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証人(津村謙二君) それではお答えいたします。小針君に関しましては、彼は
昭和二十二年の一月に
ナホトカに参
つております。その際に私は
ナホトカにおりまして、第一回の
昭和二十二年の一月に船が出て
行つたあと
ナホトカに残
つてお
つたのであります。こうして小針君一行の
部隊をあの
ナホトカのその第三百八十
收容所にお迎えをいたしました。それから私達、元からあの
ナホトカにお
つたところの大隊は、第一次大隊といたしまして、民主同盟という
民主グループを作り、小針君の第二大隊も
民主グループを作
つて、二つの
民主グループが
一つの
收容所の中にあ
つたまま、ずつと輸送再開まで続いております。なぜこの二つの
民主グループが
一つの
收容所の中にあ
つたかと、こう申しますと、大体小針君は最初に
日本新聞社におりましたけれども、いろいろな事情、先開申述べましたけれども、あの点に関しましては私が、
昭和二十二年の八月、
日本新聞社に参りまして、いろいろ具体的に調べた結果とは相当相違しております。そうしてそれは後で述べたいと思いますけれども、小針君の
ナホトカの第三百八十
收容所におけるところのいろいろの
生活、こう申しますのは
日本新聞社に曾てお
つたということを以て、兵士大衆を常にその膝下に据えてお
つたというのが現状であります。その具体的な
実例といたしましては、我々が第一大隊の民主同盟がこうした事務所に兵隊が訪ねて來る際においても、靴を脱いでそうしてどこかお上品な家に入るような恰好でそつと皆入
つて來る。で我々としてはそういうことをする必要はない、靴を履いてずつと入
つて來て悠々と話していいのだ、こう我々は話すのでありますけれども、これが民友クラブの
状態であります。又炊事場に一度糧秣を掻拂いに入
つて來た兵隊を我々が詰問いたしました際においても、四十数歳の中年の召集兵の人が声を立てて、大声で泣きわめいて、どうか小針にだけは知らせないでくれ、こう
言つて我々にしがみついて來た。こういう現状であります。で私達といたしましては、当時民主同盟の
委員長である田中敏という当時二十四歳の若い青年でありました。私は
民主グループに入
つたのは、先日のこの
委員会においても申述べました通り、別に民主主義の何たるかも心得たわけでもない、我我兵隊が正に明日死ぬかという
状態まで叩き込まれたときに、我々の心の中に如何に……、泥棒をして道に落ちておるものを拾
つて喰べるという
状態にまで叩き込まれても、尚自分の心の中に残
つておるところの
日本人としての意識、人間としての
考えが初めて……、こうしたもののそこに蔽われておる眞実を我々は求めまして、
民主グループというものを作
つておる、小針君は曾ては
日本新聞社にお
つて如何なる
思想、如何なるものを持
つてお
つたか知らないけれども、彼等が一月に
ナホトカに参りまして、そうして四月に
ナホトカの第一船に
民主グループの
委員長として乘込んで
行つたそのときまでの期間、彼が兵隊に與えたことろの影響というものは、先に申述べましたところの二つ、そしてこの二つに関しましては、日本に帰
つて來ていろいろ当時のいわゆる大和連隊、こう言われておるところの
人達を尋ねることによ
つてもこれは
実証されております。それで小針君は
日本新聞社に対して個人的な恨みを持たれておるということは私もよく分る。併しながら彼の
只今証言なされたことに対しては、いろいろ
人名その他についても、例えば淺原、ペンネーム諸戸文夫という人も、
昭和二十一年の六月、
吉良金之助も当時
日本新聞社に参
つておる。小針君と相前後して、ほんの短かい期間においてここにおいて入れ代
つておる。又最初において
宗像肇、これは「はじむ」こういうのが本当でありますけれども、こうした
人達が今ハバロフスクにおいて日本新聞を最初に発刊した
昭和二十年九月一日、この際におきましても、ソヴィエト側のコバレンコ・マイヨール、コバレンコ少佐、これといろいろ協議して、そうして
日本人の捕虜に対して内地の状況や世界の状況を傳える。そうして暗黒の、又郷愁を覚える淋しい氣持をそうしたところにおいて慰さめるということが一番最初であ
