○外務省
調査局長(松平康東君) 只今御指名によりまして私から御
説明申上げます。先程
委員長から
お話のございました
質問の点は六つございますが、
説明の便宜上その順序、それから又
説明の形式等は適宜按配いたしまして御
説明さして頂きます。
第一に先ず現在の中國の政情を端的に申上げますれば、國民
政府と中共との
関係、これの
勢力の消長の推移とい
つたような点につきまして御
説明申上げたいと思います。
説明の便宜上一應終戰の頃から今日までの中共と國民党
政府との
勢力関係を歴史的に簡單に振り返
つて見まして、そうして現在の情勢に及びたいと思います。
戰後の中國の政局は、先づ民主的憲政
政治によ
つて新らしい中國を建設し、そうして孫文以來の中國の國民革命を成就しようという政綱に立
つております國民党と、
暴力によ
つて中國の政權を奪取し、これによ
つて共産革命を完了しようということに目標をおいておるところの中國
共産党との相剖の連鎖であるのであります。この両者の間に介在いたしまして、その両者間の和平調停、これを目論見ました、いわゆる第三
勢力、これの努力が結局失敗いたしまして、中國は遂に二つの世界に二分し、ここに両者の明確な対立が生じたわけであります。この情勢を大観いたしますと大体歴史的に次の三段階に分けられるように思うのであります。
第一段階は終戰後アメリカの調停によりまして、中共を國民
政府に参加させる、その中共の持
つております軍隊を國軍に編入させて行く。ここに中國の統一
政府によ
つて、統一軍によ
つて治めて行こうという目論見から、その両者の協議を行わせる目的でできました
政治協商
会議、いわゆる整軍工作に重点をおいた時期であります。これが第一段階であります。
第二段階は中國の新
憲法を制定いたしまして、この憲政による
政治を実現する目的で、國民
大会を召集し、この國民
大会によ
つて中國憲政の基礎を置こうという努力があ
つたわけでありますが、これに対しまして結局國民党と中共との間に
意見の相剋が收拾できなくなりまして、ここに両者の分裂が發程いたしました。結局國民
大会には民主
社会党、
青年党及び無党無派これらの代表が参加いたしましただけで、中共及び中共に近い政網を持
つております民主同盟、これらは
反対し、参加いたしません。ここに両
勢力分裂したのであります。
第三段階は、新
憲法に基きまして、國民
大会が召集され、國民
政府の基礎が整備され、民主
政治が開始される、こういう目的であります。この三段階を中國は經過したわけであります。先ず、第一段階の時期におきましては、國共合作によ
つて結成された民族統一戦戰線、これは抗日戦争を継続するために、例の西安
事件後できました國民党と中共との協力態勢でありますが、これは終戰と共に消滅し、ここに軍事的意味における協力
関係は終止したのであります。併し戰後における新中國建設のために、ここに両者の
政治的合作は尚必要とされたわけであります。そうしてその合作の形式は、小政党及び無党無派の代表が参加いたしまする連合
政府、この組織であ
つたのでありますが、この連合
政府の組織は結局当事者である各
関係政党が合同して協議し、つまり合同
会議でこれを決定するより他に方法がなか
つたわけであります。終戰直後蒋介石及び毛澤東の両者からそれぞれ和平民主
政治の実現を要望した声明が出されました、これは終戰の年の八月であります。当時在華米國大使でありましたハーレー大使の斡旋によりまして、重慶において蒋毛会談が行われたことは、皆様御記憶の
通りであります。この
会議の前提は要するにあらゆる政党を対等とし、これに合法性を認め、
政治協商
会議を開くということにあ
つたわけであります。然るにその後國民党及び
共産党両軍の間に戰後の地盤獲得の爭いから斗爭が開始されまして、國府軍は南から華北へ進出し、中共軍は熱河省から全満へ進出しようとする形勢であります。この情勢下にありまして、米國
政府におきましては、國民
政府を合法
政府と認め、國共の戰斗行爲の停止を要望し、
政治的
各党派代表の全
國会議の必要を強調いたしましたトルーマン声明を発表いたしまして、ここに有名なマーシヤル使節の特派という事態が起きたわけであります。マーシヤル使節の特派の使命は、実に両者間の和平調停にあ
つたわけでありまして、マーシヤル特使は支那に参りまして、先ず軍事三人
委員会というものを組織いたしまして、マーシヤルみずからこれに入
つたわけであります。その結果一月十日停戰協定ができました。そうしてこれに並行して
政治協商
会議が開かれたわけであります。これはこのときまでの中國の歴史から見ますると、國共間にこういう
会議が成立したということは、中國
政府の歴史上画期的意義を持つものでありまして、ここにアメリカがその居中調停に立
つたということは非常に國際的の性質を加味したのであります。この
会議では
憲法実施前の施政の基準を定めた和平建國案、國民
大会を召集して
憲法を制定する國民
大会案、以党治國の國民党獨裁を修正する
政府改組案、孫文の三民主義五権
憲法を基本としました五・五憲章の修正原則を決めた
