○
証人(窪谷朝之君) はあ。私が松下氏と知合にな
つたのは
昭和十二年頃のことで、
東京地方
檢事局指導部長時代に、
同僚の
岸本檢事から紹介されたのであります。同人とはその後一年を通して四、五回くらいいつも
檢事局で面会しました。松下氏は旧政友会の院外團員であ
つて、いわゆる右翼の属し、童顔で元氣旺盛、明朗闊達、相当雄弁でありましたし、殊に政界の
動きに関する斬新な情報を齎らす面白い
人物と思
つておりました。それ故いつも面会を求められたその都度、拒むことなく面接したのであります。
昭和十八年秋、私が横浜の上席
檢事に轉任しましてから、同氏は横浜へは來ませんでしたが、
昭和十一年三月私が大審院
檢事にな
つて、上京してから、再び役所に面接しに來ました。その回数も三ヶ月に一回ぐらいの
程度でありました。以上約十年の間、同人は私に対して二、三件の外は、一般刑事
事件について陳情方を依頼することもなか
つたので、感心な
人物だと思
つておりました。却
つてその都度、政界のニュースを私に知らして呉れるので、重宝な男として交際しました。宣その間他から別に惡評を聞かなか
つたので、安心して交際しました。併し彼とはその間一度も酒席を共にしておりませんし、私宅へ訪れて來たこともありませんでした。ところが、本年三月頃から私の自宅を訪問するようになりました。その動機は、松下氏が私と役所で話しているときに、同人から
家族に変りはないかと尋ねられたので、私は妻が三年越し脊髄カリエスで寢込んでおると言いますと、同人は
自分の
家内は長女を生んでから三十年間心臓が惡くて殆んど寢ているという話がありました。そこで私は、それでは
自分の妻はまだ一年生だねと冗談を言うと、それでは一度病氣見舞に伺いましよう、こう言
つたのであります。その後間もなく、私の出勤しておる間に、同人が
留守宅を鯉を一尾持
つて病氣見舞に來たのであります。そのとき娘が玄関に出ると、「權八です」と大きな声で言うので、魚屋と間違えたというぐらいで、愉快な男だと
家族も感じて、好感を持
つてこれを迎え、当日はまあ雨天で、わざわざ五反田から自轉車で濡れて來たというような
状態であ
つたので、氣の毒に思
つて、玄関先でウイスキーを接待して、そのまま帰
つたということを後で聞きました。これが動機で彼が私の家を覚えて、來るようにな
つたのであります。その後、日曜になると、主として午前中、私の家を訪ねるようになりました。当時私は庭先で農耕をするのを常としていたので、彼が訪ねて來ると、農耕を止めて談笑し、彼の過去における政界の経驗談を聞くのを樂しみにして、大概晝食を共にし、その時は酒かビールを出して、近所から肴も取り、いわゆる上客として待遇して來たのであります。私の妻は、同人がやはり同人の妻の病弱に悩んだ経驗から、同情して慰めに來て呉れるものと感謝し、又私は男として肝胆相照すものを感じて、
氣持よく私を訪問するものとこう思
つて應待し、まあ互に酒を飲みながら談笑したのであります。彼がいつも來ますときは、私の家の拂壇の前に礼拜するのを常としておりましたので、信仰深い男と思
つておりました。又その間彼が得意で話すのは、十四歳のときから板垣退助の玄関番をした話、親孝行をした話、
自分も親に可愛がられた話、細君の三十年間の病床を看護した労苦の模樣等を語るのを常としました。又松下氏は本年三月から九月十七日檢挙せられるまでの間凡そ十数回訪ねて來ました。私としては彼が私を相手に一杯やるのを樂しみにして來るものと思
つて、これを迎え、彼は又藝が秀でておるので、いつも病妻の慰問をして呉れというようなことを頼むのを樂しみにしたのであります。その間、松下氏から病氣見舞として、鯉の外に、五月二十六日頃醤油一樽を貰いました。同人は醤油の製造会社をしておるので、奥さんの調味料にお困りだろうからと言
つて呉れたもので、同人の
好意を受けて置いたのであります。
次に七月十二日頃松下氏から冷藏庫を送り届けられました、これの事情を申しますと、七月の上旬頃、同人が病氣見舞に來たときに、ビールを出して
御馳走しました、同人からは、これを冷藏庫で冷してやるとうまいうまいですねと言い出したので妻がお互いに戰災に遭
つた者は時期が來ると燒かれた品物のことを想い出すものですね、こうして寢ていると陽が射し込めば簾を掛けようと思
つても燒かれたことに氣が附くし、段々暑くなると冷藏庫も燒かれたことに氣が附きますと話したところ、松下は冷藏庫なら、
自分の工場の近くにこれを製造しておる工場があ