つたけれども、入ソしたところの我々
日本人の捕虜の
状態というものが曾ての
軍隊制度の下において、そうしたものに振向くというような余裕もなく、朝から晩まで我々びんたを加えられて、そうして曾て日本
軍隊が健在であ
つたとき以上の残酷さを以て我々の
生活は律せられて
行つたという、そうした
状態の下において、独り日本新聞がのんびりとした、いわゆる我々に対するところの慰安とか、そういうことでは納まらないというのが現状であ
つたのです。こうしたところから日本新聞は自然に我々の悲惨な
状態、こうしたことの原因がどこにあるか、それをずつと遡
つて行つたところに始めて天皇制の問題も究極のところにおいてこれは出て來るし、又全世界を蔽
つたところのフアシズムなるものが如何なるものであ
つたかという点も、これを突き止めるという段階まで至り、その当時においては決してこれは宗像、諸戸、吉良、高山、こうした諸氏の独裁とか、これはソヴィエト側とくつついて自分らの自由自在でや
つていたということではもうすでになくな
つて、その当時はもう小針君は日本に帰
つておりますけれども、各
收容所の代表者がハバロフスクに行
つていろいろ檢討して、日本新聞の行き方はそうしたものに対しても徹底的に
お互いに
批判会を開き、シベリアに抑留せられておるところの六十万の関東軍、朝鮮軍、樺太軍、千島軍、こうしたものの
人達、これの殆んど何%かの大部分、こう推定されるのでありますけれども、そうした趣意に基いてあの新聞は編集せられ、運営せられて行くという結果に次第に移行して
行つたのであります。そうして小針君が……、話が又元に戻りますけれども、小針君が四月の三日最初の船によ
つて帰る際においても、あの男に誰か
日本人が残
つてくれ、こういうことにな
つたときに、民友クラブの
委員長であ
つた小針君、民主同盟の
委員長であ
つた田中君を始めとして、私はそうした一月以來の彼らの
生活態度、そうしたものからしてこれはえせ民主主義者、民主主義の名の下において、意識するとしないとに拘わらず、兵隊にただ單なる精神的な圧迫のみではなくて、帰さないというたところのものを感ぜしめて苦しめたという、こうしたえせ民主主義者達が、その
実証として一番先の船で帰
つておる。而もその一大隊、二大隊の
人達が全員帰
つてか、こう言えば、まだ二、三百名の
人達があすこに残
つておる。そのときに長であ
つたところの者が一足先に帰るということ一事を以ても彼等の
状態はお分りになると思う。私は決して自分から進んで
残りたい……、本当の心を言うと私も帰りたか
つた。併しながらそこに残
つて、そうして
日本人のためにやるということが、私の心の中にあるところの人間、即ち
日本人としての氣持がそうさせた。ところが小針君田帰る際においても、俺は社会党に日本に帰
つてから入る、四月の総選挙において代議士に立候補しなければならない、だから俺は早く帰りたいということをソヴィエト側のさつき
言つたゴロフニン中尉、こうした人にも洩らし、そうしたものが小針君や、その他の
人達が帰
つて後においても、ソヴィエト側のいわゆる笑いの種にな
つておるということにおいて、同じく小針君の
部隊から残
つた北川昇君、これは先日の
細川証人の
証言にもありました、当時連隊長としてお
つたとこう
言つております北川昇君、この人は小針君を信頼して、そうして彼の下において
民主運動をや
つて來たのであるけれども、そうしたすべての事実を北川君が知
つたときに、自分も同じようにして無意識のうちに兵隊を苦しめたことを彼は後悔し、俺を奥地に送
つてお
つてくれ、俺はこういうところに残
つておられる人間ではない。無意識であるけれども、小針君の下において兵隊をいじめた、奥地に帰してくれと
言つて我々のところに彼はや
つて來ておる。そうして非常に苦んでおる、我々
民主グループは彼が日本に帰
つて、そうして日本の現実はあなた自身のそうしたいわゆる後悔などをして弱い氣持にな
つておるものを直してくれるだろう、こう
言つて彼を帰しておる。これは先日の
証言にも言及いたしますから、これから
お話したいと思いますが、その直後北川昇君は、舞鶴において
ナホトカの
民主グループの責任者をや
つてお
