○小宮参考人 邦樂の將來の発展性という問題になりますと、これはどうも私一個の意見になるかもしれないと
思いますし、また発展性があるとかないとかいう問題は、水かけ論になるおそれがあると思うのであります。実は私は邦樂には將來の発展性はないというふうにしか
考えられないのです。その意味で邦樂の將來に対しては私はスケプチツクなんです。その理由は、邦樂は長い歴史を持
つているには違いないけれ
ども、しかし琴だの三味線だのというものは、徳川の時代にな
つてから発逹したものでありまして、また徳川の時代に完成したものでございますから、いわば徳川の町人の趣味あるいは感情、あるいは思想といえば言い過ぎるかもしれませんが、そういうものを表現しているものではあるけれ
ども、もつと古い時分からの、二千年なら二千年の歴史を貫いて
日本に流れている
日本の
民族精神というふうなものを、十分に表現し得ておるものとは、私は
考えられないのであります。ことに江戸時代には、音樂は遊里の生活と結びつき、あるいは芝居と結びついて、江戸の町人一般の好尚を代表し、また好尚をしつけて來ているような形にな
つております。その徳川の町人
文化というものは、たいへんいいものもあるし、また一方からいえば、今日の時勢には非常に適しないものをたくさん持
つておる。そういうふうな意味で、琴だとか長うただとかいうもののいいものと悪いものをよりわけて、今日の時勢に適するとか、あるいはこれから先
文化國家としての
日本人の栄養の源にな
つて、新しい力を奮い起して新しい仕事をしようという、その仕事の燃料を供給することができるような力は、持
つていないと私は信じております。
第二番目に移りまして、
國民感情の問題をどう
考えるかというお話でございましたが、私の
考えによりますと、この
國民感情というもりが、はたして長うたあるいは箏曲、そういうものだけによ
つて國民感情が満足しているかどうかということは、よくよく
考えてみると、相当疑問ではないかというふうに思われる。たとえば民謡だとか子守うただとか、ああいうふうなものは、長い年月の間に土の中から生れ出て、土のにおいを持
つているものでありまして、これこそむしろ
國民の血の中に流れている根本的な感情を表現しているものではないかと思うのであります。しかし三味線とか長うたとかいうことになると、そういう土の中から生れ出たものを、その土を洗い落してしま
つてお座敷へ上げて、お座敷の中で発逹したものが、琴だとか三味線だとかの曲だというふうに私は
考えております。從
つてこれをも
つて國民の代表的な音樂である、あるいは
國民感情の全部を表現しているものであるというふうに
考えて、そういうものを入れないのは
日本の現在の
國民感情にさからうものであるというふうな説をお立てになるのは、私には少し合点が行かない点だと
思います。それは一般的に抽象的に申しまして、
日本に古くからある音樂を
日本の國立の大学に入れないのは不都合ではないかと言われれば、それはその
通りでありますが、具体的な問題として、琴をなぜ入れないか、入れないのは
國民感情に反する、あるいは長うたとか三味線を入れないのは
國民感情に反する、こうおつしやることは、現在の長うた、琴というものが、どのくらいな程度に
國民に瀰漫しているか、あるいは
國民全体についてどのくらいな程度三味線を喜び、琴を喜ぶようにな
つているかというふうなことを、もう少しはつきりつき詰めた上でないと、なかなか結論は出ないのではないか。事実私の狭い経驗でございますが、私の方の音樂学校で邦樂科の演奏会と洋樂科の演奏会と日を違えてやることがたびたびあるのでございますが、その場合でも、聞きに來る人の数から申しますと、邦樂の方へ聞きに來る人の数はたいへんに少い。これは單に私の方の邦樂の扱い方がこれまで冷淡だ
つたとか、あるいは洋樂の方は優遇したとかいうふうなことではなくして、一般の傾向がそういうふうなところにあると見てさしつかえないのではないか。それはたとえば毎日曜日にや
つておる放送局ののど自慢をごらんにな
つても、のど自慢に出て來るパーセンテージは、
