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專門調査員(柴田義彦君) では、これから
東宝爭議に関する調査の前回の続きを御報告申上げることにいたします。前回には、東宝の
労働運動史ともいうべき、東宝の会社側と
労働組合側との関係の沿革を申上げ、次いで
東宝株式会社の現在までの沿革、
事業内容等について御説明申上げました後、本論に入りまして、先ず、会社側の主張、見解を御報告申上げたのでございます。本日はその続きとして、日映
演労働組合側の主張、見解を申上げまして、最後に第二組合たる全映
演労働組合の主張を申上げたいと存じます。
先ず最初に日映
演労働組合側の主張、見解を申上げます。これから私が申上げますことは、
労働組合側の言い分でありまして、私の意見ではございませんから、念のために申添えて置きます。
東宝は果して首を切らなければ、
赤字克服は不可能であろうか。日映演は世のすべての人々に眞の実情を訴へ、公正にして妥当なる判断を仰ぐために、馘首問題、経営の立て直し問題が東宝の内部において、解決することができる問題であること、又そうすべきであることを御説明申上げたいと存じます。
組合の分裂が、経営不振の理由となり得るか。会社側がいうように、組合が一つあるために、
中央経営協議会が八十数回に及んだので、
経営本來の業務に專念することができなかつたことが、赤字の原因であるというならば、それは余りにも経営者の無能を暴露することになります。
経営協議会を開くことは、
経営本來の業務であります。経営の円滑は、
経営協議会において初めて得られるのでありまして、一つの組合を操ることは、世界中の資本家の最も好むところであります。組合が分裂していなかつたならば、今回のような大胆な首切りは会社が絶対に考えなかつたことでありまして、組合の分裂によつて、配置轉換も困難となり、不生産的な人員の増加、能率が低下したことは認めるが、それは一昨年の秋のストライキを切りますために、多額の金を投じて組合の分裂工作に成功した会社の
責任そのものであります。会社は
團体協約を去る三月三十一日を以て無効と稱したその夜、
演劇從業員組合を作らせ、かねて準備したところの
クローズドシヨツプの
團体協約を翌朝までに調印を終るという、鮮やかな手並みを見せて、又
一つ組合をふやして置きながら、一方で組合の併存が経営を困難にしたなどというのは、余りにも得手勝手であります。組合の分裂によりまして、
却つて会社が莫大なる利益を得ているのであります。昨年を通じて、賃金が組合間で相互に牽制し合つて、低いところに落ちついて
しまつたのであります。
新東宝が会社と示し合せて、第三組合を作つて、分裂してから互いに、感情的に対立して結果、両方に激しい競爭心がもえ上り、作品の上で競爭し、新東宝は量と商業主義をねらい、東宝は質と
文化的價値とをねらつて、両者は懸命になり、漁夫の利を得ているのは会社ばかりであります。
分裂の際に、会社が組合員の帰属について各自の放恣な行動に任せきりで、無爲無能に終始しました結果、能力技術のアンバランスを生じたのは、会社にと
つて痛手でありましたが、責任は何ら手を施し得なかつた会社にあるのであります。
又会社は、組合が経営権の侵害をしばしばやつたようにいつているが、そういう事実は全然ないのであります。
中央経営協議会にかけられた事項の主なるものは、会社が発表しているように、第一に、給與の問題で、第二に、組合との
クローズドシヨツプについての解釈問題でありました。これらは会社の経営権の問題ではなくして、第二の問題は、会社が二つの組合と二重契約をしたことから生じた会社に責任のある問題であります。部別協定で人事問題が長時日を要したということは、
営業部門に特に多かつたが、これは会社の
利益代表達が、優柔不断であつて、
経営能力に欠けていたか、職場の民主化が遲れていて、不明朗な人事が多かつたのが原因であります。撮影所の
企画審議会で組合の力が強過ぎたというけれども、出
來上つた作品の結果を見れば解るように、公開された十数本の作品は、いずれも最後的には会社が十分の見通しを以て製作を決定したものであつて、むしろ会社の一方的の意思に、組合が妥協した作品も二、三に止まらないのであります。「女優」が多少の日数と費用とを要して、收入が挙がらなかつたことは認めるが、昨年度の
優秀映画第三位を得たこと、営業部が封切の時期その他の賣り方を誤つたという大きな事実を見逃がしてはならないし、
経営者側がよく見通しを立て、失敗すると思えば、断乎中止すれば、組合も藝術家も無理にそれを押し切ろうとは決して言わないのであります。
先ず赤字の原因はいずこにあるか。東宝の経営不振の原因は、会社がいつているように、組合が分裂してるいためではなく、むしろその逆であるのであります。又組合が経営権を侵害したことは理由にはならないし、又経営の採算を無視して組合が過大なる要求をしたからだというのも全く理由にはならない。何故ならが組合が経営の内容を知らされているわけでもなく、生活を守るための賃金を要求するのは当然のことであつて、賃上げを要求しない組合などは存在しないのであります。又赤字の最大の原因をなすものが、第一撮影所であるというのも会社の御都合主義なこじつけであります。会社が発表しております第三十一期の
損益計算書によりますと、赤字の根源が
演劇部門にあることを示しているのであります。そして
映画部門は殆んど赤字にはならないのであります。
第三十一期
損益計算書
(自二二年八月 一 日)
(至二三年一月三十一日)
映画製作配給收入
益 四、六五五、九七九円
映画興行收入
損 六、九六六、九〇〇円
演劇收入 損一五、二三七、七四一円
合 計 一二、五五四、二四六円
右の数字は、所謂公正のものでありまして、実際には、
映画製作配給部門の損
四〇、一〇五、一八一円
映画興行部門の損
一五、七〇〇、八七一円
演劇部門の損
二二、三七三、三一三円
合算損 七八、一七九、九六六円
この方が本当だそうであります。
会社が所謂公的なものと、実際とを使い分けたのは、赤字を千二百万円くらいにしておかないと、増資するのに具合が惡るかつたのでありませう。数字などというものは、どんなにでもごまかしのきくものであるということが、これによつて暴露されているのである。八千万円の赤字を千二百万円と発表することも出來るという実例であります。この七千八百万円の赤字も同期の東京会館も二千五百万円という馬鹿々々しい安い値で賣つておるのであります。
東京マンシヨンを千五百万円で賣つたものらしい雜收入の二千八百万円を差し引けば、四千万円が実際の不足分となるのであります。これで見ますと、演劇は、昨年の下半期に毎月四百万円近い赤字を出したことになるのでありまして、又今年の二月、三月になつても同じ状態を続けており、
演劇部門の赤字は、一昨年以來、恒久的なものであります。
又昨年の上半期即ち第三十期における約千万円の赤字は、殆んど金額が
演劇部門によつて生じたものでありまして、
東宝企業の中で、赤字の根源をなすものは
演劇部門であるということは、これによつて明らかなことである。東宝今日の不振がすべて
映画部門にあるかのごとき宣傳をしているとしたならば、正当な判断を下すのに甚だしい誤りを犯すことになるのであります。
