○
河野正夫君 この
教育勅語の問題の取扱といいますか論じ方でございますけれども、これが大体混乱していると正確な取
扱い方ができないのではないかと思うのであります。つまり
教育勅語を
憲法九十八條に論じているような詔勅、あれは國家権力によ
つて國民乃至は国家の行政機関に対する拘束力を持
つているものとして、つまり法規と
考えた
意味における
教育勅語の取
扱い方、
教育勅語をそういうふうな法的な
立場から見て行くという
一つの観点があります。二にはすでに明治大正時代において行われていたような
教育勅語を
教育の基本理念である、こういうふうな根本方針として取扱
つて行く。勿論それは
憲法とかその他の國法のようなものではないけれども、恰も曾て歴史にいわれているような聖徳太子の十七條の
憲法というふうなものが、法律ではなくして、まあなんとなく此所におられる
羽仁さんのような歴史家は詳しいかも知れませんので一種の法律であ
つたかも知れませんが、とにかく道徳法的なものである。そうい
つた意味の一種の
教育根本理念、こういうふうなわけで
教育勅語を論ずる観点があろうかと思う。それから第三には
教育勅語というものは、一種の説かれている内容が良心の問題である。
言つて見れば二宮尊徳がどう言おうと、クリストがどう言おうと或いは佛教の経典でどういうことが言われようと、それ
自身は法的なものでは一ない。
教育の基本理念として國家が、学校が、或る私立学校が、それを遂行するという点はないかも知れないが、各個人々々が、それが
自分の社会生活を続けて行く上における
一つの拠り所とする、良心の問題として取扱う場合もあろうかと思うのであります。さて私は、この
教育勅語を法的に
考えて
憲法九十八條に違反する詔勅である。こういう
考え方に対しては反対する者であります。というのは今日
教育勅語がそのような
意味において
國民生活を拘束する力を持ち
つていないと私は
考える。尤もこの点につきましては、内容形式いろいろな、もつと詳しい
議論はあり得るのでありましようけれども、更にこういう場合も
教育勅語を法的な
立場で
考える
一つの場合と思いますのは、
教育勅語を國家でこれを以て
教育の基本方針とせよ。しない者については処罰するとか、何とかいうことになれば、これはおのずから
一つの法的な價値を持
つて来るでありましよう。けれどもそういうような
意味では
只今において
教育勅語は何らそういう
効力を、効果を持
つていないと思うのであります。
憲法九十八條にいうところ法律、詔勅その他この新
憲法に反するものはその
効力を有せざるものと、こう書かれてお
つたものと思いますけれども、すでに
教育勅語はその
意味においての法律的な
効力というものを持
つていない。その
意味において私は
憲法九十八條には反していない。こういうのであります。さて併しながら
教育の
根本理念としてあの形式とあの内容とを今日においてどこかの
教育者が行な
つておるとすれば、これはどういうことになるか。そうなるとこれは
憲法各
條章はとにもかくにもどして、全体として民主主義精神と一致するかどうか。こういうことについて
議論が立
つて來るでありましよう。論者の或る者は、「父母ニ孝ニ」以下をあすこに示されて、人倫の道として必らずしも民主主義の精神と反するものではない。それを註釈の加え方によ
つて軍國主義になるけれども、又
考え方を変えればデモクラティックな世界においても通用するのである。一種の自然法的な道徳理念を説かれておるのである。こういうふうに
考える者もあろう。私もその
議論の半ばには賛成いたします。けれどもこれを以て今日の社会に最も重要である新
憲法の精神を
國民生活の上に徹底せしむるところの道義生活のすべてを盡しておるか、或いはそれらに対して何らかの弊害を生むところはないかということを仔細に
檢討すると、これは
教育勅語は現代においては明らかに不適当であります。詳細な
議論は省略いたしますけれども、現在においては不適当である。こういうことが言えようかと思うのであります。特に日本の主権在君の國体から主権在民の今日に変りましたときにおきまして曾ての主権者の命令というか、爾臣民に告ぐるの形において示されたところのものは、それがどんなに、仮に世界的な、普遍的な道義理念を持
つておりましようとも、それをそのままの形において現在通用させることは不適当でありましよう。特にその中には論者によ
つていろいろ解釈できましようけれども、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」ということは、曾ては
教育勅語のあらゆる道義理念というものはあすこの一点に通ずるのだというふうに、曾ての軍國主義的
教育の精神文化研究所というのでしたか、文部省にあ
つたそこらの人々は
教育勅語のすべての理念は最後は「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という一点に集中されるのだということを説かれた歴史的背景を持
つておる。それ故にそういうものを今日において基礎理念とすることは明らかに不適当であります。又それを行な
つておる者があるとするならば、これは
憲法精神に違反するものと私は断定いたします。けれども今日國が、或いは
將來できるであろう
教育委員会が
教育勅語を以てそういうやうな
教育の基礎理念とせよというようなことをいう筈はないのであります。先程言いましたように法律的拘束力を持
つたところのものとしては、
教育勅語はすでに死文であります。それ故に私はそういう法律論的な
意味では、
憲法九十八條云々ということは取上げる必要は毛頭ないけれども、今言
つた教育根本理念として、今これを活かそうという
氣持を持
つておる人が中にないではないかも知らん。又
教育の
民主化がまだ徹底していない現段階においては、地方の実際
教育に当
つておられる方が誤解しておるところがあるかも知れない。特に
教育勅語の謄本がまだ回収されてもおらないというような実情においては、十分この点については我々としても関心を有せざるを得ない。そこでこの点については、何らかの処置を講ずる必要があると、私はこう思うのであります。併しながら單に私は
教育勅語の一点に限
つてこれを
考えるというよりも、むしろそれらの
教育勅語の弊害
根本理念として
教育勅語を取られるかも知れないという
一つの危険性は、裏返して見れば、
教育基本法による民主主義的な
教育精神というものが徹底していないというところにある。それ故に先程他の
委員の方も言われましたように、
教育基本法の根本精神を徹底し、
教育の
民主化を遂行するために、何らかの処置を本院のこの
委員会の
決議として取
つて、政府に向
つて要求し、天下に向
つて声明し、いずれでもよろしうございますが、その
方法を採り、その中において特に
教育の基本理念としては、
教育勅語は不適当であるということを明瞭に謳う必要があろうかと思うのであります。以上。