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黒澤公述人 私は横浜
経済專門学校の教授
黒澤清であります。はなはだわずかばかりでありますが、数年來英米のパブリツク・コンポレーシヨン等の問題を研究して参りました一研究者の立場で、自由な
意見を申し上げてみたいと思うのであります。ただ時間の
関係上、この
法案の全勲について御
意見を申し上げる余裕もありませんので、大体
財政及び
会計の面について考えを申し上げてみたいと思います。主としては第
五條の資本金、第三十六條の経理原則、第三十
八條の
予算、第四十條、第四十
一條の決算、第四十三條の交付金並びに納付金、第四十四條の
借入金、同じく第四十
五條の
借入金償還の問題、それから第四十七條の現金出納、第五十
一條の
会計檢査、それらの條文だけに一應限定いたしまして、
意見を申し述べてみたいのであります。
まず第
五條の資本金に関する
規定につきましては、これを拜見いたしまして非常に大きな疑問に逢着するのであります。この條文に限りませんが、全体としての感想を申し上げてみましても、この
國有鉄道法案によ
つて組織された新しい
公共企業体の
運営というものが、現在までの運輸省の内局としての
國鉄の
経営方針に比べて、むしろ改惡ではあるまいかと思われるような点が多々あるのであります。まずこの第
五條の資本金というものは一体何を
意味するかということが十分に理解しかねるのであります。しかしこの條文を生かして解釈すれば、どういうふうにとられるかということも考えてみたいのでありますが、昨年度の
國鉄の決算報告を見ましても、赤字はすでに百八十五億にな
つております。本年度末までの予想を考えてみると、おそらくは五百億あるいは六百億になるのではあるまいかと思うのであります。それに対應して負債側の
借入金に該当するものが、昨年度までで四百七十億あるのです。これまた年末までの予想では、おそらくは六百億を越えるであろうと思うのでありますが、この第
五條の資本金というのは、赤字や
借入金の問題を度外視して考えているのであろう。それを度外視して考えておるのであれば、第
五條はきわめて合理的な
規定であると思うのであります。
國鉄の現有財産というものは、固定
資産が二百億、その他
事業用
資産を加えて三百五十億あるのでありますが、あるいは年末までにはこれまた四百億を越えるでありましよう。そこで四百億の
資産を政府が全額出資して、四百億の資本金をも
つて新たに
公共企業体を設立する、こういう観念であるならばまことにけつこうだと思うのであります。もしもそういう
意味において第
五條を設けたのでなければ、第
五條をもつと明確に
規定しなければ、いざ
公共企業体としての
営業開始というときに、いろいろ困る問題が生ずるのではあるまいかと思うのであります。そこで第
五條を、全額出資四百億の自己資本をも
つて公共企業体として設立する、こう考えますならば、
從來の赤字はこの際切り捨ててしまう、
借入金は政府の公債としてそのまま残すという方式で一向かまわないので、もしもこの
借入金をも包括的に
公共企業体に移すというならば、そのことを明確に第
五條にうたわなければならぬと思います。またこの
厖大な
借入金を承継するならば、か
つて外國において
公共企業が設立された場合になら
つて、有形
資産以外の無形
資産を出資する。すなわち
営業権を出資する。こういうような観念に改められるのが合理的ではあるまいか。こういうふうに考えます。第
五條はある
意味において技術的な問題でありますから、
日本國有鉄道の本質的な問題から、一應別個に切り離して考えてもよろしいのでありますが、非常に重要な点は、第三十六條以下の経理原則、
予算決算等に関する
規定であると思います。これは第
一條の精神から言うならば、第三十六條から第五十
一條に
規定するような
規定は、出て來ないはずだと思うのでありますが、第
一條の精神と反するような多数の
規定がそこに網羅されている。おそらく想像いたしますのに、このパブリツク・コーポレーシヨンの設立は、
