○
説明員(
宮田契全君) 失礼いたします。
自治体の
舞鶴市
警察局長の
宮田契全でございます。
引揚者の
舞鶴上陸再開は、本年の五月六日に
明優丸が入りましたのを
最初といたしまして、本年の十二月の四日に入りましたのを最後といたしまして、全部で
舞鶴へ入りました船が九十四船でございます。この九十四船の中で八十六船は
ナホトカから出港いたしまして、残りの八船は大連或いは
胡蘆島その他から入
つたものでございます。
ナホトカから入りました
引揚者の総数が十七万四百八十四名、その他から入りましたのが九千四百八十四名でございまして、合計で十七万九千九百六十八名ということにな
つております。主として
ソ連領から帰りまする者は
ナホトカを
中心として帰るわけでございまして、向うのおりましたキャンプの地域はいろいろでございますが、最近帰
つて参りますのは
モスコー方面が主たるものでございます。五月の当初から十月の初めまでの間に帰ります船は、
一つの船が大体二千人を
標準として帰
つておりまして、ときに二千五人、二千八人或いは一千九百人という差がありますが、大体二千人、十月の差がありますが、大体二千人、十月の中旬に至りましては集結が惡いということを
口実といたしまして一千五百名、十一月の一日二日に入りました船に至りましては、俄かに殖やしまして大体三千名、惠山丸は三千名
引揚げて帰
つておるわけでありまして、
平均をいたしますと大体二千名というわけにな
つております。
月平均帰つて参りましたのを合せますと、約二万五千名
舞鶴へ
ソ連領から
引揚げて参
つております。
最初これらの人々は、この五月の六日に
帰つた船なんかの
状況を調べて見ますと、昨年の九月に
ナホトカ港へ到着をしながら、これはまだ本当の民主化していないというようなことを
口実にいたしまして四回も往復させられた例があります。こちらに帰る前に
ソ連におきまして十分に
民主化運動に参加し、又それを了解をしたということにならなければ殆んど帰して貰
つていないという
状況でありまして、帰
つて來る人々は、殆んど一應は向うの
民主化運動に同調したという状態でなければ帰れない、その人々を帰すということにな
つております。本年の十月の初旬頃まで帰ります人々は非常に穏健でありまして、日本へ早く
引揚げたいということが主たる眼目である、それがためには一時
ソ連のいわれるように民主化をしなければならないという、極端にいえば仮装民主化をして、そうし向うの指導者の指揮に從い、或いはその指導者が日本人の若い一年志願兵とか、或いは上等兵くらいの若い人を使
つて民主化運動を指導をさせておりますが、その人々の指導に
從つて一應民主化したということで帰
つて來まして、非常に穏健でありました。
舞鶴の援護局へ上陸をいたしましたならば、日本の國旗が立
つていないということで非常に憤慨し、又慨歎をしておるような人ばかりでありまして、帰れば非常に私達は
ソ連において言われたのと、ここで見たのとはえらい大違いである。
ソ連では四百円の金を貰
つてそれでお前達は追つ拂われる。お前らは上陸したら専ら強盗をするか乞食をするか外仕方がないのだということを言われたが、ところが帰
つて來て見れば、こうして畳の上で熱い味噌汁を頂いてお土産にいろいろな、大体二十四品目ばかり渡されると思いますが、こういう沢山の品物を貰
つてそうして帰るということは夢のようだ。署長さんこれは本当ですかというふうなことをいうぐらい感激をして帰
つておるわけでございます。併しその半面におきまして、向うで通訳とか或いは民主指導者とかという人々が非常な圧制をやるわけでありまして、お前はまだ民主化していないという理由でもう一回重労働に服させたり、奧地にや
つたり、炭坑にや
つたりする、それらは殆んど日本人であるところの共産主義の指導者の一言半句によ
つて自分達が早く帰れるか遅くなるかということが決められるのであります。從いまして帰
つて來れば、やれやれ日本に帰