つたということを以て殺されたというデマがハバロフスクはおろか、あの附近一体にこれはどこからともなく拡が
つて來たのであります。そうして次から次へと体を悪くして帰
つて行くしころの集結地の
民主グループは皆舞鶴においてやられるというデマが、これは全くデマであろうと私は思います。デマが
民主運動をや
つておる者の間にこれが傳
つて來る、そうして杉田茂君が昨日の
証言において政治部員組織部長の津村何某、これは恐らく私だろうと思いますけれども、私の大衆カンパによ
つて精神異常を來し、船から落ちてそうして死んだということが舞鶴の復員官から奥さんの許にこれが傳えられて、そうして新聞にもそれが書き立てられておるということにおいても、全くこれは杉田君の事情を全然知らない、そうして意識的にこれをこぢつけようとしておるところのものであるとしか私は
考えられない。その証拠と申しますのは、私は杉田君が
昭和二十二年十一月に
ナホトカに残された際、この際においても
ナホトカの医務室は大体二百
名前後の勤務員を絶対に必要とする、併しながら医務室関係の
人達は十分御
承知だろうと思いますが、入ソ以來、最も樂な
生活をしたのは医務室関係で、医務室において我々兵隊を診断し、ただ藥を盛るという程度でずつとソヴィエトにおける浮虜
生活というものを終
つて來ておる。彼らに自分から進んで
ナホトカに残
つてくれというのも無理であるし、彼ら自身から又自分達から残るということを
言つて來るのは当然で、そうしたところから無理である。我々は止むを得ない、又ソヴィエト側としても止むを得ないので、そうしてこうした
人達にいろいろ事情を話をして、二三ケ月とにかく残
つて日本人の人のためにや
つてくれと
言つて残
つて貰うのがこれは普通でありました。そうして細田君が
昭和二十二年十一月に最も
民主運動が盛んであると、こう言われておるハバロフスクから杉田君が梯團長として
ナホトカに來ておるから、立派な民主主義者である、そうして彼は医務室に入
つてお
つた際において、医務室の
人達が非常に官僚的で万人に対して、もう自分達は残された、だから帰る時期が來るまでのこれは單なる仕事なのだ、こういうような
状態で兵隊に臨んでおる。こういうものは我々のグループのところにも通過
部隊の投書として沢山に來ておる。これを杉田さんは、それを一番先に言い出しました。私のところに見えまして、医務室の方達は帰
つて行く兵隊に対して、幾ら集結他の
民主グループから頑張
つてくれと言われてもそばからそれを崩して行く。私はハバロフスクにおいて
民主運動をや
つて來たし、又こうした
状態は非常によくない、何とかして自分はこういう態度を改善したい、こういうふうなことを私のところに相談して來た。私は杉田君に対して、
一つそれは非常にいいことだし頑張
つてくれ、こう
言つて彼を私は帰しております。それから昨日
阿部証人が言われたように、杉田君の医務室において本当に素つ裸にな
つて患者だ、医者だという態度を捨てて、同じ
日本人として内地に帰る海を見ながら、病床に横わ
つておる仲間を
一つ看護して行こうじやないか。ところがそれと前後いたしまして、阿部さんが私のところに参りましてそうして北鮮時代のいろいろな話、又五十三
收容所において如何に
阿部証人が民主主義者として振ま
つて來たかということを、私にいろいろ話をし、私も立派な人だ、こう思
つておりました。杉田君という人が医務室において頑張
つておる。
一つ阿部さんも協力して頑張
つて呉れないか。こういうふうな話で進んで
行つたのであります。そうして十一月の末の頃医務室から阿部さんが來られまして、直ぐその後で杉田君も來られて医務室に青行隊を作り、医療部とそれから指導部というふうな組織も作
つた。お蔭樣で医務室の
民主グループはこのように結成されたし、その結成式に
一つ來て呉れないか、こういうような話でありましたので、我々
民主グループといたしましても非常に喜んで、そうして
只今ここに來ております
松澤証人が、当時青行隊の隊長でありましたけれども、
民主グループの青行隊行も一斉にそこに出て参
つて私共
民主グループの青行隊の交歓会をその場でやり、その席においては
阿部証人は、私は医務室の
委員長としてという前置を以て、その際において彼は訓辞をしておる。ところがそれから第四分所に移