國鉄の
労働関係の
改正が主眼であ
つて、他はこの
改正を將來に延期する。暫定的にまず名前だけの
公共企業体にして、
労働関係だけを主眼としたというならば一應はわかるのであります。しかしせつかく
公共企業体の設立をいたします場合に、將來の
改正を阻害するような
規定を残置したままで進むということは、非常によくないのではないか。こういう考え方から、第三十六條
改正の私の所見を申し上げてみたいと思います。
このパブリツク・コーポレーシヨンというものは、世界的な傾向の
一つとして現われているものであ
つて、英國のナシヨナリゼーシヨンにおいて、英國の
鉄道、英國の鉱山等はすべてパブリツク・コーポレーシヨン、
公共企業体の形態をと
つております。それからまたアメリカにおいても一九三三年以來百数十以上に上るパブリツク・コーポレーシヨンがつくられておりますが、これらにはすべて一貫する
思想がある。決してこれは必ずしも社会主義的イデオロギーでありませんで、
公共の
福祉にかなうように
國有企業を
経営する。あるいは單なる私
企業として
経営するよりは、むしろ
公共企業として
経営する方が
國民の
福祉に合致すると思われるものを、パブリツク・コーポレーシヨンに編成がえをしておるのでありまして、その場合には明確な
公共企業経営原則というものがあるわけであります。その
経営原則がこれらの
規定の中で全然現われていないことは、非常に困ることではないかと思うのであります。それはひいては
労働関係法の
規定とも、そぐわないものになりはしないかと思うのでありますが、
一般論はさておいて、まず三十六條の経理原則及び
運賃に関する原則でありますが、この三十六條を見ますと、將來「
鉄道事業の高能率に役立つような
公共企業体の
会計を規律する
法律が制定施行されるまでは、」現在のままで行くとな
つておるのであります。早晩
公共企業経営の世界的通念に從うところの、新しい
規定ができると予想しなければならぬのでありますが、しかしその予想を裏切るような
規定が、三十
八條以下にたくさん並んであるのであります。この
改正を妨げるような
規定を出しておきながら、第三十六條の前半においてそういう新しい
法律ができるまではとうた
つてみたところで、意義がないと思うのであります。でありますから、第三十六條それ
自体はこれでもいいのでありますが、將來
改正することを考えておるならば、当然三十
八條以下をそれに合致するようなものにしてほしいと、私ども一研究者の立場で考えるのであります。特に考え合せられますことは、專賣公社というものが同じような方式でつくられる予定にな
つております。
國有鉄道と專賣
事業とをま
つたく同じものと考えて、そのいずれかに右へならえをするような
規定のみが、あげてあるような思うのでありますが、
國有鉄道というものは、專賣
事業とはま
つたく違う
経営権利を持
つていなければならぬと思う。
日本のタバコ專売は
財政收入の確保という大きな目標が與えられておりまして、自然
財政收入の確保という面から、大藏省の強い
監督を受けなければならぬことは当然なのであります。ところが
鉄道事業というものは、
財政收入の確保が
目的にな
つておるのではありませんで、当然
國民経済の輸送体系の完全なる維持ということが目標にな
つておるし、
國民に低廉豊富な輸送力を給付することに
目的があるのでありますから、できるだけ
運賃は低くする方針を立てなければならぬ。
財政收入の確保とは何の
関係もないのでありますから、この
公共企業体に対する
監督方針というものは、おのずから專賣
事業と異ならなければならないにかかわらず、その考慮がこの
法律において拂われていないということが、三十六條の簡單な文言の中にも、現われておるように思うのでありまして、この点について修正を要しはしないかというふうに考えられるわけであります。
次には
運賃でありますが、
独立採算制の原則というものが、
公共企業体について強い要求にな
つて來ておる。それが
日本ばかりでなく、およそ
公共企業体というものを設立したところのすべての國において、共通の要求であ
