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山田證人 上棚部落というところは大体山が四百町歩あまり、それから田地が百三町歩
台帳面にある
部落なんです。それを生活の基盤として立
つておる
部落なんです。その山林、田地というものは二十五名からなる議員様
——要するに
地主、そういう方々によ
つて大半が占められ、そうして
部落の政治一切はその方々に専断されておつたわけです。そうして村の人なんかの話を聞きますと、年に一度の初寄合というのは旧の正月、要するに二月ですね。こういうときに初寄合というのをやりますが、そのときに
小作人というものはどういうみじめな生活をしておつたかということになるのですが、その初寄合のときなんかにも二十五人の議員様の方はぶりを切り、ぶりをさしみにし、焼物にし、にわとりをつぶし、二枚脚の高いお膳を奥座敷に並べられて、二十五人の議員様が座ぶとんをしいてそうして酒盛りをやられるのですが、その反面
小作人はどうかと言えば、これは勝手の方の隅の方で小ちやくな
つて、にしんのいりつけをはしでつまんで手にのせて、そして冷や酒でコップに一ぱいいただいて、その
部落常会の初寄合というのを終るというような状態だ
つたのです。その話においてまたこういうことがあるのですが、
小作人の方からどうせ飲む酒だから、冷や酒ではまずいから、燗をさして飲ましてくれ、燗をするからそれを許してくれと言つたところが、貧乏人に何がわかる、こういうぐあいに非常なおぞい目にあわされた人もおるそうです。それから
上棚村の一番の
地主というのが徳山武雄さんという方ですが、この人なんかの家に入るときにも非常な封建的な礼儀作法がありまして、城みたいな塀がきをめぐらしてある。その塀がきの角をまが
つて、まだ玄関までに相当の開きかあるのですが、角をまがつたときに手ぬぐいをかぶ
つておつたら手ぬぐいをと
つて腰に下げ、笠をかぶ
つておつたら笠を脱ぎ、身を正して入
つて行かなかつたらいかぬ。それも玄関から入
つて行けぬ。便所の横に細い通路があります。それから入
つて行かなかつたら大目玉を食うというような、礼儀と言うか、何と言うか、封建的なそういう
部落だ
つたのです。これ以上のことを私はどう説明申し上げてよいか、いろんなことも聞いておりますが、この話はこのくらいにして、戰爭中私はおらなか
つたのですが、終戰後
帰つて來て、話に聞いてみたところが、まだその専制政治というものを利用して、そうして自分の山を背景にするところの森林組合というものは、徳山氏が組合の長にな
つておられる。その下には某という専務
理事がおられる。その某という専務
理事が大体その森林組合の実権を握
つておられた。それについて、その森林組合の仕事に貧乏人が行かぬと、すぐさま徴用にやられたという者も八名だつたか九名だつたかおりますが、そういうような暴政を戰爭中においてしかれてお
つたのです。それで私は終戰の年の九月の一日に復員して帰りまして、そうして村の状態を眺めますと、非常にみじめな陰惨な生活、そうしてその年のいつだつたか。ある
小作人が、徳山氏に、お前の屋敷はそれはだれの屋敷だと言われた。何か氣にいらぬことをしたのでしよう、だれの屋敷だと指さされることは置いてやらぬという反語を言われると同じ意味になるのだと私は解釈してお
つたのですが、そうしておるうちに、二十一年の最初の衆議院の選挙があ
つたのです。そのときに私は某という専務
理事のところに呼ばれまして、酒をよばれました。そうしてあとからいわく、某
代議士の選挙運動をしてくれぬか。こう言われたのです。私はまつぴらですと断わりました。その某という専務
理事はたしか民主党系であつたかと思います。そうしておるうちに第一次の農地改革とかいうようなものが、何か
うわさに上つた。そのときにまた呼ばれまして、今度の
農地委員の配分はこういうふうにやろうじやないか。
土地の改革はこういうふうにやろうじやないか、こういう相談を受けました。それも私のふに落ちませんために断わつた。だが今度いろいろなことで私をまた巻き込みにかか
つたのですが、私は正義に対してまた
耕作農民に対してどうしてもその協議に臨むことができず、良心から訴えて協議に乗ることができず、そうこうしておる間に二次改革でない前の農地
調整法の解説がありました。それは縣から何と言われましたか
記憶はありませんが、役人が一人と縣の
農業会から一人來て、その農地
調整法を解説していただきました。そのときに実際はそういうものであるか。農地
調整法というものはそういうものであるかとそのときに初めて農地
調整法の
内容を実感したのであります。そして今まで聞いておつた話と非常に違う。それでうちの
部落はこういうような状態だと縣の方に言つたら、それは
農民組合をつく
つて大いにやれ。こういうような激励を受けましてその帰りに多数でこれは
農民組合をひとつつくろうじやないか。そのときに発起人会というものをつくりまして、準備
委員会、そして結成したのはたしかに五月五日だつたと思
つております。そして
農民組合を結成するや、
地主の方々は
地主組合をつくられた。そうしてわれわれに申すには、今まで山林にたき木の仕入れに行くのはのこぎり以外は持
つて入
つてたき木にしてたいてもよろしい。こういうぐあいにな
つておつた慣例を、山に一切入ることはできない。そうして冠婚葬祭にも出入りをするな。それから森林組合の人夫にも使わない。こういうようなことを
地主組合の方から
農民組合として直接組合に言渡しては來なか
つたのですが、組合の大半の人がそういうことを
地主の方から言われておるのです。
それから除名の問題に入
つて行きますが、そうしているうちに、やはりそのときに
部落として農電を入れようじやないか。大体
部落の有志、ところどころにその話がきま
つておりました。それも
地主組合をつくられてから、この自分の
土地は電柱も立てさせられぬ、電線も通させられぬという。私としてはそういうみつともない話はまずいから、どうです、星澤氏にあなたも組合員だし、
大石幸一というのも組合員だし、またそのときの
地主の徳山さん、大
地主のこの人も仲よくや
つて行こうじやないか、こういうように話をまとめまして、そこに電気工事、農電を入れたわけです。その農電を入れるときの話としては……(「農電というのは
農業電氣か」と呼ぶ者あり)そうです。そのときに事業の分担としては、
大石の方は電氣工事、変圧器からいろいろな方の仕事をや
つてくれ、徳山氏、
星澤權次郎氏はほかの方をやる。そうしてできたところで清算して協同でやる、こういうことにな
つておりました。それをさつき申しました
一筆調査、それを
申告しない。それを今度その
大石幸一というのが
事務に携
つておつた。そのために今度そのまま、昔格下であつたものを上げたから、このうらみとして電氣にまぜない、まぜないという意味……。