○
証人(細川
龍法君) 私は曾て第十四地区の第十分收所の、
最初本部におりまして、次に小隊長、小隊長から副官、曾ての
收容所を出発して帰隊する当時は、私副官として
昭和二十二年の四月十二日
ナホトカへ到着したのでございます。二、三日そこに滯在しておりますときに、そこに集結しておられました幾多の
部隊を全部集合させられまして、下士官及び將校は列外になれ、そう言うので、これはソ軍側の少佐と大尉と、もう一人堀という日本側の管理部に所属した人事係がありました。その三名が参りまして、將校、下士官を
部隊の右側に集合させたのでございます。そしてソ軍側の大尉が個人個人に、顔色を見ながら、お前はロシア語ができるか、或いは、家庭の
状況はどうだ、二、三ケ月ここにお
つて勤務して呉れないかということを漠然と申したのであります。何百人か並べられた中に、不幸我々七名が選拔されたのであります。そうして直接ソ軍側の指示によりまして、我々が我々の中隊から乘船見合せのため削除いたされました。ソ軍側からの直接指示に基きまして、各天幕及び宿舎の名棟が建
つております。これが引続き輸送が行われるので、一日や二日そこに投宿すると直ぐ建築物その他も非常に汚れたり、破壞したりする。そのためにおのおの建物について
責任者を附けて、そうして日
本人の引揚げまでこの建造物を保存したいという趣旨であ
つたようでございます。それは我々一行が七名任務を與えられまして、そして一室を與えられたのでございます。暫くそこにおりましたが、そのときに我々は通過
部隊、奥地の方から帰還のために
ナホトカに到着いたしました
部隊にこういうことを申上げたのでございます。我々は日本新聞社の宗像、吉良、高山、或いは
津村、こういう一味とは違うのだ、あの人達の
ように思想教育を目的としてここにいるのと我々の立場が違う。希望しないに拘わらず、家族もこういう
状況である、是非帰して欲しいと言
つたけれども、ソ軍側の方の指示によ
つて我々が残されたのであるから、その趣旨を、我々の立場というものを、誤解しないで呉れということを明言して置きました。そしてたまたま今まで各
証人の
証言にもありました
ように、共産党の思想教育、或いは反幹部思想、或いは軍用語の全廃、こういう
ようなことが日本新聞を通じて再三啓蒙宣傳されたのでございます。ところが私が四月の二十二日
ナホトカに参りますと、北川昇という男がおりましたが、この男が腕に聯隊長という腕章を付していたのであります。傲然たる態度で、我々が入りますと、門のところの眞中にスターリンの額がありまして、そこに赤旗が交叉してあるのであります。実に陰惨極まる。その門を潜ろうといたしますと、そこに大男がおりまして、後に名前が北川昇ということが分
つたのでございます。そこに到着しますと、各
部隊でおのおの何らかの形におきまして
民主グループというものを、名目だけでもとにかく作
つていなければならない組織というか、その
ような氣運にあ
つたのでございます。そうして私が部下を帰したいために、部下の留守名簿とか或いは戰時名簿、こういう
ようなものをシベリヤに行きまして作
つて、それが
部隊副官の申し送りにな
つておりましたので、最後の
部隊副官を引受けておりました私が、その
書類を後生大事に持
つてお
つたのであります。そうしてこの
書類は
内地まで持ち続けて、これによ
つてお互いの消息を語り合おう、そういうわけでそこに参
つたのでございます。併し氏主運動なるものを曾ての
收容所で名目だけや
つて、ソ軍側にはこういう
ように
民主運動をや
つているという事実を見せておりましたが、それの
責任が私にありましたので、日本新聞にはかく書いてあるけれども、我々はこうあるべきだということを私は逆説申上げたのでございます。そうすると、私のおりました
收容所の者達がそうだと
言つて一同が拍手をいたします。それをソ軍側の政治部員が見てお
つて、細川君が今與えたテーマによ
つて講演しているけれども、一同が拍手している、実にこれは
民主運動が徹底した、こういう
ように
向うは見たのでございます。これが私の
收容所における私の信念で一つの指導理念でありました。そうして帰りましたものですから、
ナホトカに來ても、勿論赤旗の歌も、インターナシヨナルの歌も知りません。お前達の中隊の
民主運動はと
言つて横槍をさされると、まちまちである。私が直接宗像、吉良のところに参りまして、私の中隊の
民主運動の
責任者は私である、こう私は自称して言
