○岡井委員 從來民事におきましても、
当事者、本人
尋問という制度があるにかかわらず、
裁判所は、すべて本人は、どうせ起訴状あるいは答弁書に書いてある
通りを言うにきま
つておるから、本人は喚ぶ必要がないというような
考え方が、
裁判所を風靡してお
つたように思うのであります。これは
尋問の何たるかを知らない人の
議論であります。ほんとうの
尋問はその天地が無限なもので、際涯なきものと思うのであります。次から次と人権を蹂躪せずして、無限に問いが進展していくものでありまして、さようなものが從來まだ司法部になか
つたように思うのであります。そこで民事においても、きわどい事件は、ことごとく誤判であるというような評判もあるようでございます。わかりき
つた事件は、たとえば郵便局に行
つて二十円拂
つて、二十円の小為替券をもらうようなものであ
つて、
裁判所の法的権力を通さなければならぬのですから、
裁判所にお願いするだけで、わかりき
つた事件に成功したからとい
つても、これは何ら
意味がないのでありまして、事件らしき事件に成功しなければ、私は誤判率は百パーセントであると思います。民事におきまして、取引はすべて重要なれば重要なるほど二人でやる。余人を交えるというようなばかなことはあるべきはずはない。男女の情事から、その他金銭上の取引に至るまで、ことごとく余人を交えずしてやるというのが実社会のありさまであります。これに
証人があるように思うのが大体認識不足です。民事において
証人があると思うのは認識不足です。実際取引においてかくのごときものがあるべきはずがない。民事におきましては、それですから原告、
被告という
当事者、本人は最も尊重すべきものであると思います。刑事においても同樣でありまして、まず大抵の調官が
被告人に聽くことが一番多い。そこで被疑者、
被告人の調べを終
つたら、それでもう調べが七、八分まで済むのでありまして、分量から言いましても、
証人に聽くべきその他の分量はいくらもない。いくら丁寧に聽いてみたところが、
被告人以外の人は
被告人ほどものを知らない。たまに知
つてお
つても、
被告人から聽いたから知
つておるという、実に頼りないものでありまして、実質から申しましても、分量から申しましても、
被告人以外の者を
証人として聽く形式は、いかにも今お説を承
つておりますると結構なようでありますけれども、さようなことでは眞実を発見して、司法を設けておる目的を達することができないということを私非常に
心配するものでございます。そこでかような制度をと
つておる英米におきまして、実際の眞実の眼から見た有罪を、かような制度のために何パーセントくらい逸しておるか。またその逸しておるものは、特に惡辣なる捨ておきがたい、たちの惡い者ほど逸せられるのではないか。無罪の方に送りこまれるのではないかというような統計、これはごく大体でよろしゆうございますから、さような点と併せて伺いたいのでございます。