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小宮參考人 私はもと名古屋
大学の
法医学の教室におりました
小宮でございます。本日ここにお招きをいただきまして、
犯罪捜査のことにつきまして
意見を申し述べる
機会を與えていただきましたことを、非常に光栄とするものでございます。
初めに申し上げておきたいと思いますことは、科学
捜査と申されるのでありますが、科学
捜査と申しますと、一体に何でも自然科学を使うものばかりを、科学
捜査というようにと
つておられるのではないかと思われるのであります。しかし自然科学ばかりではない、ありとあらゆる科学されたものをみんな用いるのが科学
捜査でありまして、
法医学を主眼とする科学
捜査と申しますならば別でありますが、そうでなく、科学
捜査と一樣に申しますならば、あえて
法医学ばかりを用いるべきものでないと思うのであります。しかしながらもちろん
法医学というものも、科学
捜査の根本となる要素を十分持
つておるものでありまして、これを用いまして、はたして
捜査にどれくらいの効果があるものかというようなことは、私二十年間ばかり実際において愛知縣でやついたのであります。なまいきな申し方かもしれないのでありますが、おそらく
日本全國で、当時の愛知縣の警察部の刑事課ぐらい科学
捜査を使
つたものはないと私は思
つております。その
経驗から申し上げますに、科学
捜査の根本は何であるかと申しますと、物質的なものでなく、人であります。事を得なければ決して科学
捜査はできないのであります。たとえば指紋を使う場合において、指紋係というものは何百何人と募集すればできるのでありましようが、そのうちではたして何人しかるべきしつかりした人を得られるかと申しますと、ずいぶん数が少いのではないかと思います。私の
経驗からいたしまして、約二十名の人をや
つて見まして、た
つた一人しかしつかりした人を得られなかつのであります。もしもそういうような人が得られましたならば、これをごく優待するということがまず第一に科学
捜査の一番大事な点ではないかと私は考えます。いろいろな点ではないかと私は考えます。いろいろな器物を求める。その器物ばかりが決して科学
捜査の元になるのではなく、これを扱う人が必要であります。か
つて拳銃を持
つて兵庫、愛知、靜岡の三縣下にわたりまして殺人強盗を行
つた者がおります。これは佳木斯からの脱走兵でありますが、そのとき拳銃の彈丸からして、兵庫縣で行
つた事件と愛知縣で行
つた事件とが、同一國銃によ
つて行われたということを調べたのでありますが、これはその当時私どもで比較顯微鏡を初めて求めまして、拳銃の彈丸の
事件でもあ
つたときにと思
つて約二年ばかりけいこしてお
つたのであります。たまたまそういう
事件がありまして、同一拳銃から発射された彈丸によ
つて双方の
事件が発生したものであるということがわかりました際に、みんな何をほめたかと申しますと、比較顯微鏡があるからいいというのでありますが、はなはだ私から言わせれば不愉快だ
つたのでありまして、その比較顯微鏡を扱う
人間を二年間私は訓練をするために、ひどいことを言
つたり、あるいはずいぶんむりなことをさせたりしたのであります。その人の見る技術をほめないで、顯微鏡ばかりほめるのでありますが、顯微鏡ばかりあ
つたつて、のぞく
人間がなければだめなのであります。機械がなくても、
人間一人おりますれば、またそれ相当のくふうをするのでありまして、私はまず物だとか何とか言うよりも、まず先にそういうようにごく適した
人間の養成、かつそれの優待ということが、一番必要なのではないかと存じます。なおその上にもちろんいろいろの科学的の
捜査をする道具がある、器具があるということになりますれば、それに越したことはないのでありますが、そういう場合に多くなわ張り爭いをしまして、自分の方にも欲しい。こつちにも欲しいというようにばらばらやりますと、結局はあぶはちとらずになるのであります。皆で寄
つてたか
つて一つの物を使えばごくいいものができる。それをばらばらに
一つずつ買
つて置きますと、それほどいいものは持てない。かつ使わないところはほこりにまみれて放
つて置くようなことになるのでありまして、経済的の見地から行きましても、私は
一つのものをごくよくした方が、つまらないものを数多くつくるよりはいいかと思うのであります。ただいまの状態から申しますならば、いわゆる
捜査科学
研究所が今度新築に