映画部門も亦昨年
下判期以來の不振であつて、赤字の原因をなしていることは事実であるけれども、これが本年三月から徐々に回復しつつあるのであります。即ち與行はすでに三十万円の黒字を出し、配給は、二月に比べて千二百万円という多額の増收を見せているのであります。これに反して、
演劇部門は三月も四百万円に近い赤字であります。
要するに、
映画部門は、四月以降は、赤字を脱却する見通しが十分にあるのでありまして、かかるときに、会社の強引な休業宣言によ
つて製作が中止されておつて、後援続かずの憂いがあるのは誠に残念なことであります。
次に、会社は、第一撮影所のみが赤字の原因をなしているように宣傳し、
從つて首切りも第一撮影所を第一番に行うとする不当の事実について説明することにいたします。
本年二月、三月の損益表を見ますると、
二月 三月
製作配給
一一、一六六、一〇八損 五、七八二、二四六損
興行 一、六六〇、六五七損 二八九、○一五益
演劇 二、三〇二、四三三損 三、八四三、二三〇損
合計 一五、一二九、一九九損 九、三三六、四六〇損
即ち
製作配給部門は、二月に千万円、三月に約六百万円の赤字を出しているが、これも新東宝と東宝の両方の作品を
配給部門がセールした結果、三者で出した赤字でありますから、決して第一撮影所のみが出したものではないのであります。
ここで新東宝のことに若干ふれる必要があります。一月から三月にかけての番組は、新東宝が主に受持つておりますが、一月の「馬車物語」、「誰れがために金はある」、二月の「大学の門」、三月の「あの夢この歌」等の作品は内容的にも、興行的にも実に惨澹たるものの連続であつた。これらの作品は、いずれも、
上映收入が製作原價をはるかに下廻るものでありまして一月から三月の
映画部門の赤字は、新東宝の独立するところとなつているといつても過言ではないのであります。新東宝が企業分割によつて完全独立していなかつたことが、幸いであつたと言はなければなりません。でなかつたならば、新東宝は今頃破産しているでせう。
他方において、一月から二月にかけて、第一東宝が
封切つた作品は、「春の饗宴」、「第二の人生」、「
タヌキ紳士登場」の三本でありますが、いずれも予想以上の好成績を收めているのでありまして、又内容的にも到る処好評を博しているのであります。又この二作品の原價が格別に安かつたということも注目すべきことであります。
第一撮影所の最近の大作であります「面影」や、「我が愛は山の彼方に」の製作原價が二千万円を起えるということを、会社はとり立てて宣傳し、第一撮影所が赤字の元組であるような裏附けをしようとしているが、この作品は、いずれも一年近くかかつて完成したものでありまして、途中他の作品の進行上の都合で、幾度も足踏みをさせられたもので、その間に、例えば「春の饗宴」、「第二の二生」、「醉いどれ天使」等の軽いものがあとで立てられ、先に完成しているのであります。日数が長ければ、間接費もかさむし、諸雜費も多くなることは止むを得ないのであります。作品にいくらかけるかは、すべて経営者の責任においてなされるものでありまして、この両作品の場合も、会社が承知の上で政策上又は無能によ
つて製作日数が延ばされたので、責任の帰結は会社にあるのであります。一方を安くあげるために、他方を犠牲にする場合もあり得るのでありまして、全体として見ないで、部分的に例をとつて全体を律しようとすることは間違いの基であります。
以上で大体赤字の原因が、第一撮影所だけにあるのではないことを説明したのであります。即ち、第一に、
演劇部門が赤字の根源であること、
映画部門では、興行、配給、製作(東宝、新東宝)の各部に原因はあるが、これは徐々に克服されつつあるということである。それから新東宝と第一撮影所とは、別会社と考えるので誤りで、
東宝株式会社内の一つの
製作部門と考えることが至当でありまして、両方の作品を組合わせて、会社は商賣をしているのでありますが、その取扱はできるだけ切り離して行をうとしているのが会社のずるい良であります。又新東宝が完全独立を急いでいることを利用して、企業の分割を合理化しようとしていることと、新東宝の独立もこの分割のときに同時にしようと会社が企図していることを附加えたいと思います。然らば赤字の責任は誰にあるか。
経営危機の前兆は、会社側もいつておるがごとく、昨年の上半期の頃から現われ出したのであります。経費の面で安價な材料のストツクも使い果し、旧作品の再版も大部分種が盡き始めましたので、インフレ上の高價な原材料で、強力なる新作品を多く作らねばならなくなつたときに、危機がそろそろ始まつたのであります。その上に物價統制によりまして、入場料は常にインフレに漏れてあげられ、加うるに高率の入場税が経営を致命的にしたのであります。その他無計画な雇入れと八百名以上の復員者の職場復帰で、從業員も数も殖え、賃金も上昇しましたことが経営を困難にしたことは事実でありますが、経営者としては、早くこのことを知つて具体的な手段を講ずべきであつたのであります。会社は具体的な方策を詳細に示して利益代表を通じて実行に移すべきであつたのであります。ところが、経営の主脳者達は全く無爲無策で見送り、今になつて、組合が分裂したためにひまをとられたとか、労働攻勢が強過ぎて賃金を取り過ぎたとか、組合員が製作費を多くかけすぎたとか、贅沢すぎるとか、又は能率が悪いとか、経営権を侵害したとか、と、理由にもならない些細な事柄を並べて、自分の無能を責任を労働省に轉嫁して、そのあげくには
人員整理という最も拙い、人道を無視した方法を採つたのであります。
人員が松竹に比べて多いことは、事実であるが、そのことが冗員であるということではない。
東宝企業では経営が割合に近代化されていて、合理的な人員の配置がなされていたこと、
製作部門では、
教育映画、戰時中の航空資料、特殊技術等多面的であつた上に、
製作工程が専門化され、高度化されていることの証拠であつて、決して不必要な人員がいるということではない。又そのために東宝は今日の大をなしたのでありまして、質的にもすぐれた作品を作り得る基礎となつているのであります。支も現在尚
人員不足の現場が少なからずあるのであります。
興行部門では、年次休暇は勿論生理休暇も思うように取れず、又本社では株式課などは年中労働強化をしており、撮影所の
スクリプター進行部が
人員不足に悩んでいるし、現像場、大道具、照明等も人員は不十分であります。
会社は昨年九月に
経済白書を出して警告しておいたと、今頃になつていい出しているが、祕密書類みたいにして、一部の組合員には示されたが、全組合員の注意を喚起するような運動として叫ばれるどころか、自信なげに、ちらりとのぞかせた程度であつた。
経済白書も出したきりでは何にもならない。具体的な積極的な対策は殆んど講ぜられてはいないのであります。むしろ会社は生産をサボリ、二つのステージを物置にしたまま放置し、
自家発電裝置のごとき、その設置を約束しながら、今尚手をつけていないのであります。
いわゆる第二組合の
