○
証人(
赤鹿理君)
將官と尉官とは、
待遇はやはり区別されておるようであります。細かいことは、私の
記憶に残
つておりませんが、
將官は、例えば
食糧で申しますと、概略申しますと、黒パンが毎日三百グラム、米が三百グラム、
雜穀が百グラム、それから肉、骨附きで百二十グラム、
バターが三十グラム、
チーズが二十グラム、
砂糖が四十グラム、魚肉が五十グラムと思
つております。
野菜が二百グラムくらいありました。そういうようなわけで、後は
食用油とか、そういうようにな
つておりますが、実際は米は平均しまして一日一回でございます。後は
雜穀で、主として、粟、麦、小麦も大麦も入
つておりました。それから蕎麦、こういうものをそのまま煮て食べておりました。
チーズは初め参りましたときにはございましたが、暫く経
つてなくなりまして、後もときどき呉れる
程度でございました。それから肉は例の
山羊でございます、
山羊の
塩漬でございました。魚は「さけ」とか、「ます」とか、「にしん」の
塩漬でございます。一番困りましたのは
野菜でございます。これは生
野菜は殆んどございませんで、
乾燥野菜を食べておりました。それから
兵隊の方は
労働をいたします
関係がありますので、食物は少し
雜穀とか、パンとかいうものは量が多か
つたように
記憶しております。但し
バターとか、
チーズはない。併しながら同じ
收容所におりますものは、共に
苦樂をしなければ
いかんというので、皆
一緒にいたしまして、
兵隊も
將官も皆
一緒にいたしまして、そうして食べておりました。そういうふうに、量で申しますと
申分のない量と思いますし、まあ年寄はそう沢山食べられませんが、
受取つた……
ソ連の
政府の示したものが全部我々の口に入れますれば十分でございますけれども、なかなかそういうふうには参らなか
つたようでございます。殊に第二年度
昭和二十一年度は三月頃から大変一時悪くなりまして、殆んど米がありませんで、粟とか、何かばかり食べさせられて、量も多くなく、
バターとかいうような高尚の物は半分きり呉れんという
状況で、その年は皆非常に痩せました。二十一年には非常に痩せました。それから食事というものは、ああいう
生活におきましては最も大事なものでございますから、これは
一つ交渉せなければ
いかんというので、
委員から交渉いたしました。ところがそうか、それは注意せんならんということを上の者は言うておりましたが、実行はなかなかできんで、結局二十二年の二、三月と思いますが、それでは一人
日本の
將官から
委員を出して
食糧を
受取るときに立会うようにして呉れ、そうしたならば確実に行くだろうという話になりまして、実は私もその役を買
つて出まして
行つたのであります。参りまして、
ソ連の方で我々の
準備は女の
炊事婦がや
つてお
つたのであります。その
炊事婦と二人で立会いまして、そうして米は何グラム、こういうふうに計りまして、そうして渡したのであります。そうしてや
つておりまして、少しよくなりました。それでもやはり
受取つて参りまして、
炊事婦が鍵であけて入れて鍵を掛けて翌月炊爨をするとき鍵であけて出すのでありますが、その間に
バターであるとか
砂糖というようなものが雲隠れするというようなこともあ
つたのであります。確証はございませんからはつきり申上げられませんが十分でないことがあ
つたのでございますが、段々とこちらの監督もやかましいし、
ソ連の方もやかましくな
つたという
状況になりまして、段々よくなりまして昨年二十三年の春頃からは大体
軌道に乘
つて参りました。現在もそれは続けておりますが、
委員が立会
つて向うから取
つて來るものを
貰つて來る
委員、その
炊事を実行するところを監督する
委員というふうにやりまして、私の
帰ります時分には大体
軌道に乘
つて参りました。但し
炊事のやり方が
ロシア式の
炊事でございますので、例えば米を炊きましても我々が家庭で食べるような噛んだならば幾らでもうま味が出て來るというような米の炊き方ではなく、ねばねばしたところを棄てまして、その中へ
バターを入れて攪き混ぜて食べるというようなことであ
つたのでありますが、段々改良して來ました。けれども釜が
日本のような釜がございませんので、結局カーシヤーというお粥でございますが、ぼた餅にするようなべたつとしたようなものを食べておる。
日本人の口に調理が伴わないようなことはございました。併し量としてはさつき申しましたように我々には大体において十分であ
つたと思います。
ナホトカが我々が十二名お
つたときにそれだけのものを
受取つて参りまして十二名のために一人は
日本兵を附けて呉れたのであります。その
日本兵がそれを調理して本当の
日本式のものを食べさして呉れました。
ナホトカに四十日いるうちに私も少し肥
つたような氣がいたします。それからもう
一つ一番苦痛でございましたのは
野菜でございます。これは
日本人は
野菜がないとどうもうまく参りませんので、
野菜が欠乏しております
関係上老人でございますので足がぶくぶく腫れたりする者が大分出たのでございます。これは
向うに談判いたしまして努めてや
つておりますが、御承知の通りの土地でございますので、私共の口に
野菜が入るのは六月の中頃から九月の
終りまでで、後は我々は乾燥のじやが薯だとか大根だとかいうようなものを食べてお
つたのでありますが、これが一番苦痛でございました。それで老人などが庭の隅つこを小さなこのくらいの小さな家庭用のシヤベルで耕やしたりして
自分の貰
