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田中説明員 ただいま紹介にあずかりました
外務省調査局の田中でございます。中國の最近の状況について説明をしろということでありまするが、まずお断りを申し上げなければなりませんのは、
終戰後われわれ
外務省では、特別の海外の情報というものは持ち合しておらぬのであります。そこでわれわれが調査をいたしております資料は、結局一般の方々のごらんになつておりますような新聞、
通信等に限られておりまするので、実際現地の実情について、正確な情報というものを持ち合しておらないのであります。そこで以下申し上げる事柄も、さような意味であるいは正確を失しておるような点も多々あろうかと思います。もしそれらについてあとでわれわれの方にいろいろ御教示を賜わることができますならば、今後そういう意味で参考になるかと存ずるのであります。
まず中國の
終戰後におきます問題、これはとりも直さず國共の内戰の問題が最大の問題でありまして、この内戰の問題こそ中國におきましては政治、経済、財政、外交その他あらゆる問題の根本になつておるということが言えるのであります。のみならずこの内戰の問題は、中國にとつてさようにきわめて重大な問題であるのみならず、これは
アジアの問題として見ましても、また世界の問題としてもきわめて重大な意義を持つておることは申すまでもないのであります。昨年の暮に中
國共産党の主席をしております
毛澤東が年末報告を発表いたしておるのでありますが、その冐頭に、昨年の後半期にはいりまして中國の
共産党は攻勢に轉じた。そうして各地の戰線において戰爭の
主導権を握るに
至つたということを報導いたしました。このことはきわめて意義がある。それは四億数千万の人口を有する國においてかようなことが起つておるからだ。さらにもう一つ重大なことは、
アジア十億の人口を有する
東方世界でこのことが起つておるからだ。かようなことを述べておるのでありますが、この言葉はあながち誇張であるということは言えないように考えられるのであります。実は最近の
ニユーヨーク・タイムスの社説を見ましても、この十月十日の双十節の日に、冷たい戰爭は二つの戰線を持つというふうな題で社説を掲げておるのでございまするが、その中で、最近におきまする
アジア各地における
共産勢力の台頭を論じまして、しかしながら何といつてもこの
共産党の勢力が最も大きな活躍をしておるのは中國である、中國こそその
決戰場ということが言える、この中國の運命は、結局は遠からず
アジア各地にも影響を及ぼすということが考えられる、もしかようにして
アジアの各地が西欧の世界から切り離されるということになるならば、これは西欧の世界にとつてもきわめて重大なことであつて、今日の平和を維持する、今日の自由を亨樂するということは非常にむずかしくなる、かように考えてみるならば、今日中國において
蒋介石政権が
共産党と戰つておるということは、結局それはわれわれの戰いであるということが言える。かように論じておるのでありまするが、この
ニユーヨーク・タイムスの社説も、結局はさつき申し述べました
毛澤東の言葉と中國の内戰の問題の
重大性を指摘しておる点において、相一致しておる点があるように考えられるのであります。さてこの中
國内戰の状況は一体どういうようになつておるか。これは毎日の新聞が報道しておるのでありますが、しかしこの内戰の現状を御説明するにあたりまして、一
應支那事変が起りました当時の中
國共産党の勢力及び
終戰当時におきまする中
國共産党の勢力というものを一應簡單に振り返つてみたいと思うのであります。
支那事変が起りました当時、中國の
共産党は
陜西省の延安に首都を移しておりまして、この地方を中心といたしまして
ソビエト政府をつくつてお
つたのであります。当時の兵力は五、六万であつた。かように推定いたしておるのであります。これが
支那事変が起りますと、御承知のように國共の第二次の合作をいたしまして、そうして事変の拡大につれて
日本軍が北支から順次
國民政府の軍隊を撃退して行くにつれまして、
中共軍の方はその
背後地帶に入り込んで参
つたのであります。
かようにして
中共軍は順次主として
北支那の
農村地方に勢力を伸ばして参
つたのでありまして、特に
太平洋戰爭が起りますると、
中共側ではもつ
ぱら党勢の拡張という点に重点をおいた模様でございまして、当時七・二・一政策という政策を
中共側はとつたように言われておるのであります。と申しますのは、
中共側は十のうちの七の力をもつて、もつ
