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証人(
池田重善君) 私は
昭和二十年八月七日寧安
憲兵分隊より承徳特別第六大隊の編成要員として七日の日に承徳につきました。そうして八月の十九日離宮において武裝解除になりまして、離宮内の宿舎に住むようになりました。八月二十三日より
警察官並びに
憲兵、檢察官こういう
方々の八路軍からの手配が参りまして、首実驗が実施されるようになりました。それで当時の特務機関長斎藤中佐殿が身分を隠すようにと言われまして、私は妻の実家の
吉村という姓を取りまして
吉村重善こういうふうに僞名したのであります。その中には承徳の高等法院次官の現在福岡の高等地檢におられます野田先生もおられまして、野田先生も久留米の久留という字を取りまして、僞名して、やはり兵隊とな
つて八百八十一部隊の歩兵隊に投じられました。それから私は特務機関の渡會大尉ではないか、渡會大尉の副官ではないかというふうに注目せられまして、二十三日から四日間に亘
つてソ連側の將校の方に取調べをされまして、無事通過しまして、九月の十五日、当時承徳には民團の方が入りまして、婦女子の方も入りまして五千余りおられました。その中の男子の方が約四千五百余りが五個大隊に編成されまして、私はその第三大隊の
長谷川さんの隊に編入になりました。そのときに編成は大体持警隊が三百五十ぐらいと、八百八十一部隊の歩兵隊が四百五十ぐらいと、それから春部隊で北支の部隊が若干と、これは民團の方が、これははつきり記憶しておりますが百五十六名入
つておられました。そうして九月の十五日徒歩にて平泉まで歩きました。九月の十七日の日に到着しまして、それから九月の二十二日の日に無蓋車に乘りまして北上いたしました。十月の三日の日に丁度初霜が下りまして、これが丁度ハルピンに到着いたしました。ハルピンの監獄内に一泊して、そこで有蓋車に乘り込みまして四日か五日だ
つたと思いますが、それから満州里を
通りまして、十月の二十二日の日にソ蒙國境の、
ソ連内の終点のナホトカに着きました。そうしてそこに一泊しまして、二十三日の日に歩きましてスーバトルまで十八粁行軍いたしまして、あそこを二十四日の日に出発しまして、二十六日の日に外蒙ウランバートル郊外のホジルポロン收容所に一旦おさまりまして、そうしてあそこに着きまして、二十七日の日に蒙古の將校の方、
ソ連の將校の方がおいでになりまして、特業者と特業者でない者に分けることになりまして、私は自宅が、父が鍛冶職おや
つておる
関係で、鍛工に少々の経験がありますので、特業者として残ることになりました。二十七日の日だ
つたと記憶しておりますが、
長谷川隊の中の片山少尉、この方が二百名を引率されまして、どこへ行かれたか分りませんが、出て行かれました。後から聞きましたのですが、これはナダハ炭鉱の方に行かれました。二十八日の
長谷川隊長が三百名を連れて出られたと思います。その次に私達は特業者として富山という中尉の方に引率されまして、ウランバートルのラマ寺の方に到着いたしました。それは十月二十九日でありました。そうして約十日間そこに待機しておりましたが、
ちようど革命記念日が十一月八日にな
つております。その翌日の九日から、私共は技術隊の建築場に派遣されることになりました。その時は私が長として二百名連れて出るように言われまして、作業場に行きまして、約十日ばかりそこに通いまして、今度はその大学内に宿舍が設けられまして、熊本縣出身の方の藪という中尉の方の指揮下に入りました。それから同年十一月の一日に、又ウイドリンコンビナーツと申します総合工場に轉職を命ぜられまして、その時に
部下三百名を連れて行
つて呉れと言われまして、私がそこから三百名を貰いましてウイドリンコンビナーツに着きました。それから五日ばかりして、又百二十名増加されまして、結局四百二十名を率いるようになりました。そうしてそのときの
内容は、民團の方が約半数を占めておられました。民團の方の
