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渡邊(義)證人 それはたしか十月の六日ごろだ
つたと思いますが、当時横浜に駐屯しておられたアメリカの第八軍の
バラード大佐が東京に出てこられまして、鉄の問題について話をしたいから出てこいという呼び出しが当時経済團体連合会の渉外部長であられた
小松君を通じてありまして、私は当時
日鉄の社長もいたしてお
つたものでありますから、
日鉄と
鋼管の代表で参りまして面会したことがあります。その面会した当時の
バラード大佐の話の詳細は一々
記憶しておりませんが、
終戰後の
日本の鉄鋼業の生産状況その他を中心ににしての話があ
つたようであります。私の
記憶に残
つている最後の要旨は、結局するところ今
日本の産業復興のために鉄鋼業が起ち上るということが非常に必要なことだ。それで今敗戦國の立場から輸送
関係その他で海外の物資を直接持
つてくることはできないのだから、
從つて戰災
あとの屑鉄とか何とかいうような目さきにあるものを種にして早く産業を再開することが最も必要である思われる。それに対して占領軍が没収して破壊した後の
兵器の残滓も渡してやることになるから、それをもとにして一刻も早く生産を再開する方がいいと思う。これはむろん
政府がやるべきことではあろうけれども、何しろ敗戰直後のことでもありまするし、当時は中央
政府で掌握しておりました中央集権的のいろいろな
権限が皆地方に大きく委譲されたような機構に
なつた直後でもあ
つたせいでありましようが、中央
政府で一々具体的の活躍をすることもおくれたと申しますか、取計らいにくいような情勢であ
つた時代なものでありますから、
政府直接がやるよりも、そういうことを
処理することに一番堪能な
業者がみずから立
つてこれを
処理して一刻も早く生産再開をはかることが緊要だと思う、よ
つてそういう用意をしておいた方がよかろうという
趣旨の
お話を十月六日に受けたわけであります。しかしこれはその当時の混沌とした時代でありましたから、私どもの受けました感じは、非常に好意的に
日本の産業復興を考慮された上の
お話であるというふうに感じたわけであります。しかし当時呼び出されました
日鉄と
鋼管双方とも当時の製鉄業から申しまして主要のメーカーでありまするし、殊に
鉄鋼統制会その他の
仕事も担当しておる立場から考えまして、これは申渡しを受けたからとい
つて一業一社の
仕事として
処理すべきもりではない。そこで経済團体連合会というものがそういう
趣旨でできているわけでありますから、一方経済圏体連合会へ
連絡をとりますと同時に、また
政府側の方にも当日の会見の模様を
連絡報告いたしまして、とにかくその線に沿
つてどういうふうに動いたらいいかという具体的処置を講ずることが妥当だということを考えたわけであります。従いまして一方経済團体連合会の方へも
小松君準その
趣旨を
報告いたしまするし、また当時われわれの方の経済團体につきましては
商工省が主管官廳であ
つたわけでありますから、
商工省の方へも出頭いたじまして、当日会見の際先方の
指示された
事項を
報告したへわけであります。從いまして、当時の
商工省の私どもの
報告した
局長は奥田
鉱山局長であ
つたわけでありますが、
局長からも、
政府以外の当
業者にその話があ
つたということも
ちよつと筋違いのようにも考えられるけれども、一方占領軍の方からの申渡しがあるとすれば、
政府側は
政府側としてその話をもとにして処置を講ずるとしても、一應はその線に副う用意だけはしたらよかろうという
趣旨の
お話があ
つたと思うのであります。そのことも併せて経済團体連合会の方にも
報告いたしまして、それに対して
業者側としてこれに應ずる用意をどうするかということを
相談するような機構を、経済團体連合会としてもつくる方がいいと進言したわけであります。その後また横浜の方へさらに呼出しがあ
つたようでありますが、横浜の方へ呼出しがあ
つたときには私は参りませんでした。そこでなお製鉄
業者のほかに、われわれ
業界の者としては白ものものと言
つておりますがアルミニウムのようなものを中心にした、航空
兵器を中心にした、
兵器の残骸の
処理ということも、同時に問題にな
つていたものと見えまして、横浜の会見のときには、鉄の
関係者以外に、白もの取扱者としての主要メーカーの各社の方も同席せられたそうであります。
兵器の残骸としては鉄及び非鉄金属の白ものを総合して、それの実行の衝に当るように
指示を受けたという感じでありまして、それを経済團体連合会としての外郭的の
仕事にしてや
つていこうという意味で考えられましたのが、
兵器処理委員会というものにな
つている仕組なのであります。私どもは経済團体連合会でそういう外郭的な
仕事を取扱
つてもらおうと考えました。私の考えは、まあ
民間團体に呼びかけられたといたしましても、
兵器の残骸でもありますし、その当時どのぐらいの量がどういうふうに集まるのか、そういう予測がなかなかわれわれには思い及ばないことであります。指名された二社なり五社だけで
処理すべきものでないということもありましたので、
仕事はとにかく明るみに出して
仕事をすることが必要だという
考え方で、経済團体連合会の中にそういう機構を設けてもらうことを進言したわけであります。それは十月の初旬から中旬にかけてのことなのでありまして、私どもが
鉱山局長にお会いしましたのは、十月六日の第一回の
バラード大佐との会見の翌日か翌々日でなか
つたかと思います。その当時でも今
委員長の
お話の二十四日附の先方の覚書の内容がどういう内容のものであ
つたかということは、私どもにはさつぱりわからなか
つたのであります。それから次第に進んでまいりましたところが、
商工省側も内務省側も
連絡があ
つたと見えまして、そういう基本的な覚書があ
つて——
ちよつと
あと戻りいたしますが、最初
バラード大佐にお会いしてそういう
お話を申し受けました当時の私自身の感じは、軍が没収している
兵器を直接
民間團体に渡してやるから、それで生産再開を促進すべしという筋の
お話かな
あと感じたのでありますが、
あとでだんだん聞いてみると、
日本政府に一括して返還する物資のうちの
兵器の問題は、生産再開に早く使う方がいいのだから、その実行の衝に当る者は一番熱意をも
つて努力するだろうということで、その者を銓衡してやらせようというお考えがあ
つたようです。先方の覚書を中心にして
政府の
動き方がどうあるのかについては、実は不案内であ
つたものですから、一方は経済團体連合会の方で五社の者がはいりまして、いろいろ官廳側と
連絡をして
相談いたしますうちに、
日本政府の方でも、
兵器の残骸だけと言わずに、先方から返還を受けられる物資全般を総括した物件の
処理についての根本方針をきめられて、その方針に即して
兵器の残骸
処理の筋を動かす必要があるという御方針が、漸次まとま
つていくようなかつこうになりましたために、私どもとしての
仕事の選び方も、その
政府の
動き方に即して動かねばならぬ状態にな
つてまい
つたのであります。從いましてその方針が、最初は商工次官からの通牒に基いて、とりあえずそれを処置していくような
指示を受けまして、それに副うて動いておりますうちに、次第に
動き方についての
政府の方針も具体化してまいりましたものですから、たしか十月三十日附で
兵器処理委員会の創立発起人総会を開きまして、それで定款その他の議案をきめたわけであります。