○
小松証人 申し上げます。たしか
終戰の直後の十月半ば過ぎであると思います。
はつきりした日取を覚えておりませんが、十月半ば過ぎのある日八軍の
バラード大佐から私の方に電話で
傳言がまいりまして、今日
内務大臣が元
アメリカン・クラブであ
つた八軍の出張所にみえるからお前來てくれ、こういう御
傳言がありまして、
内務大臣がみえるというのはどういうことかわからなか
つたのですが伺いまして、そのときに初めて
青木さんにお目にかかりました。その日
青木さんは通訳の森野氏と御
一緒だ
つたと思います。そうして
バラード大佐から
日本の軍部が持
つておるものを
アメリカ軍に渡してくれ、それをまち
内務省を通して
日本の民生のために活用してもろうのだという話がありました。その中で
兵器については、これは
経驗のある
相当な
技術設備をも
つた手で
取扱つてもろうのがいいじやないかと思うという
お話がありまして、これを
民間の
経驗あるものにやらしたらどうか、その話によ
つて大体
民間の信用がおける技術的の力をもつ、しかも人的にもも
つているところの
会社に
委員会のようなものをつくらしてやらしたらどうかという話が起
つて、話が進められたのでございます。その数日後ございましたか、なお横浜の八軍に
出頭するようにと私に言われましたので行きましたところが、その席には
内務省の方もむろん見えておりましたが、
商工省の方、それから
非鉄金属を取扱う
会社の
方々も見えておられまして、
鉄鋼の
方面の話もその前にあ
つたのでありますが、
非鉄金属の
方面に向
つてもそういう
委員会を設けた方がいいんじやないか、しかもこの
委員会は二つにすべきか、一つの
委員会にすべきであるかというふうな
お話がありました。それでそのときの
内容はいずれにしてもかまわないが、ともかくも
自分たちと接触のよくできる、言葉がよくわかる人間をそこに据えてもらいたいというような希望を述べられたように私は考えております。それから十月の末、二十八日か六日ごろだ
つたと思いますが、
商工省の
菅波総務局長でございますかに私は呼ばれまして、ここで
兵器の
処理をするために
委員会をつく
つた方がいい、つくることにして、あなたにお願いしたいからや
つてくれないか、こういう話でありましたから、私は前に
バラード大佐の話によりまして、
連合軍が接收した武器を
めちやめちやに
壞わして無駄なものにしてしまうのは実に勿体ない。これをなるべく有利に
取扱つて、今
物資のない
日本の
経済復興のために資したいという
氣持をよく聞かされておりましたので、そのお
手傳いができるならば非常に結構だ、こう
思つて自分がすべてのものを犠牲にしてもこれをひとつお
手傳いをしたいというのが肚をきめたのでありますが、どういう
会社がこの
委員会を構成するかということについては、多分
日本の
政府が
会社の表を出せということを言われたろうと思うのであります。それで五つの
会社がそこに選ばれた。その選択について私
どもは何らあずかるところはありません。それで
仕事はどんどんやらなければいけないが、一体どれだけの
仕事があるのかということも見当もついておりませんでした。あるいはどこにどういうものがあるとか、こういうものがあるとかいうことはわからない。それでたしか十月の末、十一月の初めに初めて五社の
人たちが集まり、
商工省、
内務省の
方々も集まられて
委員会が結成せられたのでありますが、第一に
木更津の
飛行場にある
飛行機の
処理にあたらなければならない、それでいろいろ
委員会でどういうふうにこの
仕事をや
つてい
つたらいいかということを
相談いたしました結果、むろんこの
相談には
商工省、
内務省の
方々も携わ
つておられた。その結果各
会社が
自分の
担当地域をきめて、その
仕事にあた
つてい
つた方がいいだろう。ただし
鉄鋼兵器の
部門と、ほかの
非鉄兵器の
部門とは重複するところもあるかもしれんからこれはよく両方で協力してやるようにかる。それについていろいろ
仕事が進むにつれて
仕事の
やり方をきめていく。それから
政府との
契約は、その
契約書が何日ころに調印されましたか、
ちよつと記憶がないのでありますが、
政府との
契約調印は数箇月後で、いろいろ
相談をしてでき
上つたのでございます。それでその
契約によりまして
兵器処理委員会が
受取るものは
連合軍から
日本の
政府に引渡されたものの中で、こういうものを