つたのであります。そうすると、あなたがや
つておられたのですか、こういう話でございまして、そこで曾て私は
民主運動をや
つたというので、日本新聞なども非常に私を高く買われて、そうしてそのとき、
梯團長にしてやろうという話もあ
つたようでございます。これは宗像からも、吉良からもその
言葉を言われております。そうしておりましたが、四月十九日頃に中隊は全員無事に
帰つて來ることになりました。併しその場合に私と
一緒に引拔きさされましたのは、同じ中隊から三名でございます。川村と廣瀬、私と三人でございます。その者が
一緒にロシア側の方からの命によりまして、宿舎係をいたして、そうして一室に閉じ籠
つた。その場合に先程も申上げましたが、軍用語全廃など宣傳しているにも拘わらず、かの地において聯隊長という腕章を附しているということは、これは不合理である。それから当時、新日本青年同盟という腕章をつけたグループがおりました。北川聯隊長の時、
津村謙二が第一大隊長の職にありました。そういうことから聯隊長或いは大隊長という
言葉が、軍用語を全廃する
民主グループの行き方とは非常に
違つている。聯隊長なり大隊長という
言葉が
軍隊以外に通用される
言葉かどうかということ、それから新日本青年同盟というものは、お互い外地にあ
つて、捕虜同士で政治色を持つ團体が結成されることが可能であるかどうかということにつきまして、私が宗像のところに
意見具申をしたのでございます。そうしますと、数日いたしましたか、それがすり替えになりまして、ロシア語でアクティーヴという腕章にすり替えられたのでございます。それから聯隊長或いは大隊長という
言葉もなくなりまして、今度管理部と指導部という部に分かれて、それから
ナホトカの変遷がそこから発端するのでございます。私は
昭和二十二年の四月十二日
ナホトカに到着いたしまして以來約七ケ月半、二十二年の十一月二十四日高砂丸に乘船するまで
ナホトカにいたのでございます。この間相当期間的にも長いのでございまして、ずつと系統的に
お話すると相当時間も取ると思いますから、一應要点だけを御
報告申上げまして、次は御
質問にお答えしたいと思います。私が宿舍係をしておりました時に、第二管理部に鬼島一行の十二名というものが北海道出身だけで第二管理部というものを構成していたのでございます。これがたまたま
津村達と意見の衝突を來したところから、鬼島一行は終身この地に踏止ま
つて輸送業務を援助したい、こう
言つて自発的の積極的に残りたいということを
言つてお
つたのでございますが、突如として彼ら一行が還されることにな
つたのです。かの
ナホトカに踏止まりたいという
本人達が逆に還されて來た、こういう面白い例があるのであります。それが二十二年の四月の下旬でございます。もう殆んど五月かも知れません。そうして還されたものですから、遂に第二管理部というものの人員が全然なくな
つたのでございます。その間我々は約半月もそこの地におりまして、直接ソ連側からの指示を受けておりましたけれども、
仕事の性格上管理部というものとは横の
連絡を持
つておりました。その
関係で我々七名が直ぐそのまま第二管理部に轉用されたのでございます。その場合に駒場信行という元の中尉がおりますが、彼はか
つての
收容所においてはもの凄く反動振りを発揮していたそうでございますが、
ナホトカに來まして
状況不利と見るや、直ちに塗替えて擬裝民主主義者とな
つたのでございます。これが一躍
津村、宗像達の高く買うところとなりまして、彼が管理部長の椅子に推されて参りました。そうして七名の人事はソ連側の將校が來ておりまして、お前はこれ、お前はこれと
言つて、そこでおのおのの業務分担をされたのでありました。当時私は人事係をいたしました。併し名古屋におります岡田という元の中尉がおりますが、彼と私二人が人事係になりまして、元々その主義、思想に共鳴して彼らと行動を共にすることのでき得ない心理
状態にあ
つた私ですから、管理部に参りましても、名目は人事係であ
つたけれども、私は殆んど業務をやりません。そして岡田氏にやらせまして、毎日見たり、聞いたりしたいろいろの事項を私が歌なり、或いは詩なりに、そうして毎日感想を綴
つたのでございます。そうして一日々々の管理部の業務が済み次第、夜分など一室に皆おりましたので、その人達に私が
