○
鍛冶委員長 次に廣島日鋼製作所の爭議出作につきましては、ほかの
委員が
おいでになりませんから、私から御
報告することにいたします。
去る七月三十
日本委員会の決定に基きまして、
日本製鋼廣島製作所労働爭議
事件の
現地調査のため本
委員会より
鍛冶委員長並びに吉武、猪俣(代理田万)木付、小松(代理宇田)大橋の各
委員及び明禮
事務局長以下
事務局員若干名同行いたしました。本
調査團の一行はまず該爭議の形態や範囲、方法等を知る必要がございましたので、八月二十三日の初日は、爭議が波及いたしました範囲の重要な
現地状況
調査を行いました。次に八月二十四日より
証人の喚問に移りましたが、その
内容の詳細につきましては
速記録に讓ることといたしまして、私が御
報告申し上げますことは、その
調査の
内容を便宜上状況
調査と
証人の喚問にわけまして、その
概要を申し上げたいと存じます。
まず状況
調査でありますが、その順序は廣島縣船越町にあります
日本製鋼廣島製作所を振出しに船越
警察署、同町役場、海田市町
警察署、呉市役所、進駐軍呉民事部、廣島市役所、廣島市警察局東
警察署、農高縣廳の順に
調査を行いました。
日鋼廣島製作所の
現場は宏大な敷地と工場の施設、宿舎等を有して、同地方におきましては最も完備した工場であり、戰時中は一万余の從業員を擁して軍需品の生産に励んでいたのでありますが、終戰後は平和産業に切り換えまして、從業員も三千名内外になり、主として鉄道車両、ミシン、機械工具類を生産していたのでありますが、経済界の変動によ
つて、次第に
会社の経営面がおもしろくなくなり
整理の余儀なきに至
つたようであります。そこで労資間にいろいろの紛爭が起
つたことは、板垣所長代理の当
委員会において述べたところと大体相違がないようであります。それから
労働協約が五月二十五日にな
つてその有効期間が満了して協約がなくな
つたことも事実でありますが、しかしその後におきましても
就業規則並びに
労働協約に関する覚書をとりかわして爾後の問題に備えてお
つたのであります。そこで六月十一日双方の交渉は決裂いたし、
会社側は最初の
人員整理案であ
つた七百三十名を六百六十二名に変更、同日の午後三時ごろその解雇者名簿を労組側に手交したのであります。これに対し労組側は騒然となりまして、いろいろ
不法監禁その他の事実のあ
つたことも板垣所長代理の
説明とほぼ一致しておるのであります。なおこの爭議にあた
つて爭議團を工場から退去せしめた警察官側に三十三名くらい、爭議團に五十九名くらいの負傷者を出したのでありますが、傷の重い者で二人くらいが裂傷で全治二週間くらいであり、その他は些細な軽傷であ
つたということであります。中には日射病にかか
つた者もあり、疲労のために倒れた者も出ましたが、この事実が曲庇されまして、死者二名重軽傷者三百二十四名なお続々負傷者増加しつつありなどと、地方新聞あるいは爭議團の
宣傳文書等で誇大に
報告され、中央放送局におきましても死者一名重軽傷者三百二十四名と放送するに至
つたのはまことに遺憾だと見て参りました。次に船越
警察署、船越町役場について述べますが、船越町
警察署へ佐古田船越町長を迎えまして同時に両所の
事情を聽取いたしました。爭議團の一行は六月十一日、十四日、二十二日、七月十一日の四回ほど二百名ないし五百名くらいがデモを
行つて包囲圧力を加え、両所に対しまして種種な要求をなしております。六月十四日は約百五十名のデモ隊が
赤旗を押し立てまして船越
警察署に入場いたし、日鋼爭議に警察が介入しないように申入れをいたしました。また六月二十二日には船越町の小学校に約六百名くらい集合いたしまして、人民大会を開き、同町の木下次郎助役に対し約四時間ほどにわた
つて人民裁判的行爲が行われ、日鋼首切反対、主食掛賣要求等について町議会の決議を迫
つた事実がありますが、同助役は、心配のあまり当時町長が出張いたしておりました山口縣の出先に対して、町長あて至急帰町方打電したことさえ生じたのであります。また六月十六日にも、約六百名が同町役場を包囲いたしまして、うち約二百名により占拠された事実があります。かような爭議團の行爲に対しまして、町民は不安と恐怖のあまり、夜は電燈を消して外出を禁じ、不測の災厄を避けたというまことに慨嘆にたえない事実さえあ