ぱら中共の
党勢拡張に努力する。
残つた二の力をもつて國府攻略をする。これは言葉は奇妙に聞えるのでありますが、当時なお國共の
相克摩擦が頻繁に繰返されてお
つたのであります。そこで
中共側は
政府側に対して、中共の
合法的地位の承認を要求するとか、また
中共軍に対する
武器彈藥その他軍夫の補給を要求するとか、またある場所では中共の兵隊が、
政府軍のために
包囲攻撃を受ける、かような事件もしばしばあつたわけでありまして、かような攻撃を中止させる、かような対
國府政策に二割の力を用いる。そうして
残つた一割の力をもつて
日本軍に対抗する。かように七・二・一政策という政策をとつておるのでありまするが、これを見ましても、いかに中共が自分の勢力の拡大に力を注いだかということがうかがえるのであります。かようにいたしまして、終戰の当時におきましては、旧
黄河以北の
北支那の
農村地帶には、中共の勢力はほとんどすみずみまで行き渡るという状況でありました。注目されますのは、これらの地域に
政府側の軍隊というのはほとんど姿を見せておらないのであります。当時
日本軍は点と線を保持しておつた。こういうようにいわれるがごとく、大都市と、これを結ぶ
鉄道線路並びにその沿線を主として確保してお
つたのでありまするが、これらの地点を除きました農村には、もつ
ぱら中共側の勢力が確立されておる。
北支那におきましては、わずかに
山西省の西南の
山岳地帶に
閻錫山の兵力が
残つておる。また内蒙古は御承知のように、包頭の奥の五原地方に
傅作儀軍の軍隊がおつた。そのほかにはほとんど政府の軍隊というのは姿を見せておらないのであります。また当時におきまする
満州並びに中支那、
南支那の状況を一瞥して見ますると、満州におきましては、
満州事変の当時から
日本軍に抵抗しておりましたいわゆる
共産匪、これは満
韓鮮——満州人、中國人並びに
朝鮮人の混合の
共産匪であります。これが満州の東北の
山岳地帶に
残つて抵抗を続けてお
つたのでありますが、その兵力は約二、三万と推定せられておるのであります。なお南の方の熱河の方面では、
華北省の方から中共の
李雲昌という軍隊が終戰の前年ぐらいから
熱河省の
山岳地帶に入り込んでおるのであります。この兵力は大体五、六万程度でなかろうかと推定せられるのであります。また今日戰場になつておりまする中支那の地方には、これまた有名な新四軍という中共の軍隊がお
つたのでありまして、今日徐州蚌埠の作戰に從事しておりまする陳毅という中共の將軍の率いておりました新四軍が、大体
揚子江の北方の
江蘇省、
安徽省方面におります。大体その兵力は十万ないし十五万程度と推測せられるのであります。
揚子江以南には、今日と同様にまだ大して中共の勢力はなか
つたのでございまして、わずかに海南島の
山岳地帶、それから廣東の周辺の農村並びに雷州
半島附近、これらの地域に三万程度の
共産軍が
残つてお
つたのであります。かようにして
終戰当時におきまする
中共側の
兵力量と申しますのは、これはまたいろいろの推定があるのでありますが、終戰の直前の四月に
毛澤東が有名な
連合政府論というものを出しております。その中に引用しております兵力は、中共の
正規軍が九十一万ということを言つておるのであります。もしこの数字が確かであると考えまするならば、今申しまするように、満州の
熱河方面の数万の兵力、中支那の十四、五万の新四軍の兵力並びに海南島及び
廣東附近の三万ばかりの
中共軍、これを除きました約六十五万ばかりの中共の軍隊というものが、もつ
ぱら黄河以北の
北支那に
がんばつておつたということになるわけであります。この当時さような状況のもとに終戰になつたわけなのでありますが、終戰になりますと、実は
終戰前からでありますが、ドイツが降伏いたしました当時、すでに
中共側では遠からず日本の
全面降伏があるという予想のもとに、満州の
接收計画を立てて準備をしてお
つた模様であります。さようにして終戰になりますと、いち早く満州の占領に主力を注いでおるように見受けられるのであります。
中共側の主力は、
目下人民解放軍の総司令をやつております林彪の指揮いたしまする中共の軍隊が主として
山東方面から渤海湾を
渡つて満州に入り、これが
ハルビンを中心とした北満に入り込んでおるのであります。大体その兵力は十五万程度と考えられるのであります。それから
南満州の方面は、終戰の前から
熱河方面に入つておりました
李雲昌の軍隊が、さらに華北から應援を得まして、
長城線を越えて、主として