民主運動というものに対する批判的な文章を書いてみんなに回覧して見せていたのです。そのときにたまたま我々の部屋の隣りに、先程も出ておりましたが、須藤惠子という女の子と、もう一人渡邊何とかという女がおりました。彼女達が、私達は六十万の同胞を引揚げするまではこの地に踏留
つて、そうしてこの運動に挺身したいということを一般の通過
部隊の前に出て公言しまして、そうして
津村とか吉良、宗像達から原稿の檢閲を受けて、そうして壇上に立
つてアジを打
つていたのでございます。その女の子二人と或る日管理部で私が隣り合
つていたものですから、その女の子を呼びまして、日本女性のあり方ということについて私が独自な批判を加えまして、そうして彼女達二人を説得したのでございます。そういたしますと、渡邊何とかといいましたが、今二十八、九と思います。彼女が一應壇上に立
つて六十万の同胞の引揚げまで踏留ります、こういうことを断言した彼女ではあ
つたけれども、私のいわゆる日本女性のあり方ということが彼女には響いたとみえて、飜然としたのでございます。そうして彼女が突如として帰
つた。そのとき
津村氏から、我々の同志を一名喪
つたのは細川のためだ、細川は反動だ、こういうことを言われましたのが五月の末でございます。管理部がそういう雰囲氣の中に
生活しておりました。監理局長は駒場がおり、副長は東京におります品田君がおります。彼はよく私と意見を共にいたしまして行動をいたし、そうして駒場の余りにもあさはかな轉向振りを私がきつく非難いたしました。そうしますと、彼駒場は盛んにこの管理業務をやる上において細川及び品田がおるということは非常に面白くない、事務を阻害することであるからこれを何とか追放して貰いたいということを上申したのでございます。それによりまして、六月初めでございます。私と品田が追放されることにな
つたのでございます。その追放されるというのは、第一
收容所の柵内に勤務中隊というのがありました。或いは六中隊という
言葉を使
つておりました、そこは反動として
摘発された者及び入院
入室してお
つたために
部隊と行動を共にして
一緒に帰れなか
つたという者、所属のない者がそこへ入れられる。或いは反動として残された者とか、或いは当時の將校とか、こういう人達がごつちやに入
つております雜役をする勤務中隊というのがございます。そこへ六月の月初めでございますが、私と品田君が日本新聞社の特派員で
ナホトカにおります宗像、吉良の部屋に夜喚ばれたのでございます。夕食の済んだ後行きますと、あなた達二人は管理部の業務を阻害する。この
ような停滯しておる雰囲氣というものはあなた方二人の干渉によ
つてこういう
状況にな
つておる、それであなた方を追放する、反動として反動中隊にやるからという宣言を受けたのでございます。そうして翌日私と品田君が若干の私物を取纏めまして反動中隊と称される勤務中隊に参りました。そうしてそこで約一週間ばかし雜役いたしました。その雜役というのは、ここにお粗末な腕章を付けて、入浴監視とか、或いは移動監視とか、或いは門衞……門を開閉する、そういう雜役に服すこと約一週間、そのうちにたまたま私達が帰るという
ようなことがぼんやり入
つて來たのでございます。そうしていよいよその乘船名簿というのを耳をすませて聞いておりますと、品田君と私の名が辛うじてその一番下の方に銘筆書きで書いてあ
つたのでございます。ともかく帰れるのだということによりまして、俄か作りのお粗末の私物品を取纏めまして、第一から第二に移りまして、そうして第三に通過したのでございます。そのとき
ナホトカにおりました勤務者の中の者が主体をなして帰りますものですから、全然知らない人もおりましたし、
入室先から
帰つて來たふらふらな患者さんが中心だ
つたのであります。その患者さんを連れて、そこで十七、八名だ
つたと思いますが、一つの分隊を組織する、分隊と言わずに小隊と
言つておりましたが、その小隊長に私が推されて、私が帰還編成をしたのでございます。そうして第三
收容所に二日おりました。そうしていよいよ六月の九日の乘船に決まりましたが、六月九日朝から乘船者の名簿が読み上げられております。私も預りました十幾名の部下を持
つた小隊長として、帰るべく決意をして、
自分の名前が呼ばれるのを期待してお
つたのでございますが、品田君の名前だけがあ
つたけれども、私の名前が削除されてお
つたのであります。そうして品田君に小隊長として後事を託して、私は品田君に第三
收容所において僅かばかり持
つてお
つたパンを品田君にや
つて、そうして再会を誓