なつたようでありますが、あれをまず一番にできるだけ充実しますのが、科学
捜査の根本をつくるものだと私は考えております。ただ方々にばらばらにつくるよりは、
一つのものをごく重点的にやるのがいいというのが、私のただいまの考えであります。もちろんそれが終りましたならば、それから数多くつくるのは、これは申すまでもないことだと考えるのであります。
次に、人の問題などを申したか
つたのでありますが、きようお招きいただきました文章に、
下山事件についていう項があるのでありまして、それをとりまして、この科学
捜査というものがいかようなるものであるかということを——それはいろいろの考え方もありましようが、私の考え方をまず申し述べさしていただきたいと思うのであります。これは
下山事件を申すのではなくして、
下山事件を例にとりまして科学
捜査の
お話をする、こういうふうにお含みを願いたいと思うのであります。この
下山事件の発生いたしましたころにおきまして、私がなぜこれに対しましてすぐに関心を持
つたかと申しますと、すぐ
死体が
東大の
法医学教室におかれて、私の先輩でありまして、始終私の畏敬しておりますところの
古畑教授が指揮をとられまして、そしてなお
桑島博士、これも昔から始終御交際を願
つておりまして、いろいろ仕事の上でも御相談を願える方でありますが、そういう方々が
解剖されるのでありまして、事は重大なものでありまして、どうなることかと思
つてお
つたのであります。そうしますと私の胸を打ちましたところのものは、
古畑教授のところで、
死体解剖のいろいろの結果について——これは新聞で読んだのでありまするから、はたして信用すべき
意見かどうか存じませんが、相当の結果が
発表されました。と同時に、私名古屋の方で読んだのでありまして、一日遅れてお
つたのかも知れませんが、七日の朝の新聞に、水戸電話としまして、ひきました
機関車の右の排障器に血痕がついてお
つた。それをたしかはつきり記憶いたしませんが、水戸の地檢の檢事さんが立会
つていろいろ調べたということがある。しかもその血液型はA型でありまして、
下山総裁の血液と同じだという記事が出てお
つたのであります。そうするとどうも
死体をひいた
機関車の排障器、それに血がついておるというのは、少し疑問に思
つたのであります。疑問に思
つて、ただそれだけにしておりました。いずれいろんなことがはつきりするだろうと思
つておりました。ところがその後新聞紙上ではつきりして來ない。そのうちに、たしか政府の方の話のようだ
つたと思いますが、こういう重大
事件であるから、警察当局あるいは
捜査陣ばかりでなく、一般の人もこれに関心を持つようにということがあ
つたかと思うのであります。これは少しよけいなことにな
つて恐縮でありますが、名古屋ではこの犯人をつかまえた者だとか、眞相をはつきりさした者には百万円の懸賞金を出すとか、五十万円の懸賞金を出すとかいろいろ張り紙まで、新聞が出したのであります。その懸賞金のことはどうでもよろしゆうございますが、そういうようなことで関心を持つということになりますと、私なども
法医学の方に少し足を入れてお
つた人間でありますから、これに関心を持つのも國民として当然のことかと思
つて、さらにそれに関心を持つように
なつたのであります。たまたま私はそのころ指紋を出すのに使う紫外線の発生機の製作のことがありまして、機械屋に参るために上京したのであります。それでこちらに來て方々見ておりましたときに、一番氣になるのは、
機関車の血なのであります。警視廳の鑑識課へ出ましたときに、その血はどういう血であるかということを伺いましたところが、水戸の方からの電話では、排障器にゼリー状の血痕がついてお
つた。ゼリー状の血痕ということになりますと、凝血と見てよろしいことになると思います。先ほど
古畑教授も言われた通り、
人間の血が死んでから出ましても、当分の間は固まることはもちろんでございます。もちろん固まり方がごく悪くな
つて行くのであります。これは人によりまして、また死因によりまして、この固まり方の悪くなるのがいろいろに違
つておりますが、少しの間は固まるのであります。しかし生きているものならばみんな完全に固まるのであります。ごく特殊の一部のものは別でありますが、普通のものならば固まるのであります。そうすると、答ま
つた血がついているということになりますと、死骸と見るべきか。もし
死体の方を見ないで、生きた者をひいたということになるのであります。
死体ばかりを見て