セールスマンを主とする一群のものが、昨年の八月に会社危機の警鐘を鳴らしたといいますが、彼らも亦どのような方策を具体的に持つていたでありませうか。第一撮影所のあり方を云々する声は聞いたが、演劇のあり方を放置し、新東宝に対して、むやみに媚態をつくるだけが彼らのなし得たすべてではなかつたでせうか。ここにどうしても不思議でならない一つの事実がある。「戰爭と平和」は統計に入れられた観客数だけでも、七百万人になんなんとし、終戰後のあらゆる映画を通じて、最高に観客動員の利いた作品であります。それにも拘わらず、收支は償わないと会社はいつているのであります。七百万人と謂えば標準作品の二倍の観客数であるのでありまして、これと殆んど同数まで行つた「大江戸の鬼」が原價の二倍以上の
上映收入を挙げて、大当りだつたというのです。統計には加算されない特別な公開の場合の多い「戰爭と平和」が観客数において、「大江戸の鬼」をしのぐとは、誰しも疑う余地がないのであります。それなのに、一方は大当りで、他方は收支償わないという不可思議な現象は、何故起つたのでありませうか。
セールスマン達の商賣の仕方を疑わないわけにはいかないのであります。故意か、さもなければ恐ろしい
時代的感覺のズレであるといわねばなりません。このような人達にちやほやされながら、旧観念の中に惰眠をむさぼり、観客を甘く見くびつた結果が、今日の新東宝の失態となつたのであります。そうした彼等を無暗に甘やかし、徒らに思い上らせた、もう一つ後にいた張本人は、それこそ今日の東宝を不振に陷れた会社に外ならないのであります。こんなところにも会社の負うべき大きな赤字の責任が隱されているのであります。
又会社は常に、原則として撮影所の製作原價が
上映收入に対して五〇%でなければならないといつております。然るに昨年の下半期について見ますと、
月平均上映收入 四、七七四万円
月平均作品原價 三、七七三万円
この比率は八〇%に達するというのであります。
成る程その通りに違いないのでありますが、それだけのことが分つていたならば、何故にそのようにしなかつたのか。それこそ経営権を持つている経営者の第一番になすべき義務であり責任であります。製作原價について、どの面でいくら切り詰めるか、作品の長さを何フイートにするか等の具体的な指示は、会社がなすべき最も大切な仕事でありまして、それを若し組合にやれというのであるならば、経営者は不用となつてしまうのであります。製作原價と
上映收入の比率の原則などというものは、会社が自己反省の材料として、みずからを改めて行けばよいのでありまして、外部に対して自分が犯した過誤を説明する必要はないのであります。
会社は、組合が言うことを聽かないと言つておりますが、具体的に示さないでは聽こうにも聽きようがないのでありまして、又從業員は浪費が甚だしいとか、贅沢だとか、今頃にな
つて難くせを付けて見ても、それは愚痴にしか過ぎないのであります。
浪費問題に関しましては、特に問題になる撮影所の場合について言うと、それは今まで撮影所の仕事が夜間の時間外の労働や
ロケーシヨンの過激な労働が多かつたので、労働者を金錢又は物でごまかす習慣がありまして、そうすることが差引勘定から言つて莫大な利益があつたので、会社はこの手を用いて來たのであります。もともと会社の政策から生れたことであります。今日の食糧難のもとでは、時間外労働によつて消耗したカロリーを補うためには、時間外賃金をいくら貰つても引合わないのであります。それも或る程度まで引くと税金になつてしまうのでありまして、我々の出した今度の二十八本計画とは、そうした雜給與さえ、或る程度に切り下げるとともに、過激な労働である
ロケーシヨンの場合の出張人員を減らすことまでを含めた案なのであります。
それから高價な煙草を吸うとか、酒を飲んでばかりいるというようなことまでを、今度の重役はでかでかしく問題にしておるが、高給者の一部にそれ位のことがあるかも知れない。併し東宝の一流監督といわれる人で自分の家に住んでいるものが三人もおらないのであります。会社はその程度の待遇しか與えておらないのであります。こんなつまらないことを問題にする暇があるならば、演劇部の
部長あたりがやつている私利私腹をこやす大がかりな不正行爲でも調べて貰いたい。或いは本社の上役達の個人傳票で出される使途不明の会の見張りでもしていて貰いたいのであります。
併し問題はもつと大きいところにあるのであつて、経営者が最も留意すべきことは、どんなものをいくらでどれだけ作るかということにあるのであります。前に述べましたように、経営上の困難は、昨年七月頃に始まつたところの原材料や税の問題にあるので、これに対処して生産と営業との一貫した方策を立てるために優れた
経営能力を発揮することこそ、我々は切望するのでありまして、
産業そのものの衰弱を意味する企業の分割や、その他の
人員整理は絶対に反対するものでありまして、企業の分割や
人員整理なら誰でも出來るが、今日の東宝は決してそれを必要とするような状態になつておらないし、又社会もかかる暴挙を許さないでありませう。
東宝の今日の不振は、昨年七月以降の方針において、経営者がやりそこなつたという一語につきるのでありまして、組合はそのために迷惑を被つていこそすれ、責任はない。松竹、大映にしても、この期間の対処方針が誤つていれば、東宝と同じ結果になつていたに相違ないのであります。それだけのことであります。
東宝の経営が、右に申上げました幾つかの誤まつた考え方を排除し、
経営本來の立場を見失わず、組合とのよき協力関係に立つならば、
人員整理のごとき会社不安を起すことなく、十分に立ち直すことが可能であると信ずるものであります。
演劇部門が四月に、三年振りに黒字になつたと報告した渡辺社長の言葉が本当であるとしましたら、
映画部門は更に余裕綽々たる黒字を生むに相違ないのでありまして、何のための分割でありますか。又何のための首切りでありますか。
又東宝が、他社よりも撮影の仕方が贅沢だという風評もあるが、
東宝從業員が製作上のすべての面で作品の質を高めるために、経済の許す最大限度まで良心的なやり方をすることに対する一般の誤解から生じたものであります。
第に第三十二期の
計画生産プラン(昭和二十三年二月より四月まで)は、昨年十月より具体化され、営業関係との打合せのもとに、「醉どれ天使」、「白い野獸」、「女の一生」、「じやこ万と鉄」、「青い山脈前後篇」等の作品が着手されまして、すでに定められた予算と
製作日数のもとに進行しまして、
黒字経営の実体が証明されていることは会社も認めているところであります。
会社は、この計画生産はすでに遅すぎるというか、
映画製作の特殊な條件として、
最初プランが立てられてから、作品が出來上るまでには、企画準備、脚本執筆、撮影準備、撮影、仕上等六ケ月の日時を要することはいずれに会社でも同じことであります。
今度の企業整備が、
赤字克服という会社の理由であるのに、
黒字経営の実体が上つている現在、時期が遅すぎるというのは一体何故であるか。然も「面影」、「我が愛は山の彼方に」の製作費が多過ぎるということが、いずれも第三十一期前期(昭和二十二年七月より九月まで)の作品でありまして、撮影にかかつてから、内容或いは大きさの変更ができないのが当然のことであります。
次に、第一撮影所は果して低能率であるか、人員過剰であるか、について申上げることにいたします。
会社は第一撮影所の
撮影能力が他社に比較して、三分の一以下であると宣傳しております。そしてそのことが、第一撮影所の