つたパンを粉にして入れたり、「にしん」を入れたりしまして畑を作りまして畑を作りまして、そこに二十日大根とか用意のいい者の荷物に種が入
つておりましたから「とまと」、「きやべつ」を蒔きまして、足の腫れる人は「たんぽぽ」「あかざ」を摘んだりひどいのは「くろーばー」を食べておりました。そういうことでや
つておりましたが、昨年の順調にな
つて來ますと、
ソ連の方でもそれを認めまして、「とまと」の苗を呉れたり、大根の種を買うことを斡旋したりして呉れまして、昨年は割合に
自分で作
つたものを食べたわけでございまして、これは將來
日本人に適するような食べ物の調理をやり、それから
野菜を食べさせ、庭で作らすようなことをやりましたならば、病人も減るのではないかと思われます。それから佐官とか兵の方は申しましたように少し量が違うのでありますが、皆同じものを食べておりますから、これは同様な
状況であると思います。
被服は初め参りましたときは、着のみ着のままの者が相当ありました。
自分の行李は持
つて参りましたけれども、
牡丹江まで届けて呉れますが、
牡丹江から
飛行機に乘るときに、人員だけにしまして行李は置いて行けと言いますから、そのまま行きましたが、行李が着いたときには、私は二つ行李を持
つておりましたが、
一つは空つぽで、
あとの
一つは寢巻のようなものと靴下の古いのが
一つ二つ入
つていただけで中は空でありました。一番氣の毒なのは奉天の方からの人で、奉天に
ソ軍の大將が來るから
飛行場に迎えに出ろという
命令で小隊長以下皆着のみ着のままで
行つたところがそのまま
飛行機に乘せられて連れて行かれて、これらの人は全く何もなくて洗面道具もないという
状況でありました。持
つている人もありますが、持
つていない人が多か
つたので、初めは皆分け合いましてや
つておりましたが、なかなか皆古いので直ぐ破けます。靴下の継ぎ、シヤツの継ぎに苦労いたしました。おかげで大分上手になりました。併し二十二年の暮頃から少し補給をして呉れるようになりまして、シヤツ、ズボン下のような下着、タオル等二十二年の暮頃からございました。もう
一つは手当を三十ルーブルずつ貰
つたのでありますが、初めそれは我々に直接渡さないで、
向うで適当にや
つておりましたが、二十二年の六月頃から我々に直接三十ルーブル呉れるようになりましたので、それで糸を買いましたり、針を買いましたり、木綿を買いましたりして、褌を作
つたりハンカチ、手拭を作
つたりしましたのでなくなりました。昨年の春頃は
被服の交換が相当よくなりました。余り下着のぼろぼろなものを着いてる者もなくな
つたように思います。それからいつでも完全に呉れましたのは防寒具でございました。これはさすがに寒い國でございますから、私の方はウォロシーロフから
ハバロフスクに参りましたときには外套も帽子も、靴は呉れませんが、シヤツもズボン下も
日本軍のものでございますが、それの新らしいのを呉れました。
向うへ行きまして靴を呉れましたが防寒具だけは半年に一遍、夏が來て引上げ、冬になると又呉れる。殊に昨年はどういうふうであ
つたか十月頃に例の
ロシア式の木綿の綿入れの上と下とを殆んど全部に呉れました。下だけは十五六人に呉れました。私は貰わなか
つた一人でありますが、上は全部呉れました。大変暖かい冬が越せたのであります。
被服は大体そういうような
状況であります。日用品は初め頃は皆少しは持
つておりましたが、段々そのうちに皆なくな
つて、歯磨粉などは殆んど皆持
つていなくな
つて、二十一年の春頃から使
つたことがございません。石鹸で歯を磨いておりました。それが二十一年の十一月頃の初めに歯磨粉の箱を
一つ呉れました。二十二年になりましたら手当を呉れましたので、それで歯磨粉や歯磨用具を買うということで、顏も氣持よく洗えたのであります。石鹸だけは確実に呉れました。これは石鹸だけは使い余る程洗濯石鹸を、こんな石鹸を呉れまして、三年半おりました間に三回は浴用石鹸を呉れました。
兵隊も同様であります。もう
一つ潤沢に呉れましたのは煙草でありますが、これは必ず初め頃はそうは行きませんでしたけれども、一日二十本、マツチが三つ、ノルマを余り誤らんように、マツチは
一つ半か二つのことが多か
つたんですけれども、煙草だけは二人二十本ずつ呉れました。但しときどきは半分くらい「かび」が生えてお
つたこともございましたが、とにかく煙草だけは確実に呉れました。
その外の方は、
建物は帝政時代の本建築の
建物でございまして、私はその後外の
收容所を見ましたところから見ますと、先ず第一流の
收容所の
建物だと思います。但し部屋が、收容人員が余り多うございますので、例えて申しますと、ここからこちらくらいのところに十五、六人入
つておりました。初め來ましたときは八つ寢台がございましたから大体定員が八人乃至十人くらいのところと思いますが、段々殖えましたので、最後には十五、六人入
つて参りましたので、寢台と寢台の間が狹くな
つて、それに伴う混雜が大変
生活を不自由にしたように思います。但しあれから我々がこつちへ
帰りまして、余程廣くな
つたと思
つております。便所も水洗便所が汚いながらございましたし、洗面所もございましたし、断水等はときどきいたしますし、停電もございますけれども、大体
收容所の
建物はよか
つたと思います。但し今申しましたように、人員が余り多いので大変混雜いたしました。食事のときも食堂にとても入れませんので、一回の食事を四回に分けてしておりました。そういう
状況でございます。