つたのであります。その観念はほとんど
國有鉄道法案にはとられていない。わずかに
運賃について、そういう
意味の
規定を將來つくるように出ておるのであります。アメリカでも
鉄道の
運賃決定の基本原則は、公正報酬の原則ということにな
つておる。パブリツク・コーポレーシヨンをつく
つた以上は、この公正報酬の原則の上に立たなければ、労働組合とのコレクテイヴ・バーゲニングに應ずる
経営主体というものが成立し得ないのであります。その際にこのパブリツク・コーポレーシヨンに代表権を與え、
経営責任を與えましても、眞の
意味において労働組合と
團体交渉をするということは、不可能になりはしないかと思う。その点が大体第三十六條に対する
意見でありますが、第三十
八條の
予算であります。
國有事業でありますから、
國会がこれに対して適切なる
監督を加えるということはもとより言うまでもない。
國会が
國有事業を
監督する方式というのは大まかに言
つて、事前
監督と事後
監督の
方法があるわけでありまして、事前
監督は
予算の方式により、事後
監督は決算の方式によるものでありますけれども、この事前
監督の
予算方式においてもパブリツク・コーポレーシヨンにおいては、おのずから他の
行政官廳とは異なる
予算方式がなければならない。これらの
予算方式については、外國の
公共企業体では非常に長い
経驗が積まれて來ておるわけでありますが、そういう
経驗が取入れらるべきであ
つたと思うのであります。もしも現在の
事情がそれを許さないならば、それを將來取入れることができるような余裕を残すべきではあるまいかと思う。それからまた現実の問題といたしましても、この第三十
八條に掲げてあるような
予算の観念では、第
一條の根本趣旨にも反するし、それからまた將來
公共企業体を能率的な
運営をなさしめる
意味からい
つても、非常な妨げになりはしないか。
國会が
予算によ
つて公共事業を
監督する場合のその
予算というものは、彈力的な
予算でなければならぬのであ
つて、このことはアメリカの
公共事業統制法の中にもはつきり書いてある。たしか百
二條であ
つたかと思いますが、そこには
公共企業体の
予算は他の
行政官廳の
予算とは異なり、彈力的な
予算、すなわち
事業計画でなければならない。その
事業計画を
國会は詳細に
審査いたしまして、これに承認を與えるということになりのではありますが、
從來の
行政官廳の
予算のように、款項目節によ
つてその行為を拘束するというものではない。決算というものは
事業官廳の落合、特に
公共事業の場合においては、
從來の
行政官廳の
予算と非常に異なる
意味をも
つていなければならぬ。その点は四十條、四十
一條について御
意見を申し上げる際に、あわせて申し上げたいと思うのでありますが、
予算と決算との関連が非常に密接な
関係をも
つておるのでありまして、
從來の他の
國会予算の性質からいうならば、決算というのは
予算が遂行せられた結果をいうのであります。ところが
企業の決算というのは、
予算が遂行せられた結果でありませんで、
事業計画が遂行せられた結果であります。
予算というものは、この場合
事業計画でありますけれども、
予算が遂行せられた結果が決算なのではなくて、
事業活動の結果が決算なのでありますから、この
事業決算によ
つて國会が
國有事業を
監督する場合においても、
從來のような
予算が幾ら使われたか、正不正があ
つたかなか
つたかを吟味するだけでは足りないのであ
つて、第
一條の趣旨に合致するような
事業活動が行われたかいなかを、決算によ
つて監督しなければならない。こういう
意味において第三十
八條の
予算の方式や観念を相当大きくかえないことには、
公共企業体を設立した意義がないことになるのではないかと思います。これを具体的に申し上げる余裕がないので、簡單な要領にとどめますが、たとえばアメリカの
公共企業体の場合で言えば、建設
予算だけは
國会の議決によ
つて拘束する。建設
予算以外の
予算は、
國会はこれを
審査して承認するにとどめる。そこで
事業遂行の結果が計画と異なる場合には、計画と実績との差異を説明せしめて、