人員整理を眞先にやる理由であるというのであります。若しこれが事実だといたしますれば、誰しも首切りに賛成しないものはないでありませう。組合員だつて承認せざるを得ないでせう。然らば
一体会社側のいう理由はどこにあるかと申ますと、会社はそれを次の表によつて説明しているのであります。
会社別映画製作能率及び
製作比較表
撮影所名
東 宝 新東宝 松竹 大映
(第一)
従業員数
一、二〇〇人 六〇〇人 一、○二〇人 一、○三〇人
製作本数
一三本 一六本 四二本 四二本又は四四本
一本
当り従業員数
一、二一人 四五一人 二九一人 二八二人
一本当り原價
一、〇〇○万円 七五〇万円 六〇〇万円 五〇〇万円
右の表が如何に誤つた数字であるかをここに説明して見ませう。先ず
製作本数でありますが、実際の封切日を追つて数えて見ますると、昨年の一月から十二末までに、東宝第一の出した本数は、十四本、新東宝が十三本、松竹が三十三本、大映が三十三本であります。これだけはどんなことがあつても間違いはないのであります。会社は全部嘘を発表しているのであります。これほど明白な事実についてさえ、自部の都合のいいように虚僞の発表をするとなると、会社が出している統計表などは、全く信頼が置けなくなるのであります。期間の区切り方によつて、作品の多く出る月とか少い月とがあつて、一本や二本のズレが出てくることはいたし方がないとしても、この表は余りにもひど過ぎるのであります。而もその本数に基いて一本当りの從業員数を割り出して見せるなどに至つては、悪意を通り越して邪気も甚だしいのであります。
映画製作において、一本当り從業員数といつた無意味な統計を作つた経営者は、世界廣しと誰も渡辺社長を以て嚆矢とするのであります。
松竹、大映の本数は、東西の撮影所を併せたものであつて、松竹は大船で十九本、下加茂で十四本作つた。大映は東西が約半分ずつでありませう。東宝の場合も両撮影所を一つに考えて、
東宝企業内の
製作部門と見るのが正しい考え方であるのに、会社は故意に別々に取扱つているのであります。今正当な考え方に基いて比較して見ますると、東宝二十七に対して、松竹、大映三十三ということになつて、東宝の方がいくらか少いということになるのであります。これは去年一年だけのことではなくて、毎年東宝の
製作本数は他の二社よりも少いのであります。その点が東宝の長所であり、永年の製作方針であり、日本映画の革新を希う先駆的な傳統的政策でもあるのであります。
東宝は單實制度(フリー・ブッキング)を根本方針として他社の全プロ制(ブロック・ブッキングと呼ばれ、五〇〇なり六〇〇なりの映画館に対して年五十二週を自社品で保証する。各館主はみずてんでこれと契約を取り交す制度)に対して鎬をけずつて來たのであります。東宝は一本一本で勝負をしようとするから、作品の質を重んじて、本数は問題になるとしても、松竹、大映ほどではなかつたのであります。松竹、大映の作品の長さの平均は七千フイート弱であるのに対して、東宝の平均は八千フイートであります。量だけについて考えて見ましても、二十七本で二万七千フイートだけ長いことになつて、松竹、大映の四本分に当るのであります。して見ますると、三社は製作能率において大差はないということになるのであります。
そもそも映画は本数だけを問題にするのは愚の骨頂であつて、米國では同じ一本でも五十万ドル映画から五百万ドル映画の中がありまして、四時間の上映時間を要する「風と共に去りぬ」と、最近日本へ來ているプログラム。ピクチユアとを同じ一本と考えることの愚かさは、誰にでも理解されることと信じます。
上映收入について見ましても、松竹、大映が三十三本製作して得た金額と、東宝が二十七本で得た金額とを比較して見ますと、東宝が何%多い。これを見ましても、本数だけを問題にすることが如何に馬鹿げているかが分るのであります。本数を多くすれば、それだけ金もかかる。そこでどんなものをどれだけ作るかということが経営上の最も重要な問題となつてくるのであります。渡辺社長を初めとする新重役には、残念ながらこのようなことが全然理解出來ないのであります。
最後に、最も重大なる問題として第一東宝と新東宝とを切り離して比較することの不当なることは前に申述べた通りでありますが、会社は別の目的でこの表を作成していますので、この欺瞞を暴露する必要があるのであります。会社が出しました比較表によりますと、從業員は第一東宝が二倍で、作品は三本少いことになつているのでありますが、これでは誰が見ましても、第一東宝が低能率のそしりを免れられないのであります。ところが、事実は宝くこれと正反対でありまして、先ず本数から見ますと、東宝が十四本を封切り、新東宝作品は十三本しか封切られない。而もこの十三本の中にはいくつかの旧作品のいい場面をぬいてきて、若干の撮影を加えて、一本作り上げた「東宝千一夜」という安易作品も混じつているのであります。平均一本のフイート数を見ますと、第一東宝が八千五百フイート、新東宝が七千五百フィートでありますから、十四本について一万四千フイート多いことになりまして、新東宝作品の二本分に当りますから、会社の前の表の十六対十三は、第一東宝と新東宝の欄を間違えたのでありませう。
又撮影能率について考えて見ますると、監督によつて差はありますが、松竹、大映、東宝共に平均一時間一・五カツトに達しない程度でありまして、能率上の大差はありません。東宝作品には、九千フイートから、一万フイートのものが多く、カツト数においても、八百から九百カツトのものが多かつたのであります。他社の作品では、平均五、六百カツトというところで、労働時間について見ましても、一本の作品が二百時間以上の労働力をより多く含んでいることになります。渡邊社長等はこのようなことも全然分らないのであります。
次に、比較表によりますと、從業員数は第一東宝が新東宝の二倍ということになつております。新東宝の六百人の中には、大道具は一人も含まれていない。その他、正式入社を会社が押えていつまでも臨時雇で使用している人員が大道具を含めて二百名程あつて、会社との間に目下紛爭を起しているのであります。新東宝の從業員は実際には約八百五十名おるのであります。第一東宝は千百四十名でありますが、この中どこの撮影所にもない部門として、
教育映画と、動画部門の約五十名、技術研究所の五十五名があります。それから新東宝には、現像部門や最後の仕上のとき音樂を入れる設備がないから、第一東宝と共通に使つている。その他特殊技術、合成、資料調査、フイルムライポラリーの部門が第一東宝にだけあつて、必要に應じ新東宝もこれを利用する。こうした共通の作業をする人員も百名以上第一東宝の人員の中に含まれている。純粹に人員を比較すれば、九百対八百五十というところでありませう。これを二倍だと宣傳する会社の悪意は何と形容したらよいか分らないのであります。
会社が発表した比較表が、以上述べたような悪意と虚僞とに満ちているということは重大問題であります。而も会社はこの表を以て、第一撮影所の大量首切りの有力なる理由としている以上、その欺瞞性が明瞭となつた今日、首切りの魂胆は全面的にぐらつき、一先ず、撤回せざるを得ないということは誰も否定することのできない事実となつたのであります。
会社が