兵器処理委員会に渡すべきであるということは、その範囲が
はつきりとしております。たとえば鋼鉄でできた
戰鬪兵器、タンクだとか大砲だとかいうふうなもの、あるいは
非鉄金属でできた
飛行機、そういうようなものを全
器処理委員会に引渡す。なおほかのわずかなもの、たとえば鉄、もともと
兵器処理委員会は
兵器を
処理するのでありますから、
鉄鋼の
素材とか、ほかの
資材には全然
関係がないのであります。但したくさんの
兵器のまん中に
鋼材が一本とか二本あるというときには、一々それがために新しい手続でそれを
処理するのは非常にむだなことでありますから、
介在物資のようなものはもら
つていい。しかしこれはやはり
内務省を通してもらうのでありますから、
兵器処理委員会がそれを
受取るには
内務省の指示を受けて
受取る。
兵器処理委員会は
受取つたものに対しては
受取を出す。むろん
受取る場合には
連合軍の方から
内務省へ渡して、それを
兵器処理委員会に渡す。それに対しては十分に氣をつけてこまかく数量その他について
調査をして
受取を出します。それを
処理いたしましてなるべく
國民経済の
復興のために早く間に合うようなところにこれを
配給する。それがどういう機関をも
つたらいいかというので、そのために
特別委員会をつくりまして、
特別委員会には
兵器処理委員会の五社がはい
つておるのみならず、
内務省、
商工省、
運輸省、農林省というような
方面の
代表者が來ておられまして、こういう所に
兵器の
処理すべきものがある、これは一体どこへ最も活用すべきであるかということを、その
特別委員会できめて、そして
配給を
特別委員会でやることにな
つておるのであります。
兵器処理委員会の
委員会社は、たとえば
自分が物を
処理しても、それを
自分が使うことができない。その
特別委員会で割当てられて初めて使うことにな
つているのであります。そこでたとえば
鉄屑はどういうふうにむける、あるいは
飛行機の上にあ
つた通信機のようなものは、これはなるべく壞さずにはずして、それを
通信方面にまわす。あるいはいろいろのボール・ベアリング、
軸受のようなものは
軸受協議会にまわすというふうにして、おもなる
品物の
処理については
処理要綱というものを
特別委員会で非常に綿密に研究いたしましてつきりました。それでありますから、たとえば
屑鉄のような物は、
金属回
收会社に行くとか、
軸受は
軸受協議会に行くとか、ドラフカンは
ドラム罐協議会に行くというふうに、
ちやんとおのおのその当時定められてお
つた配給の経路を通
つて渡されるようにな
つてお
つたのであります。
なお
民間各
方面でこういう物が
兵器廠にある。これを
自分の方にもら
つて活用したいという場合には、その
特別委員会に向
つてある書式をつく
つて申出をして、そうして
委員会でそれはそこへやろう、これはこちらへやろうということを
はつきりときめたのであります。もつとも非常に少量の物は
地方的にそれを
処理してもよろしい。中央にも
つてきて、きめてお
つたんでは非常に時がかか
つて、迅飛のこれら貴重なる
資材を各
方面にまわすのには時がかかり過ぎるから、少量の物は
地方でそれをきめ得るような
仕組にな
つておりました。たしか三十万円以下のものとか、あるいは鉄なら二本トン以下のものは、そういう取極めにな
つてお
つたと思います。
そこでその
特別委員会も、その後
民間の
團体がこういう
配給機構のようなことをや
つてお
つてはいけないというので、全部
商工省にその
衆事が引継がれたのでございます。それで少量の物に対しては
地方の
商工局長の手もとで
配給される。それから大量の物に対しては
商工省でそれがきめられる。最近ではたしか
商工省から出たクーポンによ
つて配釈されていると私は思
つております。それでこの
衆事をやるためには、各
委員会社が
自分に與えられた
地域には
責任をも
つてやることにな
つた。その当時のことを考えていただかないと、なかなかわかりにくいと思いますが、八月の
月あたりはわれわれは何もそういうことは考えていなか
つた。十月の半ば過ぎにそういう話があり、
仕事に取掛り得たのは十一月の半ばころ、私が初めて
木更津の
飛行場を見に
行つたのは、十一月の五日くらいであ
つたと思いますが、そのときはまだ
連合軍の兵隊さん
たちが、われわれが見に
行つても入れてくれないというふうな
状態のときであります。
木更津の
飛行場に一部
