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渡部委員 この前の二十日のこの
委員会において、参議院文部
委員側から本
法案に対する修正意見の
説明を聽取いたしました際に、参議院側の修正意見の根本的な態度が明らかにされたのであります。それによると第一に、本
法案は物的及び人的條件を備えるに必要な國費、地方費の予算的処置が不備であるだけでなく、主として地方費負担にまかせられるようになつておるが、地方にはかような費用はもう出て來ないのだ、出る余地はもうまつたくないのだという点でありました。第二には、社会教育は民間の自主積極的なものを
助成し奨励しなければならない。ところが本
法案は反対に國及び地方公共團体、あるいはまた文部大臣とか教育長とかの側による統制が非常に強化されようとする色彩がある。第三には、國民みずからの
文化的、教養を高めることを社会教育としては主としてしなければならないのに、いたずらに社会教育体系を、画一しようとしている。以上の三点でありまして、この
法案が非常に不備不完全なものであるだけではなく、物質的な面に実現性がなく、さらにまた教育を画一統制しようという点で排されなくてはならない。
しかし私たちはさらにこの問題をもう少し根本的に考えてみる必要がある。なぜこの
法案において社会教育が極一統制されるような傾向がとられたのか。この点について
政府は技術的な面ではいろいろ
答弁がありましたが、國家が現に要求しておるところの社会教育の根本方針がどこにあるのか、一体どの方に向けて社会教育をやつて行こうとするのであるかという点については、文部当局からは何ら肯綮に値するようなただ
一つの
答弁にも接していないのであります。しかし國家の性格とその時代の要請に應ずる根本の方針というものが教育においてはなくてはならないはずだと思う。かつて明治以來の教育においては、教育勅語に基くところのいろいろな教育が、学校においても社会においてもその精神によつて貫かれておつた。言いかえれば、それは天皇制と國体を盲目的に信奉するような國民をつくり上げるということが、その時代における教育の根本的な目的であつた。戰時中は大政翼賛会運動というようなものにそれが発展しまして、そうしてこの運動を通じて天皇というものは絶対的なものであるというような考え方、また排外主義、いわゆる超國家的な思想、そういうものを國民に注入し、國民をそれのもとに盲目的な状態に置くということが教育の根本的な方向であつたことは、敗戰後におけるあの國際裁判の席上においてもすでに明らかにされたところでございます。そのように戰前及び戰時中においては、今申し上げたような教育が、学校においても社会教育の面でも根本方針として行われたのでありましたが、このような方向をとることは当時の支配階級にとつて必要なことであり、当時の國家の性格から出て來るのでありまして、これはやがて帝國主義戰爭の準備と遂行に必要な教育であつたわけです。
そこで私たちは今日の状態を顧みる必要がある。一体なぜ社会教育というものが法律にまでされて、すでに参議院でさえも指摘しておるように社会教育に対する統制がなされなければならないのか、画一的な教育がなされなければならないのか、ここに私たちが戰後における
日本の教育の根本的問題を考える場合、
日本の教育がどうあるべきかということを眞劍に考える場合には、常に
一つの基準が與えられているはずである。それはいうまでもなく
日本の政治も経済も、それに準拠して行われなければならないところのポツダム宣言と新憲法であります。ポツダム宣言と新憲法においては何が要求されているかというと、ポツダム宣言においては
日本の民主化を促進するということが要求されており新憲法においては非常に平和ということがうたわれておる。從つて、もし
日本の教育がポツダム宣言及び憲法に準じて行われるとするならば、これは民主主義的な教育が徹底的に行われなければならぬ。同時に一切の戰爭を挑発するような、戰爭の方向に持つて行こうとするような國内におけるいろいろな條件がかつてにつくられることを防ぐための教育が行われなければならぬ。ところがそのような教育を現在一体だれが行つておるか、そのような教育を行つておる者は、現に労働階級を初めとして働く階級自身の中からそういう教育が行われておる。そういう人たちこそが自分自身によつて自由な自主的な階級的な立場からそれを行なつておる。こういうものこそが國民の九割五分を占める。國民の九割五分を占めるところのこういう自発的な民衆の中から起きるところのものこそが、社会教育の根本的な問題でなければならぬと思う。現に勤労者こそほんとうに平和と民主主義を求めている。その実現のために闘つておる。(「みんな勤労者だ」と呼ぶ者あり)それなら諸君はわれわれの意見に同意しなければならぬ。そうして問題はこのような方向に教育を持つて行かなければならないし、また現にそのような形への社会教育という、ものはどんどん行われておる。ところがこの
法案ではその人民の自発的なイニシアチーブ、発意性というものが少しも考えられていない、またそういうほんとうの全國民的な大きな社会教育運動等の観念が少しもこの
法案に盛られていない、少しもこれには関連していない。この
法案の中にはただ一言もそのような大衆的な、自然発生的な、自主的な教育活動というものとの関連が書かれていない。そうだとすると、こういうものに逆行するところの統制だけがこの中では考えられる。逆行するところの統制とは何であるかというと、これはこの問題である。これはどういう方向に向いているか。私は民自党のやじを飛ばされる諸君にも言いたいのだが、われわれは中國において、
日本軍が、
日本の帝國主義が中國を侵略したときに、中國においてどういうことが行われたかを反省する必要がある。
日本軍は中國人を使つて、また中國には珍しいところのあらゆる方法を用いて
宣傳工作を行つた。この
宣傳工作を行つておるところの……。
〔「そんなばかなことを言うものじやないよ」と呼ぶ者あり〕