経営責任者の
責任を追給する。こういう形にならなければならない。
從來のような
予算の拘束を行
つておりましては、とうてい能率を上げることはできないのであ
つて、
從來の運輸省が、官僚的な
経営をや
つておるというふうに非難された一半の責は、
予算制度にあ
つたろうと思います。なおもう少し具体的に補足いたしますならば、もしもこの三十
八條のような
予算制度を固執するとすれば、実際の
日本國有鉄道の
経営は非常に乱れはしないかと思う。少くとも四月一日に新しい年度が開始せられるものといたします場合に、その三箇月前に
事業計画が
確定していなければ、とうてい現実の
企業活動を円滑に進めることができないというのが、これまでの
経驗であると思うのであります。
國有鉄道のような
厖大な
企業体になりますと、その物資調達の計画は非常に
厖大なものでありまして、全國至るところにおいて、その末端
機構がいろいろな物資を獲得、調達しなければならない。その獲得、調達の準備をするためには、
予算が、つまり計画が
確定していなければならぬのであります。もしも三十
八條をこのまま実施いたしますならば、とうてい三箇月前に
予算が
確定して、それに順應するような現実の物品調達はできないのではないか。資金計画と現実の物品調達とが非常にちぐはぐなものにな
つて來はしないか。これを避ける
方法は三十
八條を將來
改正するとして、目前の應急策としてならば、便宜
國有鉄道の
予算に対して、ある
範囲において
國会が事後承認を與えるような一箇條を入れるのが、いいのではないかというふうに考えられるのであります。ともあれ第三十
八條の
予算の
規定は、
從來の文部省等の消費
官廳の
予算規定と、大差のない
予算原則の上に立
つておるわけでありまして、これまでパブリツク・コーポレーシヨンが発展して來た進歩した
財政技術というものについて、何も顧慮されていない。こういう欠点があるように思います。
それから次に第四十條、第四十
一條の決算の
規定でありますが、この決算の
規定が私どもに十分わからない点がある。これで見ますと、決算の観念が二つあるように思うのであります。第四十條で言うところの決算というのは、これが本来の
企業決算でありまして、
日本國有鉄道は、毎
事業年度ごとに財産目録、貸借対照表及び損益計算書を作成し、これを
運輸大臣に提出して承諾を得なければならない。こうあります。この方式は
一般に私
企業のと
つておる決算の方式であります。これを
公共企業体の決算方式に取入れたことは正しいのでありますが、四十
一條に参りますと、なおもう一歩別の決算の観念が加えられておる。すなわち「
日本國有鉄道は
予算の
形式に準じ、毎
事業年度の決算報告書を作成し、
運輸大臣を経て
大藏大臣に提出しなければならない。」ここに決算の観念が二重に現われているのでありますが、四十
一條の決算というのは、在來の
予算を決算するという観念であります。四十條の決算は
企業の
活動を一定の期末に決算するという観念であります。こういう二重の方式は、この
國有事業があくまで
國有であるから、こういう二重の方式をとるのだという説明があるかと思うのでありますが、百尺竿頭一歩を進めれば、第四十
一條の観念というものはいらないのではないか。第四十
一條にかえて第四十條の決算で足りる。そうして
予算と第四十條の決算との食い違いは、
経営責任者の
責任として追究するという、
國会の事後
監督に委ねるべきではないか。もちろんその間において
会計檢査という方式が介在いたしますが、この観念から
会計檢査院の
檢査原則というものが、根本的にかわ
つて來るわけであります。第四十
一條の観念は、およそ
公共企業体の決算の観念とは、縁遠いものであるように考えられます。
次には第四十三條の交付金と納付金の問題であります。この交付金の問題については、
國鉄が赤字を生じた場合には、その限度において
國家がこれに交付金を與えて補給するという観念であります。これは独立採算の原則に合致しないではないかという風評があるようでありますが、これは必ずしもそう解釈しないでいいと思うのでありまして、公正報酬の原則が確立しておるなら、第四十三條は