つたのであります。
なお海田市町役場、海田市町
警察署、同地にあります
國警安藝地区
警察署につきましても
現場調査をいたしましたが、船越町と大体同樣なことが行われておりますので、この点につきましては省略したいと存じます。
次に呉市役所に参りましたが、同市役所は六月二十二日に同市にあります二河公園で呉
地区共産党主催で日鋼労組等を交えた約六百名くらいの人民大会が開かれまして、その決議文を呉
市長並びに呉市
会議長、同
議員に対してデモ交渉が行われたのであります。その
内容は後ほど
鈴木証人の
証言のときに詳細御
報告いたします。
なお同日には呉
警察署及び呉税務署に対しましても、人民大会の一行が圧力を加えた事実があります。
次に呉市にあります中國
軍政部に参り、例のダガー大尉を一行が訪問いたしましたところ、ダガー大尉は、日鋼
事件が議会において正しく
調査されていることを聞いて喜ばしく感謝にたえない、日鋼
事件は
日本の
法律を忠実に守
つたならば起きなか
つた。しかし労働者の一部の者は
法律を守ろうとしない、また守らない者があ
つたために起きたと、きわめて含みのある言葉で表現されましたが、これは最も注意すべき言葉であ
つたと思います。爭議の
内容については言明をされないようでありました。
次に廣島市役所に参りまして六月十八日に濱井
市長、上田廣島市警察局長、野口、波多野両
公安委員等四名が同市役所玄関で人民裁判的な難詰を爭議團により受けた事実につき、濱井
市長の案内で
現場調査を行いまして、さらに廣島市東
警察署が六月二十一日に爭議團のデモ隊により投石され、ガラスを破壞された現状につき
調査をいたしましたが、この両名に対しましては
証人として
証言を求めましたので、その模樣は後ほど申し上げたいと存じます。
次に廣島縣廳に参りまして、楠瀬知事より爭議團の縣廳に対する交渉あるいは抗議
内容について
説明を求めたのであります。この縣廳へ押しかけていろいろな要求や抗議をなしたのは、判明いたしている分でも六月十五日、同二十一日、二十九日、七月五日、六日等でありまして、デモで圧力を加えたというのは六月二十一日と七月六日であります。六月十五日には知事に対してなぜに退去要求を出したか、明らかに労働爭議の彈圧だと難詰いたしております。六月二十一日には例の市民
廣場で松江澄君が主催しました日鋼
事件眞相発表人民大会で決議された十二項目にわたる決議事項につきまして、楠瀬知事、國末隊長の弁明を求めるために約二千の大衆が縣廳
廣場に押しかけたのであります。そのときにちようど産別
議長の管道氏が出て参りまして
代表者で知事、隊長に会うことにしてはとのあつせんがあり、そのために
代表者と両者が知事室で会見が行われ、その席で
代表者より知事に対しまして、日鋼廣島の解雇者を含めた從業員全員が工場に入ることについて知事は生命を賭して努力するという
確約をさせられたのであります。また國末隊長に対しては負傷者に対して謝罪せよと強く食い下
つたのでありますが、同隊長はこれを退けたのであります。その日は雨が降
つておりまして夜八時過ぎとなり、大衆は帰宅に汲々としていたようでありますが、指導者
たちは帰宅をとめていたようであります。しかしいつの間にか人数は減少しまして、解散の時は約七百名くらいが残
つていたようであり、大衆も一部指導者によ
つてはなはだ困
つてお
つたという樣子も聞かれました。
次に
証人の
証言につきまして御
報告申し上げたいと存じます。
証人は廣島縣議会副
議長の檜山袖四郎氏ほか九名につきまして八月二十四日より廣島高等
檢察廳の講堂において
尋問たしました。
まず檜山
証人の
証言でありますが、
証人は
昭和二十三年十二月二十四日に、廣島縣議会副
議長に就任しておりまして、船越町に住んでおる人であります。
証人は日鋼爭議
事件が縣会に提案された状況を次のように
証言いたしました。
事件発生当時ちようど縣議会が開かれていましたので、縣
会議員の山崎實氏が日鋼爭議問題を取り上げまして、郷土産業防衛のために本問題は縣議会の決議として取り上げるように動議として