憲法改正案及び軍隊國有化、軍党分立、軍民分治を実施する軍事案の五項目を採択いたしまして、いわゆる
民主化の第一歩が踏み出されたわけであります。然るにその後
憲法問題に関連いたしまして國民党右派がこれに不満でありました結果、その
政治協商
会議決定の原則を無視して、一方的に五
憲法を護持しようといたしまして、三月の二中全会におきまして、その趣旨の決議を成立せしめました。これはその後の國共和平交渉に重大な支障とな
つたわけであります。これがため軍隊の再編成並びに中共軍の國軍への統合に関する基礎協定も、又ソ連軍の滿洲撤兵に伴
つて先制入滿いたしました中共軍との
衝突を制止するための國共軍の滿洲地区停戰協定も、或いは
政府改造工作促進のためのスチュアート米大使を主席とする
政府五人
委員会も全くものになりませず、和平交渉は駈引と疑惑のうちに終始いたし、マ特使及びスチュアート両特使の共同声明におきまして、和平妥結の機会は去
つたという趣旨の声明がありました。ここに全く両者間の交渉は暗礁に乗上げてしま
つたわけであります。併しその後もマツカーサー特使の調停は依然続けられました、結局中共側からは最後の要求として停戰、國民党側からは中共が國民
大会に参加することを要求する交渉が行われたのでありますが、この間に國府軍の張家口占領、それから國民
大会の召集ということが正式に発令せられました。ここに両者の対立
関係は第二段階の時期に移
つたわけであります。この時期は憲政実施準備時期とも言い得るのでありますが、一面対中共武力彈圧決定時期も言い得るわけであります。こういうような事情の下に開会せられました
憲法制定を目的とする國民
大会は、
大会には中共側は勿論これに参加いたさなか
つたわけであります。これに続いていわゆる民主同盟、これも参加を拒絶いたしまして、結局國民党、
青年党、民主
社会党、無党無派の代表のみが参加いたしまして、新
憲法の採択いたししたのが十二月の二十五日でありました。これは翌年の一九四七年一月一日に公布となりましたのでありますが、この
憲法は先程申上げました
政治協商
会議の修正原則に基礎を置いておるのでありますが、五・五憲章を骨子といたしたものであります。いわゆる五権
憲法の採択を依然として保存いたしておるのであります。中共側はかかる國民
大会は非合法であるから、その
大会を通過した
憲法は合法性を有さないという理由から、これを否認する態度を取
つたのであります。その後國民党側では中共が先ず矛を收め、その軍隊の國有化を承認するのであるならば、和文交渉に應ずる用意があるということをスチュアート大使を通じまして中共側に申入れ、更に和平使節を延安に派遣してもよろしいということを申出たのでありますが。中共側は
憲法取消しを前提条件とし、且つアメリカの仲介を受入れる用意は持たないということで拒絶いたしましたために、ここに「國共の間は完全に且つ圧倒的な疑惑である」という言葉を持
つたマーシヤル特使の離華声明となりました。ここに一年余に及んだ調停も遂に失敗に帰しまして、國共間の
政治的解決は絶望とな
つたわけであります。これ以後情勢は悪化の一途を辿りまして、軍事情報はいよいよ絶望的にな
つたわけであります。延安はこの年の三月に國民党が占領するという状態にな
つたわけであります。
和平交渉決裂後の國民
政府は
憲法実施準備措置といたしまして、これと同調する各政党との間の過渡的の連立政権の基本政策を謳
つた共同施設綱領、これは根本方針を和平建國綱領に置いたものでありますが、これを決定いたしまして、その中において中共問題は
政治的解決を基本方針とする旨を謳いまして、武力解決を回避する態度を示しました。又國民参政会
会議も対中共和平法案を決議いたしましたのでありますが、國共和平交渉は遂にこれによ
つて何らかの影響も受けないでお
つたわけであります。この年の三月の第一次改組によりまして、立法、監察両院
委員が拡大され、各政党代表がこれに参加いたしました。又四月の修正國民
政府組織法公布に伴う第二次改組で、
政府の陣容が改まり、各政党からの
政府への参加が実現いたしまして、ここに初めて國民
政府、國民党の一整專制という事態が終
つた次第であります。この時期を通過いたしまして訓政から憲政へ移行する過渡的の時期がここから始またわけであります。この
政治機構整備の最中に國共両軍の闘戰は頓に拡大いたしまして六月には滿洲及び河北におきまして國府軍の情勢は著しく不利となりました。交通線は大體麻痺状態となり、財政は困難を加えまして、ここに経済危機に見舞われ始めたのでありますが、國民
政府は人的、物資資源を動員すると共に中共側のために今まで留保されておりました
関係各
機関の議席を取消し、中共との絡りを一切断
つて武力彈圧を決意し、あらゆる施策に万全を期したわけであります。又一万中共と連繋いたしまして
憲法制定國民
大会をボイコットいたし、各都市において反國民党
政府の宣傳をしておりました中共派でありまする民主同盟に對しましては、これをやはり非合法
團体と認めまして彈圧を加え、解散を命じ、ここに
憲法実施後の第三段階の時期を迎えたわけであります。