結論を下すのも間違いでありますし、また
機関車の方の結果ばかり見て
結論を下すのも誤りであります。要するにこの二つが合わなければならない。眞理は
一つしかないのでありますから、この二つがどうかして合わなければならないということになると考えるのであります。
な
お話が少し前後いたしましたが、
犯罪科学の
方面で証拠になるような科学的の
根拠を見つけましたときに、それがはつきりしてから
捜査にかかるということになりますと、私は
捜査の方のことはよく存じませんが、
捜査の方は御不満があるだろうと思うのであります。結果が出てから調べるというのでは、遅れてしまうだろうと思うのであります。ここでそういうことを申し上げて、はなはだ恐縮でありますが、もしも
下山総裁のひかれた
事件について、その結果がまだ
発表のときでないといたしますと、かりにそれを持
つておりましたならば、
捜査は今日までかかるわけに行かないのであります。どうしても眞相を
一つなのでありますから、科学的の鑑識の方も
捜査の方もすべて同時に進めて行
つて、結局帰するところは眞相をつかむ一点に帰着するというのが、私は
ほんとうの意味の科学
捜査であろうと思
つておるのであります。
なお
死体を
解剖いたしますときの心得といたしまして、少し考えなければならないことがあるのではないかと思います。
経驗がないということは実際辛いものでありまして、われわれも幾たびか初めての
事件にあ
つて苦労したことがございます。
経驗はたくさん持ちたいのであります。
死体の
解剖はどんどんしたいのであります。しかしながらわれわれは
法医学に從事しておりまして、
死体を
解剖いたしますときにおいて、決して忘れてはいけないことがあります。眞理の探究ということも必要でありますが、しかしながらその死者に対して礼を失することは一番間違
つていることであります。かつその近親の人に不快の念を持たせるということも、また許すことのできないことであります。でありますから、この
下山総裁がここで変死のことが起
つたいう場合におきまして、
あとでそれの
経驗を得るためにとい
つて、それはもちろん檢察当局が、その
犯罪に容疑を持たれたからでありましようが、
法医学の教授に対しまして、死因の事情もはつきりしておる
死体を
解剖させるというようなことは、あまりこれは
研究というものを重大視された結果でありましようが、こういう態度で
法医学の
人間は
研究しておるというようなことを思われますことは、私
法医学の一人してはなはだ不愉快に思
つております。
それで話がわきにそれましたが、そういうようにいたしまして、まず血痕の
方面から少しおかいしい思
つておりました。しかしながらなお
機関車の方を聞きますと、
機関車の一番うしろの車輪の軸に噴霧状に血が飛んでおるということを聞きました。しかしそういうようなことは私は聞いただけで見ないのでありまして、見ない者がこれを云々するということは不穏当であるということに一應なるのであります。しからばどうだと申しますと、
法医学の方で鑑定いたしますことは、あえて
死体を
解剖したり何かするばかりが鑑定ではないのでありまして、書類の鑑定ということがあるのであります。書類によりまして再鑑定をすることは、裁判所あたりでよくあることなのであります。書類からだけの見方というものも、また一應は私は理由が立つかと思います。私はものを見ないで、書類の方からだけで考えてみよう、こういう決心をいたしたのであります。なお
古畑授教に対しまして、もつと早く出まして、いろいろ
お話を伺いたいと思
つたのでありますし、また
古畑教授の方も私に
お話になりたいような御意向があ
つたようでしたのは、鑑定というものは、人の
意見を入れて鑑定するものではないのであります。鑑定を命ぜられた人が鑑定をするものであります。これに対しましてよけいな雜音を飛ばしに私的に行きますことは、始終ごく親しく願
つております私といたしましても、あえて避けなければならないと思いまして、私といたしましてははなはだ残念であ
つたのでありますが、
古畑教授のところにおたずねすることを差控えてお
つたのであります。ところが
法医学の教授会でいろいろ御
発表に
なつたということでありますから、それでは伺
つてもいいと思いまして、日曜だ
つたから、その次の月曜日に参りまして、
古畑教授にお目にかかりまして、貴重な時間を四時間ないし五時間いただきまして、いろいろ説明していただいたのであります。そういう結果といたしまして、どうかという問題に
