○細川嘉六君 私は
原案に対して根本的な反対をなさなければならないのであります。というのは、第一にはこの
報告書は
表現を不当な取扱いをや
つております。第二に小林証人が二十一年の一月から二十二年五月の給與状態について、二十一年一月、二月の三〇%から三月から七〇%乃至八〇%或いは一〇〇%に改善されたことを述べておりますがる、そのことはこの提出されておる
報告書十一頁に出ております。この後に続いてすぐに阿部証人が吉村隊に轉入して石切作業に参加して、そうして吉村隊の給與の極惡状態について、「轉んでいる煉瓦
一つが」云々と述べているところを
速記されておるのでありますが、そうするとこの阿部証人が吉村隊に入
つたのは二十二年のことでありますから、年代が違
つておるものであります。年代の違
つておるものを二つ合して記述されておる、それが
一つの例であります。それから提出された
報告書十八頁から十九頁においては吉村隊の特殊な極惡な管理の状態について書いてある、これが外蒙各收容所の状態であると記述しておるのであります。そこには「外蒙側には俘虜に関する最高の統轄機関の下に作業監督、」云々と述べられております。吉村隊は外蒙においても特殊な部隊であります。特殊な状態を現わした部隊でありまして、そのことを一般化して蒙古全体のことに見ております。これは取扱が非常に不当であります。こういうようなことについては更にこの
報告書から幾らも引けるのでありまするが、
証言の扱いが惡い。でありまするから議論を立てて行くのに誠に無理な手段をと
つております。それでありまするから正当な事実に即した正当な
結論には達し得ない。何か予想されたる
考え方を以て
証言を取扱
つておるということにな
つて來ております。それについては更に具体的なことを申しましよう。第一にこの
報告書の起草者は作業のノルマと給與のノルマについて正当な理解を持
つていない、作業のノルマの完遂は給與ノルマを伴
つております。併しながら作業のノルマが天候或いは予定外な困難等のためにできなか
つたという正当な
理由がある場合には、完遂ができなくても給與ノルマが支給される。これがノルマ設定の
原則であります。それにも拘わらず、
報告書十三頁には「同胞に課せられましたる作業量の増減は概ね給養の増減と平行致して居るのでありますが」云々と
言つて、作業と食糧とはその増減の関係が関連しておるもののように書いてあります。それで長谷川証人が十二日に述べた
速記録の十一頁には「作業量によ
つて食糧が不足になるということはありませんでした。」こう
言つております。これは正当な
理由を附せれば作業の遂行においてそれが十分でない場合にも食糧は得られるというのであります。このことはノルマと給與に関しての
報告書における
考え方というものは間違
つておるのであります。更にこの
報告書には十五頁、「当時」、これはこの文章のあるところから察すると、昭和二十二年のことと思いまするが、「外蒙の各收容所におきましてはこの慢性的飢餓状態を救う一手段と致しまして與えられました基準作業量の遂行以外に特別に報酬を支拂われますところの諸作業による賃金の獲得或は作業基準量の超過による給食量の増加によらんと致して居るのでありますが」、これは必ずしも作業ノルマを遂行しておれば何も作業以外の特別の作業に加わ
つてノルマ以上のことをやらなくちやならんというような事柄ではないのを、こういうように述べておるのであります。それは
簡單にして置きまして、こういうようなことを書いて、如何にも食糧に困窮してお
つたような状態をこの
報告書は述べておるのであります。
速記録十三日第八頁、それによりますと、原田証人は、他の收容所では多くの部遂長は超過ノルマ、それは蒙古人の收容所長あたりが單独で課した場合のことでありまするが、これを拒絶したがために投獄された人が多いと述べておる。「吉村隊におきましてはいわゆる蒙古側末端部の独断による超過ノルマは勿論快諾しております。尚その外に」云々と「自ら進んでノルマの超過を
申出て、これを許可をして兵隊に申渡した。」と、こういうふうな実情を述べておるのであります。それから阿部証人は十四日の