つて涙ながら別れたのでございます。悄然と私は勤務隊に又逆戻りして行
つたのでございます。第一
收容所における勤務隊に
帰つて行
つたのでございます。そのとき勤務隊の人事係及び中隊長をしておりました玉内とか玉田とかいう男がおりましたが、彼が六中隊の人事全般を担任してお
つた連中がその船で
一緒に
帰つてわけでございます。それがために勤務隊に何人残
つて、誰がどうな
つておるか、全然分らない
状況で……、私が悄然と
帰つて行
つたのであります。そうすると、中隊長も
帰つてしま
つたし、人事係も
帰つてしま
つたので、我々がみずから自主的なものを作ろうじやないかということになりまして、その当時は、昔の
軍隊はよく分隊制等で、食事の分配をいたしましたが、当時は分隊という
言葉さえ使えないで、何々組ということを
言つてお
つたのでございます。そこに三百名ばかりおりますが、
医務室は別として、一つの幕舍の中にやはり十ぐらいの程があ
つたのでございます。大体分隊單位くらいの人員です。その組にはやはりおのおの組の民主
委員というものが設けられまして、非合法的なものがあ
つたのであります。それが寄り集ま
つてこの勤務隊の今後の運営について協議をして、そのときに誰かが、細川さんは今まで監理部の方におられたので、その方に明るいかも知れない、是非一つ我々の
民主運動というものに対して骨幹となるべき規約を作
つて貰いたいということを、私が各
委員から申渡されまして、
民主グループの起草
委員を私が單独で任命されたのでございます。そうしてその晩の中に、一日一晩の中に大体規約案というものを私が書きなぐりまして、六月十一日勤務隊において第一回の総会を開いたのでございます。元の將校約六十人ばかりを中心として、約三百名でございます。そこで私が起草
委員という立場から、規約の案の説明をいたしまして、引続いて
委員の選挙をいたしましたところ、私が
委員長に推されたのでございます。そうして
委員長にな
つたのですが、その場合に
委員長になる前に、なかなかむずかしいいきさつがありまして、もともと
ナホトカにおる者は全部
津村なり、宗像、吉良達のお氣に入る者でなければ、一つの小さいながらもグループの長にはなり得なか
つたのであります。併し私が
責任者になるということを、新聞社等が、或いは
民主グループも喜ばないという事実は知
つておりましたし、いろいろなことを言われて來ました。併し私は眞の
民主運動ならば六中隊こそが独自な立場で、我我だけで構成されるものであるから、何も第三者から平渉される必要がない。我々は我々だけで構成することによ
つて、初めて彼らの標榜しておる
民主運動というものを
原則なんだということを私は信じて、それを一般にそういうふうに仕向けたのでございます。そうして暫くそこにおりまして、六月の三十日と思いましたが、將校五十二名、それから兵隊、下士官を入れて五十九名というものが、今から轉属だという
命令を受けたわけでございます。もうすでに將校はその当時、
内地に
帰國できないということが宣傳されておりましたので、その將校と行動を共にするということは、
帰國を阻まれた実証でございます。將校が五十二名だと思います。准士官が二名、下士官が三名、それから兵隊二名、この兵隊というのは秋田縣の松坂忠一郎、それからもう一人は東京の中羽壽美男というのがおります。この二名が兵隊です。これが將校一、下士官三名の中に加えられまして、突如としてスーチャンの
收容所に轉属を命ぜられたのでございます。スーチャンに行きますと、暫く待たされたのでございますが、道中長いところ、そうして暑い時でございました。もういつ帰れるか分らないという不安が先に立
つておりますから、洗面器を担ぐ者やら、或いは重そうな碁盤をいわい付けるとか、將棋盤を担ぐとか、それは実に見るに見兼ねる
状況でございました。そうしてスーチャンに参りますと、約二時間くらい歩きました。そこへ着いて暫く待
つておりましたところ、
ナホトカの
收容所の方からこちらの方に
連絡がないために、收容する
準備がない、お前達又帰れと
言つて、その晩の内に我々は又
ナホトカに引返したのでございます。引返して來ましたのは七月一日の夜明けでございます。まだ起床前でございました。そうして一つの幕舍に五十九名が收容されまして、そうしてそのとき
津村が参