なつたのでありますが、この死後
轢断ということになりますが、先ほども
ちよつとそういうことで話がいろいろにな
つておりますが、
轢死という字であります。この
轢死という字をどうとるかということでありますが、
轢死とは書いて字のごとく解釈すれば、わだちによりましてひかれて死ぬものをいうのでありますが、わだちにひかれなくて、
機関車にぶつつか
つたものは、これは
轢死と言わないのかということになりまして、実に困るのであります。ぶつつか
つてはね飛ばされて死んだものは、
轢死と言わないのか、言うのかということは、非常にむずかしく考えられて來るのでありますが、私はこれは
常識的にとりまして、
機関車にぶつつかりまして、
機関車にぶつつかりましても
轢死としていいんじやないか、要するに車にあた
つて死んだというふうにして、みな
轢死と解釈してもいいんじやないか。刀のないもの、とんがりのないもの、戎器でないものよりまして傷をつけられる。すなわち鈍体によ
つて傷つけられるというときに、
機関車に鈍体として取扱うことになりますと、それの輪にひかれて死んだ人を
轢死と申しますが、ぶつつか
つた場合も
轢死としてよいのではないかと私は考えております。そうして
轢断という字は、これは
あとでひかれたものというように考えるのでありまして、もちろんこのわだちによ
つてひかれたというものでも、レールのあるものもないものもあります。自動車のようにレールのないものもあるし、汽車、電車のようにレールのあるものもあります。この器別も一應は考えなければならぬと思
つております。この
機関車のわだちによりましてひかれるという場合に、ぶつか
つてからひかれるということがありますので、死後
轢断と申しまして、汽車に死んでからひかれるというと、何だか死骸がひかれたというようになりますが、
死体がひかれたというのは、それは死後にできたものだ、こういう意味になりますが、こういうものはわれわれが十幾つも
解剖したことがありますが、その際におきまして、ずいぶんたくさん
自殺し飛込みの者に、死後
轢断の跡を見ておるのであります。どうしてかと申しますと、汽車にぶつかりまして死んで、その死骸がひかれたとなりますと、死後
轢断の跡があります。もちろんそれは汽車にあた
つたとか、あるいは前の輪で生きたままひかれまして、しかる後に
あとの輪で死んでからひかれたというような結果になりましたものがたくさんあるのであります。ただ死後
轢断の箇所だけでも
つて、すぐにこれは
死体がひかれたというわけには行かない。どこか生前の何かの傷がなければならぬ。かりに
死体がひかれたとしたならば、それが
死体になりますところの死因がわからなくてはならぬ。その死因が汽車によるものではなく、ほかの凶器によ
つてできたといたしますれば、これは
死体がひかれたものである。
機関車にぶつか
つて、何かできた死因によ
つて死にまして、しかる後にひかれたものならば、死後
轢断というような樣子も見えるのではないかと考えました。死後
轢断すなわち
他殺、これは
古畑教授も言
つておられないと先ほどもおつしやいましたように、決してそんなことは言わないと私にも
言とつておられたのでありまして、そんな
他殺というようなことをおつしや
つておらないのでありますから、その点は誤解のないように願いたいと思いますが、この死後
轢断の跡というのは、
死体がひかれた、こういう意味にとられて、ひかれた跡はあるが、それは
生活反應が見られないということ、そうして死因は何だかわからないということに結局
結論がついたのかと思うのであります。この
機会におきまして私がここで申し上げたいことは、先ほどどなたからかの御質問で、逆は必ずしも眞でないということがあ
つたのでありますが、まことに至言でございます。
法医学におきましては、決して逆が成立するときま
つておりません。かなり成立しないことがたくさんあるのであります。たとえば
溢血点あるいは
出血点、どちらでもいいと思いますが、小さな
出血点が
溢血点であります。
出血点は鈍体作用によ
つてできる。
出血点は鈍作用によ
つてできるということは確かであります。しかしながらそういう
出血があ
つたならば、鈍体作用がそれに加わ
つたものだとは軽卒に申せないのであります。そのことは、私がここで申しますよりは、われわれの恩師でありまして、
古畑教授はその後継者でありますが、三田先生の本を持
つて参りまして読んでみましたならば、それが明らかであろうかと思うのであります。これは窒息のところで書いておる言葉でありますが、三田先生の