速記録の十頁にこう述べております。そんなにノルマが強化されなければならないということは、他の工場においてはなか
つたのであります。できないときは止むを得んとみなされたときは何ら処罰がされなか
つたのである。だからこれはノルマ以外の作業をやるとか、或いは超過ノルマをやるとかいうことは、池田
隊長のなしたことであ
つて、独断的になしたところであ
つて、他の作業場にないことである。それにも拘わらず、
報告書はそれは止むを得ないことである、同情すべきことであるよう述べられておるのであります。更にこの
報告書では、蒙古の收容所というものは一般的に組織が惡い、それで困難したということが述べられておるのであります。併しこれは吉村隊について言われることであ
つて、他の隊にはそういうことは
証言に出ていないのであります。吉村隊におきましても、そういう内部がごたごたしてお
つたからと言いますが、
証言には十分に出てないのであります。若しごたごたしてお
つたとすれば、それは
隊長がそれらの各收容所の組織について、收容所の所長との間に十分な提携がなか
つた、盡力するところがなか
つたというところから來ておるのであります。それから第三の例としまして、吉村隊は軍人、軍属、それ以外の民間人が集ま
つてお
つて、非常に混雜した統制の取れない隊であ
つた、それがために
吉村隊長も苦労したろう、そういうようなことが述べられております。併しこの点においても、これは
吉村隊長の立場を
報告者が庇
つておるものである。入蒙当時長谷川
隊長は部下に対して、身体まで毀して作業することはない。それでとかく職場では兵隊と蒙古人とが衝突してお
つた。その際疲れたときは彼らを犬畜生と思えば腹の立つことも我慢ができると
言つて部下に言うてお
つたというようなことが十二日の
速記録八ページか六ページのところかにありますが、併しながら長谷川部隊は作業能率が上らなく
つて蒙古側から指揮を受けたものではないということを長谷川
隊長は
証言の中で述べております。「
自分の部下は吉村の部下に比べて作業能率という点では絶対に負けておりませんでした。」長谷川の
証言であります。それに対し池田
隊長、即ち
吉村隊長は、先ず第一に
考えなくちやならんのは、まじめに仕事をや
つて收容所長の同情を得ることではなかろうか。二番目は、作業をまじめにや
つて、日
本人をソ連人の方或いは蒙古人の方或いは一般の方の信用を得ることではないかと述べております。十二日の
速記録の十五ページ、こういうことを
言つて、先ずこれは日
本人へは早く帰れないのだから何とかして
自分の立場を得ようというように努めております。それは
自分だけのことでなしに隊全体のことのように述べております。これに対して長谷川
隊長は、我々は
捕虜の身であるから、又ソ連は
捕虜である我々を飢えで死なせることもないからという
考えから、先程申したような態度をしてお
つた。この二つの方針の間で多少の困難があ
つたと思われます。若し部隊内に困難があ
つたとすれば混成隊であ
つたがためでなしに、こういう部
隊長間の方針の対立、そこからごたごたが起きておると言わなければならんのであります。そういうような三つの点について述べましたが、これらの点について
報告書は池田の、即ち
吉村隊長の今日の地位というものを庇
つているようなことが
報告書に述べられておるのであります。これはどういうわけであるか、冷靜にこの
事件を考察し判定すべきことがいいんだが、こういう態度をと
つておられるのは解しかねることである。この
報告ではこの
事件が起
つた客観的諸
條件、即ち惡
條件を評價すると
言つて述べられておると同時に、今申すような色をつけて述べておるのであります。今申したようなこと、
簡單に今申したわけでありますが、外蒙との関係においてどういうことになるか、外蒙との関係において事実に即しないこれらの点を挙げておられるのだから、外蒙を非難するということになります。外蒙
政府は困難な、殊に終戰後三年そこら、食糧その他において困難をしておる、それにも拘わらず、今申したような作業所とか、給與とか、そういう