提出されたのであります。しかし賛成者わずか五、六名で否決された。否決の事由としては楠瀬知事の日鋼爭議に関しての縣議会に対してなされた
報告要旨によ
つて十分であり、その上賠償工場でもある関係上、縣議会が爭議問題に介入することは妥当でないというわけであります。
また
証人は
証人個人が日鋼爭議團の一行によりまして迫害をこうむ
つたことや、爭議の模樣を次のように述べております。六月十七日午後九時年ごろより同十時ごろの間に船越町にあります
証人の私宅に、
証人不在中日鋼爭議團の一行百名ないし百五十名くらいが
赤旗五本くらいを押し立て、インターを歌いながら押し寄せ、そのうち二名が
証人の妻に対して、主人を出せと迫
つた。しかし妻は主人が外出中でまだ帰宅しない旨を告げますと、その二人は一旦外へ出たが、一行のある者が、裏門から逃げるぞと言いましたので、前の二名は再び玄関に現われ、その後方にはさらに五名くらい続いて來て
証人の在否を確かめ、妻に対して警察官に爭議中炊出をしてや
つたのは何故か、明顯寺を警察官の休憩所に貸したと聞くが何ゆえに貸したか、インターの歌を聞いて何と思うかと諮問いたしたので、妻は歌の意味がわからないため尋ねたところ、一行は、首を切られて氣の毒とは思わぬかなどと言
つたことがあり、
証人の一家は爭議團の行爲に憤慨をした。
また
証人は日鋼爭議團の行爲によ
つて地方の不安を起した、九月あるいは十一月には人民政府ができる、
赤旗やインターの歌は近い將來に全國の津々浦々まで響き渡ると爭議團のある者は言
つていた。町ではとりどりの
うわさがたてられている。爭議中に虐殺三名を出したと
宣傳したが、その状況はけが人を死人に裝
つてむしろを覆
つて担架に乘せて運んでいたのが事実で、目撃者のある新聞記者が話していた。爭議の初めは爭議團に同情もあ
つたが爭議の惡辣さに世人から次第に反感を受けるようになり、同情はま
つたくなくな
つた。日鋼爭議の爭議團は郷土産業防衛等と言
つているが、その実は産業の破壞であ
つた。警察が弱体で社会不安を一層増大した。
証人の私宅は廣島縣民自党支部の標札を出してあるためか、爭議團によ
つて大ガラス、小ガラス各一枚ずつ破壞された。
証人は爭議の終るまで身の危險を感じて帰宅できなか
つた。船越町長の私宅も爭議團によ
つて二度ほどデモをかけられたと言
つております。
次に
鈴木証人についてでありますが、
鈴木証人は昨年九月一日日鋼廣島製作所の
総務部長に就任しており、
本件爭議につきましては重要な地位にある人であります。その
証言は根垣所長代理が本
委員会で述べました
証言とほとんど同樣でありますので省略いたします。ただこのうち呉
軍政部のダガー大尉の命令について述べたことだけを
報告いたします。六月十二日午後十時ころ当時板垣所長代理以下が監禁され、いわゆる人民裁判的に
尋問されていたころ、進駐軍が二名ほどジープで参りまして、爭議團によ
つて張られていたピケを解けと林
組合長に言われたが、爭議團はこれを解かなか
つた。このピケは工場幹部の禁足と爭議
議員中の逃げを阻止するためと、警察官の來所等に備えて張られたことを述べました。また六月十三日午前零時ころには
日本共産党何々と名乘りをあげて十名くらいが無許可入場して來たこと、その前後であ
つたが、林
組合長がただいま学生一名が警察官に逮捕されたとうその
報告をしたことも語りました。また六月初めころから部外者が日鋼爭議の指導にしきりに出入して、そのころから爭議は漸次惡化して來た。ことに
東京より全金労組の坂木某が來廣して爭議の指導にあた
つていた。六月十三日、十四日には部外者が多数無許可で工場内に入場した。十四日には
共産党の
田中堯平代議士が入場して激励
演説をしたと述べております。特に爭議の惡質を思わせるものに次のような
証言がありました。日鋼廣島の
鍛冶工場長をしている影山正三君の家庭になされた爭議團の行爲がそれであります。影山君の家庭は船越町西七百七十七番地の社宅で、家族は妻郁子三十八歳、長女央子五歳、二男正矩二歳の四人家庭でありますが、同人は爭議のため
