当作報の中にいるように見られるのであります。私も百姓をしているから、
作柄の
見方も分るのですが、私みたいに
作柄を当てられないような人が
相当いるように見られます。こういうことはおかしいと思います。
もう
一つは、
作報というものは
政府機関として一郡に三ケ所なり四ケ所あるわけでありますが、そういうふうでありますならば、
地方的に今までの
統計は
政治的に支配されておりますからでこぼこであります。それを基調として
供米をされますと、或る縣は重か
つた、或る縣は軽か
つた、或る村は重くて、或る村は軽か
つたということになるわけであります。
作報というものはまあ三年間も
仕事をして來たならばこの平衡が取れるものだと思う。ところが少しも取れておりません。そうすると何のために
一体地方に
作報という國の
機関をああいうふうに末端まで流して置く必要があるか、こういうふうに私は考えられるのであります。それから災害がいつでも補正の問題になりますか、災害があ
つたかなか
つたかということは、
供米を負けるか、負けないかということについて重大な問題であります。若し災害があ
つたということがはつきりしておれは、この場合は
政府としても縣廳としても
供出を減らさなければならんわけです。その場合その災害があ
つたかないか、或いはその
程度、こういうものを証明するには、やはり第三者的な
作報であらねはならない。ところが
作報はそういう重要な任務を持
つておりながら、こういう爭い、いわゆる補正上の爭いを解決するような権威あることをや
つておらない。併し
作報があ
つたら
作報の
調査によ
つて、これはこれだけ減收だと、はつきりと減收したならば、減收しただけは
供米は減らす。それから増收したことがはつきりとすれば超過
供出を命ずるとか、或いは懇請するとかいう方法をお採りに
なつたらいいと思うのですが、
作報がありながら、
作報が権威があると言いながら、ちつともそんなことは行なわれない。私はこういうような点からどうも
作報というものに対して非常に疑問を持つわけなんです。