つて、私の顔で行けば品物も手に入りますと言いました、併し妻はああそうですかと返事しただけで別に氣に止めなか
つたのでありますが、七月十一日に松下から妻に電話で冷藏庫を今日お届けしますという知らせがあ
つて、その翌十二日、私の不在中品物が届けられました、私は帰宅後、妻からその話を聞いてこの前來たときに自宅附近で格安なものでできると言
つてお
つた話を想い出したが、注文もせんのに届けるのは、或いは御中元のつもりかも知れんが、これに対してどんな物を返していいか分らないので返礼するのも大変だしと言
つて、こんな重い物をはるばる小石川から五反田へ送り返すというのも大変だし、返せば親しく交際しておる松下に対して却
つて感情を害する虞れがあるから一層のことこれを買取ることにしようと妻と
相談をしたのであります。その後丁度役所へ松下氏が來たので、あの冷藏庫は幾らかと尋ねますと、あれはいいですよ。いつも
御馳走にな
つておるからと手を振りました、併し私は、あれはこちらで返礼することもできんからこういうことにする、代金は幾らかと問い詰めました、するとそれでは値段を調べて置きますと言
つて、帰りました、その後同人に会
つたとき、又その催促をしました、すると同人は、あれは会社の者にやらしたのでまだ聞いていないから調べて置くと言い、その後、役所の應接間で三回目に会
つたときに又代金を幾らかと問いますと、同人はまあいいですよお世話にな
つていますからと代金を言い出さないので、それでは当方では品物を送り返すからと言いますと、同人も、実はあれは附近の懇意な製造工場で中古品を塗り直した物で、顔で安く貰
つたから、原價計算で四百八十二円ですと言いました。そこで私は安いなとは思
つたが常々馳走もしておるので感謝して探して呉れたものと思い、先方の行爲を余り無下にするのもと思い、そのまま五百円釣りを取らずに支拂
つたのであります。そのとき妻も心配しておる話しをしたので次に私方へ來たときに別紙写しのような受取書を妻の枕元に行
つて渡し、先日お役所で先生から冷藏庫の代を確かに受取りましたと、こう言
つて出したのであります。妻は、まあ三年も病床にあ
つて、市價を知らず、
自分も
終戰後役所に往復するのみで、家具屋、デパート等に行
つたこともないため時價に疎く普通に買えばもつと高いとは思いましたが、同人の言うままに
好意を受けてそのままにしたのであります。その後聞くところによりますと、五千円以上もするものであ
つたということで、私の認識不足であ
つたということを恐縮しておるわけであります。その次に七月十九日頃、私の不在中に松下氏が病氣見舞に來て、鰻一折を頂きました、妻はこれに対して、別表に書いてあるように接待し、私はこれを帰宅後聞いて、松下が私の妻が土用鰻を食べなか
つたのに対してわざわざ遠方から届けて呉れたと思
つて、心から感謝した次第であります。
最後に見舞品を貰
つたのは九月十二日松下が帰
つたときで、罐詰十個を頂きましたので、從來
通り御馳走して帰しました。まあ右の外に彼は、ここに書いてありませんが、私の近所の護國寺に
子供の墓があるというので、墓詣りにときどき來た序でに私の所に來ました。そんな
関係で手ぶらで数回立寄
つたこともありますが、大抵食事をさして帰したのであります。この交際中松下氏から
昭和電工事件についての質問めいたことは少しも出ません。況んや本件の問題にな
つておる揉み消しというようなことを依頼するような話なども全然出なか
つたので、今回の檢挙に及んで愕然として驚いた次第であります。ましてや彼松下が
檢事等の名前を冒用して
重政氏等から金銭を詐取しておるというようなことは余りにも事の以外に驚くの外ありません。私はただ最近の
社会情勢を知る
一つの方法として、現社会における相当信用ある財界、政界の一、二の知己を得たら職務上非常に便宜であろうという念願から松下氏の勧告に應じて交際を始めたのみであります。今にな
つて考えますと、世間知らずの
檢事を誘致して、私の地位を利用すべく準備工作に出たものではないか、こう考えるわけであります。若し松下氏が私に対して
昭和電工事件に関する言動に及べば、私の今までの態度と性格からこれを警戒し、決して部外の人と交際しないことは明かでありますから、かような
氣持があ
つたとしても打明けもしなか
つたと思います。私としてもあの当時少しでも
昭和電工事件の匂いがすれば無論かような人々を敢て交際するわけもなく、却
つてこれを警戒するのは当然であ
つたのであります。尚松下氏が
重政氏から金銭を入手しておるというようなことも夢想もしなか
つたのであります。