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証人(
池田重善君) 十四名であります。
留置場が狭い
関係上中に五・六名入れるように命ぜられまして、歩哨に渡しました。それから後残部は歩哨の位置に、この左手を逃げないように結んで、片手のみを細紐で結び合
つて、三名で表裏というふうに並べるようにして歩哨の前に連れて行く。それだから逃亡しないようにくびるようにと、時の日直に命じまして、丁度歩哨も
一緒にくびりましたが、日直にもお前の方もくびれというので、日直にくびらせまして、そうして歩哨の方に引渡しました。そうしてあちらの國においては晝間の処罰は認められません。それで晩の十時から朝の五時まで五、六名を
留置場の中、
あと残りは全部外に立たせ、或いは坐らせるというふうに実施しました。そうして丁度外におる者は格好が、結局東方を向きまして、丁度五時頃になりますと、東の空が明るくな
つて來る。そのために睡魔に襲われて居睡りを始める。その格好が丁度曉に祈るというような格好に見えたのであります。それをよく、私はこれは
本人から聞きませんですが、万才をや
つてお
つた吉田君だろうと思いますが、今の「曉に折る」処分というような風評、万才をや
つておりましたが、それから風評が起
つたのではないかと私は
考えております。それから、第二回の窃盗
事件が今の
昭和二十二年の三月分上旬頃、これが又発覚しまして、再びその時に十五名だ
つたと思
つております。同じような処分に付しました。忘れておりましたが、今の第一回目は殆んど技術工で、
靴工場に働く者が多か
つたものですから、結局
監督將校にお願いしまして、
作業に影響する
関係上一日で許して頂きました。それから第二回目は十日という処分に対して、結局惡質者で二日、惡質者でない者を一日というふうに処分を軽減して頂きました。それからその外の今の逃亡者でありますが、これは何名か知りませんが、見せしめのためとい
つて、外の電信柱に括り付けるように命ぜられまして、これは歩哨が、逃げるからということから歩哨もくびり、或いは私側の方でもくびる。
收容所長の
命令で歩哨が來まして、そうして私らの方でくび
つて、見せしめに四、五名立てたと思
つております。それからその中には今の鎌谷君も混
つておりましたが、鎌谷君はこれは独立したところの
事件で、羊皮工場の
事件について、あちらからの通知で
收容所長の命によ
つて処分しております。
それから石山の件でありますが、山本君と菊地君の
事件でありますが、丁度これは大体私のところにも一部の
会社の方の石取
作業はあ
つたのでありますが、一番急いだのは、前から申上げますと、大体石田
部隊においてこれを実施しておりました。そうしてその頃には檢査もやかましくなくて、大体一立米で終
つておりました。ところがこの立米が、大体蒙古全國の建築の資材、石の全部を取
つていたという話でありました。ところがこれを
運搬して見ると、結局七千立米か七千五百立米ぐらい不足を生じた。その不足を生じした理由は、今の石の積み方は一立米、正確に二十五サンチ以上の厚さ、五サンチ付以上とこうなておりまして、一立方米が一日の仕事にな
つておりました。そうしてこれを正確に積むのでありますが、ややもすると上を一立方、こういうふうに航空母艦型に積んで行きます。そうして第二番目になりますと、あんこ入れと言いまして、枠だけを携えて中に小石を入れる、或いは規定外の石を入れるというふうにいたします。又或いは穴開けと言いまして、枠だけ作りまして、その中に穴を開かす、中を室にしてしまう。或いは昨日の採石したところにより量りを幾分入れて、次を一米にするということで、檢査が大体それまでは通
つておりましたのですが、ところがそういう不足が生じて、非常に急激な要求を申込んで來まして、殆んど私達が帰還前、
昭和二十二年の六月二十日から大体石取が再開する予定にな
つておりました。ところが少し遅れまして、第一着が二十六日頃に森