原則を守ることに努めてお
つた、その他先程申しました二つの点から見まして、こういう非難をされるということは外蒙に対して、これは誹謗するということとなります。
委員会においては
吉村隊長があれ程のことをや
つたことについては、外蒙がやらせたんじやないか、更にソ連がやらせたんじやないかというような疑いから、いろいろ調べられたんでありますが、結局ソ連は
吉村隊長に何も命じていないていうことははつきりしておる。外蒙については一部は命令である、他の一部は
吉村隊長のや
つたことだというように
証言がありましたが、それについても
報告書には一部と一部と命令について比較してお
つて本当のことは明らかにされていない。併しながら
吉村隊長は四十一名の者を蒙古側の指図によ
つて処罰しておる。これは池田
隊長が述べておることで分りますが、併し他の証
人達は百数十名の者が処罰されておると
言つて証言は食違
つておりまするが、この数を対比して見まするというと、
報告書が一部と一部と対比してけりをつけておるが、これは
吉村隊長の処罰は蒙古側の指図によ
つてなされた処罰よりも、何倍ものものをや
つておるということが
考えられるのであります。そういうことははつきり出ていないのであります。それで原田証人の
証言によりますと、十三日の
速記録第八ページ、蒙古側の方針は戰勝國の利害関係のある犯罪を犯した場合、例えば逃亡とか、窃盗とか、そういうような場合には
隊長に命じて処罰させるが、收容所内におけるいわゆる日
本人同士の間における問題は、一切不干渉主義をと
つていたということを述べております。事実收容所内のことは、その他の阿部証人の陳述を見ましても、日
本人に委せてあ
つたものであります。これは他の蒙古の收容所においても同樣なことだということは、他の証人によ
つても
証言されております。でこういうところから見ましても、外蒙の收容所、吉村隊の
事件で問題にな
つておるその收容所においても、今申した幾つかの場合を除いては、全く日
本人の自治に委
かされてお
つたということがはつきりしております。
報告書には外蒙のような遠いところでは、俘虜の管理は不完全であるということを指摘されておりまするが、隊内の生活については全く日
本人委せであるという、この自由は私は日
本人が他の俘虜を扱か
つた場合、どうであろうかと
考えますと、非常に進歩したものであると思うのであります。民主主義的な
原則が、この隊内に行われておると思うのであります。でこの吉村隊の
事件については、兵隊に対する処罰というものについては、
隊長が非常に強暴な独裁力を振
つて行
つたと言わなければならないのでありますが、
簡單に申しますが、
速記録十四日の十一ページから十二の間に原田証人が述べておることがあります。
一つの例を申しましよう。モチョグに替
つてバズルスルンが收容所長とな
つて來たときに、処罰については吉村氏に委せるが、その処罰の場合には事前に必ず收容所長のところに
報告しろという
條件を附けております。私は当初は吉村氏の命を受けて、このことを毎晩事前に收容所長に
報告しました云々と書いてあります。更にこの
吉村隊長の処罰することが段々激しくなるというと、
なつた頃のことでありますが、その約束と反対に
報告しておらん。原田氏の言葉を見て見ますと、尚確か二十二年の一月だ
つたと思いますが、夜十二時頃收容所長が余りに刑罰が続くので、わざわざ私を連れて各現場を見廻りに來ました。蒙古側の警備隊の日直に当
つております下士官が、前後四回に亘りまして夜中に私を起しに來ております云々と述べております。それで蒙古側からこの処罰が激しいので、起して注意して行こというふうに激しく注意するものですから、結局こういうことに
なつた來た。これは原田氏の言ですが、併し或る場合には非常にうるさく、夜中の二時、三時という頃に蒙古の歩哨がそれを
言つて來ましたので、うるさが
つて云々と、日
本人が日
本人を処分するのであるから仮に生命にどういうことがあろうとも、決してあなた方に迷惑は掛けないと、だから放
