○
證人(
阿部忠君) 結論から申しますと、それらの事実は私の傳聞でありまして目撃しておりません。それらのあ
つた事実は私達が轉入する以前の事実でありまして。尚それに関連いたしまして、石切場の
作業が如何に苛酷であ
つたかというのは、外の
証人からも述べられておりますが、
自分達はハンマーと箭で以て石を切り出す仕事で、余りの辛さに立
つて骨休みをするというと、いきなり後から來てぶん毆る。これは私も不意打ちを食いまして、西村が、通称小櫻とあだ名されているのだそうでありますが、その曹長にぶん毆られたことがあります。そのようにして私達がや
つていた
作業場におけるその仕事に日々怪我人と、それからそのような状況においてぶん毆られる人々の姿をしばしば目撃しております。例えば或る朝、確か九月の二十日頃だと思います。朝整列して、明け明けに整列して、明け方までに山の麓へ行くのでありますが、
兵舎から出ると、俄かに腹痛がすると
言つて五人ずつ並んでおる隊列の者がぶつ倒れたのです。そうしたらいきなり仮病使
つてあれだと
言つて打つ、蹴る、毆るということをや
つた。それは誰がやるか。白帽子乃至彼らの使
つていた伊東、丹治、それから西村という棒を持
つてただ皆を督励して廻る
作業の督戰隊だ
つたのです。その連中がぶん毆
つてぶん毆
つた挙句に、癖になるから連れて行けというので、僚友を両肩に抱えて
作業場まで持
つて行つた。そのときに私達はあれだけ仮病を使う筈はない、使
つたなら又減食だ、食いたいばかりに、生きて内地に帰りたいばかりに働いておるのじやないかという氣持で一杯だ
つた。一人倒れたためにほかの二人も絶食だ
つた。それらのものを私達が目撃して、力一杯働いてできないのに、尚且つ絶食するというそういう理不盡さを余りに感じさせられていました。数々傳えられる「曉に祈る」というようなものも、この
炊事の奥に
死体が投げてあ
つたのだということを私達がその
收容所へ行
つて現場を示されたのであります。そのときには勿論夏過ぎ秋かか
つて、氷の張
つておる時代でもありません。そういうものはありませんでしたが、先程どなたかの
委員の
質問にあ
つた、
自分が担いだ
死体の名前が分らんか、これは常態における
自分達の内地の編成における部隊の僚友なら分ることであります。
收容所は第一番に、行く前に、輸送するときに、輸送の都合によ
つて組まれる。自動車に乘せられて行けば自動車の都合によ
つて組まれる。千名になり二千名になる。それも向うの作戰的な意図があ
つたのでしよう。満足に
一つの部隊を
一つの部隊として持
つて行くのではなくして、ばらばらに組立てて動かす。
收容所の中に入
つても隣の部隊も分らないのです。私達も罐詰
工場に最初入
つておりました、承徳から一緒に行
つた者の名前も顔も覚えておりますが、轉属から轉属、なぜ轉属するか。これから春の耕農期になりますと、先ず農場へもやられます。又筏流しも始まります。冬になれば伐採へやられる。又眞夏のときは煉瓦造りもさせられる。その度に職場々々に移動させられて、その末梢の
隊員関係は常に交流していた。
自分達の宿舎が
一つ違
つたら名前が分らん。どこの誰か分らんのが常態でありました。
吉村隊に私が入りまして、私達は飽くまで民團のグループを壞さないために、
吉村に頑張
つて民團の
兵舎、いわゆる第二
兵舎を貰
つて、そこで民團がまともに與えられた三十サンチの幅も抛棄して、坐
つても頭も届かんばかりの三つ切の中に押込められて我慢したのであります。民團は民團でかたま
つて、それらのグループだけで、一歩離れた第一
兵舎の
兵隊は誰の誰か、どこの部隊から來たのか、どういう経路で入
つたのかも分りませんでした。それは日々の
作業が朝明けに連れ出され、力一杯働いて疲れて帰り、
自分達の飯を食いながら居眠りをする。実際不精の
兵隊と言われるかも知れませんが、私達はしば靴も脱がず、飯をかつ込むと、そのままごろつと朝まで寢て、起床だというので叩き起されて飛んで行く。巻脚絆を取
つて寢ていて朝の集合に遅れると、遅れたからというので罰を喰う。そのときの寢具とい
つたら、私達が與えられてお
つた物は関東軍製の毛皮のオーバ一枚、毛布一枚、上衣、袴、袴下、襦絆一枚ずつ、これが全部であります。そういうようなものを、
自分達は寢起きに当時は着たままで、そのまま
作業に行くという
状態である。疲れ切
つていて、外の隊の誰かということを、名前をお互いに知り合
つて話す
方法がなか
つたというのが眞実なんです。
自分達が生きるために力一杯働いておる。働いても尚且絶食とかというものが
吉村部隊だけにあるということを、私は
自分の体驗から
はつきり申上げます。何故ならば、私はその前に罐詰
工場と言われておる、通称言われておるミヤソ・コンビナータと言われておる
工場にいたのであります。そこは一切のそういう
処罰もなく、蒙古から
命令された
処罰は、集團的な戰勝軍に対する反抗的な騒動、若しくは逃亡、特殊な逃亡、それらのもの以外は
隊長の自治に任せられてお
つたのであります。從
つて蒙古側から一切の