南満州方面に入り込んで行つておるのであります。大体その兵力も十五万程度かと考えられるのであります。両者合せて三十万の兵力、さらに現地にありました雜軍を
支配下に入れて、約四十万ないし五十万の
中共軍ができたように考えられるのであります。この数字は、実は終戰の翌年中共の幹部であります
周恩來が、当時の東北における
中共軍が四十万
——正規軍三十万、さらに雜軍十万、合せて四十万であるということを言つておるのでありますが、大体四十万ないし五十万の中共の軍隊が満州にあつて、今申しますように、満州の各地の占領に努力した、かように考えられるのであります。これに対しまして
政府側の終戰のときの作戰と申しますか、
方針——これは別にそうはつきりした文書があるわけではないのでありますが、いろいろの報告なり、発表なりを総合してみますと、大体
政府側におきましては、中共の部隊というのを主として
北支那の
農村地帶、すなわち從來からの中共の
勢力範囲内にいわば
カン詰にしておいて、
満州並びに満州を含んだ全支にまたがりまして、
日本軍の占領してお
つた都市並びに地方はもつ
ぱら政府軍の手で接收する、こういう計画を立てているようであります。これは当然の話なのでありますが、さようにいたしまして、中支にありました新四軍に対しましても、嚴重な命令でもつて
北支那に移駐を命令しているのであります。一時は
揚子江の
北方面にありました新四軍も
山東方面に引揚げているのでありますが、かようにして
北支那の地方に
中共軍をできるならば
カン詰にしておいて、
満州並びにその他各地の
日本軍の
占領地域を
政府軍の手でもつ
ぱら接收をする、かような計画を立てたらしいのでございますが、しかしこれに対しまして
中共側は
——毛澤東が言つているのでありますが、全
抗日戰を通じて実は中共は七割の
抗日戰を受持つて來た。かような事実から見て、われわれも当然
日本軍の投降を受理し、
日本軍の
占領地域を接收する権利があるということを
政府側に強く主張しているのであります。もちろんこれに対して
政府側は應諾しておらぬのであります。そこで
中共側は先ほど申しますように満州にいち早く兵を集中させまして、各地の地点を押えると同時に、
北支那におきましても、それぞれの地点の占領の計画を立てておるのでありまして、北上して参ります
政府軍を妨害するためにはいろいろ
交通線を破壞するとか、あるいはそれにもかかわらず北上して來る
政府軍に対しては、武力をもつてこれを粉碎する、かような作戰を立てているのであります。そこで
政府側では、主として
アメリカ側の援助のもとに、一部は飛行機をもつて北京、天津、
済南等の各都市に兵力を輸送する。また大半は
アメリカの援助のもとに船でもつて兵力を
北支那に送りまして、
アメリカのマリンの援助のもとに
北支那の接收をはかつているのであります。また満州に対しましては、これは
政府側は非常に準備が
手間取つて、終戰の翌年の三月ごろになりましてから、ようやく兵を満州に送り込む、こういうような状況であ
つたのでありますが、しかしその当時は
政府側の軍隊というのは非常にまだ勢いがありまして、満州に入りました
政府軍のごときも、二、三箇月にして
南満州から
長春並びに吉林の方面まで、一挙にこれが接收に成功いたしているのであります。御承知のように終戰の直後には
アメリカのあつせんのもとに、
政治協商会議が行われ、
國共妥協の話合いが進んだわけでありますが、しかし両者の妥協というのは結局政府の失敗に終りまして、終戰の翌年の六月の終りに、満州におきます一時的な停戰協定が破れましてから、満州、華北、
華中各地におきまして全面的に両者の戰爭の火ぶたが切られておるのであります。かようにして両者の戰爭は全面的な戰いに入りまして今日に
至つたわけなのであります。その間の事情は時間もありませんので省きますが、最近の情勢を
概略各地について申し述べて行きたいと思います。
今日はもう申し上げるまでもなく、満州は長春、奉天が陷落し、錦州、
葫芦島方面からも
政府軍が撤退し、また
熱河省の承徳からも撤退する。かようなわけで全満州は
中共側の
支配下に入つておるというわけであります。また華北の状況は、先般済南が陷落してから、
山東省はわずかに青島が
政府側の手に保持されておるにすぎないのであります。また北では御承知のように北京、天津と、それから北京、天津から東に塘沽、唐山に至る線、それから北に延びまして
張家口、大同、綏遠に至る地区、この細長い地区を、北京に総
司令部を持つております
傅作儀軍がこれを保持して防衞をしておるわけであります。また
山西省では太原に
閻錫山がまだ