つて來たという瞬間におきまして、向うで苟められた、その不満が非常に露骨に爆発する氣配があ
つたのであります。これを何とかしてやわらげるということが主として援護局の仕事でありまして、帰
つて來れば援護局は直ぐに放送設備を利用いたしまして、折角皆さんお帰りに
なつたのだから
一つどなたも御機嫌よく帰
つて貰うようにやりましようということを喧しく放送いたします。それでも
引揚げて参りますと大抵一件や二件ぐらいの程度のいざこざがございます。併し兇器を持
つたり、或いは石を持
つて何かをやるということはありませんが、皆が寄
つてたか
つて一人の人、或いは少数の人を取囲んで詰問する、ときには横面に行く程度でありましたが、これらの小さな
事件につきましてはこれは
警察でどうしろ、或いは説論で済ませろとか、指示がございまして、それによ
つて拠置をして参
つたわけでございます。本年の十一月先程申されましたリンチの
事件でございますが、十一月一日には、英彦丸で三千名帰
つております。それから十一月二日惠山丸で二千八百二十七人帰
つております。それから同日高砂丸で二千九百名合計八千七百二十七名を二日間に収容いたしました。
舞鶴の援護局の施設は大体一万人は入れ得るわけでございまして、四つの大きな寮がございます。これは
舞鶴の第二海兵團がお
つたところでありまして、全部の面績は十五万坪余りありまして、非常に廣いところでございます。
一つの寮に二千五百人は入れられます。それが八千七百二十七人帰
つて來て、一部三百名余りは國立病院に入られたわけでありますが、それにしても今までは四船集りましても八千名でありましたのが、今度は二船で八千四百名という数字を出したわけでございまして、從いまして今まで配置しておりました
警察吏員は、大体船が一船の場合におきましては十四、五人、二船になりますと二十五人、三船で三十何名というふうに、船が増す度に署員を増加して参
つたのでございますが、この日は大体平素の予定
通り警部補以下十五名が現場にお
つたわけであります。一日には大した事故はございませんでしたが、二日に惠山丸、高砂丸というのが入りまして、一遍に約六千名も殖えたわけでございまして、それらの帰
つて來た人々は主としてモスコーを
中心にして帰
つて來たという人であり、又この船で一緒に還
つた者は向うで何と言いますかアクチーフという言葉を使
つておりますが、通訳とか指導者とかいう立場にある人が非常に沢山それで還
つて來たわけでございます。一日に還りました英彦丸というのはこれは第二寮に入れております。一寮から五寮までございまして、一寮の方は援護局の職員の
事務の方が使
つておりまして、二寮に英彦丸を入れて、そうして三寮と四寮と五寮の一部に二日に還
つた駝山丸と高砂丸の
引揚者を入れたのでございます。英彦丸におきましては大して事故はなか
つた、ただ英彦丸で還
つた、一日先に還
つた者が、後から還
つて來る高砂丸と駝山丸には俺達を虐したアクチーフが沢山いる、あれに
一つ報復しようじやないかというふうの考え方を非常に沢山持
つてお
つたようでございます。その件は私の方では不幸にして察知できなか
つたわけでございます。英彦丸で還
つた人々が駝山丸や高砂丸の人々に報復しようという観念を持
つておるということは分らなか
つたのでございます。それが大体援護局に入りましたのが、午後七時から七時半頃までに各々寮に入ります。到着いたしまして、上陸をいたしまして、三時間か三時間半掛からないと寮には入れません。身体檢査とか或いは消毒とか、或いは関税の檢査とかいろいろなことをやりまして、三時間乃室三時間半後に入る、
從つて大体援護局の寮に落着いたのが七時から七時半頃までの間でございます。彼等は入りましたら直ぐ何をしたかと申しますと、飯を食わないでもよろしい、畳にも坐らなくてもよろしい、あの
ソ連において虐められた仇を討とうじやないかという相談をしたわけでございます。そうして第一、二寮には誰が還