製作部門の組合分裂を利用して、漁夫の利を占めていたことを隠蔽して、低能率を喧傳する惡辣なやり方は、見逃すことのできないことであります。両者の猛烈なる競爭心によつてカバーされなかつたならば、分裂による技術上のアンバランスは、これほど速かに克服することはできなかつたであろうし、他社との競爭で劣らぬ成績を收めることもできなかつたでありませう。両撮影所が技術的アンバランスを克服するために、若干の新規採用を余儀なくされ、そのための人員の増加があつたとしても、これは全く会社の負うべき責任であります。又人員の過剩を問題にするならば、新東宝も同時に同じ取扱いをするのが当然であるのに、会社は新東宝には一指も触れず、そつとしておいて、第一東宝だけを問題にするということは、組合に対する差別待遇の歴然たる証拠と言わなければならないのであります。
次に、会社の労働組合法第十一條違反の事実に関しまして申上げることにいたします。
会社は速やかに赤字を克服し、経営を立て直すために、全般的に、全映演、日映演、演劇從組等の区別なく、人員の整理も行うものであると公言しているのであります。併し実際には、組資別の露骨な差別的取扱いをやつているのでありまして、新東宝については、前述の通りの甘やかし振りであり、その結果が最近の恐るべき経営上の失敗となつて現われたのであります。又新東宝の場合に、経営が民主化に程遠く、組合が非常に遲れている結果、必要以上に甘やかされた一部権力者の浪費となり、專横となり、そのために製作費が不必要な面に使われ、質的には作家の創作態度が安易となりまして、微温的な現実ばなれのした作品しか生れてこない結果となつているのであります。
会社が眞に
赤字克服だけを目的として、企業の全般に亘つて人員の整理をしようとするならば、第一東宝と比べて人員的に大差なく、能率的にはむしろ劣つている新東宝には手を触れず、第一東宝のみ二百七十名の馘首を無理押しに断行せんとするところに矛盾があつて、これは明らかに会社が組合別の差別的取扱いをしようとしているのであります。会社は新東宝が独立会社であるという言い逃れをしているが、資本的に百%東宝の一部であつて、独立とは名目のみのことであります。会社は又第一東宝が近く分離独立せねばならない。そのために今の内に人員の整理をやるのだといいますが、新東宝はより近く独立する筈でありますから、第一東宝に先んじて人員の整理をして置かなくてよろしいのでせうか、この点が不可解であります。
次に
演劇部門については、一層明らかな日映演組合員であるがために被つている不利益の証拠が歴然とあるのであります。
演劇部門は会社もいつておりますように、終戰後五千万円の赤字を出しましたが、
映画部門は昨年下半期と、今年二月、三月に初めて赤字を出したのみであります。金額にいたしますと、
製作配給と興行とを合せて七千万円でありまして、興行は三月すでに黒字を回復し、
製作配給部門も四月、五月には相当な黒字を回復する筈でありますから、
映画部門の赤字は昨年八月から今年三月までの一時的な現象であります。
又現在市場に流れつつある十数本の作品が稼ぎ出すところの
上映收入が約七千万円と見込まれるのでありますが、損益計算の中には、これらの作品の原價は支出として入れられているが、当然入つてくる未收入の方は計算されていないのであります。又本年度においても、昨年度の作品を再プリントしていわゆる新版ものとして少くとも十本は上映さらることになるでせう。その場合にそれらの作品は、製作原價が零でありますから、プリント費、配給費、本社費等を除きましても、
上映收入において八千万円以上の純利益を生み出すことができるのであります。
このように
演劇部門の赤字は、正眞正銘のものでありますが、
映画部門の赤字は、多くの含みを持つたものであります。
映画部門は経営上馘首などしなくても十分に希望の持てるものであることは明らかなことであります。
演劇部門を完全雇傭で如何にして成立させて行くかは、我々の今後の課題であるが、会社の言うように人員の整理を仮に行うとすれば、採算のとれる
映画部門に手を著ける前に、先ず
演劇部門について実行し、何ケ月かやつて見た上で、尚且つ経営がうまく行かなかつたならば、その時に初めて
映画部門に手を著けるのが至当であると考えるのであります。
昨年度渡邊社長が東宝に來てから、保証附きの赤字であるこの部門を放置していたばかりか、現在も尚手を著けておらないのであります。会社みずからが「演劇部における人件費は、他部門それと違つて、経営費の主体となつていて、これを抑制しなければ收支のバランスは望めない。」と公言しながら、そのままにしておる点に重役陣の正体が見えるとともに、組合を御用化し、御用化しておらない組合から先きに首を切ろうとする意図があることも分るのであります。新重役達は、逆に從業員のボスと結託して、再建同志会を作らせ、去る三月三十一日映演との交渉が一應決裂したのに乘じて、無協約になつたと稱して、ボス達と示し合わせて、クーデターを行わせたのであります。彼らは直ちに日映演を脱退、演劇從組を結成し、翌朝会社と僅か三時間で
團体協約を締結したのであります。而もこの
團体協約では、演劇で働くものはすべて演從の組合員でなければならないという、クローズド・シヨツプを会社側の申出でによつて結んだのであります。演從の組合規約には、組合加盟者に対する資格審査の機関を設けて、共産党員その他会社に都合の悪い者は加入させない。日劇ダンシングチームや音樂團は、会社が短期の契約に切り替えたり、好ましからざる者を自由に契約破棄をするために、組合に席があつては邪魔であるといつて、審査委員会はそれらが全体として演從に入ることを拒否したのであります。
ダンジングチームでは五人の組合員の組合活動のために首になつたのであります。残りの全員には、会社の用紙で、予め用意された人名簿に拇印の捺印を強制的に求め、課長自身が脱退声明書を添付して、無理やりに日映演を脱退させて
しまつたのであります。一般從業員で演從に入らなかつた者、即ち日映演に残つているもの二十数名は一名を残して全部馘首を発表されたのであります。又演從の審査員に組合加入を申入れて、拒否された者が日映演に復帰したが、その途端に馘首を発表されたという事実があります。日映演の組合員であるということの理由で不利益を被つた事実は、
演劇部門で行われた以上の経過を見れば、何人も否定することのできないことであります。この事実は日本のあらゆる組合運動における十一條違反の中でも最も顯著な事例となるでせう。
次に本社で、最近課長に任命された者が四名あつた。この四名に対して会社は早速日映演を脱退して会社側從業員になることを要求しましたが、その中の二名は組合に留まつたのであります。すると会社はこの二名から課長の椅子を奪つて
しまつたのであります。ところが他方において演劇從組では反対のことが行われているのでありまして、日映演から脱退するためにクーデターを行つたものは、演從結成とともに、その役員に收まり、功によつて課長になつたのであります。併し会社は彼らに会社側從業員になれといわないばかりか、むしろ組合に留まることを求めているのであります。この場合本社の二名も亦日映演組合員であるということによつて明瞭な差別待遇を受けていることになるのであります。
又