つて置いと呉れということを答えたということを言うております。そういうようにして
吉村隊長はその隊に対しては強い、殆んどこれは強いという言葉では十分でない独裁力を以て隊員を処罰して來た。指揮して來たということは爭われないことであります。如何にこの
事件が沢山の犠牲者を出したか。その数字のことについて私はここに詳しく述べませんが、この
報告書に不思議に落ちていることがあります。これは証人——医者の方の証人の酒井証人か、一方は高橋証人か、その証人の
証言を採用するに当
つて酒井証人の方に引用されて使われておることと思いますが、高橋証人によりますと、入院者約三百名、これは吉村隊から運ばれた入院患者であります。それが主として重体患者であ
つたと述べておる。更にそのうち死亡者は五十名から百名の間の者が死んでおるということが述べてある。更に吉村隊から死体が搬入されたものが四十体、半分は凍死ということを記述しております。それで
報告書は二十二ページ屋外留置のため凍死したものは、はつきりしたものは二名程、作業場における殴打致死は三名、こういうふうにな
つておりますが、このあたりの記述もこれは両者を比較してなさなければならないと思いますが、いずれかというと
吉村隊長の今日の立場に比較しておるのでありますが、こういう比較が取られておらんのであります。そこで問題はこの
事件の本当の核心はどこにあるかについて話を進めましよう。私はこの
報告書が今申したように、いろいろ客観的な惡
條件を並べて、吉村氏の地位を軽く、吉村氏のこの大それたことをや
つた……、私から見れば大それたことであると思のでありますが、や
つたことを軽く評價して來ております。件し吉村氏はこの
証言で日
本人は近い時期には帰れないのだから、外蒙人の、或いはソ連人の信用を得なけりやならん、そうすることによ
つて早く帰れるようなことになるというようなことを申しておりまするが、それは表面のことであ
つて、実は憲兵隊の者であり、憲兵隊であるということが吉村氏に非常に深い恐怖心を起さしております。ここから問題が起きて來るのであると言わなけりやなりません。承徳で編成替のときに、これは池田証人の言葉でありまするが、「当時の特務機関長齋藤中佐殿が身分を隠すようにと言われまして」云々と、
速記録第一日の十二ページに述べてあります。それから又承徳での取調べの際、こういうことも述べております。次いで更にこういうふうにして述べております。「私は最初のときは歩兵伍長で通しておりました。」翌る日今度は歩兵曹長に変えました。電氣を通じて取調べてを受けました。それから二回に亘
つてやはり曹長で通していた、こういうふうに述べております。十二日の
速記録十六ページ、それが蒙古でばれ、憲兵隊の者であるということがばれたことについて池田氏はこういうように
証言をしております。二十一年八月の三日だ
つたと思います。調べたのはバッタ大佐云々というようなのに、君はとにかく隠しておることがあるからと
言つて、そこでピストルを出して、本心を言わなければ殺すからと言われました。十三日の
速記録三ページであります。でこの発覚について原田証人はこう述べております。憲兵であることが発覚した場合に重労働或いは銃殺或いはモスクワ送りというようなことが一應デマとな
つて乱れ飛びましたけれども、事実においてはそういうことはありませんでした云々、これは見えざる影におののいたというのが吉村氏の自白の心境であ
つたと思います。十三日の
速記録九ページ、この
自分が憲兵である前身がばれたときの心配は相当深刻なものであ
つたということを認めなければなりません。それが元でここに起きたことは恐ろしいスパイ網であります。スパイ網を收容所内に作
つたことである。これは憲兵的な警察的なスパイ網とい
つたものではないが、とにかく理想的なものを作
つたということはできるのであります。池田氏がなかなかこれは巧みな作り方をしております。その例を引きましよう。鎌谷証人はこういうように
証言しております。吉村隊のいわゆる吉村氏の方針に盲從してお
つた者、これが各職場の専從者であります。それから吉村氏の眼となり耳となる者の横の連絡は全然な