つておる、第三寮には誰が還
つておるというようなことであ
つたようでございまして、この辺の消息は実際には分らないのであります。で、二十人、三十人、五十人、百人という者が、一人が
一つやろうじやないかと言えば、よし、やろうというわけで、一遍に隣の寮の四寮、五寮に押掛けて、二寮から四、五寮に押掛けまして、そこで誰を出せというのじやなしに、自分が顔を覚えておりますものでありますから、そこへ行
つて、やにわに手でう
つたわけであります。こけたところを足で蹴る、殴
つたのと蹴
つたのでありまして、大して兇器は何も持
つておりません。それが始ま
つたのが大体七時頃から七時半頃まででありまして、丁度七時半頃になりまして、援護局と
警察本部との間は約二キロ程離れておりますが、援護局の方からの派遣の
警察吏員から、どうも
状況が急迫しておるから、武装警官を二十名早く送
つて呉れという
通知が参りました。それを私が直接電話を受けまして直ぐに手配をいたしまして、署で在署員を寄せました。そのときに在署員で集
つておる者が十名ございまして、私と谷という警部と、外に八人廻査を乘せまして自動車で直ぐ向うに参りました。第二遍目には消防車をいろいろな積込品を下ろしましてそれで二十名送りました。それから後から非番員を召集しまして、二十数名を遣りまして、大体三回で四十名余りの増員をしたわけでございます。私が向うへ到着いたしましたのは七時五十分、八時近くでございました。その時にはすでに暴行行爲は終
つておりまして、ただ四寮と五寮の各部屋におきまして、向うでいろいろな指導者をしてお
つた者を掴えまして、一人、二人、三人という者を立たせまして、そうしてお前の
ソ連でや
つたあの行爲はどうだ、この行爲はどうだということで詰問をしている最中であ
つたのであります。暴行を加えるじやなし一應詰問をしているのだから、少し二、三分間私達は見てお
つたのでございます。それから部下を四、五名連れまして各部屋を廻
つて、日本の民主主義は
法律に從うことが民主主義である、
ソ連の民主主義はあなた方はどういうふうに解釈しているか分らないが、日本の民主主義は日本の
法律に從うことが日本の民主主義である、日本には
法律があ
つて、自分で勝手に暴力を加えたり、或いは皆さん方大勢の力で少数の人々を詰問してやるということは、場合によ
つては脅迫罪の罪を構成する、折角遠い所からお帰りにな
つて、そうしてここで罪を受けて帰るということは、お互いに皆家族が待
つているのだし、機嫌よく帰れということが必要なので、そういうことは止めましようということで待
つたわけでございます。それが約三十分程掛か
つております。一應それじや署長さんどうしますかと言いますから、一人々々の理論闘争なら御勝手だから幾らでもおやりなさい、併し一人の人を大勢の人が取り囲んで詰問するということは、これは脅迫罪になる虞れがあるから止めなさいということで止めさせた。それでも、あちらこちらに署長さん、私達は罪に掛か
つても、殺されてもいいのだ、
ソ連にいる時にやられたその報復ができれば、私は実際殺されてもいいのだというくらいな氣魄を現わす人も中にはあ
つたのでございます。併しそれをまあまあそんなことを言わずにということで抑えまして、私達が参りましてからは幸にして暴行行爲は少しもなか
つたのでございます。その人達を喧ましく宥めまして、晩御飯を食べ終
つたのが十一時半でございます。飯も要らない、何も要らない、とにかくこの間の仇を討ちたいということでありまして、いろいろあちらこちらで議論をや
つております。あれだけの廣いところで五十五人の巡査を連れて参りましても、とてもそれは目も行党きませんし、あちらこちらで争論はやはり続けてお
つたのでございますが、併し暴行行爲を受けたという党出も事実決してないわけでありまして、それはなか
つたのでございます。落著いて食事を済ませたのが十一時半頃でございまして、それから以後は段々と落著きまして、全部落著いて寝てしま
