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菅家證人 六月二十八日の朝午前十時朝鮮民主青年同盟石城支部湯本分会の朴重根という者が、きのう平に
應援に
行つたことについて
署長に面会していろいろ聞きたいことがあるから行くという電話がありました。それでそうかと言うて待
つておりました。午後の三時に行くという電話でしたが、三時より遅れまして、三時五十分ごろ今申し上げました朴重根、共産党石城支部
委員長鈴木光雄ほか一名の者、三名が参りました。そうして
署長にいろいろ聞くというので
署長室で面会しました。そうして鈴木光雄君が、
署長は湯本町の
警察なんだから、湯本町の治安を守
つていたらよかろう、どうして平の
應援に
行つたか、こういう質問がありました。いやそれはわれわれ
警察は、相互
應援協助規定によ
つて事件地の
警察署長から
應援せいと言われれば、
應援に行くことにな
つておる、そのために
應援に行
つたのだ。それはいいとしてもわれわれ
労働運動を
彈圧している。それはどういうわけだ。絶対今後
労働運動を
彈圧しないという約束をしろ、こういうわけです。それで私は正しい
労働爭議には何ら
干渉しておらない。万一不法行為があればわれわれは取締りをする。こういうような返事をしました。二、三問答しておるうちに続々あとから三人、五人と入
つて來まして、
署長室が約二十五、六人で一ぱいになりましたが、そのうち朝鮮民主青年同盟石城支部長金明福というものが來まして、君はわれわれの方に
應援なんかよこしてわれわれの
労働爭議を
彈圧した、謝罪文を書け、こういうようなことを言いました。私は何もそんなに
彈圧するというようなことをしたことはない、謝罪文などを書くわけに行かない、そういう筋合いではない、こう申しました。そうこうしているうちに共産党党員であり、隣りの内郷町町
会議員の熊田豊治君が参りまして、ぼくは熊田だ、君はけさ磐崎村の長倉に火事があ
つたところに
應援に
行つたか。こういう話でした。いや、私は別に
應援の請求もなか
つたし、本廳の消防團が警鐘も鳴らしておらない、それで
應援には行かない。こう言いました。そうすると熊田君は、君らは火事や何かは取締りをしないで、われわれの
労働爭議を
彈圧するか、こういうわけでありました。私は
労働爭議なんかは
彈圧しておらぬ、火事については別に必要性がなか
つたから行かなか
つただけだ、こういう返事をしました。そのうちにおいでにな
つた鉄道員の吉田正夫君らが
大分喧騒して來まして、君はわれわれが納めた税金で飼
つておるのに、何で
労働爭議なんかの取締りをするのだ、貴様みたいな
署長は不適格だからやめろ、罷免すると言いました。私は君たちに言われた
つて、やめるわけに行かぬ、私は私で信ずる職務を行使するのだというように應答をしておりました。その間二十数名がおりまして、いろいろなことを喧々囂々と質問しましたり、いろいろな應答をしておりましたが、そのうちに次席の山形警部補が來て二、三問答しておりました。そうした押問答を約一時間二十分くらいや
つておりますと、その途中から表の方でわいわい騒いで歌などを歌うやかましい音が聞えて來た。そこでこれは
相当大勢來たな、とこう思
つておりました。そのうち表へ出ろ、何だ
署長室の中にばかりおる、という怒号が聞えて、
大分やかましくな
つて來たのです。それでこれはうつかり中にいると建物なんかこわされてしまうかもしれぬ、こういうようなことでは困る、というようなわけで、みんなが表に出ろというならば表に出よう、表で問答をやろう、こう言
つたら、鈴木光雄君らもそれはよかろう、というわけで、表に出たわけであります。そして署の前に出ますと、約百五、六十人がおりまして、赤旗を振りまわして、歌を歌
つたり騒いだりしてお
つた。私は署の
玄関のコンクリートの二段ばかり
階段にな
つておるところに上りまして、そこに出ますと、朴重根と鈴木光雄君、熊田君が、主宰しまして、これから職長が諸君の一問一答に答えるから何でも質問しろ、こういうことにな
つたのであります。それでその群集からいろいろ質問が出たのですが、一度にわあわあと質問が出て、何を返事をしたらいいか私にはわからなか
つた。それで鈴木光雄君に、こう喧騒してお
つたのではどれに答弁していいかわからぬから、一つにまとめて君たちが統制しないかと、こう言
つたのであります。もつともだというわけで、鈴木君わがいろいろ統制して、君の質問、
署長がこれに答えろ、こういうようなことにな
つたのです。それでおもなる点は、
労働爭議を
彈圧しないことを約束しろ、あるいは証文を書け、平に
應援に行
つたのはどういうわけだ、あるいは