がんばつておる、こういう状況であります。これらの華北の状況を大観いたしてみますと、大体もう九割程度が
中共側の
支配下に入つておるのではないかと考えられるのであります。
目下戰爭は主として
華中方面、すなわち
揚子江と旧黄河との
中間地帶でもつて両者の
攻防戰が展間せられておるわけであります。最近の新聞が報道しておりますように、徐州、蚌埠、それから南京に接近して來た地方へ大きな戰爭の中心が移りつつある、こういう状況のようであります。大体華中、すなわち
揚子江以北の華中におきましては、目下の状況は大体五割程度が中共の
支配地域に入り、
政府側は五割少し足らずかと思いますが、
政府側が五割程度の地域をまだ支配しているのではないか、かように見られるのであります。
揚子江以南の地域につきましては、先ほど申しました
終戰当時から今日まで大きな変化はないのであります。これらの地方に
中共側は、それぞれ各地に
地方政府と申しますか、政府を建てておりまして、満州には
東北解放区というのができておるようであります。
ハルビンにその本部がありまして、
東北行政委員会というのができておるようであります。それから華北では、この八月の終りに
華北人民連合政府というのが石門にできておる模樣であります。これらの地域は大体
河北省と
山西省の東半分並びに
察哈爾省、それから
河南省の北部、大体
隴海線以北のようであります。ここに
華北解放区というのがありまして、
華北解放人民連合政府というのができておるようであります。それから西の方では
山西省の西半分と
陜西省及び甘粛寧夏の一部分を合せまして、ここに
西北解放区というのができておる模樣であります。また東の方では
山東省と
江蘇省及び
安徽省の一部を加えまして、ここに
華東解放区というのができておる模樣であります。この
華東解放区は先ほど申しました新四軍を率いております陳毅の
支配下に入つておる模樣であります。それから
目下戰爭の繰返されておりまする
河南省並びに
湖北省方面には
中原解放区というのができておる模樣であります。これの
司令官は劉伯承という中共の將軍のようであります。
それから西の方には、大体
湖北省でありますが、ここには
西南解放区というのができておる模樣であります。
大体以上申しますように
東北解放区
——満州でありますが、
東北解放区と、
華北解放区、
西北解放区、
西南解放区、
中原解放区、
華東解放区、そういう六つの大きな中共の地区ができ上つておるような模樣であります。これが大体の最近の状況でございますが、そこでこの
政府側の態勢というのは一体どういうふうな状況になつておるか、これまたわれわれは正確な資料を持ち合さないのであります。新聞その他の
ニユースを総合したにすぎないのでありますが、
政府側の現在の態勢というのを大体兵力の点、
財政経済の点並びに
アメリカの対
華援助の点、この三つの点から御説明をしてみたいと思うのであります。
政府側の
兵力量につきましては、これまた正確な材料は持ち合さないのでありますが、この六月の終りに、
ちようど当時開封が中共の手に
陷つた直後でありますが、何
應欽國防部長が
行政院の
祕密会議で報告したという数字が新聞に傳わつてお
つたのであります。これによりますと、当時、六月の終りでありますが、
政府側の
兵力量は二百十八万ということが発表されております。これに対しまして中共の
正規軍は百五十万ということを何
應欽國防部長は言つておるのであります。中共の百五十万の
兵力量は今日も大差がないのではないかと思うのであります。大体中共の百五十万の兵力の配置は、これも非常に乱暴な推定でありますが、大体満州に五十万、華北に五十万、それから今日猛烈な戰鬪の行われておりまする華中に約五十万、こういうふうな配置と見て大きな間違いはないのじやないかと思うのであります。これに対しまして
政府側の二百十八万の
兵力量は、その後も御承知のように満州で約三十万の兵力を失つております。また
済南陷落の当時、あそこにおりました王耀武の率いておりました部隊は約十五万あ
つたのじやないかとわれわれは推定しておるのであります。これも失つておるわけであります。また太原の
閻錫山の部隊、これは十万ないし十五万持つてお
つたのじやないかと思うのでありますが、これが
中共側の攻撃を受けまして今日は半減をしておる、こういうふうにいわれておるのであります。これらの兵力の喪失を二百十八万から引きますと、大体百五、六十万の兵力になるのでありまして、兵力の点において今日中共と
政府軍とはほぼ伯仲しておるのじやないかと考えられるのであります。この