会社に籠城いたしまして帰えることがなく、自宅では妻子が心配と不安の中で生活していたのでありますが、六月十五日前後の夜、晝爭議團の一行がその影山君の私宅を訪れ、罵詈雜言を浴せた上、生へびや死んだへびを投げ込んで妻子を極度の不安に陷し入れ、夜はのぞき込みをやる。子供らはこわくて外で遊べない。また附近の店に対しては影山君の家庭に物を賣るなと強要する。もし賣
つた場合には、その店に圧力をかける、かようなことが毎日のように繰返されましたので、五歳になる央子さんは人を見ると爭議團と思いまして恐れる。午後の五時、六時となるとこの子供は母に対して早く戸を締めてとせがむ。妻はこのために強度の狹心症に罹りまして、遂に廣島の日赤病院に入院いたし、目下入院加療中とのことであります。まことにかかる非人道的な行爲が平氣でなされたことをわれわれ一同は眉をひそめて
証言を受けたのであります。
次に林
証人について述べますが、林
証人は昨年十一月ごろ全
日本金属労働
組合廣島支部日鋼分会の
組合長をいたしておりますが、爭議については
労働協約が本年五月四日期間満了とな
つたので、新協約について
会社側と折衝した。しかし新協約は解雇について
会社の一方的にきめる條項があ
つたのでまとまらなか
つた。六月二日七百三十名の首切り案が
会社より出されたので、労組側としてはこれに反対してミシン五百台の増産案を出して、首切り案の撤回を申し入れた。六月十一日に
会社は六百六十二名の
人員整理を発表して、その解雇者名簿を労組側に手交して來たので、
組合大会の決議によ
つてこれを同日松岡人事、大久保秘書の両課長に返し、その預書をと
つた。その日の松岡、大久保に対する労組側の行爲については目下
証人は刑事被告人であるので
証言を拒んだのであります。六月十三日午前十時過ぎごろムレー課長、林
証人、板垣、三好、船越
警察署長立会の上、ダガー大尉より林
証人に対して「部外者が入
つている、出さなければならない、出すように」という口頭命令があ
つたので、爭議團に対して電話でその旨とりついだが出ないものもあ
つたと思う。六月十四日は
会社が工場閉鎖をや
つたので、生産管理の目的で入
つた、適法な行爲と思う。同日午前に十五分の時間を限
つてダガー大尉より爭議團全員に対し、工場より退去の口頭命令があ
つたので、マイクを通して傳達した。爭議團は一月退去したが、再び入場した。ダガー大尉の口頭命令に対して文章での命令を求めたが拒否され、本爭議に限らず爭議は経済鬪爭と政治鬪爭はつきものである。かような全國的鬪爭は望ましい。本爭議は吉田内閣打倒のために
行つた。産別から直接指導は受けぬが、産別の鬪爭方針にのつと
つて鬪爭した。参加した團体は廣船、三原、
國鉄、
全逓等で、地区労働協議会傘下の團体であ
つた。爭議費用は各團体の應援が二百万円くらいあり、
組合の持分五十万円くらいで、その合計が二百五十万
程度で、残金が五十万円くらいあると
証言いたしました。
次に黒神
証人について述べます。
証人は昨年八月ごろ日鋼廣島製作所の工員として入社したのでありますが、元
共産党廣島地区
委員長の前歴があるにもかかわらず、入社の際は復員者で農業に從事していたと履歴書をしたため入社しています。
証人は日鋼細胞の
責任者であることを認めており、六月十一日の
不法監禁については忘れたと言う。八月
人民政府樹立の件は否認しました。六月十四日ダガー大尉の退去命令について命令の
内容に疑義ありと言
つたことは認めましたが、退去後工場内にもど
つて來たことは否認いたしました。また同月
証人は板垣所長代理が池の島より
事務所へもどる際これを妨害した事実についても否認いたしました。そこで
現場をと
つた写眞を示しましたが、なお否認いたしました。しかし後ほど証拠として出した
そのものとその写眞
そのものと同一であ
つたことが確かめられたのであります。
次に植田
証人について述べます。
証人は日鋼廣島製作所に十年以上勤続してゐる工員であります。昨年四月より今年九月まで日鋼労組の執行
委員をや
つた経歴があり、今回新たに結成された労組の
書記長をや
つていたのであります。
証人の
証言によりますと、六月十一日、十二日に行われた爭議團の暴行、暴言あるいは毆打、
不法監禁の事実が確認されました。また爭議團員は鬪爭