つて、あなた方は今後どうなるか分らない、このままじつとしていて下さい、ということを言われたのでございます。そうして二、三日行方を注視いたしまして、不安に打暮れていたのでございますが、その後一向どこへも移動するという
ような氣配も見えなか
つたのでございまして、從來に返
つて雑役に服することにな
つたのでございます。そのときに又再びやはり五十九名もおりますので、我々は我々としての一つのグループを組織し
よう、こういうことにな
つて、又そこで我々の
民主運動というものの一つの組織が構成されて行くのでございます。前例に倣いまして、再び將校が大体中心でございまして、私は元の曹長でございます。私が再び
委員長に推されたのでございます。そうしておりましたが、元々私の性格、私の言動というものが日本新聞社なり、或いは
津村達の反感を買うところでございますので、非常にいろいろな問題が入
つて來る、私の講演しておることを誰かが聽いておる。そうして細川がこう言
つたということを
言つておる。それがために、それに対する対策はこうだという
ようなことも逐次入
つて來る。そういうことから細川さんに立
つて貰うということは、日本新聞社との折合いが悪くてお互いが氣まずい
氣持をするという声が出て参りましたので、私が自然消滅という
ような形で、一應私がその要職を去
つたのでございます。そうして私の後に西村忠郎という男が
委員長になりまして、彼はやはり反動と目されてお
つた男でございまして、曾ての時代に満洲日日の編集部長か何かしたということを自称しておりました彼が私の後任としてそこの
委員長にな
つたのでございます。その間いろいろなことがあ
つたのでございますが、突然として西村民に対して宗像から
ナホトカの
民主運動についてあなたの批判を一つ書いてくれ、こういうことを西村氏に言われた。で西村氏が元々自称ジヤーナリストですから、これは
帰國のテストかも知れないということで、ぴんと感が働いて、御無理御尤もで全部でつち上げてしま
つたのでございます。そこで日本新聞社の方では曾ての反動、西村もこの
ようにして我々の
民主運動を見て呉れたから、同士として帰してや
つてもいいという結論にな
つたのでございます。そうして彼が帰ることにな
つた。その時私は
医務室に
入室しておりました。夜分私の所に参りまして、こういうわけで私が帰ることにな
つた、いつまで置かれるか分らないけれど、体だけ丈夫にしてや
つて呉れ、要するに仮裝でもいいのだ、今度俺の出した
氣持が分
つて呉れればいいのだ、こういうことで
医務室にわざわざ西村君が來て、そこで彼と握手をして別れました。それからたまたま長い期間私がずつとそういう
状況を見ておりましたので、見るに見かねる場合があ
つた。同時に私が日
本人として義憤を感じてお
つたものでございます。そこで私が九月十三日ソ軍側に対して
意見具申を
提出いたしました。当時ざら紙三枚に書いて
提出したのでございます。その大体の
内容は、ここへ來て反動ということを
言つておりますが、反動はどういう尺度で誰が決定して、そうして反動というものを日
本人で残しておるのか、ロシア人で残しておるのか、それから日
本人にその
権限を與えておるかどうか、こういう
質問。次は
民主運動をや
つておられる連中は非常に肥え太
つておる、給與が全然
違つておる、こういうことがあの運動をやる者に対してこういう給與を與えるということがソ軍の俘虜規定にそういう該当する條文があるかどうか、こういう
質問を出しました。それからあすこで
民主運動なるものをや
つておるけれども、ここでこうしてや
つておるということは、上陸時における敵を養成いたしておることであると私は思う、なぜならばもう少し温か味のあるものとして迎えてや
つて、そうして感情的に喜ばれる
ように仕向けるところにおいて初めてこの運動の成果があるのではないか。帰るためには御無理御尤もとして通過して行くだろう。併し受けた感情から決してあなた方の同志にはなり得ないであろう。それをソ軍側で知
つておるかどうか。という
ようなことを、まあ大体そういう
ような條文を、文章を書いて私が
提出したのでございます。九月の十三日でございます。しますと、それに対するソ軍側の方から返事がございません。数日いたしまして、午後でございましたが、九月の二十日、十三日ですから、二十日前後でございますか、
津村が
軍隊のあの半袖の襦袢を着まして、上着も着ずに、そして私達のおります中隊に現われたのでございます。そして細川はいるか、こう
言つて入