つたのが一時少し過ぎだと思います。それまで私達は一應帰りましたということで警備員四十八名でありましたか、警備負を残しまして私達は帰
つて参りました。私達が
最初八時に行
つたときに殴られたということで負傷をして担架で運ばなければならないという者が四人ございまして、この四人は担架に乘せて國立病院へその日のうちに入院をさせたわけでございます。それは主として医者の診断では骨折という診断が出ており、実際は医者の診断が或いは過大であ
つたのではないかと思うのでありまするが、重い者の診断が二ケ月ということにな
つておりました。後から軽い僅かの負傷をしている擦過傷を受け、打撲傷を受けておるというような者は援護局内に檢疫病院というのがございますので、そこへ入れまして治療をさせました。後からこれは入院したがよかろうということで病院へ送りまして、合計で入院した者が九名で、九名を二回程に分けて入院をさせたのであります。それから十七名は大した怪我もないが、ちよつと殴られた、併しまだ襲われる虞れがあるから何とか保護をして貰いたいということで、これは一般職員がおります方の第一寮へ十七人だけ隔離いたしました。それで十七人と九人ですから二十六人、は、そうして
処置をしたし、残りの十三人というものは一日或いは二日間の問を檢疫病院へ入れて、そして少しずつ治療をさせて、それで終
つたわけでございます。第一寮の方へ保護するということで、部屋へ入れておりました者は、その後十一月の八日までの間に各々帰る
府縣に帰しておりますが、大体帰るのは、入
つた日から数えまして四日目に汽車で送り返えすのが普通でありますが、この日は途中に文化の日が挟まりましたのと、一遍に沢山帰りましたので、LSの方の
調査が遅れましたので、遅い者は八日目に帰
つております。そうして入院をした者と入寮をしておりました者のうちの初めに入院さした四人、後から入院さした五人を除いた外の者は、外の者と同じように帰
つたわけでございます。で九人だけ
舞鶴の國立病院へ入れまして、その
舞鶴の國立病院へ入れました九名につきましても、医者の診断は二ケ月と書いておりましたが、事実は十一月の十九日に皆全快をしたという医者の証明を持ちまして、各々その本籍地へ帰
つたわけでございます。その九名という者は、三重縣、
宮崎縣、
東京、北海道、福岡、仙台、熊本というふうにな
つておりまして、
東京都へ二名、
宮崎縣へ二人、その他は三重、北海道、福岡、仙台、熊本は各々一人ずつ該当者がございまして、十一日に機嫌よく帰
つております。で、共産党の
関係の新聞の「アカハタ」というのに非常に大きくこの
事件を採上げまして、帰る船の中ではめられて死んだ者が二人あるとか、或いは援護局でリンチを受けて死んだ者が二人であるとかいうふうなことをいわれているようでありますし、現にここでは
相当多数が梅へはめられたことは事実だということを十一月の十七日の新聞に記載をしておりまするが、これは引揚船の船長がマックアーサー司令部の委任状を持
つて、その代理人として
ナホトカ港へ参りまして、
ナホトカ港では、
ソ連の官憲も人員を
勘定して受取
つて帰
つておりまして、その
勘定の
通りに援護局へ渡し、援護局は受取
つたその
通りに割当をして
府縣の單位により帰しておりますので、人員が減
つたとか、或いは海へはめられたとか、死んだとかいうことは、これは全くのデマでございまして、そういう事実は私の方も、進駐軍も全然関知していない、知らない事実でございまして、恐らくは、これは虚僞であろうと思うのでございます。それからこの
事件の起りまするということの原因につきましては、いろいろ先程申上げましたようにございますが、必ずしも共産党の諸君の言われるように赤と白の対立、反動分子と共産分子の対立というふうのものでございません。ただ
ソ連にいる時にいじめられた者がその報復をしたに過ぎないのでありまして、不幸にして
ソ連において在外同胞、軍人をいじめた者に共産党の分子が多か