委員の許可がなければ、いかなる事由がありましても帰宅は許されなか
つた、
証人の実兄が重病だ
つたので帰宅を申し出たが、青年行動隊のために阻止された、爭議は
組合員の忠実な
意見を無視し、ある一部の指導者によ
つて行われたため、今回の爭議は労資双方のためにまことに不幸であ
つた、爭議中惡質な行爲が爭議團によ
つてなされたので、
組合員の心ある者はこの爭議より離反するようになり、六月十三日夜ごろから労働者間に日鋼を再建するための会が生れ、労資協調的で事業を再開するように運ばれて來た、そのため新労組が結成されて、ただいまでは一千百令名に達している、労働者は今回の爭議について相当な反省がなされている、結局爭議をや
つてばかを見たのはわれわれである。と述懐しております。
次に原田
証人について述べます。
証人は
昭和三十一年六月ごろより、
東京の有馬忠三郎
事務所で弁護士試補をおえ、その後呉市に
事務所を置き、自由法曹團中國支部に加盟いたし、弁護士を営んでおりまして、
共産党廣島
委員会の
委員をや
つておる者であります。
証人は本年五月末ごろから、日鋼廣島の爭議について同労組の相談を受け、その
法律顧問的役割をしていた事実を認めており、日鋼廣島製作所が賠償工場である事実も認めております。六月十一日より爭議團側がストライキに入
つた事実については、
証人は否認いたしました。六月十四日には
証人は工場内に入
つておりますが、許可なく入
つたので、
証人は入場の際人をかきわけるようにして入
つた、但し労組の許可があれば入場はさしつかえないと言
つております。六月十四日午後五時から六時の間に、
共産党廣島縣
委員長徳毛宜策の依頼によ
つて、
証人は爭議團幹部若干名とともに
國警縣本部、市警察局、東
警察署に参り、爭議の円満解決のために警察の不介入を申し入れた、その際警察では爭議團が工場から退去することの進駐軍の命令あるいは勧告は出ていないと言うたように感じた、六月十五日になされた廣島縣知事の爭議團に対する退去要求は、明らかに労働爭議に対する不当彈圧である、いかなる場合でも、労働爭議に関する限り警察の
実力行使は爭議彈圧である。たとい労働爭議によ
つて違法行爲がなされていたとしても、殺人等重大
犯罪でない限り、現行犯として取締るべきでない、違法行爲があ
つた場合は、後日非現行犯として取調べるべきだと述べております。また
昭和二十一年三月ごろ、大阪の大和工業という賠償工場が労組により生産管理をなされた事実を取上げて、今回の爭議も生産管理をやればよか
つた、生産管理は適法行爲で、違法性を認めない、また爭議團に対して出された進駐軍の命令に対しても、
日本政府を通じてなさるべきもので、命令ではない、と否認いたしました。また
証人は、日鋼爭議は労働爭議としては取扱わない、地域労働戰線として取扱う、政治鬪爭として取扱う、産業防衛鬪爭としてこの鬪爭を強化する、権力打倒のために取扱う、大衆掌握と党政策浸透のために取扱うということは、
共産党が本年二月よりなされている鬪爭方針であることを認めました。
結局原田
証人の
証言を要約いたしますと、爭議行爲は
法律を無視してなされても、違法性を阻却するとの
証言に盡きたのであります。
次に濱井
証人についてでありますが、
証人は
昭和二十三年四月五日、公選
市長として廣島
市長に就任しています。六月十八日に行われた日鋼爭議
眞相発表の人民大会において、決議されました決議文に基きまして、デモの大衆が
証人になされた模樣を次のように述べております。
証人が
市長室におりますと、人民大会を指導した幹部若干名が入
つて参りまして、「大勢入ると混雜するから、
市長は玄関まで出て、大衆に話してもらいたい」と
申出があり、その幹部に案内されて市役所玄関に出ますと、大衆的二十名が玄関に詰めかけ、そこにはすでに上田市警局、長野口、波多野両
公安委員が大衆に包囲されていた、
証人は上田市警局長らの所に出されたが、その脇には共鬪
委員長の松江澄君らの幹部がお
つて、大衆を指導していた、その幹部のある者が「
市長は忙しいから先にする」と言
つて決議文を読んで、最初に
訊問を受けた、その
内容は十二項目で、先日ここで
証言を得た
