○
塚原委員 私は
倉石委員長、
福永健司君、
青野武一君、九州で
ちよつと一緒になりましたが、
田代君、
麻生君、この
方々とともに
山口並びに北九州、それから廣島を視察して参りました。
ただいま
議題にな
つております
日鋼事件について私の
調査したところを簡単に申し上げます。
日鋼廣島
製作所の
労資間の紛爭というものは六月二日以来
事態緊迫の度を加えまして、ことに十四日朝、
使用者側が
工場の
閉鎖を決行するに及んで、その後も
工場内は、多数
部外者の
無断入場も加えまして、まつたく険悪なる様相を呈しました。
賠償施設の管理上きわめて憂慮すべき
状態に立ち至
つたのであります。十四の夜になりまして、廣島の
軍政部長の
命令に基き、廣島懸の
楠瀬知事は
保全要員以外の全員の
退去を要求しましたが、履行されず、よ
つて警察当局では十五日午前途に
警察力を発動するのやむなきに至りました。なお本
工場のみならず、
一般の
賠償指定工場への
入場については、
占領軍の
命令に基きすべて許可がいることは、これはいうまでもありません。この
日鋼爭議の
経過、特に問題にな
つておりますところの六月二日から十七日ころまでの
状況を御説明したいと存じます。大体ここの
組合は総
同盟系の
組合でありまして、きわめて穏健なる
組合といわれておりました。昨年の十月に
林春一という方が
委員長となりましてからは、逐次
左旋回の兆があ
つたように聞きいております。今年の五月ごろ初めて
爭議行為らしいものを
行つただけであります。これは全金属からの、
労働法改正反対の指令により動いたものではありまするが、実質上
組合を動かしたものは、
賃金支拂いの
遅延にあ
つたようであります。この
日鋼廣島
製作所は大体
鉄道の
車両の下請けをや
つているのと、
職業要の
ミシンを製造している
会社でありますが、
従業員は約二千
ちよつとであります。この
会社も九
原則実施以来、
車両関係の注文というものは杜絶しまして、
ミシン製造にもつ
ぱらたよつておつたような状態で、赤字の増加と、これの
克服難によりまして、
賃金支拂い遅延となり、極度の
経営難に陥つたために、
会社側としましては、こう
なつた以上は、
人員の
整理以外に道なしと考えて、六月二日
会社再建案の説明を
行つたのであります。すなわち七百二十名ないし七百三十名の
人員整理を
決議いたしまして、
組合に対し
左記事項を協議することを
通告いたしました。その
一つは七百二十名ないし七百三十名、これは
従業員の約三割五分に当りますが、これの
人員整理。第二番目として
解雇基準はあらためて協議する。第三に、従来の
退職規定はかかる
大量解雇を前提として定めたものではないから、支出可能の限度内で協議しようではないか、
会社側が出した案としようしては大体平均三万円、最高三十二万円、最低五、六千円だそうであります。これに対しまして
組合側は、翌六月三日に
組合員大会を開きまして、四
項目の
決議文を手交いたしました。その四
項目というのは、第一に
賃金支拂い遅延の
責任を究明する。第二に
首切り絶対
反対。第三に
労働協約改悪反対。なお
協約は五月二十四日をも
つて満了、無
協約の
状態であります。第四番目に
吉田内閣打倒。こういう四つの
項目を出したのであります。これに対しまして
会社側は、六月の四日にこの
決議文に対して
回答を送
つております。すなわち第一については、極力努力中である。第二については、
会社側でも慎重にこれを検討した結果であるから、
組合側もよほど慎重にこれを検討することを望んでやまない。第三は
改悪とは思
つておらぬ。第四は
回答の限りではない。こういうふうな
回答を送
つております。
組合側は
会社の
経営に関しまして、
一つの案を出しております。現在
ミシン五百台をつく
つておりますが、これを千台増産すれば、九百万円の増収があるではないかという案を提示したしましたが、
会社側ではこれを審議した結果、受付けないことにいたしまして、