つたのは次の年、
昭和二十三年の一月に第四分所の医務室に全員が集
つております。そうして新聞にも一月の二十日に私が医務室に行
つて大衆カンパをや
つた。こう麗々しく書き、又先日もかように傳えられてお
つたようでありますけれども、当時第一分所の
民主グループが第四分所に移
つたのは一月の二十六日、そうして第三分所の
民主グループ、第二分所の一部、輸送再開を目前に控えまして各分所に拡張整備する、そうして第四分所を基地として
收容所の整備改善に務めるというところの意見をソヴィエト側と我々の間で持たれまして、そうして我々は全部第四分所に移
つて來ておる、だから一月の二十日に大衆カンパを持
つたということは全くこれは
根拠がありません。私たちが二十六日に第一分所に移
つた際に、鈴木元海軍の軍医
大尉であ
つた、こう思いますけれども、いろいろ
お話して、そうして輸輸再開も間近いことであるし、
一つ医務室の
民主グループと、集結地の
民主グループと懇談会を開こうではないか、イロイロ問題もあるし、帰還会の形式を以てこれをや
つて行こう、こういうふうに協議をいたしまして、そうしてこれは持たれております。これは一月の二十七日に医務室側の日直を除くところの全員と、集結地の
民主グループといわれておるところの私と飯田兄弟と興梠安則、内田晃、藤山龍馬、山本吉廣、河本義男、小山亨、この九名で行
つております。そうしていろいろそこで協議したのは集結地の
民主グループと、医務室の
民主グループとは、どうして差別しなければならないか。そうして輸送再開を控えて現在その体制を整えなければならないというけれども、いつ帰れるか。医務室としてはいつ交賛さして呉れるかというふうな話でありました。そしてこの輸送態勢を迎えるということにおいて、阿部
委員長を初めとするところの医務室の
民主グループというものが、ではどういうふうな輸送再開に対して対策を立てているかという檢討が始
つたときに、杉田茂君が医務室の
民主グループの指導部に都築軍医
大尉、こうした
人達と
一緒に編成されておりましたけれども、結局何にもや
つておらない、これではどうして輸送再開が迎えられるか、又そのときにおいては、
患者からの投書として二通の投書を我々は持
つて行
つております。それは医務室の勤務者がいろいろ日本に帰る準備を、自分達だけでや
つている、町に出て行
つて煙草を買
つている、これも併しいいことである。併しながら医務室の
患者達が、碁や將棋を打
つて、そうして、自分達で樂しんでいる、これは入所した当時医務室が特権階級としてや
つていた頃と何ら変りがないではないか、そうして、看護に來ても、中には昨日は何時まで麻雀をやり碁をや
つたので、とても今日は眠くて堪らないというようなことを
患者の前に來て
言つておる、こういうふうな投書が我々のところへ参りまして、我々はそれを持
つて行
つてこれも読んでいる。そうしたところから杉田君が直接最初に阿部
委員長と共に
民主運動を始めた人として、仲間として私は
批判をいたしました。だからこれは大衆カンパいわゆる
人民裁判なんかとして、頻りに日本では文藝春秋に出たのが一番最初だと私は記憶しておりますけれども、それが出てから
ちよつと何かや
つてもすべては、これは
人民裁判である、大衆カンパである。こういうふうにこぢ付ける人があちこちに出て來ておるようでありますけれども、我々の言うところの兵士大会というものは、そう
簡單に
ちよつとした人の創意でぽかぽか持たれるものではこれは絶対にない、もつと眞に兵士大衆が一丸とな
つて持つところの、もつとこれは権威あるところのものである、決して医務室におけるところのものは、大衆カンパとか、杉田君のそれを決定的に責めるとか、こういうふうなものはなか
つた、そうして私は熱発いたしまして、直ぐその後で二月の一日から二月の五日まで私は入室しております。このときにはさつき外の軍医の
名前を
阿部証人は言われましたけれども、堀元の見習士官、これは満洲において、地方人の医者として、戰爭が始
つてから召集されて、そうして見習士官とな
つていた中年の立派なこれは医者です。この人に私は診て貰いました。そうして、医務室に入室いたしました。その後医務室から私が出て來て、二月の七日に再び輸送態勢のことについて医務室と懇談会を持