通りであります事。
なおこの大会は市議会に働きかけて、六月二十一日に市
会議員松本清(無所属)佐々原計(革新派)の両
議員より、爭議の円満解決についてと題して発議があり、市
会議、長はこの発議に基き
市長に申入があ
つたので、
証人は知事に対して発議書の趣旨を申し入れた。デモに対しては相当の威圧を感じたと
証言いたしました。
次に
鈴木術
証人について述べます。
証人は
昭和二十三年四月五日、公選
市長として呉市の
市長に就任しております。六月二十二日に呉市の二河公園で、
共産党指導のもとに行われた人民大会が、その終了後呉市役所、呉
市警察署、呉税務署に対してデモ交渉が行われたのでありますが、呉市役所になされた模樣を次の
通り述べました。当日はちようどデラ台風によりまして廣町に犠牲者があり、その死者に対して呉市葬を当日の午後一時より廣町で営むことにな
つておりまして、
市長、助役、市議
会議長、副
議長、各市
会議員らが市役所よりバスで葬儀場へ出発するところであ
つた、デモ大衆の約三百名は
赤旗を押し立て市役所に参り、市役所の廊下を一巡デモ行進をした後、指導者の自由法曹團の原田、椢原、高橋の弁護士及びその他の幹部数人が指導して、
市長らを包囲して、約一時間くらいにわた
つて、市に対して
主食掛費、日鋼從業員解雇反対、公安條令反対等を申し入れ、市議会を開いてこれに対する決議を要求された、
証人らは市葬もあることであり、やむなく六月二十四日午後一時に市議会協議会を関催することを
確約した。六月二十四日には、右の
確約に基いて協議会を開いたが、開会前にすでに市役所前
廣場で、原田香留夫弁護士指導のもとに、大衆的五、六百名が人民大会を開いて氣勢をあげていた、協議会を開会するや、この大衆は
赤旗を押立て、傍聽席になだれ込み、
赤旗を議場につるして、傍聽席はこの大衆で超満員とな
つたが、CICの係官が來ていたためか平穩であ
つた、
赤旗については
議長より注意を受けたので、穩やかに巻いて傍聽していた、二十二、二十四日ともに大衆の威力によ
つて相当な圧迫を感じた、ことに二十二日は閉口したと述べ、協議会決議に基き、
証人は縣知事及び日鋼廣島工場に対して、
市長名で要望書を
提出したと
証言いたしました。
次に瑞木
証人について述べます。
証人は
國警廣島本部刑事部長兼捜査課長より、本年三月七日廣島市警察局東
警察署長に就任したのであります。
証人は日鋼爭議について次の樣に述べております。六月十四日早朝、午前六時より七時の間と思いますが、船越
警察署長より電話連絡がありまして、「本月十一日以後、日鋼爭議は労資双方に複雜な状況が継続している、また工場は閉鎖されておるから、警備上いかなることが起るかもしれぬ。警備と情報收集を兼ねて職員二、三名を派遣してもらいたい。」と申し出があ
つた、日鋼工場は一部東
警察署の管轄区域にあるので、私服をまじえて三名派遣した、すると午前十時三十分ごろ再び船越
警察署長より「呉
軍政部将校から、不法に爭議に干與はせぬが、工場は爭議團によ
つて占拠されている、英濠軍作戰部隊を出動せしむるから、同部隊の應援のために警察官二十五名ずつ三隊、うち一隊は待機せしめ、一隊はただちに出動するようとの電話があ
つた。
証人は署僚石光警部を伴い、警察官二十五名を引率して
現場に出動したが、
現場では爭議團の警戒線に阻止されて入場ができなか
つた。そこで
証人と石光警部は、共鬪
委員長松江澄君に名刺を渡して入場できたが、隊員は外に置いた。入場すると、ダガー大尉に会い、警察官の一隊は爭議團の阻止にあい入場のできなか
つたことを
説明して、了解を得た。
すると、ダガー大尉より、爭議團に対して退却事命令を出したが阻止された、
軍政部査長の許可ある者以外は警察官の事
実力行使により工場より退去せしめよ、その際
犯罪があ
つた場合は檢挙せよ等の命令が、
証人及び三好船越
警察署長になされた。そこで
証人は、
組合幹部に対して、退去について説得したが、受入れられなか
つた。午後二時過ぎごろ、工場
事務所二階の階段のつき当りの場所で、つまり踊り場で、ダガー大尉、ムレー労働課長、オグニレン憲兵隊長、通訳及び
田中市警備課長、石光警部及び