内容は満州の
警察官のお方、満軍の將校のお方、省並に縣の官吏の方が大部分を占めて、民團の方が一部入
つておられまして、その他は下士官と兵隊ばかりであります。それから私は先任者として工場長のところへ呼ばれまして、長として爾後作業を実施するように……、そのときにチヤツトラバルという少尉の方が、私共の蒙古側の監督者でありました。それから糧秣係としてバートラという少尉の方がそのとき就任されておりました。それからゲーペーウーの將校のレキシントンという少尉の方が、同じくその部屋に來ておられました。そうして作業を十日から実施するように言われまして、その間被服の整理とか、或いは木材の残
つておるものの運搬だとか、軽作業に就いて十日まで待機しました。九日の日に大体作業別に、その工場は大体
内容を申上げますと、製材工場、木材工場、それから羊皮工場と
言つて羊の皮をなめす所もあります。又革外套工場と
言つて革外套を作るところもあります。長靴工場と
言つて長靴を作るところもあります。牛皮工場と
言つて、牛皮を一日千枚から二千枚もなめすところもあります。短靴工場、それから織物工場、それから
羊毛工場、それから絨氈工場、鉄道工場、電氣工場、それに自動車修理工場、こういうふうに分れております。それの兵隊の配置を蒙古側から來て、人員をそれぞれ取
つて行かれまして、配置が終ります。そうして約八ケ月、
昭和二十一年の七月上旬頃と思います。
長谷川隊との合併の問題が起りまして、そのときに
長谷川隊において些細な事故もありましたし、その
関係上、私が隊長を命ぜられまして、私はそのときにも丁度村上さんという方と
一緒にや
つておりましたが、
日本の軍隊制度として先任者が立つべきであるからということを
言つて、その場で再三断りました。そのとき
長谷川大尉殿もおられて、今度技術の方に入りたいという願いも出した。ところが、あれでは駄目だと言われて、次に中村中尉殿の應援で、その方にお願いした。それから倉持中尉がおられましたので、その方にも依頼したが、兎に角駄目だと言われまして……、その前に言い忘れましたが、隊長になるときに私達は一回ゲーペーウーの方に取調べを受けております。そうして向うの方から、強制的に
最初誓約書を取られました。その誓約書の
内容は、作業命令に対しては絶対に服從するように、第二番目に逃亡、治安その他保安事項のことについては、先ず速かに連絡をして呉れるように、若しこれに違背したときは如何なる処分も差支ないということは、各隊長とも取られておられる筈であります。そうしてそういうふうに隊長のことについて申上げましたが、聞き入れられませんので、私が今の工場内で、そのことについては申されましたのですが、聞き入れられないのですから、結局コンブジロンという副工場長の方であります。これは
日本人
関係の人事をや
つておられた方ですが、その方とゲーペーウーのレキシントンという方と、その当時の收容所長はモチヨグ中尉でありましたが、その三人と私は司令部の方まで呼ばれて行きました。そうしてゴンチキ中佐という高級副官がおられましたが、その方によ
つて、君は命令に背くのか、蒙古の命令は絶対服從するようにな
つておる、君達は軍隊でそういうふうに習
つておるだろうと言われましたが、私は聞き入れずにおりました。黙
つて自動車に乘
つて、又再び私はどこへ行くか知りませんでしたが、自動車で連れられて來ましたが、工場長も同車でしたが、今の
長谷川隊へ連れて行かれました。そうしてとにかくここで長として坐
つて、君がやるようにと言われて、私の兵隊も全部その日にはここに移
つて來ておりました。私の方は、
吉村隊の方においては私の方が應援をします。又当時
長谷川大尉の反対派と申しますか、狐塚准尉、上田准尉というものが
部下を持
つて二箇小隊おりましたが、その者の支持を得まして私としてはいたし方なく長として住むようになりました。そうして大きくな
つた吉村隊というものを編成したのであります。