政府側の百五十万余りの兵力は実は各地に分散しておりまして、しかも
戰爭全般が昨年の下半期から
中共側に
主導権を握られたという関係上、必ずしも行動の自由を持つておらないように見受けられます。
政府側の百五十万の兵力の大体の配置は、御承知のように北京に本拠を置きまする
傳作儀軍が約二十万ばかりかと想像せられるのであります。太原の
閻錫山の部隊が七、八万ないし六、七万、かように思うのであります。また隴海線の西の端の西安には
胡宗南の部隊が陣どつております。この
兵力量が約十二万といわれておるのであります。この西安の
胡宗南の部隊は中原の作戰に移動を開始したというような
ニユースも出てお
つたのでありまするが、その後移動中であるかどうか、最近は
ニユースが絶えております。それからさらにもつと西の蘭州には張治中の部隊がおることになつておるのでありますが、この
兵力量ははつきりはわからないのでありますけれども、きわめて古い
ニユースでありますが、約二十万の兵力があるということになつておるのであります。今日なお二十万の兵力をもつておるかどうかよくわかりませんが、少し古い
ニユースでありまするが、そういうふうになつておるのであります。それから漢口には、
白崇禧が
がんばつておるわけでありますが、その部隊は約二十万程度じやないか、かように思うのであります。徐州には
劉峙將軍が約二十万ないし二十五万の兵力を持つておつた。最近の新聞でも、二十五万の兵力が徐州脱出して南方に下つておるというような報道があるのであります。それから最近まで鄭州、
開封方面に約十万の
政府軍がお
つたのでありますが、これらの地域を撤退いたしまして、その十万の兵力が大体
蚌埠方面に出ておるのではないかと思うのであります。
南支那では廣東に
宋子文廣東省首席が、河南の
綏靖総司令に同時に任命になつておりまして、その配下は
保安軍十五箇師、約十五万の兵力かと考えられるのであります。そういたしますと、これらの兵力をいろいろ差引いて見ますると、残る兵力が三十万内外になるわけなのでありまするが、もちろんこれもきわめて乱暴な計算でありますので間違つておるかと思うのでありますが、大体この兵力が南京、
上海方面の防衞に当つておる、また当るのでないか、かように考えられるのであります。これを一口に言うならば、案外上海、
南京方面の
防衞軍は手薄であるということが言えるかと思うのであります。
次には
政府側の
財政状況であります。これは
政府側の財政は、最近の
幣制改革並びにその後の
幣制改革の状況によつて最も端的に現われておる、かように思うのであります。御承知のように法幣はほとんど
天文学的数字のインフレを示しておつたわけでありますが、これに対しまして政府は八月の十九日、大英断をもつてこれを一挙に三百万分の一に切下げて、新しい金円制度というのをつく
つたのでありますが、この制度に対しまして、
政府側は一連の経済財政の戰時的な、きわめて消極的なる
財政経済政策をとつて、力でもつてこの政策の強行をして來たわけであります。この政府の財政は、これも一般に廣く新聞に出ておりますように、大体七割ないし八割まで軍事費に使われているものであります。しかもその七割、八割の軍事費というものは、結局赤字でもつて、從來は法幣の増発によつてこれをまかなうという方針をとつて來たのであります。そこに法幣インフレの最大の原因があ
つたのでありますが、新金円に切りかえましても、この根本の点については何ら手が打たれておらないのであります。すなわちその後財政部長の報告によりましても、新金円になりましてから二個月間に政府財政の赤字が五億金円出た。こういうふうに報告をしているのでありますが、結局軍費というものは紙幣の発行によつてまかなわれて來る。こういう方法なのでありまして、そこに幣制を改革いたしましたけれども、結局うまく行かなかつたという原因がひそんでおつたわけであります。これに対しまして先ほども申しまするように、
政府側は非常に強硬な政策でこれを維持しようという一連の経済財政政策を立てたわけでありまするが、これまた新聞をにぎわしましたように、上海においては蒋経國が武力をもつて非常に強硬な経済取締りをやつた。しかしながらこの経済原則に反した取締りというものは結局失敗いたしまして、蒋経國も十一月の初めに謝罪文を公表して辞職をした。同時にこの経済政策の失敗を理由に、オウブンコウ行政部長も辞職をした。これが大体の状況でありまして、この辺からも危機が傳えられている。ある人にいわせるならば、満州の失陷よりもむしろ
上海方面における経済財政政策の失敗の方がより大きな影響を