つております、この際に懇談会を終
つて出て來ようとしたら杉田君が私の後を追つかけて來て、いろいろ当初からの医務室の
民主運動について、共に話し、その
最後に彼はこういうことを私に
言つておる。この
ナホトカで
民主運動をやることについて、舞鶴において殺されるということが言われておるけれども、これは事実かどうか、で私としては、勿論これはデマであ
つて、日本は
終戰後、民主國家としてできている筈であるからして、決してそのような昔の特攻的なものは絶対にない筈だ、絶対に心配することはない、こういうことを私は彼に話しました。ところがそれから、彼が二月の九日に、それから一週間から十日に亘
つて入室しておりますけれども、それまでに至る間、外來の都築元軍医
大尉、彼が、外來の主任をや
つておりました。その下で杉田君は医務室勤務をや
つておりました。直ぐその隣りが
民主グループのこれは事務所でありました。そこに杉田君は夜になると私の所を訪ずれて來て、いろいろいつも話してお
つた、その中にいつも出るのは舞鶴におけるところの集結地に対するいろんな問題のデマの
根拠、事実かどうかということを、いつも私に聞いております。こうして杉田君田非常にそのことを苦に病んだ、こういうふうに皆
言つております。カンパのために氣が狂
つたというておりますけれども、杉田君はカンパのために氣が狂
つたのではない。又彼が絶対に氣が狂
つておらなか
つたということを私ははつきりと申上げたい、これは医務室から帰
つて來ておるところの都築、堀、その他の軍医、稲垣
大尉、瀧野少尉、瀧野元少尉は隔離のこれは主任でありましたけれども、杉田君は隔離に約一週間から十日の間入室して体を休めております。絶対に精神に異常が來ておるということは認められない、だから私の言いたいのは、舞鶴において、集結地
民主グループなるが故に、死とまでは行かなくとも、いろんないわゆるリンチが加えられておるのではないかというふうな船説が、どこから出て來たか知れないけれども、こうしたものが出て來て、そうして杉田君が帰る際において精神異常というふうに思われるようにな
つて、彼は帰
つて行つたということを思い併せて御覧にな
つたならば、彼が
ナホトカにおいて
民主運動をやり、そうして帰
つて行つたということを較べて見たならば、お分りになると思います。そうして杉田君が帰る際においても医務室からはこの際に大井というドクトル、これは「だに」膿症のために隔離病室におりましたけれども、頭が少しぼんやりしてお
つた人です。それと浦田
証人——昨日出て來ておりましたけれども——浦田
証人、この二人が杉田君に附添とな
つて、そうして帰
つて行
つております。ところが帰る日においても杉田君は裏山に行
つて云々ということは、先日の浦田
証言の通り、そうして第三分所に三日の午後に遅刻のために移動し、七日の復員式に備えたのでありますけれども、その夜中の二時頃稲垣軍医が不寢番をしてお
つたときに、夜中の二時頃ですね、帰
つて來て、そうして稲垣さんに問い質されて、スプーンを取りに來たと、こう表面は
言つたけれども、帰りたくない、俺は
最後まで
ナホトカにおいてや
つて行くということを常々私に
言つてお
つた通りのことをそこまで
言つて、そうして彼は残ることをここで欲しておる、ただその原因が舞鶴においてリンチがあるとのみ
考えているから、そんな馬鹿なことはないから、奥さんも子供さんもおるし、元氣で帰
つてくれということで、次の朝点呼前に、その看護兵のサクチヨクという人の特別の計いで、誰にも知られないうちに三分所に連れられて行
つております。そうして帰
つて行
つておる、これによ
つて杉田君がどういた人間であ
つて、どうして日本に帰りたくなか
つたかということはお分りにな
つたと思いますけれども、私がそれについてもつと
お話しいたしたいのは、杉田君が帰
つたその同じ月の九月の二十九日に私は
ナホトカから乘船いたしまして、そうして帰
つて來ております。私としてはこの際において、私の目で見て來たところのものを、そのまま船に乘
つて、そうして日本に上陸するまで、私の家に着くまでの間のことを、
お話しいたしたいと思いますけれども……