法医学の本の九ページにおきまして、窒息して死んだ者には、眼瞼あるいは
眼球結膜下に
溢血点があるというようなことを書いておられる。なおそのほかの特徴としては、眼瞼の皮膚、これは眼瞼の結膜下ではございません。眼瞼の皮膚、まれには脛部または上胸部の皮膚に
溢血点の存することもある、こういうふうに書いてあります。これからいたしましても、また窒息のときに眼瞼等に
出血があるにいたしましても、首を絞められたり窒息をするときに、その辺に鈍体は作用しておらないのであります。鈍体が作用しておらないところにも
出血ができるということは、ちやんと本に書いてあるのでありまして、
皮下出血がある、あるいは組織内
出血があるから鈍体作用が加わ
つたものだ、逆には行かないのでありまして、鈍体作用が加わりましても、弱いときには
皮下出血を見ないこともあるし、また鈍体作用が加わらなくても、死因によりましてはできることがあるのであります。しかもその
出血は、この
出血点などは窒息ばかりではなく、ほかの死因のときにも、そういう鈍体作用によらない
出血というものができるということが書いてあります。
なお余談になりますが、か
つて自殺、
他殺の問題がありました小笛
事件のときにおきましても、鈍体が作用してお
つたにもかかわらず、そこが始終圧迫されておりましたために、
出血がなか
つたということにな
つておるようでありまして、そういう点からいたしまして、その原因は何であるかと申しますと、これはやはり窒息のところに書いてありまして、まだその
出血の原因ははつきりいたしませんが、総合的に
法医学をつくられたホラマン氏の説を三田先生の本でと
つてあるのによりますれば、血管の痙攣であろうということが、ちやんと十九ページに書いてあるのであります。かようにいたしまして、
睾丸に
出血があるないというような問題等におきましても、すぐに、
出血があるからこれは鈍体作用だというように簡單には私は考えられない。むずかしくいろいろの点を考慮して行かなければならない、逆が成立する場合もあり、しない場合もあるのでありますから、その点等をよく考えてみたならばいいのじやないかと考えたのであります。それからなお死後
轢断と申されるのでありまして、これは確かに死後にひかれたものと、現場を見ないわれわれは信ずるよりほかにないのでありまするが、これた一例でありますが、私は頭をたたきまして殺しました
人間の
死体を
自殺と偽装させるためにひかした
事件に出会
つておるのであります。しかもその犯人は警察官あがりだ
つたのでありまして、
自殺と見せるためにげたをそばにそろえて置きまして、そうして
自殺と見せかけた
事件であります。その殺しましたのは、
ちようど右の側頭部をたきまして、右の頭の頭蓋骨で骨折しておりました。そうして手と足とがひかれてお
つたのでありますが、この際におきまして私の一番困りましたことは、頭が生きているときにたたかれ、手と足とは死後にひかれたものだから殺されたものだと、もしそういうふうに私が軽卒に簡單に考えてしま
つていいものであろうか、もう少し考えようがあるのではないかと考えたのであります。それはもしも頭を初めに
機関車で打たれまして、そうして倒れましてから手と足がひかれたならば、同じ状況になるのではないか、どういうようにこれを考えたらいいのかと考えました。ところが私にと
つては幸いにいたしまして、耳の前と後に血が流れてお
つたのでありまして、立
つてお
つた状態が受傷した事実が認められたのであります。しかもその右の方の肩には何らの傷がないのであります。そうなりますというと、もし
機関車に当りますと、この辺が
機関車に当
つたので、激しい傷を受けるときには、肩に傷がなければならないと思
つたのでありますが、それがない。立
つていたとすれば、どうしても肩が打たれていなければならないが、それがない。それだからして
機関車に頭をやられた傷ではない。何でたたいたか知りませんが、とにかく
機関車にやられた傷ではない。しかもそれが
機関車にやられたか列車にやられたか存じませんが、ひかれた
あとがあるということになりますれば、これは
他殺と言
つてもさしつかえないだろうというように、そこまで考えまして、これを
自殺を偽装したところの殺人だというように申しまして、結果は犯人もちやんとあがりまして結末がついたのでありますが、そういうときに、傷の点につきましてはずいぶん注意しないとむずかしいものだという氣がしました。なおこのほかに、生きておりましたものがひかれましたときにおきましても、ひかれた方はいろいろであります。軽いものによ