衆事をしているにかかわらず、われわれが
行つてもなかなか入れてくれないというふうな時代、それからどこにどういう物があるということは、全然
想像もついていないのであります。
商工省あるいは
内務省から各
地方廳に、こういうふうな物は
兵器処理委員会に渡すのだというお達しが
行つたのは、おそらく十一月も
相当に日が経
つてからだと思いますから、
地方廳でもどういうふうに取扱うかということが、十分に徹底していなか
つたような場合が、たくさんあるかと思います。
地方の
進駐軍においてもそういうことがありまして、
相当にその
連絡には困難をいたしましたが、だんだんと了解がついてまいりまして、こういうものがここにある、こういうものがここにあるということを知らしてもらうことができるようにもな
つたのであります。ただ困りましたのは、どこにあるかわからないものですから、それに対してこちらの
組織を十分につく
つておくことができない。ある縣では
連絡がちつともとれないではないかとい
つて、お小言があ
つた県もございます。そういうふうな縣には、各
担当会社がその
自分の
担当地域において、なるべく早く
連絡がつくように私
ども指導してお
つたつもりでありますが、非常に困難でありました。その後
緊急搬出という問題が起
つてまいりました。これは
兵器処理委員会の
関係ではなく、たとえば三月ごろには、たしか三月だと思いますが、
東京地区あるいは
日本全國にそういうことがあ
つたのであります。
工廠が
賠償に指定されるその前に、
賠償に指定されようなものは運び出してしまわなければならないというので、三週間ぐらいの
日限を切られて、その
品物の
搬出を命ぜられたのでありますが、そういう場合には、
東京では
東京都が中心になられて、
運輸省とかいろいろな
方面の
團体を集められて、そうして
搬出の計画をされたのであります。
兵器処理委員会もやはり呼び出されて、その
衆事にあたるということにな
つておりました。そういうことによ
つて三月の末、四月ごろまでは、
ほんとうに
兵器処理委員会としての
仕事はできなか
つたように私は思い起すのでございます。それで
緊急搬出などが済んでから、初めて
ほんとうの
兵器処理がでて始めたというふうに考えます。この
契約の
内容は、この
兵器を拂い下げていただいて、それを
処理して、その
処理に対する必要な
費用は銀行から借りて、利益は
政府な差出すという
仕組でございました。私
自身はなるべくこの
仕事をりつぱにやり通したいという熱情に燃えてお
つたものでありますから、各
委員の
方々にはその重大なる
責任を理解していただくように
委員会のあるたびに話し、当業者にも始終話しまして、一生懸命にやるように督励してまいりました。と同時にこの
仕事がうまくいくのには、非常に
りつぱな組織をつくておかなければいけない。しかし
各社が別々に
自分の
会社と離れて
兵器処理部というものをつく
つて、
各社の
勘定とは別
勘利でや
つておりますが、その
会社の
地域にもより、性質にもよ
つて必ずしも同じ
やり方は困難である。しかしその
地方々々において最もよくわかる現場におる
人たちに、最もよい
方法でその
やり方をきめてもらわなければならないのでありますから、必ずしも一定した
方法はとれないのでありますが、私が非常に重要視しておりましたのは、いただいた物をきちんと整理して、それの処置を明らかにしておくことが最も必要だと考えました。そうすることによ
つて、この
仕事を正しくやる通し得るのではないかという信念をも
つたのでありますから、その
報告については非常に嚴重に
各社に頼みまして、こまかい資料を出してもらうようにしてお
つたのであります、なおそれに力をつけるために
各社の
委員のみならず、從業員のおもな幹部の
方々を連れて第八軍の
バラード大佐のところへは月に一回ぐらい
づつ報告に出たのであります。
バラード大佐からも
各社の
人たちに向
つてその重大なる
責任を話してもらい、その
仕事がりつぱにでき上るということは、國のためにどんなに役に立つかわからぬということを十分に話をしてもらいまして、そうして今月は何トン
回收できた、今月は何トン
回收できたということを、少くとも月に一回は
バラード大佐のところへ
報告にまいりました。それから
バラート大佐も、その
仕事については非常に興味をも
つておられたので、私
どもを