つて來ました。私が入口の所で覚えかけたばかりの碁石を並べていたところでございました。そこえ來まして、細川君はソ軍側に対して我々の運動を批判してこういう
ような意見書を出しておる。これは以て我々の敵とすべきであ
つた。実は細川という人間は私が残した人間である。こういう者とは最後まで我々は闘爭するだけだ、こういうことを宣言したのでございます。そしてそれに関連いたしまして、当中隊に、これは細川個人でや
つた問題であるか、それとも当中隊に細川に関連しておる者があるかどうか、それを調べたい。こういう
ようなことを
証言を求めたのでございます。すると当時
委員長がもうすでに代
つておりましたので、矢島という元少佐ですが、この少佐が当時これは俄か作ります民主主義者になりまして、
津村、宗像樣々で非常によく動いておりました。それが先ず立ちまして、これは中隊からこういうことを出して誠に申訳ございません。これは飽くまで細川個人の問題であ
つて、我々は
関係しておりませんということを
証言いたしました。続いて中野という方、それからもう一人佐藤何とか、元の將校が二人ばかり出て同じ
ような
証言をしたのであります。そうして
証言をすると、それを聞いて、それを細川個人の問題か、ということにして一應
津村は下
つたのでございます。すると矢島元少佐を筆頭とする各組の民主
委員が私の所に参りまして、何故あなたはそういうことをするのだ、とにかくも帰りさえすればいいんじやないか。帰るためにここで手を握ろうじやないかということを
言つて來られました。私は信念のために殺されるのであ
つたら構わない。併し一旦言い出したことを帰りたいからとい
つて私はそれで引込むというわけには行かん、これは私の信念だから私の知念だけは通さして呉れ。これからは私のことについては干渉しないで呉れ。そういうことを私は言い切
つたのであります。そうするとその後数日いたしまして、やはりそれがショツクとな
つたのでし
ようか、私は俄かに熱を出しまして、
入室いたしました。そこへ夜となく、晝となく、矢島少佐などが私の所へ諫言に來て呉れました。当時岩手縣の者が五人おりまして、やはり代る代る交代に來て呉れまして、同縣の誼みだ、帰るために目をつむ
つて行こうじやないかと、こう
言つて私の所へ再三來て呉れましたが、有難いことだが、私には私の考えがあ
つてや
つておるのだから、一應その問題については触れないで呉れ、こういうことを言い切
つておりました。そうしてその
状況で長いことおりまして、もう反動の細川という音に通
つておりました私でございますから、どこでも先ず知
つておる。当時軍医で長崎の宮崎登君というのと、そこで小早川源郎元中尉、それからもう一人兼松とか友松とかいう軍医がおりました。この人達が非常に
心配をして呉れまして、私の健康
状態を
心配して、そうして又私の
ナホトカでそういうふうに大きく反動として睨まれて苦しんでおるという実情を知
つておりますので、何とかして細川を患者として、病院船で還そうとして、軍医達が努力したのでございます。八月に第一回目に私が
入室しておりましたとき、今度は還してやる
ようにロシア側に名簿を
提出しましたよと
言つて、軍医の
報告を受けたところでありまして、ところが船が出るまで私の名前を呼びに來ません。そうすると軍医さんが、又
民主グループの連中から名前を削除されました。こう
言つて参りました。その後に九月も同樣でございます。病院船は月に大体二十四、五日頃一回行
つておりました。たとえ船で患者として二回來れないといいますけれども、日だちから言いますと、月に一回でございますから、二回遅らせられたということはすでに二ケ月遅らせられたと、こういう結論になります。こういう
ようなことで私以外にも、往々にして反動として残されてまだ
帰つて來ていない者もおります。それから一々例を申上げますならば、四月十二日に私と同じ
ように
ナホトカに到着いたしました中尾元准尉が、輸送梯團三七中隊という固有名を貰いました中尾准尉の中隊です。この中隊が到着いたしますと、反動中隊で捜査する必要があるという下に、約三週間ばかし
ナホトカに放
つて置かれたのです。そして元准尉である中尾克己、それから東京におります中羽壽美男という兵隊が反動であるということの結論で残されたのであります。そして中尾准尉はその九月の末に帰りました。中羽壽美男君は私と同じ船で
帰つて來ております。それからこれも
昭和二十二年の四月中旬頃到着いたしました