つてひかれる——軽いと申しましても、汽車のことでありますから、そんな軽くはないと思いますが、電車にひかれるとか、あるいはおそい速度の汽車にひかれるものと、重い
機関車で非常なスピードで走
つて來るときにひかたれたというようなものにおきましては、ずいぶんまちまちの結果を持
つておるのであります。そういうような傷口などのあまりこまかいことは省略しておきますが、生前にひかれたものか、死後にひかれたものかという問題にまずな
つてくると思います。そういうときによく——これはわれわれもそういう表現を使
つたのでありますが、生前にひかれたものは
出血しており、死後にひかれたものは血が出ていないというようなことを、われわれはよく口にするのでありますが、これは間違
つた表現であります。この表現につきましては、やはり恩師三田先生の本にありまするところを
ちよつと読ませていただきたいと思います。すでに死んだものに創傷を加うるときには、その創傷からして流出する血液の分量はきわめて少きに対し、生きている人が創傷をこうむると大なる
出血を招來するものである。すなわち死んでから傷をやると、わずかではあるが血液は流れ出る。大きな
出血の方は生きているものがけがしたというのでありまして、
出血のあるなしを見わけるのではなくして、多い少いということを見るのであります。多い少いということでありまして、あるなしを見るというように、大分誤解しておられる方が多いように私は思うのであります。血が出ておるから生前だ、血が出ていないから死後だなんということは、はなはだ間違
つた表現でありまして、もうすでにわれわれの先生は、こういうようにちやんとしたりつぱな表現をされておるのであります。多い少いということにな
つて参りますと非常に問題でありまして、死後のものか生前のものかということは非常にむずかしいかと思います。私は死後割合に近い時間に人が傷を受けたというのは一例しか知らないのでありますが、これはある痴情
関係で、ある男が女を家の前で殺しました。刺し殺したのですが、それから家の中に飛び込んで今度は主人を傷つけまして、また出て参りましたのでありますが、出ぎわにこの女を突いた、その間約十五分というのであります。このときにおきまして、前の傷を與えたときから十五分目までの間隔があ
つた傷というものに対しましては、差がわか
つたような氣がいたします。しかしながら私たちに、生前の傷か死後の傷かはわからないような場合が実際においてあるのであります。たとえば凶器を用いまして幾つも傷を負わせる、ひどいのにな
つて参りますと、五十、六十という傷を負わせるのであります。そうして死んでしま
つてからも切
つておるに違いないのでありますが、そういうときにおきまして、われわれが生前、死後のはつきりした瞬間の傷をわからせようということになりましたならば、理論的に見ましたならば、どれが一番目でどれが二番目、三番目、四番目、これが六十番目というところまで番号をつけられるだけの自信がなければ、私ははつきりしたところの結果というものは見られないであろうと思うのであります。死という瞬間のところは、実際
法医学の方でもなぞでありまして、はたして何が死の瞬間であるかということはわからない。そのわからない瞬間の近所においての傷というものは、ずいぶんむずかしいのではないかと思うのであります。
それで、こういう
死体の方のむずかしいところへも
つて参りまして、当日は先ほど
古畑教授も御心配にな
つておりましたように、非常な豪雨でありまして、これは雨量から考えますと三ミリ、七ミリ、十三ミリというふうないろいろなことになりまするが、嵐のような雨が降りまして、ザーツと降
つたり、それから
ちよつとやんでみたりしますので、平均しての雨量は少くとも、一時的には相当ひどく雨が降るものであります。出たところの血がついてお
つて、それが雨によ
つて洗い落せるか、そんなことはない、一ぺん
轢死などで血がついているのを、水道のところで打たせて流してみればどうだ、落ちない、こう申すのでありますが、これは私は決して対象にはならないと思うのであります。ぬれているところについた血と、かわいているところへ血がついて、かわいてしま
つたというものを水道に当てたのでは違います。ぬれているところに血がつきましたときに、すぐ水の中に入れれば血が流れてしまう。ところがかわいているところに血がついたものを水の中につけましても、なかなかとれないのであります。そういうたしかに生きている者がひかれた例としましては、鉄橋の上でひかれた