ひつぱつて、ぐずぐずしていてはいかぬということを盛んに言われたのであります。と申しますのは、物があ
つても、それをうつ
ちやつておいてはなくな
つてしもうおそれがある。
バラード大佐自身があるとき私を
芽ケ崎の
海岸へ連れてい
つて、ここに
高射砲がある。ここにこういう古い
ゴムのタイヤがたくさんあるじやないか。こんな物をうつ
ちやつておいては今になくな
つてしもうおそれがある。早く
処理しなければいかぬじやないかと言われる。実は
自分は数週間前に
皆さんに注意したが、まだやらないので今度は君を
ひつぱつてきて見せるのだ。こういうような話であります。なるほど
高射砲でありますから、たれもとる人がないかもしれませんが、置いておけば、いろいろな貴重なものははぎとられるおそれがある。
ゴムのごとき物は持
つていかれてしもうおそれがあるから、早く
処理しなければならぬ。それでトラツクだとか、
運送の便が非常になか
つたその当時、いろいろ無理をして運搬に携わ
つたのでございます。それは今の
芽ケ崎の
海岸のみならず、
日本中にそういう
状態があ
つたと思います。それから
兵器処理委員会といたしましては、この
品物がなるべく有効に、最も能率的に
國民の
丸経済の
復興に資するようにと私は考えておりましたから、各地で
展示会を開きまして、
三越でも二週間ばかりにわた
つて、こういうふうな
品物が
兵器処理委員会から出てきておるのだ。これを活用できる人は申込んでもらいたい。これは
東京三越でもやり大阪でもやり、
方々の
地方でやりました。なお
進駐軍がこれを
日本に下げ渡しているのは、
日本に絶対にない、非常に困
つておる
資材であるから、あまりこれをめ
ちやく
ちやに壞すとか、むだにせずに
日本に渡して、これが役に立つようにしたい。その
氣持が
日本の
一般の
人たちにわか
つてもらいたいという私の
考すから、映画をつく
つて見せたこともございます。それから私は非常に拍すことはまずい、どうも
日本語を話すことが下手な
日本人でありまして、今しやべ
つてお
つてもはなはだ申訳ないのでありますが、
放送もいたしまして、
兵器処理委員会ではこういうものが手にはいるから、これを使いたい人は申し込んでもらいたいというふうな
放送もいたしました。それから小
册子のようなものも出しまして、
一般の
方々に知
つていただくように努力いたしたのでございます。初めどのくらいの量のものがあるだろうかという
想像をしたのでありますが、初めは何十万トンという程度だ。しかし私はどうもこれは百万トンぐらいのものはあるだろうということを、
バラード大佐にも
お話いたしました。むろんこのほかに
艦船の
解体からくるもの
——艦船の
解体は
兵器処理委員会の
仕事ではなく、
海運総局の方でや
つておられますが、その
方面からも五万トンくらいくるだろうしするから、ここで非常な貴重な
資材がこの
解体処理がうまくいけばできるものと私は思うということを再三
お話したことがあります。その後の結果を見ますと、百二十五万トンくらいの貴重な材料がここに集ま
つたという
報告にな
つております。この
報告は前に申し上げました通りなるべく細かくやるように私は督励してまいりまして、あるいは
日本製鉄、あるいは
日本鋼管、住友とか古河とかいうような、各自が
自分の所で
回收をした量、それから処分した量、
ストツクに
残つてお
つた量、現在
回收しつつある量、それから將來の見込みというふうにして、細かく表が出ておりまして、その所在地も
はつきりと
報告してございます。その
報告は
内務省を通して
連合軍にも
行つておりますし、これは第一相互のジー・フオアの方へも
行つておりますと、八軍の
経済部の
バラード大佐、その後の
担当者の
ワツツ大佐の所へも
行つております。私の初め希望しておりましたのは、この
仕事の結果貴重なる
資材を手に入れるということと、この
処理については
日本の
政府が出費しなくてもよろしいように、というのは、たとえば横須賀の
工廠を片づけろと言われれば、ある
日限のうちにやらなければならぬから本当な
費用がかかる。そういう
費用は
日本政府は出さなくてもいいように、しかも最後には
日本の
政府に向
つて、全体が
日本の
政府のものでありますから
相当な金が
日本の
政府にはいるようにということを目標にしております。それで現在では、私最近の数字はよく存じておりませんけれ
ども、少くとも大体五十万トンくらいの貴重な
資材はまだ
残つておると思います。この