組合側に返答いたしました。この拒否にあいました
組合側では、ただちに
首切り反対の
署名運動を開始したのであります。六月五日には
組合主催の
町民大会、これは
船越町というところにこの
会社がありますので、
町民大会を開催いたしました。六日に
原案撤回の中に入れを
行つております。八日になりまして
組合側は
再建案を提出するというような
処置をとりまして、
相当ねば
つておるのでありまするが、その間におきまして、
戦場離脱や、
無断外出等の
戦場秩序撹乱の
態度も随所に見られたのであります。九日になりまして
組合側提出の
再建案を
経営者側に協議いたしましたが、遂にこれは決裂にな
つてしまつたのであります。十日になりまして、
経営者側は
首切り撤回の申入れに対してはこれを拒否し、
交渉打切りの声明を行いました。十日になりまして
従業員六百六十二名に対して
解雇の
通告をいたした。これはないよう証明の書留をも
つて送
つております。
効力発生は大体十五日であります。これを送りました同日午後
組合側に対しては
解雇者リストを手渡しました。この
会社側の措置に対しまして、
組合側は十一日以降
職場大会、
人民大会を相次いで開催いたしまして、逐次その
態度というものは
凶暴性をましております。あるいは騒動を立てたり、ガラスを破壊したり、
暴力を振つたり、
事務室を占拠したり、この間
経営者側に
卒倒者が出たり、病人が出たり、なかなかうるさい問題にな
つたようであります。この間いわゆる傳えられておるような
人民裁判というようなものも、数回にわた
つて行われたと聞いてあります。すなわち午後四時頃に
人事課長の
松岡と、大久保という秘書が
——あの
会社は門を入りまして芝生があ
つて、その前に池があり、その中に
小島がありまするが、その
小島に連れ出されて、その中で
相当の脅迫と威嚇を受けながら、
解雇名簿の返還を強要された。こういうことを交えて
交渉が行われたのであります。これは午後四時から翌日の夜の十時ごろまでこの
交渉が続きまして、これによ
つて松岡人事課長は卒倒して、入院してしま
つております。この件は
不法監禁、
暴力行為というようなことによりまして、目下検察廰で
調査中だそうであります。十二日の午後八時ごろになりまして
組合側は
職場大会を開き、秘書室に
デモを行い、所長代理の板垣という人を誘い出し、またこれに次いで部長、課長級を誘い出しまして、大会形式の
團体交渉を行い、またここですわり込みによ
つて交渉を
行つたのであります。午後一時ごろから翌朝午前六時までに及んだのであります。勤労部長の諸方という人は卒倒しました。なおこの間守衛長も
組合員との間に小ぜり合いをいたしまして、守衛の任務というものは、完全にここで喪失
状態にな
つてしまつたのであります。十一日から、いわゆる
友誼團体と称するものの
指導者がどんどん侵入して参りまして
指導に当り、守衛の任務というものは完全に喪失し、どんどん
無断入場者というものがふえて来たのであります。この部課長級を誘い出したのも、脅迫、威嚇、だまし戦術によりましてこれを誘い出し、結局六名の
幹部というものは卒倒したらというふうに私は聞いております。十二日の午後一時に、また午後の十時にCICがや
つて参りまして、所長代理の方と
組合長を招致いたして懇談をいたしております。この間、
人民裁判の
実情をいうものをつぶさにこの連中は調べたそうでありますが、私は見ませんでした。数次にわた
つて行われましたいわゆる
人民裁判というものは、十三日の朝六時ごろ終了しております。十三日の午前八時、
團体交渉が行われましたが、
会社側は
組合提案の
白紙還元要求というものを拒否しております。同じ日の十三日に軍政部のダガー大尉、CICのスミス中尉が
製作所に参
つております。そうしてもろもろの注意を
行つておりました。十四日の午前四時半から六時までの間に、
会社側では
工場を
閉鎖いたし、立ち入り禁止の立て札を立てた。午前十時に軍政部のダガ—大尉が製作場にや
つて参りました。そうして