つたという事実があ
つたのみでありまして、これは思想的な
関係ということよりも事実に基いたところの
一つの報復手段であ
つた、私はかように考えております。その証拠には、一例を挙げますと、先きに申上げました被害者の中で
事件を捜査いたしまして、四人だけを捜査をいたしまして、被疑者を掴えまして聴取も済まして、十一月六日から十一月八日までの間に
舞鶴の檢察廳に送
つております。それらの被疑者の中、大友高雄というのがございます。この大友なんかは何もそういう暴力行僞をやろうという意思はなか
つたのでございます。なか
つたのだけれども、被害者に奧野勵というのがおりまして、それが私は帰
つて來て、そうしてどうも
ソ連において済まんことをしたと思う、といいますのは、向うで通訳をしてお
つたのであります。通訳は日本において日本人が進駐軍の通訳をしているのとは全然趣きを異にしておりまして、
ソ連において通訳をしておりますのは労務の配置から食糧の給與から、すべて通訳が権限を持
つてお
つたわけでございます。從いましてその奧野が非常に苛酷な
取扱をして來た、私は日本に帰れば当然報復を受けるものだということを覚悟をしてお
つたのであります。ところが不幸にして奧野に対しては誰も暴力行爲を加えなか
つたのであります。そこで奧野がどうも済まん、こういうことでは氣が済まんから
一つ殴
つて呉れということで、自分は階下におりまして階上に住んでいるところの大友高雄、これは兵長でございますが、その大友高雄のところに殴
つて呉れとい
つて横つ面を持
つて行
つております。大友高雄はどうなるかというので一應
状況を見てお
つたところ、喧ましく殴
つて呉れというので、それじやお前の氣が済むようにと二つ横つ面を殴
つたのであります。もう
一つは軍医でございまして、向うで軍医の仕事をしてお
つて、実際は軍医でなく薬剤官でございますが、神戸の廣瀬という人でございます。その人がおりまして、それはどうかといいますと、向うで治療の
方法を間違いまして、三、四人の助かるべき人を助け損
なつた、而も助け損な
つて死んだ人の遺骸とか遺品とか遺骨ということについて何ら考慮を拂わなか
つた。貴様怪しからんということで、非常なリンチは受けておりませんが、糾問を受けまして、その糾問を受けるのが辛さに、援護局から逃げたのであります。姿を隠して逃げて、そうしてその明くる日に
舞鶴の駅で午後一時頃切符を買
つているところを掴まえて帰
つたような
事件もございまして、必ずしも赤と白との対立じやない、向うでいじめたり
取扱の惡か
つた人に対するその恨みが重な
つているという事実は、私はこの二つを以て考えることができる、かように存じております。その他はやはり向うで長くおればおる程苦労が積んでおりまするから、
從つてそれだけの恨みが尚重な
つて來るということ、それから一日二日に帰りましたその人々の中に
ソ連でやはり民主指導者とか或いは青年行動隊員とかいうふうの仕事をしてお
つた人が非常に沢山おります。今度リンチを受けました者では、何も向うでそういう仕事をしていなか
つたという者は数名に過ぎないのでございまして、殆んどは青年行動隊とか民主指導者とかいうような者でございまして、中にはモスコーの政治学校を卒業をして、政治学校と申しましても六ケ月でありまするが、そうして主たる指導者をや
つてお
つたという人が非常に沢山ございます。それらの人々に対する恨みが重
なつたということ、それから共産教育は、田舎の方ではやはり発達をしていない、モスコー周辺部を
中心にした所で非常に力を入れてやられておる、不幸にしてこの十一月一日、二日に帰
つた人は、モスコー周辺にお
つた人たちで、非常に政治教育を苛酷に受けておるという人たちでありまして、その反動が非常に大きか
つたと、かように考えております。大体リンチの問題につきましては以上の
通りでございまして、何か御不審の点がございましたら申上げることにいたします。