部隊の中で、河野繁美、森脇竹市こういう非常に日
本人的な愛すべき思想堅固な連中がいたのでございます。彼らが、我々は共産党に対する反対ではない。日
本人は與えられた期間捕虜として任務を遂行して帰ることが目的なんだ、帰ればいいのだ。それがためには一つの共産党の教育も何も必要がないのだ。與えられた
仕事を終
つて帰りさえすればいいのだ、そういうことから一つの團体を組織したのでございます。そこに團体を組織したときに、その会員は左の方に櫻を入墨いたしまして、その中に「血」という字を入墨したのでございます。これは思想には全然触れないで、ともかく日
本人としてここを生き拔こう、こういう悲壯な決意でそういう團体が組織された。團体というか、グループが十四、五名組織された
ようでございます。この中から河野繁美、森脇竹市という者が残されまして、森脇君は私より二、三日遅れて
帰つて來ております。後日私の所に
連絡がありました。併し河野君は、これは河野氏は大体四十を越しております。妻のことを、子供のことを毎日話しておりました。而も彼は年を取
つておりまして階級は伍長でございます。私と同じ
ようにスーチャン地区にも轉属をされました。その期間も常に妻のこと、子供のこと、そうして話合
つて、彼河野氏がたまたま作業隊に編成されて出張作業に行きました。そのときにも、折々には何らかの形において私の所に
連絡してお
つたのであります。それで私も
帰つてから
留守家族の方もお慰め申上げたい、こう思いまして再三
手紙もやるのでございますが、や
つた手紙は
帰つて來ますし、住所も不明でありますが、まだ
帰つていないだろうと思います。
それから再三問題にな
つております
人民裁判でございます。
吉村隊が來ましたあと、引続いて今こちらの
証言もありました
ように、
人民裁判が行われまして、当時今年の四月十四日の新岩手日報に、
津村氏がこういうことを
言つております。兵士大会は自主的に行うもので、
自分は單に立会
つた。こういうことを
言つております。そして
人民裁判は
ナホトカにおいて行われていないということを
言つておりますが、私はこれを否定いたします。
人民裁判という
言葉ではありません。これは
大衆カンパという
言葉を使
つておりました。但し時期的に見ましても、同じ時期に同じ人間が沢山いたわけではありません。私の見ました二十二年の四月から十一月における間の今問題の
人民裁判は、
大衆カンパという
言葉で行われておりました。凡その期間も長いのでごいますから、数十回というものを私が見て参りました。併しもう問題は幾ら
言つても、幾ら見ても仕方がない、そういうふうに私も
思つておりましたし、余り顏も出しませんでした。そうして
大衆カンパをやるときには、その辺におります者に全部呼びかけて、或いは勤務隊の人達、我々反動と目されておる者に対しても、今から
大衆カンパをやるから是非出て下さい、こう
言つて應援を求めに参りました。私が直接目撃いたしました
人民裁判の
眞相、実例を一つ申上げます。岩手縣に千田豐紀という元少佐がおります。それが吉村達と同じ蒙古におりまして、吉村達の後から
ナホトカに到着いたしました。時期は二十二年の十月の末頃ですと
記憶いたします。その場合に今から
大衆カンパをするからというので、ここに野外演藝場というのがありまして、そちらの方の
部隊だけが天幕を囲
つておりました。そうしてここに少し高い舞台がありまして、こちらの方の観覽席は即ち砂つばでございます。そこに約七、八百名の駐在、滯在しております
部隊の兵隊さん方が狩り出されて参ります。経驗されておる方はお分りになります
ように、すでに十月末になりますと、
ナホトカも寒うございます。その砂つばの上に全部並ばされております。そうしてオルグの活動と申しますか、
民主運動の組織されたグループの連中が
方々に散らば
つておりまして、そこでこの中に千田という少佐がいるだろう、出ろ、こう
言つて呼びかけます。千田少佐はびくびくしております。動作が鈍いとか、早く出て來いとかいう
ような
言葉で野次られるのでございます。恐る恐る千田少佐が蒙古から着て來ましたよれよれの防寒外套を着て壇上に上
つたのでございます。何故私がこれを関心を持
つて見たかと言えば、千田少佐が岩手縣人である。私も岩手に住んでおる。そういう
関係から同縣の者がどういう裁きに遭うのかということを私が見たのでございます。そうして私も外套を着てじつと見ておりました。そうすると千田少佐が出ていきまして、のつそり立