政府側に與えているのではないか、かように言う向きもあるのであります。これに対しまして一つ問題になりますのは、米國の対
華援助であります。毎日の新聞が報道しておりますように、中國側は米國の対
華援助をしきりに懇願しているのでありますが、この米國の対
華援助の現状について簡單に御説明をしてみたいと思うのであります。
御承知のように今年の初めに、現
アメリカ政府は五億七千万ドルの対
華援助法案を議会に上程したのでありまして、結局議会の削減を受けまして、四億ドルの対
華援助法案がきま
つたのであります。この四億ドルの対
華援助は、二億七千五百万ドルが経済援助であり、残りの一億二千五百万ドルが軍事援助になつておるのであります。最近までのこの援助の状況を見てみますと、きわめて大ざつぱに見まして、二億七千五百万ドルの経済援助の約半分は米國内における物資の買付が済んだというのが大体最近の状況のようであります。しかしこれらの物資は、まだ中國にはほとんど到着しておらないという実情のようであります。軍事援助の一億二千五百万ドルについてはほとんど全額の買付が済んだ、そうしてその第一船が十一月の二十九日に上海に到着する、こういうふうな報道が最近新聞紙上に載
つたのであります。かような状況のようであります。すなわち経済援助については約半額の物資の買付は済んだけれども、まだ中國には到着しておらない。軍事援助については全額の買付を終つて、第一船が最近上海に着いて、続々あとの分も到着するであろうと思うのでありまするが、かような状況のようであります。これに対しまして中國側はさらに多額の、しかも早急の援助というものをいろいろ要求しておるようでありまして、最近も宋美齢夫人が渡米をいたして、トルーマン大統領あるいはマーシヤル國務長官に会見をしておるように傳えられております。これに対しまして一体
アメリカ側はどういう方針をとるのであろうか。これはいろいろの臆測が行われておるのでありまして、また共和党方面では從來からそうなのでありまするが、対
華援助をさらに積極化しろというふうな意見も出ておるのでありまするが、しかしどうも從來のトルーマン大統領並びにマーシヤル國務長官の態度、方針から見ますると、この際多額の援助が新たに行われるかどうかということは、一般に疑問に見られておるようであります。
以上をもちまして大体中國側の状況の説明を終らしていただきたいと思うのでありまするが、そこでもつて中國の内戰の將來というのはどういうふうになつて行くだろうか、これは非常に大きな問題であり、われわれごとき者が一國の運命を占うというような大胆なことはできないのでありまするが、
ちようど最近の
ニユーヨーク・タイムスにコロンビヤ大学のペツフアー教授が——非常に
アメリカにおいても有名な中國通でありまするが、ペツフアー教授が
ニユーヨーク・タイムスに中國問題について論文を寄稿いたしておるのであります。そのごく大要を披露いたしまして私の御説明を終らしていただきたいと思うのであります。ペツフアー教授のこの論文によりますると——これは要点だけをごく簡單に御紹介したいと思いますが、ペツフアー教授によると、中國の事情にいささかでも通じておる者にとつては、満州が失われ、華北が満州と同じような運命に陷るだろうということは、もう久しい前からよくわかつておつたことだということを言い、現在非常にはつきりしている一つの事柄は、
蒋介石政権がよろめいておるということだ。しかしこれが將來どういうふうになるかというふうなことは、もちろんこれはだれにも予言のできないことだが、しかしあるいはこれによつてこの政府は倒れるかもしれないし、あるいはうまく行くならば、一地方政権として
残つて行くというふうなことになるかもしれない。この点においてペツフアー教授は、今後
國民政府、中共の政府が、たとえば
揚子江を境にして南北の両政権の対立というようなことは予想をいたしておらないのであります。むしろ崩壊するか、あるいは地方政権になるか、どちらかであろうというふうなことを申しております。この次に來るものとして、それは連立政権か、連合政府というのが予想せられる。しかしこの連合政府はもちろん
共産党が指導権を握るのであつて、ただお飾り的にいろいろの中立分子を並べ立てるであろうが、結局それは
共産党の指導する政権である。かつてマーシヤル元帥が二年前中國において
國共妥協に努力した当時ならば、純粹の意味の連合政府、連立政権というのができたであろうけれども、今日ではもはやそういう形の連立政権というのは考えられない。かように言つて、結局現在の
國民政府と