つておらず、羊毛工場の誰それと全部
自分が、吉村氏
自身がつ握てお
つたわけであります。横の連絡を與えないで縱の連絡ですべて握
つてお
つたということは、これは今申したような並大抵ではないスパイ網を作
つてお
つたということであります。笠原証人はこう述べております。これはその話しておることが直ぐ
吉村隊長の身に入
つてしまうという状態でありまして、そのスパイ網というものは各班内に拡が
つておりました。それに極度の個人主義、
自分だけしか信用できないというような状態に置かれたのであります。十三日の
速記録十二ページであります。更に如何に隊員がおののいていたかということについて酒井幸次証人はこう述ベております。勿論私共の周囲は誰がスパイやら隣に寢ておる戰友がスパイであるか、そのスパイ網の巧妙さにおいては実に巧妙なものがありました。誰がスパイであるということは実に分らなか
つたのであります。若しもやつつけるなら一千名おる場合なら一千名、
自分の命と取換えなければならない状態であ
つたのであります。やるなら
自分一人でやるより
方法がなか
つたと述べておるのであります。十四日
速記録十五ページ。この池田氏の
自分の地位が如何に苦してものであ
つたか、これは
報告書には少しも出ていない。池田
隊長が如何に残忍なことを隊員にや
つたか、処罰において、作業の命令において、その他においてや
つたかということの秘密は、ここにあります。それがこの……。(「
進行進行」と呼ぶ者あり)で私はこの
報告書が如何にも甘く、
吉村隊長に同情しておるかは不思議でなりません。同情すべきものは同情したがいいが、そういう筋合のものでないのに、事実を曲げて同情するというのは、何かの
意味がないと言えるか。でこの
吉村隊長の残虐なやり方については、実際その周囲の者は、一緒に生活してお
つた者は恐れおののいて、どうとも手が出せなか
つたのであるが、それが國へ帰
つて來て、初めて声を出して、こういう問題を提起して来るということに深い
意味があるわけであります。大体この日
本人というものは、正義感というものを大分失
つて來ております。そうしてなかなか起ち上るという力を欠いておるのでありますが、これが今度こそこの問題を取上げて、起たねばならんという氣持に
なつたということは、例えば小峰証人が言うておるがごとく、阿部証人が
言つておるがごとく、如何に残虐な生活を体驗して來たか、見て來たか、その状態が如何にひどいものであ
つたかということを表明しておると言わなければなりません。
報告書は併しながら今私が述べたようには問題の核心を衝いておりません。
報告書十四ページには、生きるためには
隊長を初め下に至るまで盗みをいたしましたと告白しておりますごとく云々收容後間もなく慢性的な飢餓状態から心身に頽廃の兆しを示しておりましたことは、私共といたしまして看過することのできない点であります。こう述べられております。更にこういう弁護の言葉は他にも見受けるのでありまして、これは
一つの例であります。それから、勿論大きな責任を負わされ、而も
自分捕虜の身分である
隊長として、かかる状況の下に如何に処するか、確かにその困難なる実情については同情すべきでありますが、
隊長として至らなか
つたことは明らかであります。
報告書二十四ページから二十七ページであります。それから吉村隊の統率、部隊管理の実情は、一にも二にも作業の完隊を重視し……外蒙側の要求を充たすに汲々たるのみならず、ときとしては不当なる要求量の上に増加して隊員に課する結果ともなり、隊員に大なる苦痛を與え、その頽廃を招くことと
なつたと認めざるを得ないのであります。かかる結果となりました原因の
一つとして、
隊長個人の性格によりますことはもとより云々、指揮の幼稚なりしことは勿論、その地位に立つべき力なき者が無理にその地位を保持せんとしてみずからの背景として外蒙則の威勢を借りつつ無理に無理を重ねた結果と言わざるを得ない次第でありますというような述べ方をして、本当に
吉村隊長なる者を動かしてお
つた。今私は核心と言いましたが、その核心を外して一方或る程度責め、そうしてそれに同情し、ちやんぽんにこう書いておるのであります。この