営業部門では、会社は日映演組合員のみに関しまして、五月十日を以て整理を完了すること、及び全映演に関しては迫つて通知する旨の指令を全國の各支社に発したのであります。関西支社はこの指令に基いて五月八日午前十時までに申出でたものは依願退職扱いとし、そのときまでに申出でなかつた者は、解雇辞令を発送すると言明したのであります。これは明らかに日映演組合員に対して不利益な取扱いをした事実であります。
要するに、
赤字克服と経営の立て直しを名目として行われようとしている東宝の
人員整理が、実は組合の彈圧、興行資本の温存と、そのための企業分割などを目的としていることが明らかでありますが、会社は右の目的を達成するに急なるの余り、労働組合法第十一條を各部門、各地域で違反している事実は以上申述べましたことで歴然たるものがあるのでありまして、而も今度は組合員の個人についての違反と、全体としての特定の組合員たることの違反と、両方の十一條違反が成立するのであります。
次に、会社と組合との
團体協約は今尚有効であるということについて一言したいと思います。
東宝は、渡邊社長以下若干名の重役によつて左右さるべきものではないのでありまして、むしろこれらの人達は東宝とは最も縁遠い人達で、單に首切りの專門家として、間接には小林一三、直接にはその実弟田邊加多丸によつて雇われた使用人に過ぎない。然らば東宝は小林一三、田邊知多丸、その他若干の資本家によつて、思うままにされてよい筈はなく、現在の東宝株が六百万株として、その株主は二万有余名に達し、最高の株主と雖も、全体の二%程度の保有者であつて、特定の大株主によつて支配されるべきものではないのであります。東宝は飽くまで、二万余名の株主のものであつて、株主がその事業の運営を從業員に一任しているものと見なければならないのであります。從業員全体が全株主から依託を受けて、その責任において、最も有能な重役を選び、それに有力なマネージング・スタツフをつけ、全株主の期待に副うように、正しい発展性のある運営をして行かねばならないのであります。
さて、
團体協約は、
東宝企業を平和に、発展的に運営するために、企業に対して最も大いい責任を負うところの從業員と、その責任を経営の立場から分け持つところの会社との間の契約であります以上は、昨年度のものが改訂に今少し時日を要する場合に、もとのままの契約を生かして行くことは当然過ぎる程であります。会社が強いて無契約時代をつくり、戰いをいどむ態度に出てくるところに、今度の臨時雇重役の最初からの目的が那辺にあつたかを暴露しているのであります。会社が何といおうと、
團体協約は條文的にも、実際的にも生きているものであります。
以上申上げました理由によりまして、会社の主張は全く誤つているのでありますが、最後に我々が最も公平、妥当な解決方法として考えることは、会社が一方的に押しまくつて又態度を改めて、不法行爲であり、派閥悪用であり、思いつきである不用意な首切りを一旦撤回して、最初から、
團体協約、企業再建、
人員整理の問題を、
東宝企業の本質的な部分であります從業員と平和裡にすべてを初めからやり直すことが唯一の方法であると考えるのでありまして、我々從業員としては、東宝の再建を眞劍に考えて日本映画に対して責任と義務とを最も多く感ずるものであります。
最後に、人員の整理に直面する東宝第一撮影所と
教育映画のことに関しまして少しく申上げたいと思います。
東宝映画は、劇映画ばかりではなく、昭和七年の創立当時から、文化映画の製作に輝かしい歴史を持つており、多くの優秀作品を発表しましたが、昭和十六年秋の映画界の新体制によつて世間的には一時止んだかに見られたのであります。併しその傳統的精神は堅く護られて、終戰後
教育映画の製作に乘り出したのであります。
全國には約千七百万から八百万に近い学童がおります。これらの学童に健全な娯樂性と同時に教育的効果を持つた映画を提供することが私達の願望であります。
インフレに喘ぐ親達には構つて貰えず、政府にさえも見放されている学童達が放恣な大人の生活の模倣から惡に馴染んで行くのを防ぐとともに、正しい民主主義とは如何なるものであるかということを理解させて、將來社会の一員として人類の幸福に奉仕するように彼らを導くことが私達の希望でありますが、この希望は映画という文化的な、そして大衆に対する浸透性の極めて大きい作品の製作に從事する者の誇りであり、又使命であります。
昭和二十二年一月、
教育映画部は、戰爭中命を賭けて守り拔いた第三撮影所の建物を新東宝に明け渡して、第一撮影所に合体したのであります。その意味では
教育映画部こそは、新東宝による最大の被害者と言えるのでありますが、その合体は決して敗北的な意味ではなくて、將來の発展のためと、すでに撮影機構を殆んど解体していたので、撮影所において一体的に運営されることを便宜としたからであります。而して所内に独立した一部門は持たず、部員はそれぞれ企画課、演出課等に所属することとなり、動画関係のみは一職区をなすこととなつたのであります。併し
教育映画の製作に生涯を賭ける十二名(他に会社側從業員の一名)の者は一集團となつて、活動を継続して來たのであります。特に「こども議会」が万人必見の映画とCIEの激賞を受け、特に希望せられてプリントを一本納入し、最近には又文部大臣賞、民主政治教育連盟賞を受けておりまして、又
教育映画の業績に対して映画世界社が特別賞を以て表彰としている事実等は特記さるべきことであります。これらの事実は私達の目標が決して間違つていないことと、現在の日本において
教育映画というものが如何に要望されているかということを雄弁に証明しているのであります。不必要どころか、その重要性が漸やく世間一般に浸透、認識されて、まさにこれからというとき、突如として出現した渡邊社長以下の現重役は、映画に対する認識の不足から、無責任な、一方的の言葉を鵜呑みにして、儲からないから廃止すると言い出しているのでありますが、その迷妄は何としても打破しなければならないのであります。
去る三月二十七日午後、私達は初めて北岡所長と会つて
教育映画の問題を話したのでありますが、その際も製作継続については善処すると約束して置きながら、その後何の話もなく、突如四月十六日関係全員の馘首を発表したのであります。何たる暴挙でありませう。全く非人道な所業と言わざるを得ないのであります。
教育映画の現在員は、一本契約を除けば、僅かに九名に過ぎない。加うるに
教育映画と最も密接な関係にある動画職区の四十二名も亦不要不急の烙印の下に全員解雇を通告しているのであります。此の部門は、漫画映画の製作の外に、劇映画に新らしい分野と新技巧を開拓し、又全劇映映画作品のタイトルを受持つているのであります。この人々の中には十数年の勤続者が何人もおりまして、会社に対する功労者も少くないのであります。殊に会社業務上の殉職者の未亡人も含まれておりまして、故人が会社に盡しました功績を考えて見ますならば、断じてかくのごとき暴挙は許さるべきではないのであります。
渡邊社長は、
教育映画が企業として採算が取れないから廃止すると言つておりますが、それは必ず收支の償う事業であり、將來の発展性を確実に予想し得る、むしろ有益な企業であるのであります。