退去命令が出ております。これに対しまして組員は、午前十時二十分ごろから
入場者の大部分が退場を開始いたしましたが、後に再び
入場いたしました。これは青年
行動隊を先頭として強硬に入
つておりまするが、逐次数が増加いたしまして、千五百名あるいはそれ以上の人数が強行突破して入
つて来ております。廣島懸
当局は廣島の軍政部からの
命令を受けまして
警察官を増強し、約二千名ほどでありますが、
組合側に
工場撤退を
通告いたしましたが、
組合側はこれに癒せず、
警察隊はいわゆるピケ線を突破して、全員を門外に追い出したのであります。ここに小ぜりあいが随所に起りまして、
組合側では
警察官暴行
事件であるとしてこれを大々的に宣傳する。いろいろの例がありますが、一例をあげれば日射病患者として倒れた
組合員を戸板だか担架だかに乗せまして、これにむしろをかけ、周囲の者に対してはあたかも暴行死者という形をよそおいまして、町中歩いて宣傳を
行つたというようなことがありまして、これを大々的に放送しておるようであります。
組合側で病院の治療を受けた者は三十名であります。これが新聞記事として傳えられたのは、
相当ひどく傳えられておるようでありますが、実際は大したけが人はなか
つたようであります。もちろん
警察官の方にもけが人は発生いたしております。十五日から十七日まで、
警察隊と
組合員は対抗を続けておりましたが、十七日の午後八時ごろ警官は引揚げております。この十二日ごろから、次々に
組合の
態度というものは凶暴化して参りました。この
事件の例をあげれば大分ありますが、時間の
関係でこれは省略いたします。この乱闘騒ぎの後、
組合側では
友誼團体に呼びかけまして、共同闘争を展開しております。産業防衛闘争
委員会では警官動員の
責任を遺究しております。
友誼團体を交えた
組合側の
デモも随所に行われておりまして、依然不穏な空気がみなぎ
つております。廣島懸としましては、
労資問をあつせんし、
双方交渉の糸口を発見することに努めておりまして、懸
当局としては、紛爭の円満
解決と、
工場のすみやかなる再開を目途といたしまして、
労資双方の
意見を十分に尊重しながら、
事件解決に努力しております。その間
労資双方の間において、直接に
團体交渉の再開に関し、折衝する段階にも立ち至
つておるようであります。地労委も
両者の
意見に基きまして、あつせんに努力しておりまして、基本的系爭諸問題の
解決というものに、懸命の努力を続けておるのが現状であります。
なおこの間一言申し上げたいことは、第二
組合というものが七月に二日に発生したことであります。
組合の一部戦闘分子による、
職場大会等の運営に不満を感じた者が続出して参りまして、ことに七月二日の大会におきまして、今度の
爭議の基本線の再確認の問題について
意見の対立をし、無記名投票による採決がいられなかつたため、これは挙手採決で行われたのでありますが、これを
一つの分岐点といたしまして、七月三日遂にこの立ち上がつた連中は前の
組合と決裂をいたしまして、
日鋼廣島
製作所労働組合というものを結成いたしました。最初はこの人数は百六十名ぐらいでありましたが、逐次増加いたしまして現在では九百三十名前後の数字にな
つております。この第二
組合の結成の機運が達成せられるや、大会における彼らの発言をいうものも、きわめて困難であつたそうであります。彼らに対する青年
行動隊の統制は熾烈をきわめております。大会における
組合幹部の発言をいうものも、彼らを事ごとに圧迫しております。前の
組合の発言のうちには、われわれは八、九月までがんばればよいのだ、乏しきに耐えてがんば
つてやろうじやないか、この
暴力革命が達成されるまで、われわれはいかなる困難にも打ちか
つて闘わなければならないというような、過激なる演説が随所に行われたそうであります。こうした言辞が一部の猛烈なる反感を買いまして、経済闘争にのみ終結しようとする者の團結を、逐次強化させて
行つたということは事実であろうと思います。簡単でありますが、これで終ります。