資材は今日の世界の情勢から見て非常に大事なものであります。
屑鉄などは現在スメリカでも非常に不足して、
アメリカから買いたいというような
申込みがある程度のものでございます。
日本の
製鉄業が動き始めればこれは最も必要なものである。現在では
製鉄業が
ほんとうに働いておりませんからこれが使われていないで、
ストツクに
残つているのでありますが、働き始めたらこんなものはすぐになくな
つてしまうものであります。これがなければ
日本の
製鉄業は回復できないのではないかと思われるくらに今貴重なものであります。ところが、これだけを
処理いたしますのに、いろいろな
費用を
勘定いたしますと、たしか一トン六百五十円くらいについているのではないかと思います。あの
運送の困難な際に、
物價、賃金の高騰をしておる際に、そのくらいで
処理し得たということは非常に結果はいいということを
自分は考えております。しかし
屑鉄の價値は現在
公定できめられております。むろん
商工省から
許可をもつくてくる人に
配給するものでありますから、
公定の
値段でみな取引されておるのでありますが、それはたしか千百円ときめられておる。しかもその
値段は
工場渡しの
値段であります。今日におきましては、今蓄積してある置場から
工場へ運搬するだけでも、鉄道の
運賃が非常に高くな
つておりますから、千数百円かかるのではないかと思います。そういう
状態では、千百円で賣
つたのでは、たとえ六百五十円なり七百円で
回收したものでも、今後運搬する
運賃だけでも非常に高くかかりますから赤字が出るかもしれません。しかしこれは、私は
屑鉄の
値段が何ゆえに千百円であるかということは
ちよつと
自分は理解できないのでありますが、鉄の
素材が一万数千円しておるときに、
屑鉄だけ千百円ということは
ちよつと、バランスがとれない
勘定ではないかと思うのであります。と申しますのは、過去におきましてはどうしても
鋼材の
値段の半分が
屑鉄の
値段であ
つた。しかも今後万一損があるとすれば、その損は
運賃とかそういうふうな
費用による損であります。
兵器処理の
仕事をするにあたりまして私が常に考えておりましたことは、これは損とか得とかいう問題じやないんだ、われわれは御奉公の心持でこの
仕事に当る、それでわれわれが最も注意しなければならない点は何かというと、物をここへ集めてくるんだ、場合によ
つたら
費用もかかるかもしれぬ、先に
行つて紙幣の値打の貨化によ
つてはどうなるかわからぬけれ
ども、貴重なる
資材がここへ集ま
つてくるということが最も重要なことであるから、その点を非常に注意をして
仕事をや
つてもらわなければならないということを私は常にみんなに注意してまい
つたのであります。そうして、こういう
仕事でありますからいろいろなことが起るおそれがありますから、これを正しい道に導いていくためには、みんなにきちんと
自分たちのする
報告をさせるのが一番の重要な
方法だと思いまして
委員会の
事務局の
仕事としてはそういうところに力を入れてまい
つたのであります。先ほど申しましたように、
委員会社のメンーバーについては私は一向
相談を受けておりません。しかしみんな
経驗ある、技術的の陣営をも
つており、
設備もも
つておる
会社が当
つてくれたと私は思
つております。
事務局につきましては、なるべくこの
仕事に明るい
人たちにな
つたもらわなければいけない。しかし私がたとえ
自分が
委員長に選ばれても、
自分の子分をも
つてくるとか何とかそういうことは全然考えず、業界で選んで出してもら
つた人でなければならぬという考えで、当時
鉄鋼統制会の
原料の方を担当してお
つた藤沢君が
事務局長になりました。私は
藤沢君はそれまではあまりよく知
つておらなか
つた人であります。顔は知
つておりましたけれ
ども、
一緒に
仕事をした人でもなく、何も
関係がある人ではありません。しかし
鉄鋼の方の
原料を担当した人でありますし、
アメリカの
原料を買取りに行
つたこともある。そういう人がや
つてくれるならば一番
適任者であると思いまして、
藤沢君に
原料の方を担当してもらいました。そのほか各
方面の、
非鉄金属とか、いろいろな
方面から人を出してもらいまして、
事務局を統制して
仕事をしてまいりました。
十分に考えて申し上げておらないので、前後しておりますが、何かこういう点はというお考えがありましたならば、御質問を願いたいと思います。