中尉殿が石灰山から三十名、ホジルボロンから渡
中尉殿が百名と、それからアムガロンから六十名、合計百九十名が二十七、八日頃に到着いたしました。そうしてその病氣の状況を酒井先生に診て頂いたのでありますが、約百二十名というものは栄養失調で、すでにもうそのうちの二十七、八名というものはすべて病人でありました。それでこれでに到底仕事はできないからということで、私の方からも、酒井先生の方からも、当時來ておりましたロッタ中佐と、ダツセグ大尉と、それから
通訳が一人來ておりましたが、それに申込みましたところが、蒙古側におきましては、今度は特に急いだところの石を採るのであるから、とにかく蒙古文と日本文で今の各
收容所に手配しておるのだから、身体の丈夫な者ばかり來ておる筈だ、そんな筈はない。特に今度は二立米づつ探るのだからそんな筈はない。それで土掻きには二十八日頃から出しましたが、そのときも酒井先生の恵みによ
つて、二十七、八名は休まして貰いました。それからどうしてもこれでは駄目だということで酒井先生と私とで歎願書をソソルバム中將に当時出しました。ところがソソルバム中將は早速それをお聞きにな
つて、チョイジャムツ大尉という軍医を派遣して來室した。そうして檢査をして頂きましたが、やはり私達の
意見は通らずに、約三十五、六名くらいの証明しか出して頂けませんで、そうして結局それを山に連れて
行つて、そのときの総監督は、森
中尉という方が総監督をや
つておられました。そうして
最初の日が約百九十名、病人を引いて百六、七十名出勤しましたが、結局
全員で百六、七十立米しか出なか
つた。なぜ出ないかというと、前に二回も三回も取
つた後でとにかく固くな
つておる、それから土掻きは十分しなくちやならない、それから皆不馴れであるというような理由を出したのですが、同じ顔をし、同じ手をし、同じ眼をしながらそういう仕事ができないことはない筈だというふうに強硬に
向うに出られました。そうして取
つた石はその日に運ばせてしま
つて、結局私達が石を取らないと、ウランバトールにおるところの中央政府の建築、劇場の建築が殆んどもう中止にな
つておりましたので、ソソルマハム中將、或いはロツタ中佐、或いはゲ一・ぺー・ウーの
バツタ大佐、この方などが毎日入れ替りに來て私たちを激励しておりました。ところがとうとうその石も出せずに、今の森
中尉と渡
中尉の二人は責任を負
つて監獄に行かれました。その後に今度選ばれて参りましたのが、今東京におられる伊東
少尉、この方が監督に選ばれました。そうして私はその伊東さんの上にお
つたわけであります。
先ず菊地君のことでありますが、丁度私が病氣で休んでおりましたところが、酒井先生の方から怪我をしたと、こういうふうに聞いておりましたが、私はその事実をそこで見てもおりませんでしたので、分りませんでした。それから山本君については、癲癇で内出血したと、そうしてダムドルジの病院に死因不明で送りましたところが、頸のところに傷があ
つて、そうして呼吸器病か何かと診断書を書いて頂いたそうですという先生からの報告を受けました。それから私がナホトカに着きまして、そうしておりましたときに、昨日も話しましたように、やくざの組から、お前は人を二名殺したじやないかと言われたときに、奇妙に感じまして、酒井先生の方に聞いて見ましたところが、その外のも、これは現場監督の渡邊
軍曹が殺したのだということを聞きました。それで当時極東
少尉と田村君にどういう状況だ
つたのだろうかと聞きましたところが、実は
自分たちははつきり知らないけれども、とにかく渡邊
軍曹が、菊地さんが坐
つてお
つたので、それに対して注意をした、ところが民團である
関係上何とか理窟を
言つたらしい、そうしたところが伊東
軍曹が怒こ
つてびんたをと
つた、ところが
本人は身体も強くなか
つたし、足場も惡くて、その場に轉倒してしま
つた、そうして石で頭を割
つて死んだのだと、それを見て皆が殺したと
言つておる。