命令で処分される特殊の場合は殆んどない、罐詰
工場でそれらによ
つて処分されて、日本人の
隊長によ
つて日本人が処分されたことはありません。それは私達はみんな互いに生きて帰らなければならないというために、みんなが一致團結して、みんな惡いときには一緒にな
つてや
つて行こうじやないかというので、名前を申上げますが、現に
隊長であ
つた有海誠という人も、團長をや
つておりました。この仕事ができなければ手傳おうと、
自分も一兵卒としてや
つたのであります。そういう空氣の所に育
つてお
つたのであります。私は恥を言いますが、蒙古側の
作業が始
つてから肉も掻ツ拂いました。貰
つてはいけない、授受をしてはいけないと、それは禁じられていたが、蒙古側から禁じられておるものを、ソ連人はお前達は腹が減るだろうというので呉れるので貰いました。それから蒙
古人も呉れました。
自分達の上着も脱いで賣りました。私は時計も賣りました。
吉村隊に参
つたときには、
自分は三十五キロのメリケン粉を持
つて行
つたのであります。それで食いつないだのであります。煮炊きは許されません。火もありません。私達は生のまま食
つたのであります。現在では下痢をするでしよう、当時は下痢をしませんでした。それをいつまで続くか分らん日のために、私はそれらのものをお互いに三匙、四匙と毎日いつ終るかも分らんが、あるだけやろうというので、私達の僚友に分けてやり、そうや
つて自分達は食いつないで來たのであります。例えば「あかざ」が生える春になりますと、ヴイタミンDかAか私は分りませんが、とにかく野菜がなければ懐血病になるというので、青草が芽を出すと掴んで食うのであります。不衛生だ、腹をこわすとい
つて蒙古側から禁じられているのであります。いけないにも拘わらず柵内にある草は全部食い盡し、柵の外には草が青青と生えておるのでありますが、止むを得なく柵の外の青々と生えておるのを取るのであります。それでも蒙古側は特に逸脱して脱走と看做されない限り、これは默認しておりました。お前達はそれは余り食べてはいけないと
言つて默
つておりました、見て見ない振をして、
歩哨も見ずに背を向けた。一々そういうような環境にあ
つて、蒙古側の
命令だからこうだとい
つて、や
つても
処罰されないのが実情であります。付されませんのが実情であります。それが
自分達の僚友の物を取る、或いはそれを敢て戰勝國の意思に反して、極端に
自分達が生きる、自給行爲の
範囲を超えてや
つたとみなされる場合、それらの場合は、蒙古側から嚴重に抗議が來て、やられました。
兵隊が食べ物を盜るだけに対しては一切同情的でありました。これは私達が明日にも冬が來る、冬が來たならば困る上衣を、今食いたい一切れのパン、た
つた四分の一のパンに替えたのであります。そのために眞冬にな
つたときは、夏の上衣一枚でがたがたふるえながらいる、それでも仕事をしなければならない。そうい
つてところの切実な飢餓線上をさまよ
つておるところの心境において、例えば笠原氏が言
つた靴一足盜
つたこと、過剩
ノルマで、分らないように作
つた、私達は罐詰
工場で沢山物を作りました。私も機械
工場に入りまして、月々五十円月給を貰
つてお
つたのであります。それで余暇を見てナイフを造る、又蒙
古人のいろいろな鍋、釜の修理をしてやる、その外彼らの欲しがる物を斡旋してやるということは、食べ物に代るべき金が欲しいのではなく、金で買い得るパンが欲しか
つたのであります。そのためにそれらのことをや
つてる。そういうのが実際の
收容所内におけるところの実情なんであります。だからお前が窃盜したと現在ここにいて言われる日本人の
皆さんが考えられる窃盜における常識と、当時におけるそのことが窃盜と言われていいかということさえ私は考えておるものであります。それは窃盜ではないのだ、窃盜であ
つたら、勿論大いに良心に恥じる破廉恥罪として処断されなければなりませんが、当時そうすることが殆んど常識かのようであ
つたのであります。それで私達が肉をかつ拂
つて持
つて來た、團長初め……。今日はこれだけ持
つて來たというのを、蒙古の
收容所長も廻
つて來るが、見て見ない振りをする。余り度の過ぎるときは、それはいけない、もう少し止めなければいかんという注意を食
つたこともあります。だが併し、それらの実情において生きて來た捕虜が、一度
吉村隊に入るや否や、それらの事実が逆轉する。蒙
古人からパンを貰
つたということでも許されない、取上げられなければならん。例えば
自分達が今
自分のカバンを造るために皮を取らせていながら、一人の者が靴を持
つて來る、一人の者がパン切れを持
つて來るのを摘発するということは、私からして言わしむるなれば、全く官長個人の感情、あいつは氣に喰わん、あいつは生意氣だ、あれはどうだというものに対して、たまたまそれらの事例を摘発して敢てや
つたとしか思えない。若しそれらのいわゆる嚴重な
意味で、
一つ取
つても窃盜であるならば、日本人の捕虜は全部窃盜にならざるを得ないと思います。そうしなければ生きて帰れないのが実際の捕虜の……。