日本において、人口は五万人以上の百十七都内の内、東宝系映画館の存在する土地は、九十七であり、そこに存在する学童数は約二百九十四万人に達するが、これを現在東京及びその他の土地において行われているような、朝の映画教室の組織を作ることによつて、その半数である約百五十万人は確実に動員することができるのであります。実際東京の六十万人の学童中の約三十二万人はすでに終織化されており、昨年十一月から継続して本年七月まで、たつた二種類のプリントで映写が行われ、それに対して五十余万円の收益を挙けているのであります。一回の観覽料を五円とし、その中製作費として回收し得る金額を一人当り二円とすれば、三百万円、三円とすれば四百五十万円に達する。ただそのためには少くとも学童の
教育映画観覽に対する税金は免除されねばならないのであります。現実には現地交渉で税務関係と折衝されているのでありますが、この問題は中央において予め解決して置く必要があるのであります。この收入予想は、私達の事業計画の基礎をなる最も確実なる、又最も低い数字であります。即ち全國の都市中二館以上の映画館のある土地に住んでいる学童数は約五百万人であつて、この運動には当然他社の映画館も利用されるべきものであり、決して東宝のみが映画教室を独占するものと考えてはならないのであります。併し差当つて便宜上前に申上げました三百万人を目標としたに過ぎないのであります。
他方において、非劇場運動の対象としては、右の範員外の千二百万人の学童があつて、電気、建物等の関係から、その半数を組織動員し得るとして、六百万人に達するのであります。昨年初春以來、この六百万人の組織化は、日本映画教育協会、日教組等との提携によつて、著々と推進され、映画教室とは別個に、併し相並行しまして、顯著な成績を收めているのであります。このように全く確実で有力な基礎の上に立つている
教育映画は、むしろ有利且つ安全な企業であると言い得るのでありまして、それは同時に、今や行き詰りを示している映画観客組織動員の前駆ともなりまして、文化普遍化の役割を果すことにもなるのであります。
渡邊社長や北岡所長はいち早くCIEを訪ねまして、
教育映画の製作中止を報告し、現在の赤字から脱却すれば、数ケ月後には再開したい意向であると明白な嘘を言うているのであります。それが何故に嘘かと申しますと、問題は製作の一時的な中止ではなくして、廃止だということであります。今日
教育映画関係と動画の全員を首馘つておいて、如何して再開しようというのですか。これらの特殊の技能を必要とする製作陣は、一朝一夕にして整え得るものではないからであります。
又会社は、
教育映画再開の曉には、何人かの人々は復職して貰うとも言つているが、誠に勝手な言葉であります。今の世に首を切られるということは、生活の破滅であります。而も会社を守るためには、個人の生活を犠牲に供し、労働者の血を以て償うという考え方であります。二ケ月にしろ、三ケ月にしろ、職を失つた人間の、その間の苦悩は予想も出來ないのであります。そんな非人道的な得手勝手を強要する権利は何人にもある筈がないのであります。
又会社が赤字だから
教育映画はやれないと言うが、四月初旬以來の紛爭による会社の損失は、すでに四、五千万円に達しませう。会社にしましても、今回の馘首案が何の紛爭もなくすらすらと片付くとは考えていなかつたと思います。会社には十分にその余裕があるのであります。
教育映画が成り立つためには、千五百万円の金が要りますが、その余裕がないもと会社側が言つておりますが、そこにも重役等の誤解か、又は欺瞞があるのであります。
教育映画が儲からないと言うのは、昨年公開した四作品の興行成績の表面的な数字から來ているのでありますが、これら四作品の製作費は合計二百五十九万九千八百八十三円であります。これに最高五十%の間接費を加算しましても、三百八十九万九千八百二十四円でありまして、宣傳費及びプリント費等を加算して作品原價は、四百五十五万七千四百六十七円となります。これに対する收入は、昨年九月、十月、十一月の三ケ月間に、百六十二万七百五十七円でありまして、これは明らかに赤字となつている。併し私達はその結果をそのままに受取ることはできないのであります。何故かと申しますと、その興行の実際を綿密に檢討して見るならば、その赤字の原因なり、理由なりが、余りにも明瞭となつて、それを改善すべき対策も方法もおのずから明からとなつているからでありまして、私達にはすでに具体案され用意されているのであります。
殊に昨年度の四作品は、收入を目的とした公開ではなく、会社の方針として、東宝の文化政策を社会に紹介し、
教育映画に対する反響を打診するという建て前でありました。その意味では予想以上の成果を收めましたことは、会社側も確認している事実であります。然るに何らその間の事情に考慮を拂わず、あたかも不良分子のごとく、追放の挙に出ていますことを、私達は暴挙と叫んでいるのであります。
又
教育映画の関係だけで、毎月百万円ずつ赤字でありますから、廃止するものであるということも聞きますが、その出所は本社の経理部あたりであると思います。併しその根拠を伺いたいのであります。間接費として考えられるのは、
教育映画関係の九名と動画の四十二名、約五十名に対して、一人当り平均八千円として、四十万円であります。これに製作費における他部門の間接費を含めても、せいぜい五十万円前後のものであります。そしてこれらの間接費は作業を継続することによつて、消化されるものであつて、決して赤字ではないのであります。
製作のために直接支出しました費用は決して赤字と言うことが出來ないのであります。それはやがて回收される性質のものであります。昨年末から今年にかけて、新作品二本が完成しておりまして、仕掛け中の作品は四本、脚本に至つては十五本をストツクしているのであります。それらに対する愛著というものは現在の重役等には理解できないのであります。すでに完成している二本の作品を死藏して公開しようともしない会社が、赤字を宣傳しても納得される筈がないのであります。
教育映画はそんな赤字を出してはいないのでありまして、赤字の原因はよそにあるのであります。
九州から北海道に至る東宝の五支社に対して、七組、二種類の
教育映画番組が配給されたが、その使用日数は、九月、十月、十一月の三ケ月間に合計二百七十五日、つまり九十日間に一相当り平均僅か十八日間使用したに過ぎないのであります。この期間に動員した学童の数は三十一万九千七百七十人でありまして、私達の予想の五分の一であります。
ところが、東京の実情は、三十二万余が組織的に動員されて、現在でもその運動は続いておりますし、北海道においては、上映された都市の学童数の半分に達する十五万四千七百五十八人が動員され、金額にして八十三万四千九百十円を挙げております。これは東京を除いた全國の成績の半ばを達成していることを示しておりまして、私庁が最初に立てました数字が決して空想ではなくして、現実に即していることを証明しているのであります。從つて動員三十二万人、收入百六十二万円という昨年度の数字をともに二倍に引上げる可能性は十分にあるのであります。何故にかかる結果を示しているかというに、そこに劇映画の場合にも明らかに指摘されますように、組合の分裂による結果が現われておりまして、事に携わる者の文化的意識の問題と、文化企業に対する認識と熱意の程度が問題にされるのであります。
