○永井
証人 承徳におります頃から私の職場、協和会
関係においてのみでなく、多くの人から先生と呼ばれてお
つたのでありまして、それから汽車の輸送中主として滿軍に入
つてお
つたところの
日本人日系滿洲
軍隊と
一緒であ
つたのでありますが、この人達もどういうわけか私のことを先生と呼んだのでありまして、先生という呼称がずつと承徳時代から蒙古へ続きまして、
吉村隊長も初対面のときから私を先生と呼んでお
つたのであります。敢て
向うへ行
つてからそうした呼称が出たのじやないのであります。
次に
吉村隊長が私に対して一目置いてお
つたと言いますが、その点申上げます。私、最初羊毛工場に勤務しておりましたが、蒙古側では民團と
軍隊の区別を問わず、老若の区別を問わず、普通の人間ならば一定の
ノルマを果せという
命令なんであります。自分は、こうした余り頑健でない肉体を以て一定の
ノルマを遂行するためには余程の覚悟を要する、むしろ死んでもいい、人間の力というものはどこまであるか、こうした場合に試して見るのも
一つの試練ではないかと思いまして、若い者に負けずに働いて働き抜いたのであります。幸いにして病氣にはなりませんでしたけれども、日に日に衰弱しまして、全く骸骨のごとくな
つてしま
つたのであります。併しながら、はつきりした病氣がなければ
仕事を休むことはできず、更に外傷がなければ休む証明を與えて呉れない、死を睹して働き抜こう、場合によ
つては死んでもよろしい、いやいや働いてもどうせ死ぬならば、むしろ進んで働くことによ
つて、働き抜いて見ようという決心で働いた結果、病氣にはならないが物に触れれば倒れるという
状態までな
つたのであります。つまづけば倒れる、多くの友人連中は非常に心配しまして、軍医なり、
隊長なりに申出て休んだらどうか、併し自分としては余り人に頭を下げるのを好まん性質でありますし、又本当な病氣で休めない人もある状況において、たとえ痩せ衰えたりと雖も、病氣でない以上休むわけには行かない、こう言うて働いてお
つたのでありますが、肉体の衰弱はもはや如何ともすることがなくな
つて、初めて休まして頂いたのでありますが、尚
收容所生活が長く続く間に、長い飢餓
生活と、精神的打撃と過激な労働のために、多く
隊員というものが全く理性を失い、混乱
状態に陷り、
一つの修羅餓鬼道を呈して來たのでありますが、この間に処して自分が……