意味を持
つて來る。
企業体としては公正報酬の原則の上に立たなければならぬけれども、およそ
國有事業であるから、特にインフレに際して
國民の
運賃負担力の低い場合においては、
國鉄はときとして原價を割
つても、低
運賃に甘んじなければならない。從
つてそういう場合に、その限度内で交付金を與えるということは少しもおかしいことではない。問題は公正報酬の原則を立てないで、第四十三條第一項のような
規定を設けているというところにあるのであります。
それからその第二項の納付金の問題でありますが、
國有鉄道は利益を生じた場合には、その中のある額を政府に納めなければならない。これも独立採算の原則から言
つて少しもおかしくない
規定ではありますが、この
國有鉄道法案の趣旨から言うと、矛盾したものを含んでおる。第
五條において資本金というものをいかに定めるかということが、非常にあいまいにな
つておるのでありまして、資本金の
定め方と納付金の問題とは、非常に大きな
関係を持
つておる。何となれば、
会計というものは資本と收益とを明確に区分するというところに
意味がある。政府の
一般会計はそういう
意味を持
つておりませんが、
國有事業であれば、それが
企業である限りは、一定の資本を持
つており、そして獲得する收益が幾ばくであるかということを決定するためには、資本が定ま
つていなければならぬのであります。赤字をそのままもし承継する。
厖大な
借入金をそのまま承継するという方式で進んで、なおかつこの四十三條第二項のような
規定を挿入いたしましても、これは羊頭を掲げて狗肉を賣るようなものでありまして、実際には何の
意味も持
つて來ないのであります。この第二項に
意味を持たせるためには、まずその前提に当ることをもつと明確に
規定してかからなければならない。第一項については、公正報酬の原則をはつきり打立てなければ
意味がない。第二項については、
國鉄の資本の
制度というものをはつきり立てなければ
意味がない。こういうことになるかと思うのであります。
それから第四十四條並びに第四十六條は、
借入金の調達の
方法と、それからその償還計画を
規定したものでありますが、四十四條については、午前中の
公述人の御
意見とま
つたく私は同
意見でありまして、政府からだけしか借入れができない。こういうような
公共企業体というものはおよそ考えられない。それならば
從來の運輸省内局たる
鉄道総局のままでおけばよいのでありまして、およそ外部に、政府の
行政活動の外に
公共企業をつくる以上は、
一般資本市場を利用しないという法はない。ことに大きな生産信用を持
つておるはずの
國鉄が、その信用を利用して、赤字公債でないところの、建設的な借入れができないという法はないのであります。もし四十四條の方式で行くならば、この
日本國有鉄道の
借入金は、すべて赤字公債の中にまぎれ込んでお
つて、むしろ逆にインフレの促進のもとになる結果になる。資本市場を利用せしめなければ、
國有鉄道が
経営の能率を増進するような、何の刺激もある得ないわけであります。これは他の
公述人とま
つたく
意見の一致するところでありますから、詳しくは申し上げません。四十六條の
借入金償還計画でありますが、これまた根本的に四十六條を入れても
意味がないのであります。
借入金の償還を計画するには、その財源がなければならぬ。その財源というものがまた
借入金であ
つては、これはただ肩がわりでありまして、償還計画にはならない。およそ
借入金の償還ということは、言葉をかえて言えば、自己資本を増大することなのであります。
借入金の償還は、すなわち自己資本の増大なのでありますから、その財源というものが
存在しなければ、四十六條の
意味を持
つて來ない。そこで四十六條が
意味を持
つためには、これまた公正報酬の原則のようなものがなければならないし、それからまた四十三條の納付金の
制度等についても、なお一項を加えなければならない。
借入金償還の財源というのは、
営業收入以外にはないのであります。