以上は昨年度三ケ月間の実績でありますが、それ以後今年に入つても映画教室運動は継続されているのでありますから、收入は上昇しているのであります。私達の二ケ年に亙る努力が漸く実を結んで、今や軌道に乘りかかつて來た
教育映画を、会社は如何なる計算の下に廃止すると言うのであるか、社会の輿論がそれを許す筈がない。現重役は何らこれらの事実を檢討せずに、不見識な営業部のボスの言を取入れて利益万能主義を露出しているのであります。公開実施以來僅か半年余、而も初期の目的は十分以上に達成されているにも拘わらず、これを廃止して、その從業員を全員解雇せんとしているのであります。これをして文化反動を言わずして何をか言わんやと言うことになるのであります。
去る五月十四日、都労委における第二回小委員会の席上で、会社側の関口氏は昨年秋の
教育映画独立問題に言及して、それが組合によつて阻止されたかに説明されているが、それはあの場合の一般に與えた印象から言つて組合を誣いるものであります。
昨年六月末、会社側の一部から
教育映画を独立させて別会社を創立する案が提示されたのであります。当時すでに二年近く会社のあやふやな態度に業をにやし、一面完成に間近い作品を以て、自信を深めつつあつた関係者は十分論議を行つた結果、これに賛成しまして、新会社研究の会合が昨年七月八日以來数回重ねられて來たのであります。その会合には組合員である
教育映画関係からも出席しているのであります。併しその計画は重役会の決定によるものではなく、森田製作担当以下の線において研究され、大体会社としても容認するであろうという見通しの上に立つて、設けられた独立案檢討のための準備委員会とも言うべきものでありまして、組合機関において確認されたものでもなかつたのであります。八月中旬ほぼ構想が縛りましたので、会社側、組合側の双方から
経営協議会に提案するという運びにまでなつたのであります。その前提として組合の確認を求めることとなつたのでありますが、そのとき組合の一部から異議が出たのでありまして、
教育映画の部分は人員も少く、活動もはなばなしくないので、当時撮影所内において余り問題にならなかつたという不利を克服するために若干の運動が試みられたのでありますが、会社、組合のいずれも劇映画の製作に大きく関心を奪われてしまつて、その理解を得ることは困難であつたのであります。又当時すでに企業整理の問題がぽつぽつ話題に上つていましたので、会社の巧妙な分離策謀に乘るのではないかという疑念のあつたことも事実であります。併し組合の決定しましたことは分離独立案に対する否認ではなくして、組合の認めた正式機関において、果して撮影所内における製作活動は困難であるか否かを再檢討して結論を出すということであつたのであります。その結果設けられたのが
教育映画対策委員会でありまして、その得たところの結論は、撮影所内において続行し得るということでありました。この結論に対しましては、会社も組合も賛成しているのでありまして、組合が独立を拒否したという事実はないのであります。実際に
教育映画は現在でも独立してやつて行けるのでありまして、差当つての資金さえ解決すれば、十分に可能性があり、客観的情勢はむしろ当時よりも有利に展開しつつあるともいえるのであります。米國が自國製の
教育映画を数百本輸入し、これを日本語版にしてどんどん公開しているとき、日本の映画企業家はその製作を廃止するというのであります。その文化に対する観念の距り、民族の文化に対する認識の低さには、憤りを禁じ得ないものがあります。
教育映画の部分には、仮に製作を一時中止するにしても、CIEの米國
教育映画の編輯、録音の仕方が與えられる。現在手すきの者に片手間に作業させて、不名誉な不評を被つている事実を解消する最良の手段がそこにあるのであります。CIEの壁面にグラフとなつて揚げられている東宝の不名譽を重役達は何と見るのであろうか。その他にも配置轉換の手はいくらでも考えられるのであります。製作者として、演出又は演出助手として、脚本家として、それから又企画、編輯の方面に、
教育映画の僅か六名のごときは、それぞれの所属する現在の部分において、簡單に片附くのであります。私達は敢てそれを希望するのではなく、会社側に一片の誠意があれば、解決の方法に幾らでもあるということが言いたいのであります。
渡邊社長は、会社の発表した馘首の通告を見るや、組合はあわてて二十八本製作案を出して來たけれども、そんなものはすでに遅過ぎるし、信用が出來ないと言つておりますが、二十八本案は断じて組合の出したものではないのであります。四月四日、首馘りの空気が大分濃くなつてきたとき、北岡所長を囲んで、組合員は馘首案撤回を叫びましたが、そのとき撮影所のマネージング・スタツフから出されたので二十八本案であります。この案によりまして、一名の解雇者も出さずにやつて行きたいというのがマネージング・スタツフの誠意の披瀝だつたのであります。組合員はその内容については何も知らないのであります。併し一名の馘首者も出さないということで、できるだけその案の実行に協力しようと申出ただけでありまして、無批判に鵜呑みにしたわけでもないのであります。撮影所が毎月二本の作品を完成させなければならないということは、昨年中から組合員の耳にはタコの出來るほどしみこんでいるのであります。そして年末の拡大生産復興会議において、二本製作の大方針が確認されまして、その実行のために、生産復興準備委員会が設けられたのであります。年間二十四本の計画生産は私達の目標であります。何故に昨年中はそれが達成することができなかつたかと申しますと、能率も低下もありましたし、電力の不足の影響もありましたが、根本的には、ミス・マネージメントが最も大きな原因であります。それを組合が強かつたからとか、経営権の侵害とかいう言葉で責任を組合に押し付けようとするのは卑怯未練というの外はない。組合が強かつたのなら会社もそれに劣らない立派な手を打てばよいのであります。道理の前には組合と雖も我意を押し通す筈はないのであります。
團体協約の範囲内での組合の経営参加は合法的な行動であります。今日それを非難するのは当らないのであります。東宝の日本映画界における重要性は労資双方において深く考えなければならないのであります。
教育映画の関係におきましても、今東宝がこれを廃止することの影響は東宝のみに止まるものではないのであります。折角芽を出しかけましたこの花の芯を摘み取つてしまうことであり、少くとも製作に関しまして、日映に與える打撃は少くないし、又漸く纏まりつつある全國の動員組織網は崩れて行くのでありまして、その責任は当然東宝が負わなければならないのであります。
私達は会社に対して不可能を強いるものではないのであります。
團体協約の精神に則つて、平和的に今回の問題を処理して頂きたい。人員の整理が不可欠の要点であるならば、昨年七月から八ケ月に三百五十名乃至四百名の自然減少を示している現実と、この際退職希望者を募ることによつて相当数が見込まれるし、停年を六十歳としても八十余名が包含されるのであります。この際その企図を強引に押し切ろうとして徒らに紛爭を長引かせることなく、大乘的見地に立つて、組合と協調して東宝の再建に進んで頂きたいと切に希望する次第であります。
以上で大体日映
演労働組合側の主張見解を相当徹に入り細に互つて御説明申上げました。