死体がある。その
死体の一部が川の中に落ちまして流れて來たものは、これはかわいてお
つたところに血が出るはずでありますが、すぐ落ちましたがために、これにおきまして
出血が見られないというところがあるという氣がするのであります。これはいわゆる傷口からの
出血と、そして雨との
関係につきまして、ある
程度まで流れるのじやないかという疑惑を持
つためであります。
次には汽車と申しましても鈍体でありまするから、それが当りますれば、最も強いところの
範囲におきまして傷口ができる、切れるということがありますと同時に、その鈍体が当りましたために
皮下出血ができる、外には傷がなくて、中に
出血ができるということがもちろんあるのであります。そういうことが汽車では必ずあるようにな
つているような
お話がございましたが、そうとは
ちよつと限らない場合があるのではないかと思います。そういうもののないような場合もときどきあり得る。ではどういう点かと申しますと、汽車でもそういうことがありますが、汽車ばかりでなく、そういうほかの何から申しますると、ふかに食われた場合であります。ふかの場合は、御承知のようにきばのようにな
つてお
つて、歯と申しましても鋭いところがない。しかしながらあれのあごの力が非常に強いと見えまして、海の中でふかに食われました傷は、ごく精鋭な刃物で切られたように切れるのであります。しかもそのまわりにおきまして
皮下出血は見られないのであります。これは海の中であ
つたためにそうであるのか、働いた鈍体の力が非常に強いためであるか、これはわかりませんが、そういうことがあります。汽車におきましても、非常に速いスピードにな
つて参りますと、ずいぶんよく切れるのでありまして、そこにおきまして傷口の
出血も、そのために圧迫される
関係がありましようが、少いし、その近所に
皮下出血というものが見当らないという例に出会うということは、われわれがそういう例を見ましたのは、か
つて安城のそばを急行が通
つたときにひかれました者において、そういう例を見ておるのであります。これらはしかしながら、見た見たというだけの話でありまして、あてにならないのでありまして、こういうものに対しましては、いわゆる科学
捜査の
方面からいたしまして、
日本全國でそういうものをどうかしてはつきりさせるように、統計でも何でもと
つて研究するというようなことが、これから科学
捜査の部門につきましての
研究機関として、相当に働かなければならないことではないかと、私は考えているのであります。
なおこれも新聞で読んだことでありますが、レールの上に血がたれている。雨が降
つているときにたれた血が、はたして流れないで、そこだけ残
つてお
つたかどうか存じませんが、たしか二百メートルばかりの間に血が点点とあるということになりますと、その血は
死体のどこからたれたか。
死体に生前の傷がないのだから、血がどこからたれたか。しかも二百メートルの間に血が点点とあるということになりますと、その血は
死体のどこからたれたか。
死体に生前の傷がないのだから、血がどこからたれたか。しかも二百メートルの間に血がたれるということになりますと、相当に長い距離でありまして、どこか切られたところがあ
つて、そこから
出血したものでなければならないということになります。大体人が方々切られますと、すぐ死ぬように言
つて、即死というようなことを言いますが、心臓を突かれましても、大体
人間は一町ぐらい歩いております。それから頸動脈を切られましても、私のとりました統計で、約半町ぐらい動いておるのであります。その動いて行きます間において、血はどういうようにたれるか。その血というものは、受傷したところではもちろんたくさん出ますが、それからの間は、だんだん血のたれるのが減る。それが死骸が倒れているところへ行
つてからまたふえる。これはそこへ行
つて、動けなくな
つて、血がたまるからでありますが、血のたれ方ということも考えなければならないのであります。これは私が初めに人を必要とするのだと申しましたのは、なるほど
科学的方法をも
つていろいろの科学
捜査をや
つて調べるということは、もちろん尊いことでございますが、しかしながら血のたれ方が、はたしてどういうような距離においてどうたれて行
つたか、どう受傷したかということは、血のたれ方からしても相当に考えられるところでありまして、この点等もいろいろ考慮しなければならぬのではないかと考えます。