日本の音樂をやるのと、西洋風の音樂西洋風の音樂と申しましても流行歌だとか主題歌などでありますが、そういう西洋風の歌を歌う方の人がはるかに多い。しかも
日本流の三味線を使い、あるいは琴を使
つて、のど自慢をしようというふうな人のパーセンテージは、非常に少い。そのことから
考えても、そもそも長うたを入れないから、あるいは能を入れないから、あるいは琴を入れないから、
國民感情にさからうというふうな結論は、出て來るはずがないように思う。
それからもう
一つ、若い邦樂の学生たちが革新の意氣に燃えて、家元制度を打破したり、新しい音樂をつくる意氣込みでも
つて、一生懸命にいろいろ勉強しようとしておる。その革新の意思をお前は否定するのか、しないのかという御質問でありましたが、私はもちろんこれを否定はいたさないのであります。革新するのは
けつこうです。家元制度などというものは、
日本の音樂を毒していることはなはだしいものでありますから、そういうものはどんどんこわれてしまうのがいい。從
つて若い人が革新の意氣に燃えてそういうことをやることは、私は賛成であります。ただ私が
考えるのは、邦樂を勉強していながら、邦樂の革新はできない、できないのではないけれ
ども非常にむずかしいというのは、邦樂の
人たちはやはり家元制度の中に育
つて來た。家元もしくは家元に近い者から教わ
つておるのでありますから、どうしてもそういうふうな
空氣にかぶれやすいし、人情上そういう者は当人はそういうふうなものに巻き込まれないつもりでも、自然とそういうものに巻き込まれる傾向がございます。のみならず私から申しますと、今まであるような邦樂を使
つて、その邦樂の上に西洋音樂のようなものを継ぎ木をして、その継ぎ木をしたものから新しい
日本の音樂をつくろうとするのは姑息な手段であ
つて、事実は本人がやろうとし、また天才が出て來れば、それは革新はできなくはないと思うのでありますが、一般的な
考え方としては、そういうことは私はとうていとうていというのは言い過ぎかもしれませんが、まず非常に困難なことである。それよりも私の言うのは、西洋音樂の知識を十分に取入れて、そうして一方では三味線を捨てられない人、あるいは琴を捨てられない人は、家にお
つて琴を勉強し、三味線を勉強しながら新しい西洋音樂の知識なり、あるいは新しい現実の感覚なりを積み重ねた上で、
日本音樂に関して
日本音樂を革新するというのが一番近道だろうというふうに私は
考えておる。これは事実邦樂の学生にも私はそういう話をしたこともあるのであります。
研究所は、今年は例の経済九原則で吹き飛ばされて
しまつたのでありますが、これは私は來年の
予算を請求して、來年度にぜひつくりたい。これはまた
文部委員会の方たにもお願いいたしたいのでありますが、これは今年はできなくとも來年、來年はできなくとも再來年にでき上るように御助力が願いたいと思うのであります。実はもし音樂研究所ができなか
つたときには困ると
思いまして、
文部省から、人文
科学研究費というもので研究の保護をする制度ができております。実は音樂研究所でや
つてもらおうと思
つていた問題の
一つ二つは、もうすでに人文
科学研究費から研究費をもらいまして、ぼつぼつやりかけてもら
つておるのであります。これがつまり音樂研究所ができればそれを音樂研究所へ持
つて來て、もう少し金をかけてもいいような方法をも
つてどんどん発展させて行けるだろうと思うのであります。今芽をふき出しておるような形で、
一つ、二つ願い出ているのがあるのであります。それでは音樂研究所ができなければ、邦樂はどうなるかというお話でございますが、邦樂はまだ実は音樂学校としての邦樂科というものは三年間あるのでございます。三年間の
人たちが、みんな卒業してしま
つたあとで、つまり初めて邦樂科の若い学生がからつぽになるわけでありますから、これは一年や二年遅れてもちやんとした音樂研究所ができて、そうして一方では研究していながら一方ではそこで別科として教育を受けるようにすれば、それで一年、二年の遅い早いは、將來の長い眼で見れば大した問題でなくて済むのではないか、そういうふうに
考えております。