中共側の妥協というようなことは見込みがないという意味を述べております。さらに中共の政策といたしまして、
共産党は常に公言しておるがごとく、結局マルキシズムを信奉し、またマルクス主義的な社会を実現しようというのが、彼らが日ごろから口に唱えておるところであつて、
アメリカの一部で行われておるような、
共産党は單なる農業改革者であるというふうなものとは違うということを言つておるのであります。さらに中共が今後とるであろう政策について、対内政策と対外政策とにわけて、対内政策については、
中共側は中國の工業技術というものは非常に遅れておる。また余剩資本というものもほとんど欠いておる。かようなきわめて工業化の程度の低い國であるので、ただちに共産化をやるというようなことはできないということを中
國共産党はよく知つておるので、おそらくはさような純粹の共産主義的政策をとるに至るまでは、まだ数段の過渡期を経ることになるだろう。この過渡期においてはかなり高度の私有財産制というものや、個人企業制というものを認めて行くであろうし、また政治的には代議的民主政治というようなものもつくつて行くであろう、かようにペツフアー教授は言つておるのであります。対外政策については、これは最近のユーゴスラビアのチトー問題と関連いたしまして、このチトーの問題というのは、中
國共産党と関連していろいろな意味において興味があるというようなことを説明いたしまして、まず中國人というのは、ユーゴスラビア人がスラブ族に対して感ずるような血統的な近しさというふうなものを、中國人はロシヤ人に対しては持つておらない。のみならず中國人は、一般的に言つて本能的に白人というものに対して猜疑心を持つておる、かような民族であるということ。さらに中國の
共産党というのは、過去ほとんど三十年間にわたつて独自の歩み方をやつて來た、きわめて自主性の強い
共産党である。こう言うのであります。それから第三点として、中國において
共産党が成功するためには、國内の工業化ということが必要である。そうして中國における工業化を実現するためには、どうしても海外から資本財を獲得して來なければいけない。これはクレジツトによつて資本財というものを手に入れなければ、中國の工業化ということはできない。かようなクレジツトによつて資本財を供給し得るのは、結局米國以外にない。そうするならば、結局米國の援助がなければ工業化はできず、工業化ができなければ
共産党は成功しない、かようなことも考えられる。さような意味において中國の
共産党はあまりにロシヤに接近をして、そうして米國側と疎遠になるというふうなことはしないかもしれない、こういういろいろなことが考えられるのであるけれども、しかしこういういろいろな事実があるにかかわらず、最近の中
國共産党の過去二箇年の動きというものを見ておると、結局米ソ関係というものを如実に反映して來ておる。こういうような意味において、米ソの関係が今後対立惡化するというようなときには、中
國共産党は当然にソ連側に属することになるだろう、かようなことを言つておるのであります。最後に米國のとるべき方法として、ともかくも中國の
共産党が今後かりに米國との関係を断つというような場合を考えてみましても、さような場合には國内の工業化なり、あるいは行政機構の整備なり、あるいは一般の組織化というような点に多年を要するのであつて、その間には米ソの今日のような対立ということもどう動くか、これは予測がつかないので、場合によれば、米ソの両方の妥協によつて、中國問題等についても新たな解決の方法があるということも考えられるかもしれない、かりにそれが考えられないようなことが起るとしても、ともかく米國としては、その際における行動の自由というものを保留しておくのが賢明な方法だ、かように言つて、米國が今後中國に対してとるべき道は三つある、一つは現在の援助を継続することだ、しかしこれはきわめて無意味なことで、ただいたずらに金をまきちらすだけだ。第二には強力な干渉を行つて、中國をテーク・オーバーするということだ。第三は全然放任して手を離すということだ。これら三つにはいろいろの危險がそれぞれ伴うのだけれども、いろいろ考慮して見るならば、結局放任をして、そうして米國側としては行動の自由をこの際保留すべきだ、かような結論を出しておるのであります。この結論は別といたしまして、このペツフアーの論文は、中國の將來のいろいろの問題について、いろいろな意味において示唆に富んでおるように思いますので、ちよつと御紹介を申し上げたわけであります。
以上をもちまして私の説明を終らしていただきたいと思います。