それから
機関車に血がついていることでありますが、
死体をひいて、
死体から血が出ても固まる、排障器に血がついて固まるということもあると思いますが、生きておれば必ず固まる。しからば、
死体にな
つてから出た血が排障器について固ま
つたとすれば、傷が見当らない
死体であ
つたとしましたならば、
死体のどこの血が出て排障器について固ま
つたかということを、われわれは知りたいと思うのであります。
なお噴射状に血がはねる、これも死骸から血がはねるという原因はたくさんあるのでありまして、これは昔
東大で、三田先生時分に
解剖をや
つてお
つた宮永学而という講師がありましたが、山梨縣におきまして、被害者のからだの中に刺さ
つてお
つた凶器を引拔くと同時に血がはねまして、返り血を浴びたように
なつたのでありますが、それが殺人の容疑でいろいろ問題に
なつたということがあ
つて、鑑定の結果、引拔くときに出たということが明らかになりました。またわれわれがや
つておりますときに、頭を手おののようなものでたたく、一撃でたたきましても血は出ない。第二撃目を與えられますと、そのときには前の傷から出て來る道をたたきまして、血がはねるということがありまして、死骸にな
つても血がたま
つているからはねるということがあります。それでありますから、
機関車の一番うしろの車軸に血がはねているということになれば、それは死骸で、心臓にでも穴があいて飛んだのであるということが考えられますが、心臓の心室の方におきましては、そんなような穴があきましても血ははねません。心房の方でありましたならば、穴があきましたならば、あるいはそういうことがあり得るかと考えられるのであります。そういうように両方の場合を皆で考え合いまして、そうしてこういうものの解決をつけなければいけない、それがすなわち科学的のものであると思うのであります。
それで
機関車の排障器のところでまず当
つて、傷ができたとして、そうしてその血がたま
つて、最後の車軸へ來てはねるということでありますと、その間にどういうところで汽車にひかれたものであるか。また
下山総裁の
死体は、端から端まで九十メートルの間に散らば
つておりまして、それに十メートルの
機関車の長さを入れまして百メートル、そうすると時速三十キロといたしますれば、それは何秒間で行
つたものでありましよう。その何秒間のうちに血がどう出て行き、どういうように傷を受けたものか、こういうことを考えて行くということもかなり科学的の見方であります。
なお
下山総裁の
死体の胸腔の中に血が相当あるこれは死骸にな
つてから出たものも入
つているかもしれませんが、また生前に出たものかもしれません。
なおこの
下山総裁の
死体におきましては、死斑が少いということをい
つておるのであります。これは非常にこまかいことばかりを言
つておりますが、死斑が少い
死体というものは——死斑と申しますと、これは死んで死臓が働かなくなりますと、血液が心臓の働きによ
つて循環するのをやめますと、それが重力によ
つて下方に沈墜して來る症状であります。
死体の表面の色がずつと変るのでありますが、この死斑が少いということをまず第一に見まして、
出血死であると、これを一番先に見た人たちもあるのであります。そういう点はある者から見たならば、勘というような言葉を言われるかもしれませんが、りつぱな科学的の見方でありまして、
出血死におきましては死斑が少い。
死体において死斑が少く見られた
下山総裁の
死体は、生前にひかれたものじやないかという、これは刑事の勘でありますが、刑事の勘というものは、中には
ほんとうの占いか何かのような勘もないわけではありませんが、中には長年の
経驗からいたしまして、われわれがこまかいことばかり見て見落すような、大きなはつきりした点を見ているというような大事な点があります。
まあそういうような点で、與えられました時間も少し過ぎたくらいでありまして、急いで話しましたために、わかりにくい点がたくさんあ
つたと思いますが、大体科学
捜査というものはこういうようにするものであるということを、
下山総裁変死事件につきまして、私の氣のついたところだけを申し述べまして、なお將來この
科学的捜査ということに対して、いろいろ施設についてお考えになることといたしましても、えて物を大事にするが、それよりも鑑識員を養成し、しかもそれに適任な人は十分優遇するということを、まず第一にお考え願いたいと希望する次第であります。