警察はやみ屋と結託して金もうけをしている。不正だ、君らみたようなのはわれわれが飼
つておるのだから泥棒の取締りでもしておればよいのに何で平に
行つたというようなことや、それから隣の町の矢郷炭坑の
爭議にたまたま病死した人があ
つたように聞いておりますが、この者は結局君らが
彈圧して殺したのだ。これは死んだ人の細君だとい
つて、四十くらいに見える細君をつれて私の前に來まして、この人に謝罪しろ、こういうような話がありました。さらにまた五月の二十幾日と思いましたが、
警察署ができまして落成式があ
つたのですが、その落成式に出て酒を飲んだ者の名前を言え、
内容を述べろ、こういうような質問があ
つたのでありまして私は、正しい
爭議については何ら
彈圧をしない。矢郷の
爭議で死んだ人に謝罪をしろということについては、
警察が謝罪をする筋とは思
つておらぬ。私としては
警察を
代表すする地位にお
つて謝罪することはできない。それからこの
警察署落成式で宴会をや
つたのは町長主催でや
つたので、私がほしいままに公表したりするわけにいかない、こういうような返事をしたのであります。そうしますと、矢郷
爭議については、
爭議で死んだ者に対して謝罪ができなければ、個人として見舞をしろということを執拗に迫
つたわけであります。見舞というものは本人が自発的にするものであ
つて、いわゆる礼儀によ
つてやるものであ
つて、人に強制されて見舞をしたりする筋合のものではない、というような問答を重ねてお
つたのであります。それで三時五十分ごろから最初一時間二十分くらい署内でやりまして、その後に署前に出まして、何でも五時から五時四十五分に時計を見た記憶がありますが、そのころまでそういう問答をや
つてお
つたのであります。そのとき赤旗を立てて、インターナシヨナルを歌
つて、直ぐ前の郵便局の方から十五、六人スクラムを組んで二組ばかり來て、その群集に加わ
つたのであります。そのうちに鈴木光雄君が、私の最初に話した話といろいろ違う宣傳を始めたのであります。それで、何だそういう私の言わないことを君らがうそを言
つて宣傳するのでは、私は問答に應ずるわけにはいかない、お断りする、こう言うたのであります。そうすると鈴木君や朴重根らが、いや、それではそういうことは言わないから、もう少し問答をしろ、こういうような話にな
つた。そこでそれではいま十五分、六時まで問答をやるというわけで、六時まで押問答をしておりまして、それでもう約束の時間も來たし、これ以上押問答をしていてもしかたがないから僕はやめる、こう言うて中に
入ろうとしたところが、ピケツトを組んで、何だ
署長逃げるのか、太い野郎だ、貴様の答弁はのらりくらりしていてさつぱりわからぬ、貴様みたいなのは罷免する、こういうような話をしてお
つたので、そういうようなことは君らが君らで適当にやるのだから、私は問答を打切
つて中に入ると言
つたところが、うしろの方にピケツトを組んで、ずつと私が署内に入る自由を押し止めた。何だ君らは、そういうことをしてはいけないじやないか。私は中に入る、ということで、そこで押合いにな
つた。しばらく押合いしておるうちに、新妻という刑事が、
署長がやられると思
つたのか、飛び出して來て、その押合いを解除するために努力したのですが、それまでが群集に、スクラムを組んで向うの方につれて行かれました。そのときは私は打つなぐるということは受けませんで、しばらく押合いをや
つておるうちに、鈴木光雄君が、もう時間も
大分迫
つたし、これ以上押問答していてもしかたがないから、また來ることにして、きようは解散しよう、こういうことにな
つて、その押合い状態が解除されたのであります。それで私は
相当長く押問答して疲れたので、自分の部屋に入
つて一服してお
つたのであります。そうしますと、署の前で赤旗を振
つて歌を歌いまして、しばらく氣勢を上げて、それから
大分帰る者は
帰り、残る者は残
つて、約三、四十名の者が署の前で何か
演説をしてお
つたのでありますが、
演説の
内容は、私聞いておりませんのでわかりません。そしてしばらく十分ばかり休んで、まあ大したこともなかろう、あと
署員に警戒したら、よかろうというようなことを言うて、六時半ごろにな
つたので、私は退廰したのであります。私が表へ出るときに、朴重根君が電話の交換機を監視しているということを
一緒に來た連中に命じておりましたので、何だ新井君
——朴のことをわれわれは新井君々々々と言うておるのですが、新井君そういうことをしてはいかぬじやないか。
警察の電話はわれわれが監視してわれわれが使用するのだから、君たちがそんなふうに勝手に監視してはいけないと制止して、
署員に君たち見ておれと言うて、表へ出たのであります。大体六月二十八日はそんなことであります。