営業收入以外のところから
借入金を返す金というものを求めても、これは繰返すようでありますが、再び赤字
借入金を繰返すほかない。そういう点から見て、この四十六條の
意味するところが、私どもには十分に理解できないことになります。
それから四十七條の現金出納に関する
規定であります。この
規定がま
つたく
從來の運輸省が拘束せられてお
つたところの、國庫金取扱いの
制度から一歩も出ていない。
公共事業が発展して來た径路を見ますのに、
公共事業の
收入、
支出というものは、生産
活動に伴う
收入支出でありますから、國庫金のような方式をと
つて、常に
收入はすべて國庫に入り、
支出はすべて國庫より出て行く。こういう方式をと
つて、いかにして
経営の
財政を合理化するかということは非常な疑問であります。またこういう方式をと
つて、どうして労働組合の
團体交渉に應ずることができるかということも疑問であります。それから
從來の運輸省としての
國鉄が、その莫大な
收入を非常に浪費的に管理してお
つた。浪費的といいますのは、もつと有効に
経済的に、合理的に運用する金を、ま
つたく死んだ金として國庫の中に寢かしておいた。何ら
國鉄の
企業活動に伴う信用を背景にして、これを運用していなか
つたという、その弊をそのまま受継ぐのでありますし、それからまた現実の問題としても、あの全國津々浦々の無数の停車場からあげられる莫大な
收入を運搬しなければならない。國庫に納付するために非常な労力と危險を冐して運搬しなければならぬ、それからまた再び無数の人に
給與を支拂わなければならぬ。あるいは莫大な物品を調達するのに再び國庫から出して、これを
支出しなければならぬという、非常に非
経済的な現金管理をや
つてお
つた。その方式をそのまま受継いでお
つた。もちろんその便法として振替拂いというような
制度があるにはありますけれども、これは一種の便法であり、十分な効果を発揮していなか
つたのでありますから、このような
公共企業体がつくられるにあた
つて、思い切
つてこの現金管理は、
民間銀行かあるいは日銀でもいいのでありますが、一應國庫取扱いの
形式から離脱させるという措置をなぜとらなか
つたか、疑問に思うのであります。これは要するに專賣公社と
國鉄のような
事業とを一緒にして、すべてそこへ出入りをする金は國庫に入れて、
大藏大臣が嚴重に
監督しなければならぬという、非常に古い官僚的
思想がこびりついてお
つた結果である。遠慮なく申し上げますと、かような感じであります。
最後に第五十
一條でありますが、そこには、
日本國有鉄道の
会計については
会計檢査院が
檢査するとありますが、これはもちろん当然のことであります。けれども
会計檢査院が
檢査するというその
檢査の原則が、何ら
公共企業体の精神と合致していない。これは要するに四十條、四十
一條において
檢査の観念が二重にな
つておるところから來ておると思うのでありますが、この
会計檢査院はあくまで
從來の
官廳の
会計を
檢査するという建前をと
つておるから、こういう
規定になるのであります。これまたアメリカの例をたびたび引用するようでありますが、アメリカの
公共企業体統制法第百
五條においては、明確に
公共企業体の
会計檢査は
会計檢査院が行うが、その
会計檢査の原則は
一般行政官廳の
檢査の原則と異なり、商事原則に從わなければならぬと明文をも
つて規定しておる。その明文をも
つて規定した根本趣旨は、決算の観念というものがま
つたく異な
つて來たことから來る。
会計檢査院はもちろん憲法に基く
会計檢査院法に基いて
会計檐陽をやるのでありますけれども、その檐査の原則も
公共企業体に対しては、そういう別個の立脚の上に立たなければならぬ。それを第五十
一條に現わし得るようにするためには、
先ほど申し上げたような決算の観念を、改めなければならぬのではないかと思うのであります。
以上非常に大まかに遠慮なく考えるところを申し上げました。その他の條文についてもいろいろ疑問はございますけれども、私の專門はもつぱら
財政及び
会計にありますので、これらの点だけ申し上げます。