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高田証人 証人はS・S・Kの創立と同時に取締役に就任いたしました。現在東京本社の総務部長を担任しております。
その次の
会社の創立の経緯と
北村徳太郎氏との
関係について申します。最高
司令部の
佐世保工廠再開の
指令が、
日本政府あてに二十一年二月十六日附と、同月十八日附で出ました。そのときの
指令事業は
艦艇の解体、それから
艦船の引上げ、
占領軍艦船の修理、こういうものが主要事業とな
つております。二月十八日の
指令は、この
佐世保工廠の運営は純民間
会社をも
つてやるべしという
指令であります。それで二月に
運輸省の慫慂に基きまして、造船連合会がこの新
会社を担当する候補者を選択いたしました結果、占部造船株式
会社、三井造船株式
会社、この二社が主株とな
つて新
会社を組織してやるのがよろしい。こういうことになりました。
証人は当時三井造船株式
会社に勤務いたしておりました。越えて三月に
証人は当時の三井造船の社長に從いまして、
佐世保の現場及び施設を概畧
調査いたしました。そうして三月下旬に至りまして設立発起人の代表
三枝貞藏——今日の
証人の一人であります。それを代表として大藏大臣、運輸大臣、商工大臣あての
佐世保工廠再開に新
会社をも
つてあたりたいという
申請書を出しました。と同時に三月二十七日付をもちまして第八軍
司令部に同樣の
申請書を出しました。そういたしまして五月十六日にこの
申請書に対して八軍
司令部の
許可がありました。その
許可が下りた通知は六月七日附をもちまして地方のM・Gから工場の方に通知がありまして、工場におきましては、四月一日からとりあえず発起人代表の名義で前の管業部の事業を引継ぎいたしまして、同時に東京におきまして新
会社の設立
事務を始めました。
資本金は最初一千万円の予定でございましたが、三井造船株式
会社の出資分につきまして、これは
制限会社でありますために、G・H・Qの
許可が要ります。その
許可、不
許可の
関係で六月、七月がだいぶつぶれまして、結局のとこと
制限会社であるから、三井造船の出資は不
許可になりました。その
関係で当時の一千万円の資本金を六百万円に縮少しまして、これで八月に
大藏省の前認可を受け、九月に本認可を受けまして、九月十八日に拂込完了、九月二十日に創立総会を完了いたしまして、十月一日に登記、設立を完了いたしました。その間
証人は
北村徳太郎氏にお目にかか
つたことが二回ございます。最初は三月に工場
調査に参りましたときに、親和銀行へ三井造船社長に
從つて出ましたときにお目にかかりましたが、このときには三井造船社長から、この事業は
佐世保地方にと
つても非常に大事な事業であるから、土地の有力者としてぜひとも一部の出資を願いたいと慫慂されましたが、私はそのとき直接
お話はいたしません。それだけであります。それから六月に一度荻窪の
北村徳太郎氏のお宅へ参りましたが、同氏は設立発起人の一人でございまして、
手続上の判をいただくことと、新
会社の本社を
佐世保に置くべきか、東京に置くべきかという意見をたたきまして、同氏の意見は、これは地元の方に本社を置きたい、そうすれば地元の者も力がつくから、こういう意見がございまして、結論では本社は東京になりました。これは
中央管廳やらG・H・Qとの
関係が非常に深いので本社は東京になりましたが、そういう御意見がございました。これは二回目の会見でありますが、九月二十日の創立総会でも北村氏にお目にかかりました。そのとき取締役は十二名だ
つたと思いますが、北村氏はその中の一人に
選任せられました。
会社の設立の経緯はそんなものでございます。