証人、それに松江澄、
組合の西村執行
委員等
組合幹部十七名ぐらいがいた。その中に中下、林
組合長もいたように思
つた。右の人々の面前で、ダガー大尉は、松江等爭議團幹部に向き直
つて、命令を傳達すると言いまして、爭議團の退去命令を出した。タガー大尉はさらにあらためて
証人等に対して、
警察署長はすみやかに爭議團を退去せしむるようとの命令を出した。そのとき松江君は、われわれに賠償工場を阻害しているのではない、増産に盡力しているのだ、自分からはまた退去について命令書を受取
つていないと言
つた。タガー大尉は、口頭命令でけつこうだ、
署長の
意見いかんと問われたので、
証人は、軍の命令なればいたし方ない、命令
通り執行するほかはないと答えた。命令があ
つた後、
証人は、爭議團が自主的に退去するように再三慫慂したが、爭議團は承諾の意思表示がなか
つた。ダガー大尉一行は、一部を残して午後六時ごろ工場を引上げた。
証人は午後九時ごろ、單身では危險を感じたので、ジープに乘せられて帰
つた。爭議團の退去については、警察の
実力行使によるほか道はなか
つた。松江君に対して、ダガー大尉の命令は、はつきりなされたことを
証人は確認いたしました。警察の
実力行使は、あくまで爭議自体に対しては不介入の方針をとり、ただ軍の命令執行と爭議團の不法行爲に対してのみ
実力を行使したに過ぎぬ。また爭議團に対して故意に
傷害を加えた事実はない。警棒の使用は警察官武器使用規定に基き携行使用したと
証言いたしました。また六月二十一日の人民大会は、基町市民
廣場で、約二千余の大衆で、午前十一時ごろから開かれ、この集会については西
警察署へ届がなされてあるように聞いている。この大衆は午後零時ごろから、
赤旗等大旗を押し立て、プラカードを携えて、労働歌、インター等を高唱しながらデモ行進により東進して縣廳に向う途中、東
警察署の手前よりジクザク行進に移り、
警察署の裏手から表にまわ
つて、東署に対し何回となく波状デモで圧力をかけ、警察の不当彈圧等、罵詈雜言を浴せて行進を続けていたが、デモ隊の中央部が過ぎ去
つたころ、その中の朝鮮連盟の一團が、附近の燒跡等にあ
つた煉瓦の破片等を拾い、
警察署の表玄関の石段にかわるかわるかけ上り、投石して、ガラス八枚を破壞された。そのとき大衆の指導者松江澄等幹部若干名は、
警察署の玄関石段の上にいて、あたかも暴行をとめるようなかつこうをしていたが、とめる樣子もなか
つた。
証人は裏門にまわ
つて調べようとしたが、裏門は大衆によ
つて外に出ることはできなか
つた。大衆は殺氣立
つていたので、暴行者を逮捕するために警察官を飛び込ませることは、かえ
つて事態を惡化させる懸念が濃厚であ
つたので、そのまま成行きにまかせていた。煉瓦等四個は、証拠のために領置してあるが、いまだ犯人は檢挙に至
つていない。捜査ははなはだ困難であると
証言いたしました。
次に、伊藤
証人の
証言についてでありますが、伊藤不二夫
証人は、
昭和十二年より工員として日鋼廣島工場に入社いたしまして、今回の爭議については青年行動隊員とな
つております。
証人は、青年行動隊の任務は知らぬが、ピケツトは張
つた。八月革命や
人民政府樹立については言
つた覚えはないと否認しております。八月革命については、前に本
委員会におきまして、金子
証人より、伊藤不二夫君がはつきり
宣傳していたと
証言していたのであります。
人民政府樹立については言
つたことはないが、吉田内閣を倒して、人民政府ができなければならぬと思う、
共産党機関紙アカハタ等にもはつきり書かれてあり、人民政府ができることは好ましいことであると
証言したのであります。
以上が
現地調査報告の
概要でありますが、われわれ
委員が本
調査によ
つて感じたことは、本爭議が、前に
証人が述べてあります
通り、一部の指導者によ
つて無
責任な指導のもとに爭議が行われ、労働者も企業家も、はたまた附近住民までが、まことに迷惑をこうむ
つた労働爭議であ
つたことの感を深くし、同時にまた、爭議の手段として、まれに見る人道に反した行爲がなされ、
法律を無視して、秩序の破壊と社会不安を引起したことを痛感いたしたのであります。大体
現地報告にかえます。