つたわけです。防寒外套を着て。そうしたならば、
民主グループの連中、先ず
津村氏の
発言だと思いました。千田少佐、お前は蒙古においてどういうことをや
つて來たか、お前の罪状を告白せこういうことを先ず言われたのでございます。そうすると、千田少佐がぶるぶる慄えながら、それでは
お話しいたします。こういうことになりまして、千田少佐が私の
收容所におきまして、兵は……、兵隊はですね。「兵」はという
言葉を言
つたのでございます。そうすると、そこに居合せておりました諸戸文雄、兵とは何だ、兵とは何だ、兵とは
軍隊機構において奴隷階級を指す
言葉である。兵とは何ぞや、今更そういう
言葉を言う者は、もはやそのあとを聞く必要がない。その中に
方々から野次が飛ぶわけです。外套を脱げ、姿勢が悪い、態度が悪い。髪を切れ。千田少佐が余り綺麗でもない顏をいたしまして、そうして髪を垂れ下げて萎れて壇上におります。それにそういうふうな野次で呼びかけたのでございます。そうしてその外に数人を、同じ
ようはことで取上げて壇上に立たされたのでございます。そうしてそのままこういうものは反動なり、かかる者を今祖國日本へ帰してやるということは反動政権を強化することである。我々の敵を一歩たりとも、たとえ一人たりとも祖國に帰すことはできない。こういうことでその民衆裁判、いわゆる
大衆カンパが閉幕するのでございます。その場合に千田少佐が何か言おうと
思つて弁解し
ようと思
つたのですが、兵と言
つた言葉一つが
向うの掴むところとなりまして、一方的にぱあつと持
つて行かれて、何らそれに対する弁解もできなか
つたのでございます。こういう事実があ
つたのでございます。そうして先程議長さんの方から
お話がありまして告発の問題に移行して行きたいと思います。彼
津村は六十万の同胞が引揚げるまで私がこの土地に踏み止まりますということを宣言いたしまして、傲然たる態度を持
つてかかる思想教育に專念していたのでございます。新聞社が行きましたときは、管理業務として入浴だとか、或いは滅菌だとか、消毒したとか、こういうことを
言つておりますが、これは管理部というものが別にあ
つて管理部の業務でありまして、彼は指導部長であ
つたのでございます。指導部長とは思想教育を指導する部でありまして、彼が滅菌も消毒も被服の交換も、彼
自身では何もや
つておりません。そうして彼の
権限において細川は私が残したという実例がございますし、そうして森脇とか或いは河野、こうい
つた連中らの血盟團という一つのグループは、俺達が残したのだ、こういう人間は帰られないと常平生から
言つていたことから考えましても、これは道義的に見ましても、日
本人としてこのまま葬
つて然るべきかどうか。私は御承知の
ように宗教家の立場に立
つております。最も中正な立場から
國民の一人として私が義憤を感じて、このヴェールで隠されております
ナホトカの実体というものを御
報告申上げる一つの私が義務を……、
自分勝手でございますが、一つの義憤から今度立上
つたのでございます。それは
津村が
帰つて來ておるということが吉村の
事件から発覚いたしましたので、吉村
事件で
人民裁判をや
つたのが俺であるということの彼の新聞記事を見たのでございます。すると全國に散らば
つております私の味方の者から電報なり或いは
手紙なりが舞い込んで参りまして、あなたは
ナホトカにお
つても彼らと対立した一つの椅子にお
つたのだ、是非一つあなたを中心として、資料はどんどん提供するからこれを告訴して貰いたい。こういう激励や援助の
手紙が舞い込んで來たのでございます。そこで私は彼
津村を告発する、そうして罪に落す、そういう個人的感情からこれを申上げておるのではありません。これによりましてこの反響がシべリアの
ナホトカに波及しましたときに、かかる機構がなくな
つた場合に、四十数万かの残
つております同胞達が安らかに一日も早く引揚ができたならば、促進の遂に一つの力を與えるのじやなかろうか、こういうことを考えております。同時に先程から亡くなられた方の奧さんもお見えにな
つておりますが、そうして残されたために或いは
病氣になり、或いは死んで
行つた、こういう人達もないとい言われません。これは後日私の方で
証言を求めて御
報告申上げたいと
思つております。か
ようにして死んで
行つた同胞達もこのまま葬られましたならば、霊も永久に葬られて犬死にとして忘れられて行く。こういう……