吉村隊長が同じ日本
國民に対して、こういうスパイ制度を取り、それからこれは述べますまいが、超過ノルマだとか、ノルマ作業以外の作業だとか、そういうようなことで兵隊に稼がせた、金はいろいろまあ弁解もされておりますが、それを独裁的に
使つて來ておる、本当に隊の者を思うならば、こんなことがやる得るものではありません。それは
報告書には
吉村隊長について贅沢な噂も云々と書いております。噂と書いてありますが、噂どころではない、実際は誠に蒙古天皇と言われた程の権力を振
つてお
つたものであります。兵隊をいろいろの名において、名義において残虐に
使つて來た、そうしてその收益を独裁的に
使つてお
つた。それから以後
自分の周囲にスパイ以外に通訳の原田氏だとか、或いは医者の酒井氏だとかいろいろの
人達を周囲においておる。いろいろ顧問役としての機関を持
つておる。そういう手なんかなかなか大したものである。で、これは言葉で申しますというと、憲兵上りであるこの人は縱横に
自分の憲兵の間に養われた手腕を
使つて自分の身を保
つためには至れり盡せりの程度まで身を保護する策を廻らしておる。それを又遠慮会釈もなしに行な
つて來たというものと言わなければなりません。蒙古天皇という言葉は、それはただのしやれ語でなしに、実際にそういう程の力を持
つてお
つたということを示しておると思うのであります。そこでこの
報告書について見ますと、
委員会は何を反省しておる、こういう
事件に対して何を反省すべきかということについてどの程度のことを述べておるか、
報告書三ページには「詳細にその眞相を極め」云々とある。七ページには、「この種の事態の発生の経緯を省みて、平和國家として進むべき我が國の將來に鑑み、我が
民族性について深き反省の要あること」云々と書いてある。三十一ページには、「我が民族の將來の就き独り教育の面のみならず、全ゆる施策に自他個人の尊嚴性の維持尊重、環境の惡
條件を克服するに足る毅然たる道徳性振起こそは平和國家として進むべき我が國の將來に鑑み特に必要緊急の事項であると断ぜざるを得ない云々と書いてある。こういうような抽象的なことを述べて、成る程これを見て見るというとなかなか結構なことであるのでありますが、何を
言つているのかはつきりしていない。何を
言つているのかはつきりしないということは、
吉村隊事件の核心が掴まれていないから、そこに起因しているのであります。こういう抽象的なことは一種の義憤、知識階級の義憤から出ますけれども、本当に何が何であるか掴んでいないのであります。それはこれによく現われております。それで原文はやめて……、人民裁判の連中はソヴィエト背景にして他を彈圧した。これは民主主義かというような
考え方、そんな
考え方を持
つている者が
吉村隊事件になると、外蒙の力を借りて
吉村隊長は外蒙の收容所長だとかその他に贈賄したりして大したことをや
つている。蒙古人まで遠慮したり怖れたりしているようなところもあ
つたと酒井幸次証人であ
つたか述べておりますが、そういうように背景を作
つてそうしてあの残虐な
事件を起したというようなことと似たもののごとく
考えられておる。他の、おるところの國の背景にして暴虐といいますか、人の権利を無視したような行動をしているということをこの
報告ではそういう
見方がとられていることははつきりしている。そこには如何に権力の、即ち軍隊で言えば將校達に引廻わされた兵隊がこの敗戰後外國でその人としての自由を得て奮激に起ち上
つて自分らの人権を盛り立てて行こうというこの情熱は、この理想はこういう
見方では分りません。そうして又こういう
見方では
吉村隊事件の何であるかということも十分に把握できない。
吉村隊事件というものは、人民裁判とか兵士大会とか、そういうものとは反対に上の奴が日本の軍國主義の徹底したひどいことをや
つた例であります。全く反対のものであります。それにも拘わらずこの二つのものが区別されずに取扱われんとしておる。この態度は
報告者の態度であります。それでは大体これで止めることにします。